アイリスこぼれ話

小田マキ

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密やかな告白

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 その日朝早くに騎士団の雷龍隊兵舎陳情窓口前の控え室では、今のところ部隊最高責任者であり、実質留守番役を押しつけられたチェイスが、ダグリード侯爵家からの使者に応対していた。
「……つまり、隊長はさらに七日ほど休暇を取られるので、オレから騎士団本部に伝達しておけばいいんですね?」
 フォーサイスの急な休暇を告げにきた人物に、彼は歯切れの悪い返答を返す。
「そうなんですの、急なことでチェイス様には本当にご迷惑をおかけすることになって……」
 声音に沈痛さを滲ませて、ひどくしおらしげに謝罪してきたのは、昨日も会ったばかりのファティマで、チェイスは彼女の来訪に戸惑っていた。
 辺りはまだ薄暗く、日も昇り切ってはいない……そんな時分でなくとも、おいそれと良家の子女が訪れるべき場所ではない。城内に設けられた近衛師団のそれと違い、城下町の一角にある騎士団兵舎には、庶民達が様々な陳情に訪れる。
 市井の人々にも親しみやすいといえば聞こえがいいが、要するにむさ苦しい男所帯なのである。
 アイリス国のために身を捧げた武官という意味では同じだが、近衛師団と騎士団のあり方は決定的に違う。近衛師団が守るのは王城ディオランサの宮殿に住まう王族や宰相など高位の文官達で、騎士団が守るのは下々の民達なのだ。
 それぞれが守るべき対象の近くに兵舎を構えるのは当然のことで、各入団資格も異なっていた。十の部隊で構成される近衛師団は剣術の才の他、城内に常駐するために当然、それなりの身分と後ろ盾が必要とされる。
 その内一部隊は、宮殿内の男子禁制区域に配属される女性部隊だ。対する騎士団は女人禁制の三十部隊で、原則として確かな腕と後ろ盾さえあれば、出自は問われない。生え抜きの十の部隊にはそれぞれ漆黒の聖獣の名がつけられ、精鋭の中でも精鋭と呼ばれるのは当然、フォーサイスが隊長を務める雷龍隊だ。
 叔父は近衛師団長であるメイス・トゥリース伯爵で、彼に師事して騎士の心得を学んだフォーサイスは、本来なら近衛師団に入団するのが筋である。
 しかしながら、現場主義で堅苦しいことを嫌った彼は、騎士団に入団したのだ。そんな彼の妹ファティマは、社交界ではダグリード家の家紋になぞらえて「薔薇姫」と呼ばれる美姫だった。
 蜜に群がる害虫のごとく押し寄せる求婚者達に辟易して極端な男嫌いになり、屋敷に引き籠もって滅多に出歩かないと聞いていた彼女の印象は、本人に会って大きく覆された。用件は終わったはずなのに、ファティマはいつまでもチェイスの前に居残っている。
 両手をきつく握り込み、まるで黒曜石のように輝く円らな瞳は、何かしらの覚悟を決める一言を欲するように、ただ一心に自分へと注がれていた。
「一体、何があったんですか?」
 少なくない危惧を覚えながら、チェイスは彼女に問いかける。
 ファティマのブルーデンスに対する深い思慕、彼女を害する者達に対する行動力には、一切の迷いがなく、本当に感心させられる。それは、心を許した仲間内にはどこまでも率直な兄に通じるところがあった。
 だからこそ、今回の行動の原動力も、ブルーデンスのはずだ。昨日も同じように兵舎までやって来た彼女に依頼され、突然いなくなったブルーデンスをディオランサの宮廷救護室まで迎えに行ったばかりだ。
 現地で別れてしまったので、その後ダグリード邸に戻った二人に何があったかは、チェイスにはわからない。それでも、ここ数年では休暇などついぞ取ったことのない鬼隊長がこうも連続で欠勤するという事態は、ただ事ではないと直感が告げている。
 フォーサイスとブルーデンスの間に、何かあったのだろうか?
