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ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、目下謹慎中の身である。
三棟ある弓騎兵隊宿舎の内、第三騎兵隊には東端にある食堂棟の一角が割り当てられている。既婚者や少佐以上になれば自宅から通うことを許されるが、独身の隊員は宿舎に入る規則になっていた。なお、准尉以下は基本二人部屋で、少尉以上の隊長職になるとようやく個室を与えられ、寝台一つ分程広くなる。
よって、第三弓騎兵隊隊長職にあるクラリスは、食堂に最も近い一階の角部屋だった。部下達より若干広いとは言え、玄関もなく、扉を開けてすぐの一間。幼い頃に暮らしていたヴィアッカ邸宅に比べれば、まるで兎小屋だ。
第三部隊唯一の女性隊員であることや、ヴィアッカ商会の軍部への多大なる金銭援助に配慮し、特例として実家通勤を認めると言われたが、クラリスはそれを丁重に断った。特別扱いは、無用な反感を呼ぶのだ。元々物欲がないし、唯一の趣味が今や仕事だ。弓矢は武器保管庫の各自の棚にまとめ置く決まりで、寝台と軍服を仕舞う箪笥一つもあれば事足りる。下手に広くない方が掃除も楽だ。
そんなほぼ寝るだけの自室が、今や苦痛でしかない。当初甘いと思った謹慎処分だったが、クラリスは三日もすれば焦りを覚えた。こんなに長い間弓に触っていないのは初めてのことで、手入れさえ許されない現状はまさに地獄だった。
一日弓に触れなければ、感覚を取り戻すのに二日は掛かる。後二十七日が、果てしなく遠く感じる。常に身体を動かしていなければ焦燥感に胸を焦がされるため、彼女は壁に貼り付けた工程表とにらめっこしながら、寝台と箪笥を部屋の端から端に移動させるという、重錘訓練代わりの模様替えを繰り返していた。
そうやって身体をくたくたに疲れさせなければ満足に息も吐けず、少しでも余力を残して眠れば必ず悪夢を見るのだ。
「まったく何様のつもりなんだっ、あの青鬼野郎! 言い掛かりもいいトコじゃないかっ!」
「アーチャー、飲み過ぎです。貴方らしくない人種差別的発言は止めてください、私に過失があったのは確かなんですし……」
「そんなコトないヨー! ホントにひっどい話っ、隊長はドー考えても被害者ヨ!」
「やややっ、スーリ君も落ち着いてください! お酒零れています、毛玉もっ……せっかくお掃除したのにっ!」
就業時間終了の鐘の音と同時に、彼女の部屋は口の悪い軍医と狼人の部下に占拠されていた。
入浴時以外に部屋から一歩も出られないクラリスは、食事も部屋で取っている。食堂の下働きの女性が配膳に来てくれたと思って扉を開けると、食事のトレーと一緒に、大量の酒と摘まみを携える悪戯坊主な二つの笑顔が見えた。呆気にとられる彼女にはお構いなしに、部屋へ押し入った二人は、さっさと酒盛りを始めてしまった。程なく酔っ払った二人に、クラリスは甲斐甲斐しく世話を焼く他なくなったのだ。
顔を合わせれば歯に衣着せない応酬が始まり、お世辞にも仲が良いとは言い難い二人なのに、こんな時だけ息ぴったりなのはどうしてだ……とは言え、精神的に追い詰められていたクラリスは、気心の知れた彼らの顔を見ることが出来て随分と慰められた。
聞けば彼らは、評議会に処分撤回の直談判までしてくれたらしい。一度決定した事は覆さないのがお役所仕事の常で、けんもほろろに退けられたそうだが、その気持ちだけで嬉しい。
「雑巾がけなんざ後でいいだろ! ホラ飲めよ、クラリス。しけた面してないで、酒飲んで、全部吐き出しちまえっ!」
