6 / 15
6
しおりを挟む
ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、薄っすらと空が明るんできたばかりの騎兵隊宿舎裏で、アーチャーと対峙していた。式典用の大正装に身を包む彼女の傍らには、シャトリンが相変わらず無機質な顔つきで立っている。
一晩悩んだ結果、彼女はサリュートに向かう決意を固めたのだ。
「いいか、生水だけは飲んじゃいかん。面倒でも毎回きっちり煮沸しろ。それで、これがマクロライド、朝晩二回一錠ずつな。こっちがホスホマ、成人用切らしてて子供用シロップしかなかったから二倍量入れてる。マスポカル味だからって、菓子代わりに食うんじゃないぞ。で、解熱剤と各種栄養剤、傷薬軟膏に湿布……悪魔の顎(チャンヴァー・ロッド)の先には何が待ってるか分からないんだ。埃っぽいトコ行ったら、ちゃんとマスクしとけよ。それがただの埃じゃなく、未知の植物の花粉や昆虫の糞だったら、吸い込むだけで命取りになることだってある」
アーチャーはつらつらと中身を説明しながら、急ごしらえとは思えないありとあらゆる感染症対策の医薬品類が詰め込まれたクーリエバッグを押し付けてくる。薄氷のような青の両目はすっかり充血していて、一睡もしていないことは明らかだ。
「アーチャー、有難うございます。でも、少々大げさかと……私達がこれから向かうのは未開地ではなく、れっきとしたミュラーリヤ連合加盟国ですよ」
クラリスは彼の心遣いに謝意を告げるも、ズシッと肩に食い込むストラップは明らかにやり過ぎであることを指摘する。自分の傍らに立つシャトリンは相変わらず無表情だが、遠回しに祖国を悪し様に言われているようで、いい気はしないだろうと思ったのだ。
「半分はソルケット人の私が生まれ育った場所だ。少尉に対しても悪影響を及ぼす病原菌が存在しないと保証する」
「青い血の奴の台詞なんて信用出来っかっ、情報統制された場所は未開地以上に厄介なんだよ! 何隠してんだか分かったもんじゃない」
「アーチャーっ……!」
しかし、クラリスの気遣いも虚しく、二人の間に火花が散る……と言っても、一方的にアーチャーが捲し立てているだけなのだが。
「心配しなくとも、睡眠不足で論理的に破綻した者の意見など取り合わない」
感情を排した理詰めの反論を律儀に返す姿に最初はハラハラしていたが、シャトリンも存外柔軟だ。これがあの色ボケ少将(聴聞会後に少佐に降格し、国境警備に飛ばされるらしい)だったなら、簡単に聴聞会物件となっただろう。
いずれ腹を割ってじっくり話す機会があれば、意外と意気投合するかもしれないと思うのは、クラリスの希望的観測だろうか。
「まったく、何だってこんな事前準備もない潜入捜査なんかっ……」
眉一筋動かさないシャトリンに、アーチャーは胡乱な視線を向けながら吐き捨てる。
二人のサリュート訪問は、シャトリンの民族特権(リーサレク・ハロルド条約)発動によって、騎兵隊任務扱いにされている。サリュート文化に深くかかわる潜入捜査なので、任務内容は身内だろうと漏らせない。だから、表向き謹慎処分を下し、クラリスを通常任務から遠ざけたのだ……あの後部屋に取って返したアーチャーに、シャトリンがそのように釈明した。
それが彼の咄嗟の機転なのか、用意していたシナリオなのかは不明だったが、「生殖行為をするために彼の祖国について行きます」とは口が裂けても言えないので、クラリスにとっても正直有難かった。
「申し訳ありませんが、アーチャー……スーリ君のこと、よろしくお願いしますね」
昨夜訪ねてきたシャトリンから、覚醒期の狂気を本能的に嗅ぎ取った狼人スーリは、いまだ伏せって起き上がれないらしい。
