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ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、それはそれは丁重なもてなしを受けていた。
あれよあれよと言う間にとっぷりと日が暮れ、再び現れた執事の案内でシャトリンとともに客間らしき大広間に向かうと、自らを歓迎する宴が始まりを告げた。中央に据えられた丸い舞台に上ったカルガゾンヌは、今一人オーケストラを披露している。
シャトリンの生家であるヴォーグ・クワン家は、サリュート有数の名門一族だった。“クワン”とは、サリュートを建国した神祖、アーウェ直系の子孫で、今や国内に五家しか残っていない神の血族らしい。ディブローマと呼ばれる聖職者として最高位に就くものの、神族に課された唯一の務めは血の保全である。サリュートを実質的に治めているのは、王族とその配下であるスーシエと呼ばれる国家諮問機関だった。
よって、表舞台に姿を現すのは儀礼祭礼に際した時のみで、それ以外はスーシエにより厳重に管理された生活を送っているそうだ。出来るだけ長く後世に神の血を残したい民族意識は分からなくもないが、絶滅危惧種の動物と大差ないその扱いは如何なものかと思うが、口に出すことは慎んだ。当事者が受け入れていることを、部外者であるクラリスに非難する権利はない。
そんなこんなで高度な科学技術を結集した神族の邸宅は、誰の目にも触れないように不可視加工がされていて、外観が存在しない。内装も機能美に特化して、余計な装飾がなかった。角のない丸い部屋はサリュートの文化らしい。家具も全体的に丸いし、見えるところに暖房器具は見えないが、室温も適温に保たれている。外はまだ吹雪いているはずなのに。
大理石のような雲母柄の床に直接置かれた座椅子はブヨン、もしくはプリンとした不思議な材質で、巨大な団子虫を思わせた。馴染みのないそれに恐る恐る座ると、沈み込むように体の形にピッタリと添い、何とも言えない座り心地である。一度腰を下ろしてしまえば、二度と起き上がれない気がする怠惰な魅力を備えていた。
宙に浮く透明な半円形のテーブルの上に並べられた料理は一見普通でホッとしたが、彩り豊富な肉や魚に見えたそれらは全て野菜で、サリュート人は菜食主義らしい。それでも体格に優れている彼らを見るに、原料の野菜自体の栄養価がずば抜けているのだろう。食感も、味も動物性たんぱく質以外の何物でもなかった。宝石のようにキラキラ輝く見た目も素晴らしいし、味付けも申し分ない。
そして、料理人への賛辞を告げると、料理を作り出したのはテーブルだと言われる。全自動調理装置なるもので、ボタン一つ押せば瞬く間に出来立ての料理が現れるらしい。嘘のような話だが、シャトリンが天板の裏のそれを押すと、空になった皿が忽然と消えてしまった……科学技術とは実に便利なものだ。この国に長居すると、ソルケットに帰ってからの生活が辛くなりそうだ。
本来ならば、一握りの王族しか正確な場所を知らされず、神族の遺伝子を持つ者と、ただ一人の使用人であるカルガゾンヌ以外は、辿り着くことさえ出来ない立ち入り禁止の場所。サリュート人でも、ミュラーリヤ連合サリュート支部職員ですらない彼女が今ここにいることは、例外中の例外なのだ。
『太陽は光り輝き、希望を二人に――日々は微笑みだけを残し――去りゆく――、――ご清聴、誠に有難うございました』
晩餐終了に合わせたように、ソルケット移民の間で一時期持て囃された流行歌の演奏を終えたカルガゾンヌが、舞台の上で優雅に一礼する。弦楽四重奏と同時にカルガゾンヌの喉から発されるバリトンの歌声は、喋っている時とは打って変わって、実に抒情的だった。それでいて、食事や会話の邪魔をせず、背景音楽に徹していた。