そう言って、すっかり目が座ったアーチャーがクラリスに突き出してきたのは、エールが並々と注がれたジョッキだった。シュワシュワと泡が弾ける音は耳に心地いいが、今にも表面張力を突破して溢れ出しそうな琥珀色にハラハラする。
「謹慎中の身で、さすがにお酒はっ……」
安定感を欠く腕から素早くジョッキを受け取ると、雑多につまみが乗ったテーブルの空いた場所へ避難させながら、クラリスは頭を振った。
「隊長、隊長、じゃあコッチ! 隊長のために市場通りの見回りの帰り、露天で買ってきたヨ」
すると、今度は反対隣りからスーリの毛並みのいい白い手が、つまみの乗った皿を差し出してくる。毛むくじゃらの顔では判別し辛いが、普段より二割増し舌っ足らずで子供じみた口調から、強か酔っていることが知れた。
「これは、……お魚?」
皿の上にこんもりと盛られていたのは、見たこともない珍妙な食べ物だった。額に瘤があり、顎も大きく迫り出した青黒い魚は、綺麗に左右対称に腹を開かれ、カチカチに乾燥している。顔を近づけると、ほんのり塩辛い匂いがした。
「小ガラヤンの塩干し、シュランの食べ物ヨ。食べて、食べて、スッゴイ美味しいカラ!」
パタパタと尻尾を振るスーリに促され、クラリスは小ガラヤンとやらの尾びれを摘み上げる。ピンと耳を立て、つぶらな青い目が見守る前で、彼女は意を決してその平べったい頭にガブリと噛り付いた。
そして、咀嚼した途端、クラリスの洞窟のように仄暗い双眸の瞳孔が開く。パリパリの皮も、思いの外弾力のある魚肉も、絶妙な塩加減でほんのりと甘さもあり、確かに美味かった。酒の肴には最高だろう。
「美味しいです、スーリ君」
「でショ!」
もう一つ、と手を出したクラリスに、彼は綺麗な犬歯を剥いた。見た目は少々凶悪だが、嬉しそうな気配がふんわり伝わってくる。
仲間とは本当に良いものだ。
謹慎が開ければ、他の部下達も誘って、皆できちんと酒を酌み交わしたい。
自分が不甲斐ない隊長だったばかりに、健康を害させ掛けたことを謝罪したい。
そして、個体番号三十六の砂蜥蜴……内地がほとんどの第三弓騎兵隊の任務で、初めて出した死亡被害。死因特定のために解剖され、既に荼毘に付されたらしいが、遺灰か爪の欠片でも貰い受けて、個人的に弔いたい。
「……痛っ」
しみじみした気持ちで謹慎明けの予定を組むクラリスだったが、不意に右頬に鋭い痛みが走る。引っ張られて傾いだ頭を立て直し、視線を巡らせると、仏頂面のアーチャーが彼女の薄い頬の肉を抓り上げていた。酔っ払って力加減が馬鹿になっているらしく、そこそこ痛い。
「あんな青鬼野郎の言ったことなんざ、気に病むな。馬鹿馬鹿しいしがらみの中、今回取った行動は最善だった……隊員達があの程度で済んだのも、お前さんが気を配ってたからだろう? 医者の俺が言うんだ、信用しろ」
かなり酔っていたはずなのに、彼の発する言葉は驚く程淀みなかった。さすがは医者である。再び悔恨の念へと意識が傾き掛けたのを、敏感に察知したらしい。
頬から手を離され、いつかのように頭をガシガシと掻き回されると、ここ数日の出来事が怒涛のように思い起こされ、胸が熱くなった。一滴のエールも飲んでいないのに、目の前が霞んでくる……これは拙い。そう思った次の瞬間、右の眼尻から一滴の涙が零れ落ちた。
「クラリス」
泣かせようとしているのかと疑うくらい柔らかに名前を呼ばれ、堰を切ったように涙が溢れそうになったが……一瞬無音になった部屋の中に、絶妙な間でコツコツと扉を叩く音が響いた。
「……ん?」
何だ、今のノックは?