「あいつのことなら心配ない、極度のストレス状態に陥って一気に悪酔いしただけだ。今は血圧も安定してるし、一日寝てりゃ治る。見送りに来たがっていたが……」
「いいです。無理しないで、休ませてあげてください」
回復に向かっていることにホッとしながら、クラリスは頭を横に振った。シャトリンと顔を合わせれば、また泡を吹いて倒れかねない。
クラリスは、無機質な隣人を盗み見る。人形じみて何処か空々しいが、彼が整った容姿をしているのは事実だ。ただ、彼女にとっては別に好みの異性という訳でもないし、昨日までその輝かしい軍歴しか知らなかった相手である。自分は決して性に奔放な性質ではない。こんな外見をしているからと言って、求められれば誰にでもホイホイ靡くと思われるのは心外だ。いつかアーチャーが言った通り、レナード・ヴィアッカの娘ということで近付いてくる輩は少なくなく、何度も撃退してきたのだから。
サリュートの過酷な宿命を背負い、自分が見捨てれば死んでしまうシャトリン……どこまでも無機質な彼からは、悲壮さは感じられない。それでも昨夜は一瞬だけ、無表情の仮面が剥がれたのだ。決して無感情ではない内に籠った熱を感じた。縋るように求められて、完全に受け入れられないまでも心は揺れた。
サリュート国内での評価は知らないが、ここソルケットにおいてシャトリンはミュラーリヤ竜騎兵隊きっての選良だ。見目も良くて、近くに同じ条件のムライドだっているのに、自らの命を懸ける行為の相手が、クラリスでなくては駄目だと言う。それとも、命を懸ける相手だからだろうか……今後そこまでの情熱を、他の誰かから向けられることはないだろう。
もっと早くに彼の気持ちを知り、人となりを交感する時間があれば、もしかして……今となっては実現不可能となった可能性を、初めて惜しいと思った。つまりは手順さえ踏んでさえいたら、クラリスがシャトリンを受け入れる余地は十分あったのだ。
愛情にはまだ足りないけれど、如何せん時間が足りない。こうなったら、もう自分が開き直るしか道はない……これは、一人の未来ある竜騎兵を救うために必要な医療行為だと。クラリスは別に死ぬ訳ではないし、シャトリンに至っては死なずに済むのだ。有能な彼を失うことで将来的にミュラーリヤ連合が被るだろう損失を、我が身でもって防いでやろうではないか。
それに、この先色仕掛けによる人的諜報活動を命じられる可能性だってなくはない。同期で第六歩兵大隊のミラルナ・カーン・ニノシンも暫く見掛けないと思っていたら、現在ミュラーリヤ連合と冷戦状態にあるハルカン公国に軍部高官付きの秘書として潜り込んでいたのだ。予行演習だと思って、前向きに行こう。初めてが任務だなんて、それこそ味気ないのだし。
「……おい、クラリス! 聞いてんのかっ?」
「はい、はい! ちゃんとお役目果たして、生きて戻りますよっ?」
頭の中で何とか折り合いをつけていた彼女は、耳朶を打ったアーチャーの言葉にうっかり過剰な反応を返してしまう。
「そりゃそうだろ、生きて帰ってもらわなきゃ困る」
慌てふためくクラリスに、アーチャーは訝しげに眉根を寄せるが……。
『クルルっ……』
二人の背後から一陣の風が吹き、ウィンドチャイムが鳴るような甲高い鳴き声が上がる。つられてそちらに視線をやると、銀色の鱗に覆われた飛竜が大の大人を一飲みに出来そうな大口を開けて、退屈げに欠伸をしていた。手持ち無沙汰のように、バタバタと羽を扇がせている。行儀良く後ろに控えていたこの美しい生き物の我慢も、そろそろ限界のようだ。
「少尉、大尉……そろそろいいだろうか? 暗くなる前にチャンヴァー・ロッドを越えたい」
いつの間にか右手で緩く飛竜の手綱を引き、左手で背に敷いた座布の上から撫でてやっていたシャトリンが視線でクラリスを急かす。
