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 帰り道は、救急車に乗ることになった。救急車の中でも、老僧は動く気配も息をする気配もなかった。もう、救命の余地がないことは誰の目にも明らかだったが、救急隊員は自らの義務を遂行するために、必死に無機な肉の塊と戦っていた。

   そこに転がっているのは、ただの死じゃないのか?

   無駄な努力をどうして繰り返しているのだろう。僕は疲労から、ため息を吐いた。
 病院に到着すると、『急患入口』と書かれたガラス戸から、さらなる無駄な努力をする人々が数人やってきて、肉の塊を持ち去った。僕の目には滑稽としか映らなかった。
 僕たちは待合室で待機していた。斎は僕に寄りかかり目を閉じていた。ショックが大きすぎて、精神が現実を拒否し始めたのだ。眠っている様子はない。苦しそうな吐息だけが聞こえた。泣くことも忘れているようだ。
 僕はといえば、面倒なことに巻きこまれたものだと考えていた。自宅で死んだのだから、一応は行政解剖が入るのだろうか。それらのことに付き合うのは面倒だ。何より、斎を巻き込ませたくない。老僧の家族が来たら、その人たちに押し付けて帰ってしまおう。
 待合室の椅子に座ってニ時間ほど経過した頃、老僧の息子らしき人が現れて隣に座った。しきりに迷惑をかけたと僕たちに謝り、発見が遅れていたら変死扱いだったと妙な安心もしていた。特に哀しそうな顔はしていない。たぶん、身内でもない僕たちには感情の起伏は見せたくないのだ。
 死因は心筋梗塞による心停止だと告げると、丁寧にお辞儀をして病院の奥へと去っていった。
   息子の後姿は、老僧に似ていた。
「もう帰ろう」
 僕は斎の肩を抱き、吸い込んでしまった死の欠片を吐き出した。
「…そうだね。もう帰ろう。ここには、誰も、いない」
 途切れる声が、老僧の死を悼んでいた。
 たった二時間の中で、僕たちは強烈な死の芳香を吸った。しかし、それはどこにでも転がっている類の死なのだろう。誰の隣にもある確実な死なのだろう。

 ただ、僕たちにとっては特別な死だったのかもしれない。

 その晩、僕たちは同じ布団で寝た。一人で寝るのは心細かったし、家の中はいつまでたっても凍ったままの寒さが果てしなく広がっていたからだ。
 斎はなかなか寝つけないのか、僕の胸に頭を擦り寄せてはため息をついた。僕も眠ることができなかった。家鳴りの音が、激しく意識を覚醒させようとする。
「なあ。もし俺が死んだら、斎はどうする?」
 斎は物憂げに、顔に貼りついた黒髪をかき上げた。
「どうもしないよ。何をしても生き返るわけじゃない」
 それはそうだけど、どうも納得がいかない。自覚が足りないとでも言おうか。
 僕が死んだら、斎は必ず死ぬ。この世界は強い者は弱い者を搾取し、弱い者は搾取されるだけだ。斎はどうしようもなく弱い。それなら、僕が殺して何が悪い。誰かに搾取されるぐらいなら、斎は僕が搾取する。死ぬ前に。
 沈黙している僕を不安に思ったのか、斎は哀しそうに息を吐いた。
 僕は微笑んで、形のいい額に唇を押し当てた。しかし、斎は喜んではくれない。桜色の唇をきつく結び、こちらを睨んだ。
「…『犬神斎』がきちんとした人間だったら、ずっと一緒にいられるのにね」
「まさか。一緒にはいないよ」
「…どうして?」
「『犬神斎』じゃないからさ」
 今の斎でないのなら、意味がない。不安定で境界を揺れ動く斎のほうが、僕にとっては都合がいい。もし、斎が明確な基準を持っていたなら、僕を必要としないじゃないか。僕にとって斎は必要不可欠な存在なのに、斎は僕を必要としないなんて、そんな馬鹿げたことがあっていいものか。それなら最初から、一緒にいないほうがましだ。

 斎は黙り込んでしまった。

   一体、僕の答えのどこが気に入らないというんだ。無性に腹が立つ。絶望という、厄介な自虐的病気に冒されているのも気に食わない。僕は、僕以外のものに斎が支配されることが嫌だ。斎は絶対的に、僕が支配し独占すべく生まれてきた存在だ。
 わがままで自分勝手な僕を、無条件に受け入れてくれたのは斎ただ一人だ。
 僕のことをどう思っているのだろう。考えれば考えるほど不安になる。これ以上、僕が狂ってしまわないように時が止まってしまえばいいのにと、古臭い映画の台詞すら本気で共感できるほど、虚しさと苦しさと切なさが絡まりあって込み上げてくる。
  特に、この家に来てからは。
   ここは狂気に食い尽くされた家だ。
「斎?寝たのか?」
「起きてるよ」
   か細い声が、微かに震えたような気がした。
「いつ東京に帰るつもりなんだ?」
「明日には。『万燈篭』を見たらすぐに。夜行バスでも新幹線でも何でもいいから、早くここから離れたい」
「わかった」
「ごめん…実家に鍵を返しに寄りたいから、一緒には帰れないかもしれない」
「だめだ。お前が残るなら、俺も残る」
 斎は心底困った顔をした。鍵を返しに行くだけじゃないことぐらいわかっている。だからこそ、一緒に東京に帰りたいんだ。
「大丈夫だよ。返しに行くだけだろう?もう寝ろよ。明日のことは明日にでも考えよう」
 斎は小さく頷くと、再び僕の胸に顔を埋めた。
 斎の息が僕の胸を温かくする。すると、不安はだんだんと溶けていき、やがて僕は眠りに落ちた。
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