アイリスこぼれ話

小田マキ

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まだ、想いは目覚めない

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 月の美しい夜だった。
 ガラス天井を透かし、温室の中に降り注ぐ白い光に浮かぶシェブローの透けるような花弁に、メラレウカの赤い茂みの前に座る少女、その膝の上で眠る白猫……すべてが昨日と同じだ。一年近く続いたいつも通りの真夜中の光景を前に、フォーサイスが覚えるのは癒しではなく、どうしようもない疎外感だった。幾度読み込んでも飽きることのなかった父に贈られた兵法書の内容は、この日ばかりはまったく頭に入ってこない。見慣れたはずの字が未知の暗号のように目の上を滑った。
 原因はわかっている。ただ自分がそれを認識したくないだけ、口に出してしまえばこの静かなひとときが粉々に壊れてしまう。それがどうしようもなく怖い。恐怖を自覚した途端、胸が痛んだ。十分な灯りを与えてくれる月の光も霞み、周囲に漆黒の闇が広がる幻想が見える。
「とうとう明日ですね」
 少女の優しい声音に闇はかき消え、弾かれたように顔を上げる。
「シェブランカ、俺は……」
「おめでとうございます。明日からは、騎士様ですね」
 呼号から先の言葉は、彼女の微笑みを見るとどこかに行ってしまった。告げなければならない言葉がある。なさねばならないことがあるのに、言葉も行動も何も出てこなかった。
「明日には、もうここにはいらっしゃらないんですね……フォーサイス様」
 長い睫毛に飾られた宝石のような双眸が、わずかに揺れる。決して出過ぎず、分をわきまえた彼女が垣間見せた悲しみに、どうしようもない離れがたさを覚えた。
 守るべきか弱い存在の差し出した手を、決して離してはならない。
 亡き父、そして、叔父メイスに授けられた騎士の矜持……胸に満ちる。手にしていた本を置き、フォーサイスはシェブランカに向き直る。
「シェブランカ、一緒に行こう」
 その一言を口に出すと、一瞬にして胸のつかえがとれた。
 きっとゴーシャは彼女の受け出しを易々とは許さないだろう。父親であるメイスに訴え、ありとあらゆる妨害をしてくるに違いない。叔父は今度も自分を信じてくれないかもしれない。
 それでも構わない。この屋敷でずっと自分を支え、唯一の心の癒しとなってくれたのは、このシェブランカだけだったのだから。例えすべてを失ったとしても、彼女の心に報えなければ意味がない。そんな男が騎士になったとしても、きっと何も守れない。
 強い決意とともに、フォーサイスはシェブランカの返事を待った。
「フォーサイス様、ありがとうございます」
 彼女もとても嬉しそうに謝意を述べ、笑み返してきた。
「……でも、私はここにいます」
 そして、そんな笑顔のまま彼女は頭を振った。
「どうして、シェブランカっ……」
 何でそんなことを言うのか。聞くとはなしに耳に入ってくる使用人達の噂のどれ一つをとっても、彼女に優しいものはないのに。ここで自分と偶然に出会うまでは、いつも月下で一人泣いていたはずだ。
「約束していたんです、両親と。いつかきっと迎えにきてくれるって……ですから私はここで待ちます。申し訳ありません、フォーサイス様。貴方と一緒には行けません」
 まっすぐに見返してきた双眸に、もはや揺らぎは見当たらなかった。
「フォーサイス様、私の代わりにツイルを連れていっては頂けませんか?」
「ツイル?」
 フォーサイスの呼び声に、それまでシェブランカの膝の上で眠っていた白猫が、目を覚ます。主以外がその名を呼ぶな、そう薄水色の目が告げているようだ。グルグルと喉の奥から不機嫌を告げる彼から、シェブランカに視線を移す。
「この前も、中庭の池にいたコリドラスをすべて食べてしまって……何とか誤魔化したのですが、もう隠しておくのは限界なのです。ゴーシャ様に見つかれば、きっと捨てられてしまいます。お願いします、フォーサイス様」
 切羽詰まったような彼女の声音が乞い願うのは、いつも他者の幸せばかりだ。自身のことを何も望んでくれないのは、フォーサイスに見合う力がない、救えないと思っているのだろうか……この手では何も掴むことはできないと。いつもこの心を癒してくれたその清廉な笑顔が、今このときばかりは苛立たしい。
「シェブランカ、本当にそれでいいのか? 俺はっ……」
 衝動的に伸ばした手は、彼女に届く前に弾かれる。掌に鋭い痛みとともに、三つの赤い筋が走っていた。
「ツイルっ……!」
 同時にシェブランカの悲鳴が上がる。彼女の膝の上で前傾態勢をとる猫は、まるで外敵から主を守るように爪を振るい、フォーサイスを睨めつけている。
「申し訳ありません、フォーサイス様! ツイルっ、なんてことをするの!」
 叱咤したのは粗相をした猫でも、実際に彼女を困らせているのはフォーサイス自身ではないだろうか……直前に抱いていた苛立ちが四散するとともに、徒労感が胸に広がる。
「大丈夫だ。薄皮が破れただけで、そこまで血も出ていない」
「……、よかった」
 手を掲げて見せて言った自分に心底ホッとしたように、それでも申し訳なさそうにシェブランカは息を吐いた。
「フォーサイス様、私は本当に感謝しています。今日までここで過ごしたひとときは、私にとって他の何にも代えがたい時間でした」
「それは俺も同じだ。だからこそ一緒に……俺は、お前に何一つ報えていない」
 そんなもう何もかも終わるような言い方はしないでほしい。自分という存在を、心の中から葬り去ろうとしているようでとても嫌だった。
「フォーサイス様、何か誤解をされていませんか?」
 縋りつくような情けない声音になってしまった自分に、シェブランカは優しく微笑んで続けた。
「私はいずれ迎えに来てくれた両親と一緒に、フォーサイス様に会いに行きたいと思っているのですよ。冷たい月の下ではなく温かな太陽の下、本当の私の姿で」
「本当の、姿……」
 粗末な薄灰色のお仕着せを着たシェブランカ、月の光に照らされた姿はそれでも十分に清らかで美しかった。だからこそ、それが彼女の本質であるはずがない。
「だから、どうぞ待っていてください。私は自分の力でフォーサイス様に会いに参りますから……どうか忘れないで」
 そう言い終えた彼女の笑顔は、今まで見た中で一番輝いていた。冴え冴えとした月の光すら霞むほどに……いつの間にか自身に敵愾心を燃やしていたツイルも、自分と同じように、その微笑みを見つめている。
 実現不可能なその夢に賭けてみたいと、初めて思えた。フォーサイスは差し出しかけた手を握り込み、微笑みに秘めた想いを受け取った。