「はい、済みません! 大丈夫です!」
返す彼女の声は嬉々と跳ねていた。
竜騎兵達にとって、飛竜は単なる戦場での足ではない。高い知能を有する彼らは、頼もしくも心優しい相棒だ。時折王都を飛翔する勇壮な姿は、町の子供達にとって憧れ……もちろんクラリスにとっても。なんだかんだ頭の中で言い訳を並べ立てていたが、サリュートへは飛竜の背に乗っていくと言われた時点で、半分以上腹は決まっていた気がする。
「……お前さん、任務よりこっちが本命だったろ」
スキップしそうな勢いでシャトリンの元へ向かう背に、アーチャーの溜息交じりの声が聞こえた。それは正しく図星だったが、クラリスは気にしない。
この機を逃せば、きっと次なんてない。この美しい生き物の背に乗って空を飛ぶことが出来るなら、悪魔に魂を売り渡してもいいと本気で思っていた時期さえあったのだから。
「ゾーイ、第三弓騎兵隊隊長のクラリス・ヴィアッカ少尉だ」
擽るように下顎に触れ、半透明な花弁のように広がった耳元にシャトリンが吹き込むと、虹色に輝く双眸がクラリスの姿を捉える。
彼は律儀に階級まで伝えてくれたが、果たして必要だったのか……否、恐らく飛竜には分かるのだろう。行儀正しく美しいだけでなく、実に賢そうだもの。ゾーイは女性名だし、睫毛も長い……後者はあまり関係ないかも知れないが、恐らく雌なのだろう。
飛竜は知的な眼差しを眇め、長い鼻先を彼女の前に伸ばしてきた。印象的な瞳を閉じた姿は、「さあ、存分に撫でるがいい」と言いたげだが、実際のところはどうだろう?
「あの、今から触ります……よろしくお願いしますね、ゾーイ」
一旦挙手してシャトリンに了解を取り、クラリスはその滑らかな鼻筋に向ってゆっくり手を伸ばす。銀色の鱗は少しひんやりとしてすべすべで、恐ろしく肌触りが良かった。
『クルルルっ……』
涼やかに喉を鳴らすゾーイの姿にも、感動でどうしようもなく胸が高鳴り、口元がだらしなく緩んでくる。
「少尉、サリュートに着けば幾らでも触っていいから」
いつまでも飽くことなく銀色の肢体を撫でさすり、賛美の視線を送るクラリスに、再びシャトリンが促した。無感情な低音に、僅かに呆れたような響きが混ざっていたのは恐らく勘違いではあるまい。
クラリスが渋々手を放すと、ゾーイはパチリと目を開け、たたんでいた翼を大きく広げた。次いで、鼻先でちょいちょいと背中を示し、乗れと指示してくる。
「……はぁ、賢いですねぇ」
熱い羨望の声を吐息交じりに吐き出せば、さも当然そうに鼻を鳴らした。居ても立っても居られず、地団太を踏みたいような衝動に駆られたが、クラリスはそこをグッと堪えて翼の裏へ回る。
「気ぃ付けて、出来るだけ早く帰って来いよーっ……!」
シャトリンの介助を受け、いそいそと座布が敷かれた背中に乗り上げた彼女に向けたアーチャーの声は、力強く踏み切った後ろ足と翼が起こした風圧で、瞬く間に掻き消え……彼を含む眼下の光景への名残を惜しむ間もなく、我が身は金色に輝く来光の中にキラキラと染め抜かれていた。
* * *
ソルケットから北へ国境を三つ通過すると、眼下には雪山が連なるアナブロワ連峰と、そこに沿って白々と横たわる渓谷が見えてくる。夏なお溶けないその雪渓こそが、悪魔の顎である。そこを越えれば、ミュラーリヤ連合一謎と神秘に溢れた国サリュートはもう目の前だ。
昼休憩で立ち寄ったシソンジュの国境近くの村ミネソラで、雪渓越えに備えて外套を着込んできたものの、身を切るような上空の寒気にクラリスは身震いをする。
「……っくしゃん! ……ぁっ、有難うございます」
次いでくしゃみをした彼女の身体に、背後からシャトリンが自らの外套の前を開いて抱き寄せてくれた。平素であれば旅の目的と相俟って盛大に照れてしまう密着度だが、飛竜の背で感じる寒さのお陰で、恥ずかしがっている余裕すらないのが救いだ。