「オレにできることがあるなら、どうぞ言ってください。ブルーデンス姫のためにも……オレはまだ、あの方に何の謝罪もできていないんです。微力ですが、全力を尽くしますから」
 そう力強く聞こえるように努めたチェイスの言葉は、不安に翳っていたファティマの双眸に安堵の光をもたらした。彼はそのことに小さくホッとするが……
「とても心強いですわ、チェイス様」
 次いで、優雅な所作で差し出された彼女のレースの手袋に覆われた右手の甲に、一瞬対処が遅れる……なぜ、今さら?
 疑問を覚えつつも、一応一通りの貴族の素養を身につけている彼は、身をかがめて恭しくその手をとり、口づけを落とす。
「そのまま手をお離しにならないで、チェイス様……手袋の中にカギンを仕込んでおりますの」
「えっ……?」
 そんな言葉とともに強く手を握り締められ、ギョッとして顔を上げると、至極真剣な表情とかち合った。
「これから少しの間、お時間を頂けませんか? どこか邪魔の入らない場所で、内密に……とても重要なことなのです。例えダグリード家の人間であっても、他の者には知られるわけにはいきません」
 しかし、次に彼女が発した言葉は、チェイスに随分な衝撃を与えた。
 咄嗟に、ファティマの後ろに控え、ここまで馬車を操ってきた御者の青年を見遣る。彼は黙って自分達二人を見つめていた。主人の会話に口をはさむ立場にないためではなく、ファティマの声がまったく耳に届いてないのだ。
 強く握り込まれたチェイスの手には確かに彼女の言う通り、柔らかな少女の掌ではなく、硬い異物の感触があった。
 それは、「沈黙の石」と呼ばれる魔導石カギン。石に触れた者達以外に、話し声が一切聞こえないという性質がある。常にそばに控える使用人達には聞かれたくない話をするときに、重宝される貴族達の嗜好品だ。
 声が届かないとはいえ、長く手を握り合っている二人を目の当たりにしていても、青年は訝る様子も見せない。きっと彼の目には不自然のない距離感を保ち、当たり障りない会話を続ける二人の虚像まで見えているのだろう。
 そんな風に目暗ましの魔法をかけられたカギンも、上流階級には広く出回っていると聞く。政治的策謀の他に、嫁入り前の貴族令嬢達が婚約者や、親に反対された恋人との逢瀬で周囲の目を眩ますために有効なのである。
 なんて、悪魔的知恵の働く方だろう……貴族令嬢に対する褒め言葉では到底あり得ないが、チェイスはファティマに対し、半ば尊敬に近い念を覚えていた。
「二、三刻は持ちます。ごめんなさい、チェイス様しか思い浮かばなくて……」
 そんな彼の心中を知ってか知らずか、ファティマは繋がれた二人の手の上にもう一方の手も添え、切々と訴えてくる。
「わかりました……とりあえず、中に入りましょうか」
 その言葉が躊躇いを一掃し、首肯したチェイスは彼女の手を取ったまま踵を返す。大胆不敵な薔薇姫に唯一頼れる存在として認められた事実に、彼の口端には無意識の笑みが浮かんでいた……

   * * *

 チェイスがファティマを案内したのは、彼を含む役職のつかない隊員達の合同執務室だった。
 朝夕二回、定刻に入る清掃員が床は片づけてくれるが、執務机の上は自己責任……等間隔に設置されたそれは、隊員の半分は庶民(貧民街出身者、前科持ち含む)という出自を気にしない大らかな各人の性格を表しているかのように、雑多に乱れている。
 それなりに整頓された机も一部あるが、大体が似たり寄ったりでトレーには報告書類が溢れ返り、帳面を破ったような覚え書きや引き出しに仕舞い込まれずに放置された筆記用具、事務仕事に関係ない私物までがうずたかく積まれていた。