第六感が頭の中で警鐘を鳴らし、瞬く間に涙を引っ込めたクラリスは、その目をただ一つの出入り口である扉へと向ける。アーチャーとスーリも、彼女につられるようにそちらへ目を遣った。
「クラリス・ヴィアッカ少尉、居るか?」
再度のノックとともに、ここ最近クラリスを翻弄してやまない静謐な低音が扉の向こう側から呼び掛けてきた。それを耳にした途端、全身が総毛立った。
恐らくこれは、クラリスの謹慎状況を探る抜き打ち検査に違いない。部屋の中には空になった酒瓶が何本も転がり、テーブルの上だけでなく、床の上にさえ所構わずつまみの皿が並べられ、食べカスに、零れたエールでだらしなく汚れている。どうにも言い逃れが出来ない惨状に、クラリスの頭からは猛烈な勢いで血の気が引いた。
「あいつ、抜け抜けと何しに来やがったっ……!」
苦虫を嚙み潰したような声音で吐き捨て、持っていた空のジョッキをテーブルに叩きつけるように置くと、アーチャーが立ち上がる。そのまま大股で扉に向っていった。
「アーチャーっ、待ってください!」
一瞬反応が遅れてクラリスは制止が及ばず、彼は勢いよく部屋の扉を開けてしまう。
性急に開いた扉を避けるように一歩後ろに下がったのは、一縷の隙も無く漆黒の軍服を纏ったシャトリンだった。シャトリンは目の前に仁王立ちするアーチャーを一瞥した後、その肩越しに部屋の中をざっと見回し、最後にアーチャーの上着の裾を掴んだ格好で固まるクラリスに視線を移す。僅かに右眉を上げたシャトリンに、全身からドッと汗が噴き出した。
「……イライアス・アーチャー大尉、何故貴方が謹慎中のヴィアッカ少尉の部屋に?」
シャトリンはゆっくりと口を開いた。おとなった部屋で出迎えたのが家主以外の人間だったというのに、静かな湖面のような低音に感情は一切窺えない。
「おい、青鬼野郎! てめえ、何しっ……むぐ!」
頭一つ高い位置から静かに見下ろすシャトリンに向かい、悪態を吐こうとするアーチャーの口を、クラリスは咄嗟に後ろから手で塞いだ。
「申し訳ありません、シャトリン大佐! 大尉は強かに酔っているので、今の発言は彼の本意ではありませんっ!」
そして、早口で彼に謝罪したクラリスは、アーチャーを部屋の奥へと半ば強引に突き飛ばした。その後、シャトリンを振り返ると、丹田にグッと力を入れる。
「謹慎中にもかかわらず、このような体たらく……悪いのは管理不行き届きの私です。如何なる処罰もお受けします」
五日前、騎兵隊本部で対峙した時のように、胸を反らして暗灰色の双眸を見返し、クラリスはきっぱりと言い切った。これ以上なく状況は悪いが、自分のせいでアーチャーやスーリが処罰されることだけは避けたい。
「クラリス・ヴィアッカ少尉」
相変わらず何一つ読み取れない口調で、シャトリンが自らの名を呼ぶ。
「罰則は私の一存で決められるものではないし、今回の件を評議会に掛けるつもりもない。また、先程のアーチャー大尉の発言だが、酔っ払いの台詞を真剣に取り合う程私は愚か者ではない」
一瞬、彼の一本調子な台詞の意味が理解出来なかった。
「あ、あのっ……し、しかし、私は謹慎中にあるまじき振る舞いをっ……!」
しかし、じわじわと言葉の意味が頭に浸み込むと、クラリスは動転して後ろ向きな発言を繰り返してしまう。
「君の呼気から酒精は感じられない。大尉の常日頃の行動原理を考えるに、彼が無理矢理押しかけてきたのだろう? 追い返すことは叶わなくとも、誘惑に負けることはなかった。君自身に問題はない、部屋は片付けた方がいいが」
「……呼気って、犬かよ」
聴聞会と同じように理路整然とした推理を展開したシャトリンに対し、独り言のように漏らしたのはアーチャーだった。突き飛ばされた先が丁度寝台だったらしく、彼はそこに仰向けに倒れたままバツが悪そうにしていた。一連のことで、酔いは覚めたようだ。
「犬と言えば……スーリ准尉、いい加減出てきたらどうだ」