「温暖なソルケット育ちの少尉には、冬のチャンヴァー・ロッドは堪えるだろう」
「ええ、砂漠みたいな熱いところは比較的平気なんですが……寒くて弓も握れなさそうですし、情けないです」
シャトリンの指摘に、クラリスは真っ白な溜め息交じりに頷く。女性としては脂肪が少なくひょろ高い自分の体躯は、四肢の末端からすぐに熱を放出してしまうのだ。それに比べて、背中に密着したシャトリンの身体はとても暖かかった。雪深い極北の国出身の彼は、元々基礎代謝が高いのだろう。まるで人間湯たんぽだ。
「いや、さすがは弓騎兵だ。体幹がしっかりしているから、ゾーイの負担が少ない。飛竜に初めて乗った時は、私ですら両手を離しては姿勢を保てなかった」
皮手袋をした両手を擦り合わせていると、シャトリンが思いがけない賛辞をくれる。褒められた直後に態勢を崩すのは避けたいので、振り返ることはしなかったが、感情の窺い難い声音が僅かに柔らかい気がする。
それに、サリュート人は嘘を吐かない。好いた相手でも容赦なく評議会に告発する彼が、お世辞など言わないだろう。寒さで一層表情筋が硬くなっていたが、引き結んでいた口元が弧を描くのを止められなかった。
「手綱を握っていたら、弓は使えませんからね。でも、本当にすごいのはゾーイですよ。馬としか比較出来ませんけど、二人乗りかつここまでの高速で、この乗り易さは奇跡的です」
得意げな口調にならないよう努めながら、クラリスは相棒でもない自分に背中を許してくれた彼女を褒める。飛行の妨げにならないように、なるべく翼から遠い背筋を感謝の気持ちを込めて撫でた。
『クルクルっ!』
すると、飛竜は少し跳ねたような短い鳴き声を漏らした。
初対面で馴れ馴れし過ぎただろうか?
それとも賢い彼女のこと、馬との比較が気に障っただろうか?
はたまた、脂肪がほとんどない筋肉質なクラリスの、見た目に反した重さに対する不満か……。
「ゾーイは君を気に入ったようだな」
瞬時に幾つもの悪い予想をして固まった彼女に、背中からシャトリンが言う。
「本当ですか? ……すごい、嬉しいです。有難うございます、ゾーイ」
もう一度同じ場所を撫でながら、クラリスは笑み崩れそうな顔を必死に引き締める。
やはり、自分はちょろいのかもしれない。
それとも、これが噂に聞く吊り橋効果だろうか……少し前までの不安や葛藤が何だったのかと思うくらい、馬鹿みたいに浮かれている。自分自身にも、様々な妥協の上に成り立った騎兵隊生活にも、満足しているつもりだったが、やはりどこか満たされないものがあった。
そんなクラリスが心の奥底に秘めていた承認欲求を、シャトリンとゾーイは絶妙に擽ってくるのだ。
「……そういえば、君の弓は持ってこなくて本当に良かったのか?」
「はい。大佐の身に緊急事態が起こらなければまだ謹慎中の身ですし、誰かと格闘する予定もないですから」
思い出したように言うシャトリンに、本人を前にして旅の目的を口にするのは憚れて、努めて軽く聞こえるようにクラリスは言ったのだが……。
「……格闘」
何故か彼は、その単語を拾い上げて呟く。無機質な低音が、変に深刻そうに聞こえたのは気のせいだろうか。妙な胸騒ぎを覚えて、クラリスはシャトリンを振り返る。
「そんな予定ないですよね?」
問い掛ける彼女に、彼は暗灰色の双眸を一瞬だけ泳がせた。無表情なシャトリンにとって、それは十分過ぎる動揺の合図だ。
「向こうに着いたら、出来るだけ君の手に合うものを用意させよう……念のために」
ほんの僅かな間を開けておずおずと口を開いた彼に、クラリスの浮足立っていた心は瞬時に鎮火する。
シャトリン大佐……貴方は一体、私を誰と戦わせようとしているのですか?