 掃除夫も合い鍵を持ち、入室できるこの部屋に重要書類の類はなく、彼女は決して怪しい人間ではない……そんな判断だったが、深窓の令嬢を招くにはあまりにも不向きな環境だった。
「こちらが、チェイス様がいつもいらっしゃるお仕事場?」
 ファティマは何の躊躇もなく部屋の中に足を踏み入れる。辺りを見回すその顔は、物珍しげではあったが、特段不快感を覚えている様子はなかった。
「済みませんっ、いつもはもう少しだけマシなんですよ!」
 入ってすぐのチェイスの執務机周辺を慌てて片づけるチェイスだったが、魔導石の効用を消さないためにも二人の手は相変わらず繋がれたままで、片手での作業はなかなかに骨が折れる。
 ドレスが汚れては大変だ、と慌てて埃を払い、座席部分に上着の懐から引っ張り出したハンカチーフを敷いた常に自分が腰かけていた椅子をすすめると、ファティマは嬉しそうに腰かけた。まるで、蝶が花にとまるような軽やかな動作だった。
 初対面のときは黒一色、まるで修道女のような格好だった彼女の今日の装いは、胸もとの刺繍が美しい薄紅色のドレスだ。豊かな黒髪は飾り気のないピンで簡単に後頭部にまとめられていて、全体的に宝石のような装飾品はつけていない。化粧も必要最低限であるし、その身をゴテゴテと飾りつけることも好きではないらしい。
 自分の姉達とは正反対な彼女に、チェイスは勝手に好感を持つ。
 チェイスの長姉イルファドーラは、不世出の美姫とまで呼ばれたかつての社交界の花。化粧をしていない顔を知っている自分からしてみれば、目の前のファティマには到底及ばない。
 肉感的な非常に女らしい身体つきは実の姉ながら素晴らしいと思うが、容貌はよくて中の上、十人並みだった。平凡な容姿を絶世の美女に見せる詐欺師紛いの卓越した技を持つ、いうなれば「美」の達人なのだ。
 上品な立ち居振る舞いの中にも、どこか男心をそそる色香がある。
 それもすべて計算しつくされていることを知っているし、口止めもされている。深くつき合えばしたたかさも強い向上心の裏返し、小うるさいくらいの世話好きだとわかる姉を、家族はちゃんと理解し愛しているし、その努力を否定もしない。
 けれど、数多の貴公子にもてはやされても同性の嫉妬を買い、一人の友もいないような生き方を、気の合う仲間達と過ごす楽しさを知るチェイスの価値観では、真の幸せとは認められなかった。
 それに、間接的とはいえ行き過ぎた虚栄心が要らぬ諍いを招き、イルファドーラ本人だけでなく、自分を含めた家族達も心に深い傷を負うことになったのだ。
「……あの、チェイス様?」
 視線だけを残してしばし沈黙してしまった彼に、ファティマが怪訝そうに小首を傾げる。
「あっ、済みません! ちょっと意識が他に飛んでしまってっ……」
 ハッと我に返ってチェイスは謝罪するが、咄嗟につけ加えてしまった言い訳に、彼女の美しい顔が不機嫌そうに歪んだ。
「……チェイス様にとって、私はそんなにどうでもいい存在なんですの?」
「そんなっ……!」
 とげとげしい口調の中に見え隠れする傷ついたような響きに、チェイスはさらに慌てる。
「違いますっ、違います! ……こんな状況で不謹慎なんですが、ファティマ様が、そのっ……あまりにお綺麗なのでっ、つい……」
「うっ……、嘘ですわ! だって貴方っ、さっき意識が他に向いていたとおっしゃったじゃない! どこかのご令嬢のことでも考えてらっしゃったんでしょ!」
 一瞬零れ落ちそうなほどに大きく双眸を見開き、頬を染めたファティマだったが、即座に大きく頭を振って否定したが……
「あぁ……もうっ、こんなはしたない姿のどこが美しいっておっしゃるの?」
