至急、君との交際を望む

小田マキ

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 ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、寒さに凍えながらサリュート国境にある海辺の町ガイナンに降り立った。
 噂には聞いていたが、小高い国境壁に囲まれた中の様子は一切確認出来ない。壁の材質も全く見たことがないものだ。煉瓦でも漆喰でもない黒光りしたそれは、継ぎ目もなければ出入り口さえどこにあるのか分からない。波打ち際を越えて海の中まで分断し、少し前に降り出した雪さえ寄せ付けなかった。
 冬の海に降る雪は酷く寒々としていて、心まで凍り付きそうだ。ゾーイが広げた翼の下で出来るだけ身を小さくするクラリスは、国境壁の前に立つシャトリンの背中を見つめながらカチンと歯を鳴らす。
 おもむろに薄い黒革の手袋を外した彼は、その青白い掌を壁に押し付けた。見ているだけで寒気の走る光景に、クラリスが震える歯を噛み締めていると、耳元でブンッと昆虫の羽音のような振動が走る。こんな雪深い場所に虫なんているはずがないのに、と辺りを見回そうとしたが……。
「えっ……?」
 雪景色が突如揺らいだ。高速に点滅し始めた視界に瞼で蓋をしたら、踏み締める凍った大地さえグニャリと沈み込む。焦ったクラリスは咄嗟に傍らの飛竜の巨体に縋ろうとしたが、その手は空振りした。目測を見失い、無様に倒れ込みそうになった姿勢を立て直そうとバタつかせた両手を、後ろから強く掴まれ、引き寄せられる。
「少尉、目を開けて」
 耳元で聞こえたシャトリンの冷静沈着な声音に、クラリスは僅かに安堵を覚え、そろそろと目を開けた。
「はっ……!」
 何だ、何だ、何だ。一体何が起こったのだ。
 目の前に開けた光景に、彼女は洞窟のような双眸を大きく見開いた。
 つい先程まで確かに正面にあった国境壁がなくなり、クラリス達はどこかの室内にいた。身を切るような雪空の下から一転、ふんわり温かいここは四隅に角のない円筒形の部屋で、窓はなく天井が高い。白い光が辺りを煌々と照らしていたが、ランプや篝火のような照明器具は一切見当たらなかった。壁や天井自体が光を発しているようだ。
 ツルンとした壁にはやはりと言おうか、国境壁同様に継ぎ目が見当たらず、出入り口すらない……ざっと周囲を確認した後、すぐ傍らにいたはずの飛竜が忽然と消えていることに気付いた。
「……っ、ゾーイはっ?」
「ゾーイは厩舎に送った。問題ない」
 振り返ったクラリスはシャトリンにそう尋ねるが、掴んだままだった彼女の腕を解放しながら、彼は何でもない様子で答える。
「そんな、いつの間にっ……?」
 クラリスは再び疑問を紡いだが、それを遮るような間で、真後ろからシュンッと風を切る音がする。

『お帰りなさいませ、シャトリン様。そして、ようこそお出でくださいました、お客様』

 弾かれたように振り返れば、今の今まで何もなかったはずの壁が左右に開き、やけに甲高く音楽的な声が二人へと掛けられた。
 部屋の中へ入る前に胸の前に右掌を当て、優雅に腰を折ったその人物は、黒い燕尾服のような正装をしている。恭しく上げられたその顔は、金粉でも塗っているようにテカテカと黄金色に輝いていた。綺麗な丸い頭部に髪はなく、目があるはずの場所には横一線に黒曜石のような鉱物が埋め込まれていて、黒光りするその表面を赤い点滅が右から左へと忙しなく流れていく。
 何より違和感を覚えるのはその声だ。まるで様々な楽器を使って、人の言葉を演奏しているかのようで、声音というよりも音階のような響きだった。声だけでは若者なのか年寄りなのか、男とも女とも判断がつかない。
「暫くだな、カルガゾンヌ。こちら、クラリス・ヴィアッカ少尉……ミー・ガンの相手だ」
『何と、それは素晴らしい! さぞやイニエスタス様もお喜びになることでしょう――いやはや、実に頑強そうなご婦人ですね』
 こちらへ颯爽と近付いてくるカルガゾンヌと言うらしい彼は、白い手袋を履いた両掌をジャーン(本当にそんなシンバルのような音がした)と打ち鳴らし、オーケストラのような声音でなかなか無理矢理な世辞を奏でた。流れるようなキビキビとした所作、引き上げられた金色の口角も実に感情豊かなのに、何故だかシャトリン以上に無機質に感じる。
 移民大国であるソルケットにおいても、こんな奇妙奇天烈な種族は見たことがない。到底理解が及ばない未知なる存在を前にして、クラリスは無理矢理陸に引き揚げられた魚のように口をパクパクさせるが、肝心の言葉が出てこない。何から尋ねればいいのか、さっぱりだった。
 シャトリンに対する慇懃な態度やその服装からして、恐らく使用人であろう。とすれば、ここは彼の実家だろうか……道々聞いた話では、実家は王都の城下町ルティスにあると言っていたはずだ。そして、一瞬前まで自分達はサリュートの国境にいたはずなのだ。
 分からない。分からない。分からない。
 疑問符だらけの頭は、今にも沸騰しそうだ。
「イニエスタスが、……弟が戻っているのか?」
 表情筋ごと固まったクラリスのつむじに降り注ぐシャトリンの声が、動揺の内にあっても俄かに鋭くなったのを感じた。数多の疑問を脇に追いやって彼を振り仰ぐと、その顔が二割増し厳めしく見える。
『はい。シャトリン様が戻られるとおっしゃられ、昨夜の内に――恵智院からは、きちんと外泊許可を頂いてらっしゃいます。決して許可なく抜け出されたり、放校されたりした訳ではございませんので、ご安心くださいませ』
「そうか、精神修業も順調なようで何よりだ」
 感情豊かに見えてその実抑揚のない高音が発した言葉に、シャトリンは安堵の吐息のような了承を返す。芝居掛かり、妙にわざとらしいカルガゾンヌを前にすれば、不思議と彼が人間らしく思えた。
「……あの、色々とお尋ねしてもよろしいですか?」
 会話の途切れ目に、クラリスは挙手とともに口を開く。
『わたくし、当家執事のカルガゾンヌと申します。何なりとお申し付けくださいませ、クラリス様』
 カルガゾンヌとシャトリンの両方に目を彷徨わせていたが、まず口を開いたのは前者の執事だった。
「こちらですが、大佐のサリュートでのお住まいで間違いありませんか?」
 両手を高速で擦り合わせながら、ズイッと身を乗り出してきた彼に、クラリスは若干怖気づきながらも疑問を口にする。
『左様にございます――何です? もしやシャトリン様は、貴女様に何の説明もされていないので? 何と嘆かわしいことでしょうっ!』
 すると、カルガゾンヌはシンバルを強く打ち鳴らすような声で嘆いて見せた後、天を仰いで点滅する横一線の黒い瞳を手で覆う。
『いやはや、シャトリン様。他国からのお客様はただでさえご不安だと言うのに、立派な殿方がそれはいけません。幼少のみぎりより寡黙と言えば聞こえはよろしいですが、圧倒的な言葉足らずで悪しき誤解を招くのがリン坊ちゃまの悪い癖――』
「カルガゾンヌっ……」
 大きく肩を竦め、左右に首を振りながら滔々と主を責める台詞を奏で始めた執事の口を、シャトリンが半ば強引に遮る。
「……リン坊ちゃま?」
 思わずクラリスが金ぴか執事の発したシャトリンに向けたらしい愛称を呟くと、彼の眼尻が瞬く間に蒼褪めた。
「……済みませんっ、馴れ馴れしく……!」
『ご心配なさいませんように、クラリス様』
 眉間に皺寄せ、今までになく険しい表情をした彼に、咄嗟に謝罪の言葉を紡ごうとするクラリスを、カルガゾンヌが遮ってくる。
『どうやら貴女様はご存知ないようですので、わたくしからご説明を。サリュート人の身体には青い血が通っておりまして、これは赤面ならぬ青面状態なのです――つまり照れておられるのですよ』
「カルガゾンヌ、解体されたいかっ……」
『――おおっと、それだけはご勘弁を。大変失礼仕りました。しかし、貴方様もお悪い。リーサレク・ハロルド条約があるとは言え、ミー・ガンの儀式を共にする方に対し、サリュートの文化、特質を隠し過ぎです』
 金ぴか執事の長口上に対し、シャトリンは終始押され気味で、端で見ているとどちらが主か分からない。年齢不詳のカルガゾンヌだが、その口振りから察するにシャトリンが幼い頃からずっと仕えてきたために、恐らく彼にとって都合の悪いことも知り得ているのだろう。
 しかし、謎に包まれた種族だとは思っていたが、まさか自分達と血の色まで違うとは驚きだ。そう言えば、アーチャーが「青い血の奴」と呼んでいた。彼は軍医という職業柄、サリュート人に対する最低限の知識があったに違いない。あまりに急だったために、助言をもらえなかったのが残念だ……否、勘のいい彼のことだ。突然そんなことを尋ねれば不審に思っただろうから、逆にこれで良かったのかもしれない。
「あの、……本当に私でいいのですか?」
 クラリスは、まだ若干仄青い顔つきのシャトリンに疑問を投げ掛ける。
 一度は腹を括ったが、自分は失敗した時のことを考えていなかった。同じ種族の異性との経験さえない自分が、果たして身体構造の異なる彼と最後まで出来るのだろうか……相手がサリュート人以外なら、多少巧くいかなくとも気まずいだけで済むかもしれない。
 けれど、シャトリンにとっては文字通り命懸けの行為だ。後悔するだけでは済まない。
『ほーら、ごらんなさい! シャトリン様が下手な隠し事をなさるから、この不安そうに落ち窪んだ暗い瞳! 顔色も蝋人形のように白く、表情さえなくなって――』
「いえ、全部生まれつきですからっ……」
『遠慮はご無用です、クラリス様。直ちに何か温かい飲み物をお持ち致します。今日は今年一番の寒気ですし、温暖なソルケットからでは寒暖の差でお疲れにもなっているでしょう。ではシャトリン様、お部屋へのご案内は貴方様にお任せ致します――どうぞ名誉挽回なさってください』
 盛大に誤解するカルガゾンヌの制止を試みたクラリスだったが、さらに勝手な解釈を続け、やって来た時と同じように颯爽と去っていった。彼が出迎えに現れてからそんなに時間は経っていないはずなのに、どっと疲れた気がする。
「……少尉、騒々しい執事で申し訳ない」
 そう謝罪してくるシャトリンの方も、我が家に帰ったと言うのに、随分くたびれているように見える。
「いえ……確かに少し驚きましたけど、突然の訪問でも歓迎してくださって有難いです。大佐のことも、とても心配されていましたね」
「カルガゾンヌは執事である前に、幼い頃の私にとって父親代わりだった。だから、今も頭が上がらない」
 シャトリンの言葉に、カルガゾンヌの前で彼が人間じみて見える理由が分かった。恐らくミュラーリヤ連合支部職員である実父は、子供との時間も満足に持てない多忙な人だったのだろう。
「カルガゾンヌさんはソルケットでも見掛けない容姿をされていますが、他国からの移民なのですか?」
「いや、彼は人ではない。人造人間だ」
「……ジンゾウ人間?」
 自分の問いに頭を横に振った彼の言葉が、クラリスにはよく分からなかった。
 人ではないとは、一体どういうことだろうか?
「少し長くなる、歩きながら話そう……サリュートには、他の連合加盟国にはない特殊な文明があるのは何となく分かったか?」
「はい、国境壁から大佐のご実家までどうやって来たのかいまだに分かりません」
 カルガゾンヌの指令通り、部屋に案内してくれるらしいシャトリンの問い掛けに、クラリスは後ろに続きながら頷く。カルガゾンヌの印象が強烈過ぎて一瞬忘れていたが、あの瞬間移動は本当に驚いたのだ。
「ハルカン人が使う魔法のようなものですか?」
「いや、彼らの持つ特殊能力とは違う。手順さえ踏めば、誰にでも扱える科学の力だ。サリュートを囲む国境壁は、人間の身体を一度分解し、粒子線に乗せて目的地に送った後、再構成する転送装置になっている」
「……難しいです。済みません」
 窺うように振り返った彼に、クラリスは正直に首を横に振る。
「私自身も完全に仕組みを理解してはいない。ソルケット人の君はなおさらだろう、恥じることはない。嚙み砕いて言えば、サリュート人限定だが、壁に触れることで望みの場所へと送り届けてくれる便利な移動手段だ。そのような技術を使って、カルガゾンヌも造られた……言うなれば、彼は意思を持つ楽器だ」
「楽器って……そんな、人間じゃないみたいに」
 彼のあんまりな発言に、咄嗟に非難の声を上げたクラリスだったが……。
「だから、人造人間だと言っただろう。神ではなく、人の手で造られた存在だ。体内に組み込まれた電磁波発生装置で半永久的に動く。経年劣化で完璧な演奏が望めなくなったために、前の持ち主が廃棄しようとしていたところを父が引き取った……正確なところは分からないが、五百年は動いているらしい」
 返された台詞は、彼女の想像を遥かに超えたものだった。
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