一晩悩んだ結果、彼女はサリュートに向かう決意を固めたのだ。
「いいか、生水だけは飲んじゃいかん。面倒でも毎回きっちり煮沸しろ。それで、これがマクロライド、朝晩二回一錠ずつな。こっちがホスホマ、成人用切らしてて子供用シロップしかなかったから二倍量入れてる。マスポカル味だからって、菓子代わりに食うんじゃないぞ。で、解熱剤と各種栄養剤、傷薬軟膏に湿布……悪魔の顎(チャンヴァー・ロッド)の先には何が待ってるか分からないんだ。埃っぽいトコ行ったら、ちゃんとマスクしとけよ。それがただの埃じゃなく、未知の植物の花粉や昆虫の糞だったら、吸い込むだけで命取りになることだってある」
アーチャーはつらつらと中身を説明しながら、急ごしらえとは思えないありとあらゆる感染症対策の医薬品類が詰め込まれたクーリエバッグを押し付けてくる。薄氷のような青の両目はすっかり充血していて、一睡もしていないことは明らかだ。
「アーチャー、有難うございます。でも、少々大げさかと……私達がこれから向かうのは未開地ではなく、れっきとしたミュラーリヤ連合加盟国ですよ」
クラリスは彼の心遣いに謝意を告げるも、ズシッと肩に食い込むストラップは明らかにやり過ぎであることを指摘する。自分の傍らに立つシャトリンは相変わらず無表情だが、遠回しに祖国を悪し様に言われているようで、いい気はしないだろうと思ったのだ。
「半分はソルケット人の私が生まれ育った場所だ。少尉に対しても悪影響を及ぼす病原菌が存在しないと保証する」
「青い血の奴の台詞なんて信用出来っかっ、情報統制された場所は未開地以上に厄介なんだよ! 何隠してんだか分かったもんじゃない」
「アーチャーっ……!」
しかし、クラリスの気遣いも虚しく、二人の間に火花が散る……と言っても、一方的にアーチャーが捲し立てているだけなのだが。
「心配しなくとも、睡眠不足で論理的に破綻した者の意見など取り合わない」
感情を排した理詰めの反論を律儀に返す姿に最初はハラハラしていたが、シャトリンも存外柔軟だ。これがあの色ボケ少将(聴聞会後に少佐に降格し、国境警備に飛ばされるらしい)だったなら、簡単に聴聞会物件となっただろう。
いずれ腹を割ってじっくり話す機会があれば、意外と意気投合するかもしれないと思うのは、クラリスの希望的観測だろうか。
「まったく、何だってこんな事前準備もない潜入捜査なんかっ……」
眉一筋動かさないシャトリンに、アーチャーは胡乱な視線を向けながら吐き捨てる。
二人のサリュート訪問は、シャトリンの民族特権(リーサレク・ハロルド条約)発動によって、騎兵隊任務扱いにされている。サリュート文化に深くかかわる潜入捜査なので、任務内容は身内だろうと漏らせない。だから、表向き謹慎処分を下し、クラリスを通常任務から遠ざけたのだ……あの後部屋に取って返したアーチャーに、シャトリンがそのように釈明した。
それが彼の咄嗟の機転なのか、用意していたシナリオなのかは不明だったが、「生殖行為をするために彼の祖国について行きます」とは口が裂けても言えないので、クラリスにとっても正直有難かった。
「申し訳ありませんが、アーチャー……スーリ君のこと、よろしくお願いしますね」
昨夜訪ねてきたシャトリンから、覚醒期の狂気を本能的に嗅ぎ取った狼人スーリは、いまだ伏せって起き上がれないらしい。
「あいつのことなら心配ない、極度のストレス状態に陥って一気に悪酔いしただけだ。今は血圧も安定してるし、一日寝てりゃ治る。見送りに来たがっていたが……」
「いいです。無理しないで、休ませてあげてください」
回復に向かっていることにホッとしながら、クラリスは頭を横に振った。シャトリンと顔を合わせれば、また泡を吹いて倒れかねない。
クラリスは、無機質な隣人を盗み見る。人形じみて何処か空々しいが、彼が整った容姿をしているのは事実だ。ただ、彼女にとっては別に好みの異性という訳でもないし、昨日までその輝かしい軍歴しか知らなかった相手である。自分は決して性に奔放な性質ではない。こんな外見をしているからと言って、求められれば誰にでもホイホイ靡くと思われるのは心外だ。いつかアーチャーが言った通り、レナード・ヴィアッカの娘ということで近付いてくる輩は少なくなく、何度も撃退してきたのだから。