そんなアーチャーの姿を暫く見つめていたシャトリンだったが、再びそう口を開く。
「犬じゃなっ……痛イ!」
すると、ゴンという大きな音がした後、悲鳴とともに寝台の下からスーリが這い出してきた。ノックの後、やけに静かだと思っていたら、そんなところに身を隠していたようだ。怜悧な視線を受けて、彼は文字通り総毛立っていた。尻尾が常の二倍以上に膨らんでいる。
「第三騎兵隊は噂に違わぬ曲者揃いだな。上官を上官とも思わず、出世にも過度に執着しないはみ出し者の集まり」
「スーリ君っ……いえ、准尉も悪気があるわけでは!」
咄嗟にクラリスはシャトリンの台詞を遮ったが……。
「そんな癖の強い部下達を制御する少尉の指揮能力を、私は高く評価している」
次に告げられた紛れもない賛辞に、再びその声を奪われてしまう。
「はっ……クラリスを告発した奴が、よく言うな!」
勢いよく上体を起こしたアーチャーが、そんなシャトリンの言葉を鼻で笑った。
「囚人護送任務においての処分を言っているのなら、それは妥当だ。ヴィアッカ少尉も身に染みただろう。チュモニック公爵家ごとき、いなせる力がありながら何故それを行使しない。出来る努力をしないのは怠慢であり、せっかくの資質を開花させずに埋もれさせるのは騎兵隊にとって重大な損失だ」
「大佐は私を買い被り過ぎです。私にあるのは弓の腕だけ……隊長になれたのも、父の力で」
「軍隊において、謙遜は美徳ではない。私は部下を失ってから気付くのでは遅いと言っているのだ。父上の愛情を勝ち得たのは君の実力だと思いたまえ」
「……おい、シャトリン。お前、本当にここへ何しに来たんだ?」
暫し引かない二人の攻防戦を静観していたアーチャーが、ここに至って不可解そうに口を挟んできた。
「貴男方がいたせいで、まだ切り出せていない」
彼に向けた双眸を一瞬眇めた後、シャトリンはクラリスに向き直る。
「ヴィアッカ少尉。可及的速やかに当たらなければならない私事により、君の謹慎処分を解除した。明日朝一で、私とともにサリュートへ発ってほしい」
彼の口にした突然の要請には、クラリスのみならず全員があんぐりと口を開けて固まった。
三棟ある弓騎兵隊宿舎の内、第三騎兵隊には東端にある食堂棟の一角が割り当てられている。既婚者や少佐以上になれば自宅から通うことを許されるが、独身の隊員は宿舎に入る規則になっていた。なお、准尉以下は基本二人部屋で、少尉以上の隊長職になるとようやく個室を与えられ、寝台一つ分程広くなる。
よって、第三弓騎兵隊隊長職にあるクラリスは、食堂に最も近い一階の角部屋だった。部下達より若干広いとは言え、玄関もなく、扉を開けてすぐの一間。幼い頃に暮らしていたヴィアッカ邸宅に比べれば、まるで兎小屋だ。
第三部隊唯一の女性隊員であることや、ヴィアッカ商会の軍部への多大なる金銭援助に配慮し、特例として実家通勤を認めると言われたが、クラリスはそれを丁重に断った。特別扱いは、無用な反感を呼ぶのだ。元々物欲がないし、唯一の趣味が今や仕事だ。弓矢は武器保管庫の各自の棚にまとめ置く決まりで、寝台と軍服を仕舞う箪笥一つもあれば事足りる。下手に広くない方が掃除も楽だ。
そんなほぼ寝るだけの自室が、今や苦痛でしかない。当初甘いと思った謹慎処分だったが、クラリスは三日もすれば焦りを覚えた。こんなに長い間弓に触っていないのは初めてのことで、手入れさえ許されない現状はまさに地獄だった。
一日弓に触れなければ、感覚を取り戻すのに二日は掛かる。後二十七日が、果てしなく遠く感じる。常に身体を動かしていなければ焦燥感に胸を焦がされるため、彼女は壁に貼り付けた工程表とにらめっこしながら、寝台と箪笥を部屋の端から端に移動させるという、重錘訓練代わりの模様替えを繰り返していた。
そうやって身体をくたくたに疲れさせなければ満足に息も吐けず、少しでも余力を残して眠れば必ず悪夢を見るのだ。