   * * *

「ブルーデンスと申します、以後よろしくお願い致します」
 目の前にはフカッシャー公爵令嬢が、恭しく跪いている。銀髪はオルガイム特有の組紐で優美に結い上げられていたが、前髪が一房だけ垂れていた。銀色に流れる髪がかつて見た月光を思わせ、フォーサイスは眉をしかめる。
「……オルガイム人か」
 正体の知れない苛立ちを追い払うように、その手にすくい上げた。そんなはずはないのに、心に過ぎったのは永遠に失われたはずの面影と、少年期に犯した償い切れない過ちの味。あのとき伸ばせなかった手が、掴んだものは……。
「……っ、……申し訳ありません」
 弾かれたように上がった顔を思わず睨みつければ、ブルーデンスは咄嗟に謝罪を口にする。随分と険しい表情をしたみずからの顔が、鏡のような双眸から見返してくる。咄嗟にフォーサイスは、月光のごとき一房を手離した。
 疚しいところは一切ないのに、胸を粟立たせるこの動揺は一体何なのか……先に目を反らしたのは、フォーサイスの方だった。薄暗い目的を抱いてやって来た間諜の娘に、何も気取らせるわけにはかない。そんな焦りからか随分と最低なことを口走ってしまい、背中から母と妹の反感の声が追いかけて来た。
 フォーサイスは、振り返らない。その先には、あの日の月の光によく似た娘がいる。何の関係もないはずなのに、ブルーデンスの冴え冴えとした一瞥が、封印していたかつての罪悪感を、胸の奥底から浮かび上がらせようとした。
 彼女は危険だ、必要以上深くかかわってはいけない。自分の目的は、軍部掌握の魔の手から雷龍隊を守り、副官を取り戻すことだけ、それ以外はいらない。フォーサイスはついぞ救えなかった少女の面影とともに、警鐘を鳴らし始めた心にふたたび堅い鍵をかけた。

 まだ、想いは目覚めない。
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