サリュートの過酷な宿命を背負い、自分が見捨てれば死んでしまうシャトリン……どこまでも無機質な彼からは、悲壮さは感じられない。それでも昨夜は一瞬だけ、無表情の仮面が剥がれたのだ。決して無感情ではない内に籠った熱を感じた。縋るように求められて、完全に受け入れられないまでも心は揺れた。
サリュート国内での評価は知らないが、ここソルケットにおいてシャトリンはミュラーリヤ竜騎兵隊きっての選良だ。見目も良くて、近くに同じ条件のムライドだっているのに、自らの命を懸ける行為の相手が、クラリスでなくては駄目だと言う。それとも、命を懸ける相手だからだろうか……今後そこまでの情熱を、他の誰かから向けられることはないだろう。
もっと早くに彼の気持ちを知り、人となりを交感する時間があれば、もしかして……今となっては実現不可能となった可能性を、初めて惜しいと思った。つまりは手順さえ踏んでさえいたら、クラリスがシャトリンを受け入れる余地は十分あったのだ。
愛情にはまだ足りないけれど、如何せん時間が足りない。こうなったら、もう自分が開き直るしか道はない……これは、一人の未来ある竜騎兵を救うために必要な医療行為だと。クラリスは別に死ぬ訳ではないし、シャトリンに至っては死なずに済むのだ。有能な彼を失うことで将来的にミュラーリヤ連合が被るだろう損失を、我が身でもって防いでやろうではないか。
それに、この先色仕掛けによる人的諜報活動を命じられる可能性だってなくはない。同期で第六歩兵大隊のミラルナ・カーン・ニノシンも暫く見掛けないと思っていたら、現在ミュラーリヤ連合と冷戦状態にあるハルカン公国に軍部高官付きの秘書として潜り込んでいたのだ。予行演習だと思って、前向きに行こう。初めてが任務だなんて、それこそ味気ないのだし。
「……おい、クラリス! 聞いてんのかっ?」
「はい、はい! ちゃんとお役目果たして、生きて戻りますよっ?」
頭の中で何とか折り合いをつけていた彼女は、耳朶を打ったアーチャーの言葉にうっかり過剰な反応を返してしまう。
「そりゃそうだろ、生きて帰ってもらわなきゃ困る」
慌てふためくクラリスに、アーチャーは訝しげに眉根を寄せるが……。
『クルルっ……』
二人の背後から一陣の風が吹き、ウィンドチャイムが鳴るような甲高い鳴き声が上がる。つられてそちらに視線をやると、銀色の鱗に覆われた飛竜が大の大人を一飲みに出来そうな大口を開けて、退屈げに欠伸をしていた。手持ち無沙汰のように、バタバタと羽を扇がせている。行儀良く後ろに控えていたこの美しい生き物の我慢も、そろそろ限界のようだ。
「少尉、大尉……そろそろいいだろうか? 暗くなる前にチャンヴァー・ロッドを越えたい」
いつの間にか右手で緩く飛竜の手綱を引き、左手で背に敷いた座布の上から撫でてやっていたシャトリンが視線でクラリスを急かす。
「はい、済みません! 大丈夫です!」
返す彼女の声は嬉々と跳ねていた。
竜騎兵達にとって、飛竜は単なる戦場での足ではない。高い知能を有する彼らは、頼もしくも心優しい相棒だ。時折王都を飛翔する勇壮な姿は、町の子供達にとって憧れ……もちろんクラリスにとっても。なんだかんだ頭の中で言い訳を並べ立てていたが、サリュートへは飛竜の背に乗っていくと言われた時点で、半分以上腹は決まっていた気がする。
「……お前さん、任務よりこっちが本命だったろ」
スキップしそうな勢いでシャトリンの元へ向かう背に、アーチャーの溜息交じりの声が聞こえた。それは正しく図星だったが、クラリスは気にしない。
この機を逃せば、きっと次なんてない。この美しい生き物の背に乗って空を飛ぶことが出来るなら、悪魔に魂を売り渡してもいいと本気で思っていた時期さえあったのだから。
「ゾーイ、第三弓騎兵隊隊長のクラリス・ヴィアッカ少尉だ」
擽るように下顎に触れ、半透明な花弁のように広がった耳元にシャトリンが吹き込むと、虹色に輝く双眸がクラリスの姿を捉える。
彼は律儀に階級まで伝えてくれたが、果たして必要だったのか……否、恐らく飛竜には分かるのだろう。行儀正しく美しいだけでなく、実に賢そうだもの。ゾーイは女性名だし、睫毛も長い……後者はあまり関係ないかも知れないが、恐らく雌なのだろう。
飛竜は知的な眼差しを眇め、長い鼻先を彼女の前に伸ばしてきた。印象的な瞳を閉じた姿は、「さあ、存分に撫でるがいい」と言いたげだが、実際のところはどうだろう?