「まったく何様のつもりなんだっ、あの青鬼野郎! 言い掛かりもいいトコじゃないかっ!」
「アーチャー、飲み過ぎです。貴方らしくない人種差別的発言は止めてください、私に過失があったのは確かなんですし……」
「そんなコトないヨー! ホントにひっどい話っ、隊長はドー考えても被害者ヨ!」
「やややっ、スーリ君も落ち着いてください! お酒零れています、毛玉もっ……せっかくお掃除したのにっ!」
就業時間終了の鐘の音と同時に、彼女の部屋は口の悪い軍医と狼人の部下に占拠されていた。
入浴時以外に部屋から一歩も出られないクラリスは、食事も部屋で取っている。食堂の下働きの女性が配膳に来てくれたと思って扉を開けると、食事のトレーと一緒に、大量の酒と摘まみを携える悪戯坊主な二つの笑顔が見えた。呆気にとられる彼女にはお構いなしに、部屋へ押し入った二人は、さっさと酒盛りを始めてしまった。程なく酔っ払った二人に、クラリスは甲斐甲斐しく世話を焼く他なくなったのだ。
顔を合わせれば歯に衣着せない応酬が始まり、お世辞にも仲が良いとは言い難い二人なのに、こんな時だけ息ぴったりなのはどうしてだ……とは言え、精神的に追い詰められていたクラリスは、気心の知れた彼らの顔を見ることが出来て随分と慰められた。
聞けば彼らは、評議会に処分撤回の直談判までしてくれたらしい。一度決定した事は覆さないのがお役所仕事の常で、けんもほろろに退けられたそうだが、その気持ちだけで嬉しい。
「雑巾がけなんざ後でいいだろ! ホラ飲めよ、クラリス。しけた面してないで、酒飲んで、全部吐き出しちまえっ!」
そう言って、すっかり目が座ったアーチャーがクラリスに突き出してきたのは、エールが並々と注がれたジョッキだった。シュワシュワと泡が弾ける音は耳に心地いいが、今にも表面張力を突破して溢れ出しそうな琥珀色にハラハラする。
「謹慎中の身で、さすがにお酒はっ……」
安定感を欠く腕から素早くジョッキを受け取ると、雑多につまみが乗ったテーブルの空いた場所へ避難させながら、クラリスは頭を振った。
「隊長、隊長、じゃあコッチ! 隊長のために市場通りの見回りの帰り、露天で買ってきたヨ」
すると、今度は反対隣りからスーリの毛並みのいい白い手が、つまみの乗った皿を差し出してくる。毛むくじゃらの顔では判別し辛いが、普段より二割増し舌っ足らずで子供じみた口調から、強か酔っていることが知れた。
「これは、……お魚?」
皿の上にこんもりと盛られていたのは、見たこともない珍妙な食べ物だった。額に瘤があり、顎も大きく迫り出した青黒い魚は、綺麗に左右対称に腹を開かれ、カチカチに乾燥している。顔を近づけると、ほんのり塩辛い匂いがした。
「小ガラヤンの塩干し、シュランの食べ物ヨ。食べて、食べて、スッゴイ美味しいカラ!」
パタパタと尻尾を振るスーリに促され、クラリスは小ガラヤンとやらの尾びれを摘み上げる。ピンと耳を立て、つぶらな青い目が見守る前で、彼女は意を決してその平べったい頭にガブリと噛り付いた。
そして、咀嚼した途端、クラリスの洞窟のように仄暗い双眸の瞳孔が開く。パリパリの皮も、思いの外弾力のある魚肉も、絶妙な塩加減でほんのりと甘さもあり、確かに美味かった。酒の肴には最高だろう。
「美味しいです、スーリ君」
「でショ!」
もう一つ、と手を出したクラリスに、彼は綺麗な犬歯を剥いた。見た目は少々凶悪だが、嬉しそうな気配がふんわり伝わってくる。
仲間とは本当に良いものだ。
謹慎が開ければ、他の部下達も誘って、皆できちんと酒を酌み交わしたい。
自分が不甲斐ない隊長だったばかりに、健康を害させ掛けたことを謝罪したい。
そして、個体番号三十六の砂蜥蜴……内地がほとんどの第三弓騎兵隊の任務で、初めて出した死亡被害。死因特定のために解剖され、既に荼毘に付されたらしいが、遺灰か爪の欠片でも貰い受けて、個人的に弔いたい。
「……痛っ」