 乱雑な動作で後頭部に差し込んでいたピンが緩み、波打つ黒髪は刺繍糸の結び目が解けたようにバラバラと肩に広がった。乱れた髪に少々投げやりに手櫛を入れながら、羞恥心から一層真っ赤になったファティマは、恨み言を言うように呟く。
「美しいというかっ……大変可愛らしいな、と思いますが」
 気丈な彼女の今にも泣き出しそうな痛々しい様子、依然として繋がれたままの互いの手に動揺は収まらず、チェイスはつい本心を舌に乗せた。
「ばっ、馬鹿になさらないでっ! チェイス様は間違っても、本心でそんなことおっしゃるはずありませんもの!」
「心外ですっ、オレだって美人かどうかくらいわかりますよ! 貴女に比べれば、イルファ姉上なんてぺんぺん草ですっ!」
「ぺんっ……って、お姉様?」
 互い当初の目的を忘れてどんどん脱線していく言い争いに、先に我に返ったのはファティマの方だった。チェイスが口にした、身内でも許されそうにない姉への暴言に小首を傾げる。
「ええ、イルファドーラ・カイルシード。社交界嫌いなファティマ様はご存じないと思いますが、貴女の前に社交界の花と呼ばれたオレの一番上の姉上です。ただ顔立ちは十人並みで、化粧や立ち居振る舞いが神懸かっているだけなんですけどね。自分の顔で勝負すればいいのに下手によく見せようとするから、妙な輩の関心まで引き寄せてあんな事件がっ……とにかく、貴女とは全然違うんですよ!」
 最後に不必要な過去まで口走りそうになったチェイスは、慌ててそうつけ加えて、むっつりと口を噤む。
「……あんな事件って、何ですの?」
「なんでもないです。時間、あまりないんでしょう? 今は、大事なお話をしましょう」
「そんな煙に巻くような言い方、チェイス様らしくありませんわ」
 唐突に口調の固くなった自分を不可解そうに見つめ返してきたファティマは、そう言って頭を振った。
 何だか、無性に腹が立つ……できることなら、この手を振り解いてしまいたい衝動に駆られた。
「……ファティマ様は、オレの何を知ってるって言うんですか。貴女と出逢ってまだひと月も経ってないんです。大体、屋敷から滅多に外に出られない貴女には、知らないことの方が多いでしょう」
「知り合ってからの時間なんて関係ありませんわっ、チェイス様だって私を見損なってらっしゃる……こんな早朝から、何もわからない人を頼ってくるような浅はかな真似なんてしません!」
 不可能な欲求に代わり、少々辛辣になってしまったチェイスの台詞に、ファティマは憤慨したように立ち上がり、声高に訴えた……ついさきほどまでの気持ちで聞けば、身にあまる光栄な言葉だった。
 けれど、なぜか今の自分には、それを素直に聞くことができない。彼女を見上げて無理矢理浮かべた笑みが、ひどく歪んでいる自覚がある。
「ファティマ様のそのお気持ちは嬉しいですよ、本当に……でも、その信頼は、オレがかつて死罪を求刑された咎人だったと言っても揺るぎませんか?」
 かすかに震える彼女の手を握った手には不自然な力が入り、落ち着かない気持ちのままに口から飛び出した棘……傷つけたかったのは、彼女なのか自分なのかもわからない。
「それだけおっしゃるなら、お話ししますよ……三年前の、あの事件を」
 半ば捨て鉢な気持ちで、チェイスは心の奥底に仕舞い込んだ罪の記憶を紐解き始めた。
 彼の姉イルファドーラは当時、ある伯爵家の次期当主である男と結婚することになっていた。
 幼馴染で本当の姉自身を知る男との関係は、彼女の作られた外見のように見せかけではなく、とても仲睦まじく見えた。数々の浮き名を流した末、彼の求婚を受け入れた姉の決断を、チェイスも心から祝福していた。
 漆国アイリスの上流階級には、花嫁と花婿はそれぞれ別々に挙式前のひと月の間に三度、神前で婚姻の承認を請う儀式を受けなければならないという慣わしがある。
 婚礼を明日に控えた、最後の儀式の日の帰り道……イルファドーラと付き添いとして同行したチェイスの乗った馬車が、暴漢に襲われたのだ。十数人からを一人で相手にして辛くも姉を守り切ったのだが、彼が手にかけた暴漢の中には口に出すのも憚るような立場の人間が混じっていた。
「アルーダのセナス神殿のゲドル・ラッサーナ神官、次期神官長との呼び声も高かった敬虔なレイチャード教徒です。聖職者を手にかけることは重罪、ファティマ様もご存知でしょう」
 イルファドーラが婚礼の儀式を執り行うはずだったセナス神殿の神官だったゲドルは、彼女に邪な想いを抱いていたのだ。ゲドルはイルファドーラの略奪を目論み、ならず者達を雇って馬車を襲撃したのである。
 はなはだ身勝手な襲撃計画のただ一つの誤算は、たかだか十五歳の子供と侮った彼女の弟が雷龍隊の一員であったことだ。類稀なる剣の才を持つ隊長、副隊長の両人から連日扱かれていたチェイスには、正式な訓練を受けたこともない神官、ならず者達なぞ敵ではなかった。
「でも、あのときのオレは剣の腕はあっても、まだまだ精神的に未熟なガキだったんです……一人でも、奴らを生きて捕らえることができていたら」
 チェイスは苦味を帯びた笑みをその口もとに浮かべ、視線を足もとに落とす。
 神殿側は、咎のすべてをチェイスに押しつけ、不祥事を隠蔽しようとした。姉の婚礼を明日に控えて浮かれていたチェイスは祝い酒に酔って、ならず者達と騒動を起こした。そこに婚礼の儀式の準備で顔見知りとなったゲドルがたまたま通りがかり、仲裁に入るも、理性の働かぬチェイスは激昂して彼まで斬り殺したのだと。
 弱冠十五歳の少年チェイスにあまりにも乱暴な筋書きだったが、聖職者の位置づけは下手な貴族以上に高い。近衛師団員であったならまだしも、駆け出しの少年騎士とセナス神殿神官長の言葉では、どちらが信用されるかは一目瞭然だった。
 そうして軍法会議は、チェイスにはなはだ不利な方向に進んでいったのだ。
「ひどいっ……!」
 ファティマは我が事のように非難の声を上げる。
 世間を賑わせていた聖職者の不祥事も、屋敷に引き籠もっていた彼女には初耳だったのだろう。当時からチェイスの上司であったフォーサイスも、気軽に食事の席で血生臭い事件に巻き込まれた部下の話をするような人間ではない。
「フォーサイス隊長やブルース元副隊長、雷龍隊のみんなは、オレを信じてくれました。証拠を集めて、軍法会議で出された判決をひっくり返してくれたんです」
 チェイスは落としていた視線を上げ、さらに続きを口にする。
 チェイスを助けるために、雷龍隊の面々は任務の合間を縫ってアルーダの街を徹底的に洗い、ゲドルの痕跡を見つけた。
 言葉巧みに信者から金を巻き上げ、神官長に取り入る才はあったのかもしれないが、誘拐犯としてはあまりにも浅慮な男だった。攫ったイルファドーラを住まわす屋敷を、アルーダ郊外に購入していたのだ。
「使用人も雇って、姉上の世話と監視をさせようと用意万端だったんですよ……馬鹿馬鹿しいにもほどがありますよね。後の調べで、姉が襲われて死んだように見せかけるために、顔を潰した偽の遺体を用意していたことも判明しました。墓守でもある神官という立場から、死体の調達は簡単だったんでしょう」
 裏社会に顔の聞く元前科者もいる雷龍隊員達が見つけ出した、神官長も知り得なかった数多の証人と証拠に彼の偽証は崩れ落ち、事件隠蔽の咎で失脚した。隠蔽に関わったすべての者がその神職を失い、今あるセナス神殿はまったく別の神官長の手で運営されている。
 ただ現実は、おとぎ話のように「めでたし、めでたし」では終わらなかった。
「姉は神官をかどわかした悪女の烙印を押されて結婚は破談になり、カイルシード家は聖職者の不正を明るみに出したということで、親類縁者に至るまで冠婚葬祭の儀式を引き受けてくれる神殿がなくなってしまった」
「どうしてっ? チェイス様は何も悪くないじゃありませんの!」
「神に仕える身だからといって、清らかな人間ばかりとは限らないんです。自分達の権威を揺るがされたことへの報復ですよ」
 チェイスは当時の情景を思い出しながら、ファティマの問いに答えた。
 騎士団本部で執り行われた軍法会議……神職の剥奪を言い渡されたセナス神殿神官長の怒りと憎しみに歪んだ形相は、そう簡単に忘れられるものではない。
「当時は随分落ち込みましたよ……オレが汚名を着たまま死んでいれば姉の未来が壊れることはなかったし、家に迷惑をかけることもなかったんじゃないかと」
 この世界に存在する神や正義は所詮まやかしなのだ、と思い知った一瞬……
「何でそんなことをおっしゃるの、チェイス様。貴方は何ひとつ間違ってらっしゃらないのに。だからこそ、お兄様やブルース様、その他の皆様も懸命になって無実を証明してくださったのでしょう? それなのに、そんなことをおっしゃるなんて……チェイス様を信じた方々への侮辱ですわ」
 ドレスが汚れることさえ頓着せずに床に膝を突いたファティマは、ふたたび傾いだ自分の視界をまっすぐに見返してきた。
 チェイスの手を、両手で包み込むように強く握り込んで……その力強さと鮮麗な言葉は、深い過去の闇に沈み込みかけた彼の心を激しく震わせた。
「……同じです」
 チェイスは感嘆の息を漏らすように呟く。
「あのとき、ブルース元副隊長が……オレに言ってくれた言葉そのままです」
 そう続け、ようやく常の彼らしい笑みを口もとに刻んだ。
「まあ、ブルース様も……」
 やおら思い出された面影に、ファティマもどこか遠い目をする。彼女にとってもブルースは命の恩人であり、大切な友人なのだ。
「ありがとうございます、ファティマ様。そして、申し訳ありません……立ち止まっている時間なんてないのに、勝手に馬鹿なこと思い出して貴女に当たって、オレは今でも十分ガキでした」
「お気になさらないで、チェイス様。貴方が立ち直る手助けができて嬉しいですわ。ブルース様の二番煎じということが、少しだけ悔しいですけれど」
 チェイスの謝罪に、ファティマはそんな茶目っ気たっぷりな言葉とともに頭を振る……そして。
「……それに私、婚礼の儀式とか、しなくても気になりませんし」
 ほのかに頬を染めて視線を逸らしながら、そうつけ加えた。
「えっ……?」
 思ってもみなかった台詞にチェイスの口を疑問詞が衝く。
 しかし、彼がその意味を追求する前に、二人の固く握り合った両手の中から発光現象が起こった。
「大変っ、時間切れですわ!」
 次いで、優しい微笑みを湛えた彼女の顔が瞬時に強張り、悲鳴のような叫び声を上げる。
「ええっ、お話は……!」
「今はそれどころじゃありませんわっ、急いで戻りましょう! ジャービスが正気に戻りますっ、お話はまた後日に……!」
「ちょっ……待ってください! ファティマ様っ、その髪!」
「はっ、どうしましょう!」
「どどどどっ、どーしましょうって……」

「あぁーーーーっ……こんなところで何をなさってるんですかっ、お二人とも!」

 結局、右往左往している間に従者に発見された彼らは、二人並んでその場に正座させられ、こってりと絞られたのだった。
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