「あの、今から触ります……よろしくお願いしますね、ゾーイ」
一旦挙手してシャトリンに了解を取り、クラリスはその滑らかな鼻筋に向ってゆっくり手を伸ばす。銀色の鱗は少しひんやりとしてすべすべで、恐ろしく肌触りが良かった。
『クルルルっ……』
涼やかに喉を鳴らすゾーイの姿にも、感動でどうしようもなく胸が高鳴り、口元がだらしなく緩んでくる。
「少尉、サリュートに着けば幾らでも触っていいから」
いつまでも飽くことなく銀色の肢体を撫でさすり、賛美の視線を送るクラリスに、再びシャトリンが促した。無感情な低音に、僅かに呆れたような響きが混ざっていたのは恐らく勘違いではあるまい。
クラリスが渋々手を放すと、ゾーイはパチリと目を開け、たたんでいた翼を大きく広げた。次いで、鼻先でちょいちょいと背中を示し、乗れと指示してくる。
「……はぁ、賢いですねぇ」
熱い羨望の声を吐息交じりに吐き出せば、さも当然そうに鼻を鳴らした。居ても立っても居られず、地団太を踏みたいような衝動に駆られたが、クラリスはそこをグッと堪えて翼の裏へ回る。
「気ぃ付けて、出来るだけ早く帰って来いよーっ……!」
シャトリンの介助を受け、いそいそと座布が敷かれた背中に乗り上げた彼女に向けたアーチャーの声は、力強く踏み切った後ろ足と翼が起こした風圧で、瞬く間に掻き消え……彼を含む眼下の光景への名残を惜しむ間もなく、我が身は金色に輝く来光の中にキラキラと染め抜かれていた。
* * *
ソルケットから北へ国境を三つ通過すると、眼下には雪山が連なるアナブロワ連峰と、そこに沿って白々と横たわる渓谷が見えてくる。夏なお溶けないその雪渓こそが、悪魔の顎である。そこを越えれば、ミュラーリヤ連合一謎と神秘に溢れた国サリュートはもう目の前だ。
昼休憩で立ち寄ったシソンジュの国境近くの村ミネソラで、雪渓越えに備えて外套を着込んできたものの、身を切るような上空の寒気にクラリスは身震いをする。
「……っくしゃん! ……ぁっ、有難うございます」
次いでくしゃみをした彼女の身体に、背後からシャトリンが自らの外套の前を開いて抱き寄せてくれた。平素であれば旅の目的と相俟って盛大に照れてしまう密着度だが、飛竜の背で感じる寒さのお陰で、恥ずかしがっている余裕すらないのが救いだ。
「温暖なソルケット育ちの少尉には、冬のチャンヴァー・ロッドは堪えるだろう」
「ええ、砂漠みたいな熱いところは比較的平気なんですが……寒くて弓も握れなさそうですし、情けないです」
シャトリンの指摘に、クラリスは真っ白な溜め息交じりに頷く。女性としては脂肪が少なくひょろ高い自分の体躯は、四肢の末端からすぐに熱を放出してしまうのだ。それに比べて、背中に密着したシャトリンの身体はとても暖かかった。雪深い極北の国出身の彼は、元々基礎代謝が高いのだろう。まるで人間湯たんぽだ。
「いや、さすがは弓騎兵だ。体幹がしっかりしているから、ゾーイの負担が少ない。飛竜に初めて乗った時は、私ですら両手を離しては姿勢を保てなかった」
皮手袋をした両手を擦り合わせていると、シャトリンが思いがけない賛辞をくれる。褒められた直後に態勢を崩すのは避けたいので、振り返ることはしなかったが、感情の窺い難い声音が僅かに柔らかい気がする。
それに、サリュート人は嘘を吐かない。好いた相手でも容赦なく評議会に告発する彼が、お世辞など言わないだろう。寒さで一層表情筋が硬くなっていたが、引き結んでいた口元が弧を描くのを止められなかった。
「手綱を握っていたら、弓は使えませんからね。でも、本当にすごいのはゾーイですよ。馬としか比較出来ませんけど、二人乗りかつここまでの高速で、この乗り易さは奇跡的です」
得意げな口調にならないよう努めながら、クラリスは相棒でもない自分に背中を許してくれた彼女を褒める。飛行の妨げにならないように、なるべく翼から遠い背筋を感謝の気持ちを込めて撫でた。
『クルクルっ!』
すると、飛竜は少し跳ねたような短い鳴き声を漏らした。
初対面で馴れ馴れし過ぎただろうか?