しみじみした気持ちで謹慎明けの予定を組むクラリスだったが、不意に右頬に鋭い痛みが走る。引っ張られて傾いだ頭を立て直し、視線を巡らせると、仏頂面のアーチャーが彼女の薄い頬の肉を抓り上げていた。酔っ払って力加減が馬鹿になっているらしく、そこそこ痛い。
「あんな青鬼野郎の言ったことなんざ、気に病むな。馬鹿馬鹿しいしがらみの中、今回取った行動は最善だった……隊員達があの程度で済んだのも、お前さんが気を配ってたからだろう? 医者の俺が言うんだ、信用しろ」
かなり酔っていたはずなのに、彼の発する言葉は驚く程淀みなかった。さすがは医者である。再び悔恨の念へと意識が傾き掛けたのを、敏感に察知したらしい。
頬から手を離され、いつかのように頭をガシガシと掻き回されると、ここ数日の出来事が怒涛のように思い起こされ、胸が熱くなった。一滴のエールも飲んでいないのに、目の前が霞んでくる……これは拙い。そう思った次の瞬間、右の眼尻から一滴の涙が零れ落ちた。
「クラリス」
泣かせようとしているのかと疑うくらい柔らかに名前を呼ばれ、堰を切ったように涙が溢れそうになったが……一瞬無音になった部屋の中に、絶妙な間でコツコツと扉を叩く音が響いた。
「……ん?」
何だ、今のノックは?
第六感が頭の中で警鐘を鳴らし、瞬く間に涙を引っ込めたクラリスは、その目をただ一つの出入り口である扉へと向ける。アーチャーとスーリも、彼女につられるようにそちらへ目を遣った。
「クラリス・ヴィアッカ少尉、居るか?」
再度のノックとともに、ここ最近クラリスを翻弄してやまない静謐な低音が扉の向こう側から呼び掛けてきた。それを耳にした途端、全身が総毛立った。
恐らくこれは、クラリスの謹慎状況を探る抜き打ち検査に違いない。部屋の中には空になった酒瓶が何本も転がり、テーブルの上だけでなく、床の上にさえ所構わずつまみの皿が並べられ、食べカスに、零れたエールでだらしなく汚れている。どうにも言い逃れが出来ない惨状に、クラリスの頭からは猛烈な勢いで血の気が引いた。
「あいつ、抜け抜けと何しに来やがったっ……!」
苦虫を嚙み潰したような声音で吐き捨て、持っていた空のジョッキをテーブルに叩きつけるように置くと、アーチャーが立ち上がる。そのまま大股で扉に向っていった。
「アーチャーっ、待ってください!」
一瞬反応が遅れてクラリスは制止が及ばず、彼は勢いよく部屋の扉を開けてしまう。
性急に開いた扉を避けるように一歩後ろに下がったのは、一縷の隙も無く漆黒の軍服を纏ったシャトリンだった。シャトリンは目の前に仁王立ちするアーチャーを一瞥した後、その肩越しに部屋の中をざっと見回し、最後にアーチャーの上着の裾を掴んだ格好で固まるクラリスに視線を移す。僅かに右眉を上げたシャトリンに、全身からドッと汗が噴き出した。
「……イライアス・アーチャー大尉、何故貴方が謹慎中のヴィアッカ少尉の部屋に?」
シャトリンはゆっくりと口を開いた。おとなった部屋で出迎えたのが家主以外の人間だったというのに、静かな湖面のような低音に感情は一切窺えない。
「おい、青鬼野郎! てめえ、何しっ……むぐ!」
頭一つ高い位置から静かに見下ろすシャトリンに向かい、悪態を吐こうとするアーチャーの口を、クラリスは咄嗟に後ろから手で塞いだ。
「申し訳ありません、シャトリン大佐! 大尉は強かに酔っているので、今の発言は彼の本意ではありませんっ!」
そして、早口で彼に謝罪したクラリスは、アーチャーを部屋の奥へと半ば強引に突き飛ばした。その後、シャトリンを振り返ると、丹田にグッと力を入れる。
「謹慎中にもかかわらず、このような体たらく……悪いのは管理不行き届きの私です。如何なる処罰もお受けします」
五日前、騎兵隊本部で対峙した時のように、胸を反らして暗灰色の双眸を見返し、クラリスはきっぱりと言い切った。これ以上なく状況は悪いが、自分のせいでアーチャーやスーリが処罰されることだけは避けたい。
「クラリス・ヴィアッカ少尉」
相変わらず何一つ読み取れない口調で、シャトリンが自らの名を呼ぶ。
「罰則は私の一存で決められるものではないし、今回の件を評議会に掛けるつもりもない。また、先程のアーチャー大尉の発言だが、酔っ払いの台詞を真剣に取り合う程私は愚か者ではない」
一瞬、彼の一本調子な台詞の意味が理解出来なかった。
「あ、あのっ……し、しかし、私は謹慎中にあるまじき振る舞いをっ……!」
しかし、じわじわと言葉の意味が頭に浸み込むと、クラリスは動転して後ろ向きな発言を繰り返してしまう。
「君の呼気から酒精は感じられない。大尉の常日頃の行動原理を考えるに、彼が無理矢理押しかけてきたのだろう? 追い返すことは叶わなくとも、誘惑に負けることはなかった。君自身に問題はない、部屋は片付けた方がいいが」
「……呼気って、犬かよ」
聴聞会と同じように理路整然とした推理を展開したシャトリンに対し、独り言のように漏らしたのはアーチャーだった。突き飛ばされた先が丁度寝台だったらしく、彼はそこに仰向けに倒れたままバツが悪そうにしていた。一連のことで、酔いは覚めたようだ。
「犬と言えば……スーリ准尉、いい加減出てきたらどうだ」
そんなアーチャーの姿を暫く見つめていたシャトリンだったが、再びそう口を開く。
「犬じゃなっ……痛イ!」
すると、ゴンという大きな音がした後、悲鳴とともに寝台の下からスーリが這い出してきた。ノックの後、やけに静かだと思っていたら、そんなところに身を隠していたようだ。怜悧な視線を受けて、彼は文字通り総毛立っていた。尻尾が常の二倍以上に膨らんでいる。
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「スーリ君っ……いえ、准尉も悪気があるわけでは!」
咄嗟にクラリスはシャトリンの台詞を遮ったが……。
「そんな癖の強い部下達を制御する少尉の指揮能力を、私は高く評価している」
次に告げられた紛れもない賛辞に、再びその声を奪われてしまう。
「はっ……クラリスを告発した奴が、よく言うな!」
勢いよく上体を起こしたアーチャーが、そんなシャトリンの言葉を鼻で笑った。
「囚人護送任務においての処分を言っているのなら、それは妥当だ。ヴィアッカ少尉も身に染みただろう。チュモニック公爵家ごとき、いなせる力がありながら何故それを行使しない。出来る努力をしないのは怠慢であり、せっかくの資質を開花させずに埋もれさせるのは騎兵隊にとって重大な損失だ」
「大佐は私を買い被り過ぎです。私にあるのは弓の腕だけ……隊長になれたのも、父の力で」
「軍隊において、謙遜は美徳ではない。私は部下を失ってから気付くのでは遅いと言っているのだ。父上の愛情を勝ち得たのは君の実力だと思いたまえ」
「……おい、シャトリン。お前、本当にここへ何しに来たんだ?」
暫し引かない二人の攻防戦を静観していたアーチャーが、ここに至って不可解そうに口を挟んできた。
「貴男方がいたせいで、まだ切り出せていない」
彼に向けた双眸を一瞬眇めた後、シャトリンはクラリスに向き直る。
「ヴィアッカ少尉。可及的速やかに当たらなければならない私事により、君の謹慎処分を解除した。明日朝一で、私とともにサリュートへ発ってほしい」
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「ー…姉さん…ごめん…」
金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら言った。
自分も辛いだろうに、この優しい義弟は、こんな時にも私を気遣ってくれているのだ。
視界の先には
私の婚約者と義弟の婚約者が見つめ合っている姿があった。
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