彼が自分達と同じ人間の手で造られ、五百年を超えて活動していると聞かされた当初は半信半疑だった。しかし、その身一つで朴訥な恋歌をしっとりしたオペラに仕上げられれば、信用せざるを得ない。彼のような独立思考付自動楽器は、一千年も前からその原型が存在したらしい。不条理を嫌い、感情を律することに長けたサリュート人だが、意外にも彼らは歌舞音曲をこよなく愛する種族でもあったのだ。
そして、楽器演奏に関して門外漢のクラリスには判じられないが、カルガゾンヌの前主人にとって目の前の演奏は、解体処分を決意する程に不完全なようだ。自動楽器の中でも人型は繊細な造形であるため、経年劣化が早い上に手間と費用が掛かるらしいので、単純に維持管理の問題かもしれない。
そのような諸々の理由によって、近年カルガゾンヌのような人型楽器は減少傾向にある。人間と同等の感情を持たせることは抒情的な楽曲の演奏に不可欠だったが、その容姿まで似せてしまうと、人はどうしても本能的に忌避感を覚えるのだと言う。
確かに初対面で人間らしくもどこか異質なカルガゾンヌの立ち居振る舞いに、クラリスも忌避感とまではいかないが、妙なわざとらしさを覚えたのは事実だった。
「我々サリュート人にとって、不気味の谷現象は今もって解決されない問題点です。技術の進歩でこの先解決されるとは思いますが、出来るならば生きている間にこの目で見たいものですわ」
舞台から捌けていくカルガゾンヌへ惜しみない拍手を送っていると、傍らからシャトリンに勝るとも劣らない抑揚のない声音が上がった。
それは、彼の母であるフェレンルイエ=ヴォーグ・クワンだった。生粋のサリュート人である彼女は、シャトリンに似た整った面差しをしていたが、彼よりも一層青白い肌をしている。ほとんど水色だ。瞳の色も暗めの青で、髪の色が絹糸のような銀なのは、万年雪に囲まれた国ゆえの保護色なのかもしれない。
種族としての特徴はさて置き、とてもシャトリンのような大きな息子がいるようには見えなかった。何も手を掛けていないクラリスよりも余程張りのある滑らかな肌も、科学力の賜物なのだろうか。
『――君らは間に合うかもしれないが、私は無理だろうなぁ』
いつもの癖でそれとなく観察していると、フェレンルイエの膝の上で水色の指先に撫でられている毛玉が口を開いた。人の頭部くらいの大きさのそれは、茶色い毛皮に覆われていて、見える範囲に目鼻口はない。
「縁起でもないことを言わないでください。父上にはまだ道半ばの研究が沢山あるではありませんか」
そんな毛玉に向けて、クラリスを挟んで母親と反対隣りに座っていたシャトリンが真顔で言う。多少変わった防寒具に見えるそれは、彼にとっての父であり、フェレンルイエの夫である連合支部職員クラッド・イエルセンだった。
無論これがクラッドの本体ではない。病気ではないが現在著しく体力を消耗しており、回復のために肉体は一時的に冷凍睡眠中なのだそうだ。連合職員であると同時に著名な生物学者でもある彼は、眠っている間の正常な精神活動が勿体ないと意識をこの毛玉状義体に移し、趣味の研究に勤しんでいるらしい……が、目鼻口どころか手足もない姿で、どんな研究が出来ると言うのか。連合支部での通常職務は病気療養扱いらしいのだし。
何にしても、こうも理解不能なことが立て続けに起こると、自分一人驚いているのが損な気分になってくる。
『クラリス、君も撫でてごらん。とっても肌触りがいいから、きっと気に入るよ』
「……よろしいのですか?」
クラリスは言葉をクラッドに宛てながら、目線でフェレンルイエに尋ねる。奥方は静かに頷き、彼女が触れ易いように手の位置をずらした。
「では、遠慮なく」
夫婦の了承を得たクラリスは、短く断って手を伸ばす。
現実逃避をやり過ぎると精神的に参ってしまうし、恐怖心や緊張感のような強い感情を維持し続けることも難しい……ならば細かいことは気にせず、最大限楽しむことにした。そんな考え方が出来るのも、出自から貴族や権力者と接する機会が多いので身分を理由に臆することがなく、否応なく巻き込まれたやっかみや足の引っ張り合いに鍛えられた彼女ならではだ。
「……わぁ、ふわふわですね。ミンクよりも上等な手触りに感じます。これはとても良い品では?」
確かに自ら勧めるだけあって、クラッドの義体が備える毛皮は実に肌触りが良かった。現在絶賛換毛期中のスーリは綿毛っぽい見た目に反した剛毛で、じゃれつかれるとそれなりにチクチクするのだが、この毛玉義体は全然違う。サラサラのスベスベのモッフモフだ。
『ふふふ、分かるかね。愛しいフェレンを退屈させないために、膨大な毛長動物の中から最上の物を選んで誂えたのだよ。ほーら、耳もあるぞー』
彼女の軽いよいしょを織り交ぜた本音に気を良くしたクラッドは、奥方の水色の指の下にへたらせていた耳を、羽ばたくようにパタパタと振って見せた。本体が齢六十を超える老学者であることを考えなければだが、実に愛嬌がある。夫を膝に乗せるフェレンルイエは相変わらず無表情だったが、不快な訳ではないのだろう。兎の如き垂れ耳を梳るその手は優しかった。
シャトリンの父親譲りらしい暗灰色の双眸にも、クラッドに対する慈愛と尊敬が見て取れた。神同然に崇められ、血の保全と言う義務を持つ女性が、何故に異民族の学者を伴侶に選ぶことが許されたのか……まだその理由に踏み込める立場ではないが、彼らがとても良い親子関係を築いていることは分かる。
母子は終始無表情で、父に至っては目鼻口すらなくとも、互いに思い合っているのが伝わってくるのだ。世間一般からはかけ離れ、理想とは言えないまでもとても良い家族だった。仲の良い家族は見ているだけで癒されるものだ。同じ表情筋が硬い者同士、無理して笑わなくていいのも実に心地がいい。
「そう言えば、弟君は今どうしてらっしゃるのですか?」
カルガゾンヌとシャトリンの最初のやり取りで知らされたその存在を、ふと思い出したクラリスは、何の気なしに尋ねる。寄宿学校らしき恵智院なるところで暮らす彼は、シャトリンの帰郷を知って実家に戻っていると聞いたが……。
「イエニスタスは、まだ自室に籠っているのです。晩餐会のことはきちんと伝えていたのですが、研究に没頭したら周囲が目に入らなくなる性質で……父親譲りの悪癖ですわね。来訪を知りながら挨拶もなく、貴方には本当に申し訳な」
『ご歓談中、大変申し訳ございません! 旦那様、奥方様――シャトリン様っ!』
末息子の不義理を謝罪するフェレンルイエの言葉途中で、演奏を終えて退室したはずのカルガゾンヌが飛び込んでくる。酷く焦っている様子で、その一挙手一投足には、管楽器が擦れ合うような金属質な音が纏わりついていた。
「何なのですか、騒々しい……」
自らの言葉を遮られたフェレンルイエは、さすがに無表情を崩して小さく眉根を寄せながら、自動楽器兼執事を諫める。
『お叱りなら後で幾らでもっ、今は時間がございません! クロエスドイル様がお出でなのです、クラリス様はただちにお逃げっ――』
常の倍速でまくし立てる金属質の声が、ジャンッと一層甲高い音を立てて強制終了した。次いで、その場に膝から崩れ落ちる。
「カルガゾンヌさんっ……?」
咄嗟に怠惰座椅子から立ち上がったクラリスは、硬い床の上に倒れ伏した彼の向こうから現れた人物と目が合う。肉感的な仄青い肢体にピッタリとしたなめし革のような黒いドレスを纏ったその人物は、彼女を見据えたまま、カルガゾンヌの燕尾服の背中を踏み越えて広間に押し入ってくる。
テーブルを挟んで目の前にまでやって来たその女性はとても整った顔立ちをしていたが、クラリスが落ち窪んだ眼を最大限に見開いて固まった理由は他にあった。
……大きい。
自らを見下ろす異様な迫力のあるサリュート美女は、シャトリンを含むこの場の誰よりも長身だったのだ。
あれよあれよと言う間にとっぷりと日が暮れ、再び現れた執事の案内でシャトリンとともに客間らしき大広間に向かうと、自らを歓迎する宴が始まりを告げた。中央に据えられた丸い舞台に上ったカルガゾンヌは、今一人オーケストラを披露している。
シャトリンの生家であるヴォーグ・クワン家は、サリュート有数の名門一族だった。“クワン”とは、サリュートを建国した神祖、アーウェ直系の子孫で、今や国内に五家しか残っていない神の血族らしい。ディブローマと呼ばれる聖職者として最高位に就くものの、神族に課された唯一の務めは血の保全である。サリュートを実質的に治めているのは、王族とその配下であるスーシエと呼ばれる国家諮問機関だった。
よって、表舞台に姿を現すのは儀礼祭礼に際した時のみで、それ以外はスーシエにより厳重に管理された生活を送っているそうだ。出来るだけ長く後世に神の血を残したい民族意識は分からなくもないが、絶滅危惧種の動物と大差ないその扱いは如何なものかと思うが、口に出すことは慎んだ。当事者が受け入れていることを、部外者であるクラリスに非難する権利はない。
そんなこんなで高度な科学技術を結集した神族の邸宅は、誰の目にも触れないように不可視加工がされていて、外観が存在しない。内装も機能美に特化して、余計な装飾がなかった。角のない丸い部屋はサリュートの文化らしい。家具も全体的に丸いし、見えるところに暖房器具は見えないが、室温も適温に保たれている。外はまだ吹雪いているはずなのに。
大理石のような雲母柄の床に直接置かれた座椅子はブヨン、もしくはプリンとした不思議な材質で、巨大な団子虫を思わせた。馴染みのないそれに恐る恐る座ると、沈み込むように体の形にピッタリと添い、何とも言えない座り心地である。一度腰を下ろしてしまえば、二度と起き上がれない気がする怠惰な魅力を備えていた。
宙に浮く透明な半円形のテーブルの上に並べられた料理は一見普通でホッとしたが、彩り豊富な肉や魚に見えたそれらは全て野菜で、サリュート人は菜食主義らしい。それでも体格に優れている彼らを見るに、原料の野菜自体の栄養価がずば抜けているのだろう。食感も、味も動物性たんぱく質以外の何物でもなかった。宝石のようにキラキラ輝く見た目も素晴らしいし、味付けも申し分ない。
そして、料理人への賛辞を告げると、料理を作り出したのはテーブルだと言われる。全自動調理装置なるもので、ボタン一つ押せば瞬く間に出来立ての料理が現れるらしい。嘘のような話だが、シャトリンが天板の裏のそれを押すと、空になった皿が忽然と消えてしまった……科学技術とは実に便利なものだ。この国に長居すると、ソルケットに帰ってからの生活が辛くなりそうだ。
本来ならば、一握りの王族しか正確な場所を知らされず、神族の遺伝子を持つ者と、ただ一人の使用人であるカルガゾンヌ以外は、辿り着くことさえ出来ない立ち入り禁止の場所。サリュート人でも、ミュラーリヤ連合サリュート支部職員ですらない彼女が今ここにいることは、例外中の例外なのだ。
『太陽は光り輝き、希望を二人に――日々は微笑みだけを残し――去りゆく――、――ご清聴、誠に有難うございました』
晩餐終了に合わせたように、ソルケット移民の間で一時期持て囃された流行歌の演奏を終えたカルガゾンヌが、舞台の上で優雅に一礼する。弦楽四重奏と同時にカルガゾンヌの喉から発されるバリトンの歌声は、喋っている時とは打って変わって、実に抒情的だった。それでいて、食事や会話の邪魔をせず、背景音楽に徹していた。
彼が自分達と同じ人間の手で造られ、五百年を超えて活動していると聞かされた当初は半信半疑だった。しかし、その身一つで朴訥な恋歌をしっとりしたオペラに仕上げられれば、信用せざるを得ない。彼のような独立思考付自動楽器は、一千年も前からその原型が存在したらしい。不条理を嫌い、感情を律することに長けたサリュート人だが、意外にも彼らは歌舞音曲をこよなく愛する種族でもあったのだ。
そして、楽器演奏に関して門外漢のクラリスには判じられないが、カルガゾンヌの前主人にとって目の前の演奏は、解体処分を決意する程に不完全なようだ。自動楽器の中でも人型は繊細な造形であるため、経年劣化が早い上に手間と費用が掛かるらしいので、単純に維持管理の問題かもしれない。
そのような諸々の理由によって、近年カルガゾンヌのような人型楽器は減少傾向にある。人間と同等の感情を持たせることは抒情的な楽曲の演奏に不可欠だったが、その容姿まで似せてしまうと、人はどうしても本能的に忌避感を覚えるのだと言う。
確かに初対面で人間らしくもどこか異質なカルガゾンヌの立ち居振る舞いに、クラリスも忌避感とまではいかないが、妙なわざとらしさを覚えたのは事実だった。
「我々サリュート人にとって、不気味の谷現象は今もって解決されない問題点です。技術の進歩でこの先解決されるとは思いますが、出来るならば生きている間にこの目で見たいものですわ」
舞台から捌けていくカルガゾンヌへ惜しみない拍手を送っていると、傍らからシャトリンに勝るとも劣らない抑揚のない声音が上がった。
それは、彼の母であるフェレンルイエ=ヴォーグ・クワンだった。生粋のサリュート人である彼女は、シャトリンに似た整った面差しをしていたが、彼よりも一層青白い肌をしている。ほとんど水色だ。瞳の色も暗めの青で、髪の色が絹糸のような銀なのは、万年雪に囲まれた国ゆえの保護色なのかもしれない。
種族としての特徴はさて置き、とてもシャトリンのような大きな息子がいるようには見えなかった。何も手を掛けていないクラリスよりも余程張りのある滑らかな肌も、科学力の賜物なのだろうか。
『――君らは間に合うかもしれないが、私は無理だろうなぁ』
いつもの癖でそれとなく観察していると、フェレンルイエの膝の上で水色の指先に撫でられている毛玉が口を開いた。人の頭部くらいの大きさのそれは、茶色い毛皮に覆われていて、見える範囲に目鼻口はない。
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そんな毛玉に向けて、クラリスを挟んで母親と反対隣りに座っていたシャトリンが真顔で言う。多少変わった防寒具に見えるそれは、彼にとっての父であり、フェレンルイエの夫である連合支部職員クラッド・イエルセンだった。
無論これがクラッドの本体ではない。病気ではないが現在著しく体力を消耗しており、回復のために肉体は一時的に冷凍睡眠中なのだそうだ。連合職員であると同時に著名な生物学者でもある彼は、眠っている間の正常な精神活動が勿体ないと意識をこの毛玉状義体に移し、趣味の研究に勤しんでいるらしい……が、目鼻口どころか手足もない姿で、どんな研究が出来ると言うのか。連合支部での通常職務は病気療養扱いらしいのだし。
何にしても、こうも理解不能なことが立て続けに起こると、自分一人驚いているのが損な気分になってくる。
『クラリス、君も撫でてごらん。とっても肌触りがいいから、きっと気に入るよ』
「……よろしいのですか?」
クラリスは言葉をクラッドに宛てながら、目線でフェレンルイエに尋ねる。奥方は静かに頷き、彼女が触れ易いように手の位置をずらした。
「では、遠慮なく」
夫婦の了承を得たクラリスは、短く断って手を伸ばす。
現実逃避をやり過ぎると精神的に参ってしまうし、恐怖心や緊張感のような強い感情を維持し続けることも難しい……ならば細かいことは気にせず、最大限楽しむことにした。そんな考え方が出来るのも、出自から貴族や権力者と接する機会が多いので身分を理由に臆することがなく、否応なく巻き込まれたやっかみや足の引っ張り合いに鍛えられた彼女ならではだ。
「……わぁ、ふわふわですね。ミンクよりも上等な手触りに感じます。これはとても良い品では?」
確かに自ら勧めるだけあって、クラッドの義体が備える毛皮は実に肌触りが良かった。現在絶賛換毛期中のスーリは綿毛っぽい見た目に反した剛毛で、じゃれつかれるとそれなりにチクチクするのだが、この毛玉義体は全然違う。サラサラのスベスベのモッフモフだ。
『ふふふ、分かるかね。愛しいフェレンを退屈させないために、膨大な毛長動物の中から最上の物を選んで誂えたのだよ。ほーら、耳もあるぞー』
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シャトリンの父親譲りらしい暗灰色の双眸にも、クラッドに対する慈愛と尊敬が見て取れた。神同然に崇められ、血の保全と言う義務を持つ女性が、何故に異民族の学者を伴侶に選ぶことが許されたのか……まだその理由に踏み込める立場ではないが、彼らがとても良い親子関係を築いていることは分かる。
母子は終始無表情で、父に至っては目鼻口すらなくとも、互いに思い合っているのが伝わってくるのだ。世間一般からはかけ離れ、理想とは言えないまでもとても良い家族だった。仲の良い家族は見ているだけで癒されるものだ。同じ表情筋が硬い者同士、無理して笑わなくていいのも実に心地がいい。
「そう言えば、弟君は今どうしてらっしゃるのですか?」
カルガゾンヌとシャトリンの最初のやり取りで知らされたその存在を、ふと思い出したクラリスは、何の気なしに尋ねる。寄宿学校らしき恵智院なるところで暮らす彼は、シャトリンの帰郷を知って実家に戻っていると聞いたが……。
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『ご歓談中、大変申し訳ございません! 旦那様、奥方様――シャトリン様っ!』
末息子の不義理を謝罪するフェレンルイエの言葉途中で、演奏を終えて退室したはずのカルガゾンヌが飛び込んでくる。酷く焦っている様子で、その一挙手一投足には、管楽器が擦れ合うような金属質な音が纏わりついていた。
「何なのですか、騒々しい……」
自らの言葉を遮られたフェレンルイエは、さすがに無表情を崩して小さく眉根を寄せながら、自動楽器兼執事を諫める。
『お叱りなら後で幾らでもっ、今は時間がございません! クロエスドイル様がお出でなのです、クラリス様はただちにお逃げっ――』
常の倍速でまくし立てる金属質の声が、ジャンッと一層甲高い音を立てて強制終了した。次いで、その場に膝から崩れ落ちる。
「カルガゾンヌさんっ……?」
咄嗟に怠惰座椅子から立ち上がったクラリスは、硬い床の上に倒れ伏した彼の向こうから現れた人物と目が合う。肉感的な仄青い肢体にピッタリとしたなめし革のような黒いドレスを纏ったその人物は、彼女を見据えたまま、カルガゾンヌの燕尾服の背中を踏み越えて広間に押し入ってくる。
テーブルを挟んで目の前にまでやって来たその女性はとても整った顔立ちをしていたが、クラリスが落ち窪んだ眼を最大限に見開いて固まった理由は他にあった。
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