それとも賢い彼女のこと、馬との比較が気に障っただろうか?
はたまた、脂肪がほとんどない筋肉質なクラリスの、見た目に反した重さに対する不満か……。
「ゾーイは君を気に入ったようだな」
瞬時に幾つもの悪い予想をして固まった彼女に、背中からシャトリンが言う。
「本当ですか? ……すごい、嬉しいです。有難うございます、ゾーイ」
もう一度同じ場所を撫でながら、クラリスは笑み崩れそうな顔を必死に引き締める。
やはり、自分はちょろいのかもしれない。
それとも、これが噂に聞く吊り橋効果だろうか……少し前までの不安や葛藤が何だったのかと思うくらい、馬鹿みたいに浮かれている。自分自身にも、様々な妥協の上に成り立った騎兵隊生活にも、満足しているつもりだったが、やはりどこか満たされないものがあった。
そんなクラリスが心の奥底に秘めていた承認欲求を、シャトリンとゾーイは絶妙に擽ってくるのだ。
「……そういえば、君の弓は持ってこなくて本当に良かったのか?」
「はい。大佐の身に緊急事態が起こらなければまだ謹慎中の身ですし、誰かと格闘する予定もないですから」
思い出したように言うシャトリンに、本人を前にして旅の目的を口にするのは憚れて、努めて軽く聞こえるようにクラリスは言ったのだが……。
「……格闘」
何故か彼は、その単語を拾い上げて呟く。無機質な低音が、変に深刻そうに聞こえたのは気のせいだろうか。妙な胸騒ぎを覚えて、クラリスはシャトリンを振り返る。
「そんな予定ないですよね?」
問い掛ける彼女に、彼は暗灰色の双眸を一瞬だけ泳がせた。無表情なシャトリンにとって、それは十分過ぎる動揺の合図だ。
「向こうに着いたら、出来るだけ君の手に合うものを用意させよう……念のために」
ほんの僅かな間を開けておずおずと口を開いた彼に、クラリスの浮足立っていた心は瞬時に鎮火する。
シャトリン大佐……貴方は一体、私を誰と戦わせようとしているのですか?
0
あなたにおすすめの小説
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
てめぇの所為だよ
章槻雅希
ファンタジー
王太子ウルリコは政略によって結ばれた婚約が気に食わなかった。それを隠そうともせずに臨んだ婚約者エウフェミアとの茶会で彼は自分ばかりが貧乏くじを引いたと彼女を責める。しかし、見事に返り討ちに遭うのだった。
『小説家になろう』様・『アルファポリス』様の重複投稿、自サイトにも掲載。
婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
義弟の婚約者が私の婚約者の番でした
五珠 izumi
ファンタジー
「ー…姉さん…ごめん…」
金の髪に碧瞳の美しい私の義弟が、一筋の涙を流しながら言った。
自分も辛いだろうに、この優しい義弟は、こんな時にも私を気遣ってくれているのだ。
視界の先には
私の婚約者と義弟の婚約者が見つめ合っている姿があった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる