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ミュラーリヤ第三弓騎兵隊隊長であるクラリス・ヴィアッカは、やたら威圧感のある長身美女に至近距離から睨めつけられていた。
面積の少ないなめした黒革のドレスは、外気温を考えれば鳥肌物であり、同性の目から見てもかなり煽情的な代物だ。見え隠れする筋肉質でしなやかな二の腕や脹脛から、この真っ青な肌をしたサリュート美女が、ただ美しいだけではないと知れた。
それに、何故だかクラリスに対して敵意を持っている。一瞬でも目を逸らせば喉笛を嚙み切られそうな殺気を孕む青黒い双眸から迂闊な言動は憚られたが、いまだ起き上がる気配のないカルガゾンヌの安否が気に掛かる。
「わっ……!」
何の前触れもなく突き出された拳から咄嗟にクラリスは後退った……が、空気の流れとともに何か生温かい物が頬にぶつかり、ドロリと垂れる。咄嗟に拭った手の甲に付いていたのは、青黒い粘液だった。錆びた銅貨のようなツンとする匂いが鼻を衝く。
「ガッド・サリュート・ヴォーラ、ビル……バスカ、ミー・ガン・シャトリン」
次いで彼女はゾッとするような怜悧な声音で、耳慣れない言葉を紡ぐ。その目はしっかりとクラリスを見据えているのに、最後に口にしたのはシャトリンの名だ。
「ガラックっ!」
「クロエスドイル! ガル・ド・ラカ・セレックっ……」
不可解な言動に鼻の頭に皺を寄せた自分の前に、シャトリンとフェレンルイエが壁のように立ちはだかる。フェレンルイエが立ち上がった弾みで、膝に乗せていたクラッドの毛玉義体が、コロコロと床の上を転がっていった。常にない激しい怒りを露わにした彼ら母子の様子に、クラリスは呆気にとられる。どうやらサリュート美女が取った先程の言動は随分と不躾であったようだ。
三人が発した耳慣れない言葉は、サリュートの公用語だろうか……クロエスドイルと言う単語は、倒れる前にカルガゾンヌも尊称とともに口にしていた。シャトリンの肩越しに、いまだ自らを睨んでいるサリュート美女の名であろう。
『――やれやれ、酷いことをする。可哀想に喉の弦が切れているじゃないか、これでは暫く彼のお喋りが聞けないな』
三竦みから一人抜け出していたクラッドが、少し離れた床の上から溜め息交じりにそう言った。義体がぶつかって止まった先は、倒れたカルガゾンヌの身体だったようだ。その口振りから察するに、生命維持に直結する損傷を負った訳ではなさそうだが、手放しに安堵は出来なかった。自動楽器であるカルガゾンヌにとって、声を奪われることは存在意義にかかわる大事だろう。
一体彼が何をしたと言うのか……沸々と怒りが込み上げてくる。決して気が短い性質ではないクラリスだったが、道理のない暴力行為だけは我慢ならない。
理性の体現者と呼ばわれるサリュート人としては、特異な程に殺気溢れる視線を向けてくる彼女は、クラリスにとって見ず知らずのはずだ。暗い双眸に怒りを灯して見返したクラリスに、細く整えられた銀糸の眉がピクリと跳ねた。眉に感情が現れるのは、サリュート人全体の傾向らしい。
科学力を結集したヴォーグ・クワン邸に侵入出来たのだから、彼女も神族と思っていいだろう。先触れに現れたカルガゾンヌの動転した姿と、直後の彼に対するあんまりな仕打ち、シャトリン達の剣幕を見るに、招かれざる客であることは明らかだ。
「大佐、この不躾な方はどなたですか?」
クロエスドイルと視線を介した無言の応酬を続けながら、クラリスは自らを庇い立つシャトリンに尋ねた。
「少尉、彼女は……」
“私は誉れ高きザッカー・クワン家の娘、クロエスドイル。我が家が負わされた汚名を雪ぐため、お前にシェルツァーを申し込む”
シャトリンの言葉を遮って、突如脳内に突き刺さるような鋭い意思が浮かんできた。クロエスドイルは真一文字に口を引き結んでいたが、クラリスはそれが彼女の発した思念であると直感する。一瞬驚かされたが、科学技術に特化したこの国に来て以来そんなこと続きだ。恐らく言葉を使わずに意思疎通するくらい、何てことはないのだろう。
「シェルツァー? 一体何なのですか、汚名とは……私達は初対面のはずでしょう?」
瞬時に様々なことを考え、弾き出した問いを直接投げる。
“シャトリンは父が定めた私の婚約者。卑しい下位種の分際で、お前は神族の番いを奪った!”
「えっ……?」
「そんな事実はない、偽りだ。耳を貸してはいけない、少尉」
返す刀のように脳を刺したクロエスドイルの言葉に驚きの声を上げたクラリスに、シャトリンが早口で割り込んでくる。
「卑しい……恥ずべきは貴女でしょう、クロエスドイル。最初にミー・ガンの掟を破ったのは、貴女方ザッカー・クワン家です。クラリスに謝罪しなさい」
フェレンルイエも首肯し、彼女に向けて手厳しい言葉を紡ぐ。そして、無造作に垂らされたクラリスの手を取ると、そこにまだ付着していた青い液体を、ドレスの胸元の合わせ目から取り出したチーフで拭ってくれる。
“私は気高き神族、何故そんな下位種に……!”
二人に攻め立てられたクロエスドイルは柳眉を逆立て、なおも侮辱を続けようとしたが……。
「あーっ、醜い! 神族が聞いて呆れますよ」
彼女の思念を遮るように、大広間に第三者の声が響き渡る。
声のした方向を全員が見遣ると、開いたままの扉口に灰色の外套を着込んだ人物が立っていた。中性的な声からは性別が判じられず、そのほっそりとした姿は女性としても小柄な部類だ。
「イエニスタス」
シャトリンが吐息のように呟く。それは確か、ヴォーグ・クワン家の弟の名であるはずだ。
「お帰りなさい、兄上……ご帰郷を知りながら、出迎えもせずに申し訳ありませんでした」
目深に被ったフードを落とすと、団栗のへたのようにまっすぐ切り揃えられた銀髪の内、一房だけ黒髪の混じる前髪が特徴的な少年の顔が覗く。大人びた面差しをしているが、高く見積もってもまだ十代前半にしかなるまい。シャトリンとは随分と年が離れた兄弟のようだ。
「おっと、申し訳ありません。久しぶりに大きな声を出したもので、少々立ち眩みが……」
寝不足らしく頭は不自然に傾ぎ、こちらに向かってくる足取りも幽鬼のようにフラフラしていた。シャトリンやフェレンルイエよりも青味の強い肌を持つ彼の目元には、クラリスに勝るとも劣らない深い隈が刻まれている。
それでも、道すがら父親の毛玉義体を拾い上げたイエニスタスは、クロエスドイルの傍らまで来て立ち止まる。そして、彼女に向かってクラッドをヒョイと掲げ持った。クラッドが長く垂れた耳をパタパタと振ると、クロエスドイルの頭のてっぺんから足の爪先までを、一条の仄白い光が素早くなぞった。
「……なっ!」
「父上、どうですか?」
『ああ、お前の推察通りどこも怪我してないようだね――つまり、クラリスに掛けたのは彼女の血じゃあない』
動揺から思念ではない生の声を上げたクロエスドイルに対し、父子の応酬は至って冷静沈着だった。
「シェルツァーを申し込む場合、自分の血を使わなければ無効ですよ。小さな切り傷さえ惜しむとは、随分とお粗末な矜持しか持ち合わせていないようですね。とっととお帰りください、これ以上の長居は恥の上塗りにしかなりませんよ。ペテン師の世迷い事に逐一付き合う程、僕ら一家も暇じゃないんですから」
子供であってもさすがはサリュート人、乾いた口調からは何の感情も窺えなかったが、その内容は実に辛辣だ。
“ペテン師はお前達ではないの……!”
頭に血を上らせ、さらに青黒い顔をしたクロエスドイルが思念で反論すると、突如それに被さってブーッと言う警報のような音が辺りに響き渡った。
「呼吸、脈拍、血圧等の生理反応に異常値が検出されました。今の発言は嘘です」
『――閉じ籠って何やら作っていると思ったら、嘘発見器だったのかね』
そして、得心がいったと言うようなクラッドの言葉の後に、今度はピンポーンと鐘を鳴らすような音が鳴る。どちらの音も、鳴ると同時にイエニスタスの外套の合わせ目の下が薄ぼんやりと発光していた。どうやらそこに装置を隠し持っているようだ。
「僕からお二人への贈り物です。ただでさえ我々サリュート人は他民族に誤解され易いのに、兄上は輪を掛けて口下手ですから、意思疎通の助けになればと……こんな形で役立つとは思いませんでしたよ」
そう言いながら首を巡らせたイエニスタスは、まずは兄にその円らな青い瞳を向けた後、クラリスを見遣る。
「初めまして、シャトリン兄上の弟でイエニスタス=ヴォーグ・クワンです。兄上は良い番い相手を見つけられましたね。パンダ目に悪い人間はいません」
「こちらこそ初めまして……あの、パンダ目って何ですか?」
「シュラン人特有の目化粧です。彼の国にはパンダと呼ばれる白黒の毛に覆われたクマ科の動物がいて、目の周りの毛がまるで隈のように真っ黒なのですよ。見た目の愛らしさも然ることながら、前足に六本の指を持ち、その神秘性からシュランでは国獣と崇められています」
耳慣れない言葉にクラリスが小首を傾げると、彼は淀みなく説明してくれる。
「シュラン人は目の周りをわざわざ黒く塗っていますが、その必要のない僕や貴女のような隈が濃い人間は、あの国の人々にとって羨望の的なのです。たかだか眼精疲労による血行不良や色素沈着なのに、馬鹿馬鹿しいくらいにモテますよ。どうぞ自信を持ってください」
「……そ、それはどうも」
真面目くさった顔付きで続けるイエニスタスを後押しするように、胸元の噓発見器が軽快に鐘の音を鳴らした。立て板に水のような理路整然とした口振りはシャトリンにも似ていたが、それ以上に今は機能停止しているカルガゾンヌを彷彿とさせる。彼の言葉が真実なのは疑いようがなく、悪気のないことも分かるが、最後の一言がどうにも余計な世話だ。
果たして歓迎されているのか否か……クラリスは判断に困った。
“私を無視するでないわ!”
癖の強い弟登場に刹那その存在を忘れ掛けていたクロエスドイルが、一層刺々しい思念を飛ばしてくる。
「はい、もちろんです。ちゃんと貴女の言い分を聞かせてもらうつもりですから、今は落ち着いてください。落ち着かれたら、どうぞ存分に申し開きを」
対してクラリスは、落ち着き払った口調で彼女に発言を促す。城下で捕らえたコソ泥を尋問する時のように背中で両腕を組み、自分よりも頭二つ分背の高いクロエスドイルを見据えた。居丈高だった彼女は、クラリスの催促が予想外だったらしく、石を投げ入れられた湖面のように言外の動揺がさわさわと伝わってくる。
「シェルツァーだか何だか知りませんが、先程の液体はサリュート人の血液なのですよね? 他所の執事に対する暴行もそうですが、そんなものを初対面の人間にぶつけて頭ごなしに罵るなんて、とても上位種の人間がする行動とは思えません……貴女はどんな理由があれば、そんな無体が許されると思ったのでしょうか?」
仮にも神族相手に慇懃無礼過ぎるかと思ったが、知ったことではない。冷静になったからと言って、怒りまで煙の如く掻き消えた訳ではないのだ。目立たず控え目に軍隊生活を送ってきたクラリスだが、常識的な矜持は持ち合わせていた。管理監督責任のある部下達や、気心の知れた同僚、守るべき弱者や愛する家族のためなら進んで泥も被るが、今は守りよりも攻めに徹する時だ。
理由なき暴力など、自分は絶対に認めない。
サリュート人の尊き神族を異国民の自分に罰する権限などないが、受けた無礼に言い返す権利くらいはあるはずだ。
「……シェルツァーとは、ミー・ガンの掟が許した番い相手を巡る決闘のことだ」
急に引っ込み思案になったかのように口を噤んだクロエスドイルに代わり、暫く待ってシャトリンが口を開く。
「先にも言ったが、クロエスドイルが私の婚約者と言うのは偽りだ。一時期縁談が持ち上がり掛けたが、そもそも覚醒期が違っていたので立ち消えた。直接話をしたことも片手で数えられる程しかない。イエニスタスの警告も正直冗談だと思っていたのだが、まさか本当に現れるとは……信じ難い、彼女は完璧なソリュートリアンなのに非論理的この上ない」
僅かに困惑の混じった彼の台詞に、クラリスは忘れ掛けていた一つの疑問を思い出す。
今のような事態が起こりかねないと敏い弟から忠告を受けていたため、ゾーイの上でシャトリンは自分に愛用の弓の不所持について尋ねたのだ。この国についてから、自分の手に合う物を用意してくれるとも言っていたが、その時の彼は目を泳がせていた。きっとシャトリン自身が半信半疑だったからだ。
「本当に兄上は、仕事以外に何の興味もないのですね」
父を両腕に抱いたままイエニスタスは、やれやれと言うように首を左右に振る。
「ザッカー・クワン家は、神族の血を笠に着た現女当主の放蕩が過ぎて没落寸前なのです。スーシエからの追加援助も却下され、このままでは御家断絶もやむなし……屁理屈でも何でもいいからごねて違約金でもせしめようと思ったのか、はたまた悪い噂が広まり過ぎて縁談話が途絶えたことに焦った彼女の単独暴そ」
「ガラックっ……!」
彼の淡々とした言葉が全て終わる前に、クロエスドイルの甲高い叫び声がそれを遮った。同時に右腕を大きく振り被ったのを見たクラリスは、咄嗟に目の前のテーブルを飛び越え、イエニスタスに向かって振り下ろそうとしたその手の前に出る。
重い一打を予想し、顔の前で両腕を組んだクラリスだったが、衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「……兄上」
イエニスタスが零した呼号に腕を下ろすと、開けた視界の先には自分達を庇い立つシャトリンの姿があった。
「時季外れのムライドなど生きている価値はない」
クロエスドイルの手刀を受け止めて言った彼の言葉に、大きく息を吞む気配を感じる。首を巡らせた先に見たのは、銀の眉を逆立て頬を真っ青に染めたフェレンルイエだった。淡い緑のペティコートを握り締めた両手がワナワナと震えている。驚く程感情が削ぎ落された低音の紡いだ台詞がどれだけ屈辱的であるかは、その姿を見れば明らかだ。
「そう言って嘲笑った貴女の顔を、私は片時として忘れたことはない……だが、それはこの際どうでもいい。お帰り頂こう、クロエスドイル」
“ひっ……!”
ミシリ、と音が聞こえるくらい強く締め上げられた手首に心の悲鳴が上がる。背後からでは彼の表情は分からないが、大きく歪んだクロエスドイルの顔から緊迫感は十分に伝わった。
「待って! 待ってください、大佐っ……!」
咄嗟に叫んだクラリスが、シャトリンの背に縋る。これ以上のことを彼にさせてはいけない。
「クロエスドイル、姫……? シェルツァーをお受け致します!」
「少尉っ……?」
続けて言った台詞に、狙い通り彼女の手首の拘束を解いたシャトリンが、クラリスを振り返る。もっと興奮しているかと思ったが、その顔は蝋人形のように真っ白だ。逆に血の気が引いたのかもしれない。
「度重なる無礼な振舞いには、私も我慢の限界です。諸々の私怨は、合法的な掟に則ってすっかりきっぱり拳で晴らさせて頂きます」
要するに、貴方が殴れば角が立ちそうだから自分に殴らせろと言う訳だ。
相手が人種的に数段優れたサリュート人だろうと関係ない。
弓騎兵舐めんな。
面積の少ないなめした黒革のドレスは、外気温を考えれば鳥肌物であり、同性の目から見てもかなり煽情的な代物だ。見え隠れする筋肉質でしなやかな二の腕や脹脛から、この真っ青な肌をしたサリュート美女が、ただ美しいだけではないと知れた。
それに、何故だかクラリスに対して敵意を持っている。一瞬でも目を逸らせば喉笛を嚙み切られそうな殺気を孕む青黒い双眸から迂闊な言動は憚られたが、いまだ起き上がる気配のないカルガゾンヌの安否が気に掛かる。
「わっ……!」
何の前触れもなく突き出された拳から咄嗟にクラリスは後退った……が、空気の流れとともに何か生温かい物が頬にぶつかり、ドロリと垂れる。咄嗟に拭った手の甲に付いていたのは、青黒い粘液だった。錆びた銅貨のようなツンとする匂いが鼻を衝く。
「ガッド・サリュート・ヴォーラ、ビル……バスカ、ミー・ガン・シャトリン」
次いで彼女はゾッとするような怜悧な声音で、耳慣れない言葉を紡ぐ。その目はしっかりとクラリスを見据えているのに、最後に口にしたのはシャトリンの名だ。
「ガラックっ!」
「クロエスドイル! ガル・ド・ラカ・セレックっ……」
不可解な言動に鼻の頭に皺を寄せた自分の前に、シャトリンとフェレンルイエが壁のように立ちはだかる。フェレンルイエが立ち上がった弾みで、膝に乗せていたクラッドの毛玉義体が、コロコロと床の上を転がっていった。常にない激しい怒りを露わにした彼ら母子の様子に、クラリスは呆気にとられる。どうやらサリュート美女が取った先程の言動は随分と不躾であったようだ。
三人が発した耳慣れない言葉は、サリュートの公用語だろうか……クロエスドイルと言う単語は、倒れる前にカルガゾンヌも尊称とともに口にしていた。シャトリンの肩越しに、いまだ自らを睨んでいるサリュート美女の名であろう。
『――やれやれ、酷いことをする。可哀想に喉の弦が切れているじゃないか、これでは暫く彼のお喋りが聞けないな』
三竦みから一人抜け出していたクラッドが、少し離れた床の上から溜め息交じりにそう言った。義体がぶつかって止まった先は、倒れたカルガゾンヌの身体だったようだ。その口振りから察するに、生命維持に直結する損傷を負った訳ではなさそうだが、手放しに安堵は出来なかった。自動楽器であるカルガゾンヌにとって、声を奪われることは存在意義にかかわる大事だろう。
一体彼が何をしたと言うのか……沸々と怒りが込み上げてくる。決して気が短い性質ではないクラリスだったが、道理のない暴力行為だけは我慢ならない。
理性の体現者と呼ばわれるサリュート人としては、特異な程に殺気溢れる視線を向けてくる彼女は、クラリスにとって見ず知らずのはずだ。暗い双眸に怒りを灯して見返したクラリスに、細く整えられた銀糸の眉がピクリと跳ねた。眉に感情が現れるのは、サリュート人全体の傾向らしい。
科学力を結集したヴォーグ・クワン邸に侵入出来たのだから、彼女も神族と思っていいだろう。先触れに現れたカルガゾンヌの動転した姿と、直後の彼に対するあんまりな仕打ち、シャトリン達の剣幕を見るに、招かれざる客であることは明らかだ。
「大佐、この不躾な方はどなたですか?」
クロエスドイルと視線を介した無言の応酬を続けながら、クラリスは自らを庇い立つシャトリンに尋ねた。
「少尉、彼女は……」
“私は誉れ高きザッカー・クワン家の娘、クロエスドイル。我が家が負わされた汚名を雪ぐため、お前にシェルツァーを申し込む”
シャトリンの言葉を遮って、突如脳内に突き刺さるような鋭い意思が浮かんできた。クロエスドイルは真一文字に口を引き結んでいたが、クラリスはそれが彼女の発した思念であると直感する。一瞬驚かされたが、科学技術に特化したこの国に来て以来そんなこと続きだ。恐らく言葉を使わずに意思疎通するくらい、何てことはないのだろう。
「シェルツァー? 一体何なのですか、汚名とは……私達は初対面のはずでしょう?」
瞬時に様々なことを考え、弾き出した問いを直接投げる。
“シャトリンは父が定めた私の婚約者。卑しい下位種の分際で、お前は神族の番いを奪った!”
「えっ……?」
「そんな事実はない、偽りだ。耳を貸してはいけない、少尉」
返す刀のように脳を刺したクロエスドイルの言葉に驚きの声を上げたクラリスに、シャトリンが早口で割り込んでくる。
「卑しい……恥ずべきは貴女でしょう、クロエスドイル。最初にミー・ガンの掟を破ったのは、貴女方ザッカー・クワン家です。クラリスに謝罪しなさい」
フェレンルイエも首肯し、彼女に向けて手厳しい言葉を紡ぐ。そして、無造作に垂らされたクラリスの手を取ると、そこにまだ付着していた青い液体を、ドレスの胸元の合わせ目から取り出したチーフで拭ってくれる。
“私は気高き神族、何故そんな下位種に……!”
二人に攻め立てられたクロエスドイルは柳眉を逆立て、なおも侮辱を続けようとしたが……。
「あーっ、醜い! 神族が聞いて呆れますよ」
彼女の思念を遮るように、大広間に第三者の声が響き渡る。
声のした方向を全員が見遣ると、開いたままの扉口に灰色の外套を着込んだ人物が立っていた。中性的な声からは性別が判じられず、そのほっそりとした姿は女性としても小柄な部類だ。
「イエニスタス」
シャトリンが吐息のように呟く。それは確か、ヴォーグ・クワン家の弟の名であるはずだ。
「お帰りなさい、兄上……ご帰郷を知りながら、出迎えもせずに申し訳ありませんでした」
目深に被ったフードを落とすと、団栗のへたのようにまっすぐ切り揃えられた銀髪の内、一房だけ黒髪の混じる前髪が特徴的な少年の顔が覗く。大人びた面差しをしているが、高く見積もってもまだ十代前半にしかなるまい。シャトリンとは随分と年が離れた兄弟のようだ。
「おっと、申し訳ありません。久しぶりに大きな声を出したもので、少々立ち眩みが……」
寝不足らしく頭は不自然に傾ぎ、こちらに向かってくる足取りも幽鬼のようにフラフラしていた。シャトリンやフェレンルイエよりも青味の強い肌を持つ彼の目元には、クラリスに勝るとも劣らない深い隈が刻まれている。
それでも、道すがら父親の毛玉義体を拾い上げたイエニスタスは、クロエスドイルの傍らまで来て立ち止まる。そして、彼女に向かってクラッドをヒョイと掲げ持った。クラッドが長く垂れた耳をパタパタと振ると、クロエスドイルの頭のてっぺんから足の爪先までを、一条の仄白い光が素早くなぞった。
「……なっ!」
「父上、どうですか?」
『ああ、お前の推察通りどこも怪我してないようだね――つまり、クラリスに掛けたのは彼女の血じゃあない』
動揺から思念ではない生の声を上げたクロエスドイルに対し、父子の応酬は至って冷静沈着だった。
「シェルツァーを申し込む場合、自分の血を使わなければ無効ですよ。小さな切り傷さえ惜しむとは、随分とお粗末な矜持しか持ち合わせていないようですね。とっととお帰りください、これ以上の長居は恥の上塗りにしかなりませんよ。ペテン師の世迷い事に逐一付き合う程、僕ら一家も暇じゃないんですから」
子供であってもさすがはサリュート人、乾いた口調からは何の感情も窺えなかったが、その内容は実に辛辣だ。
“ペテン師はお前達ではないの……!”
頭に血を上らせ、さらに青黒い顔をしたクロエスドイルが思念で反論すると、突如それに被さってブーッと言う警報のような音が辺りに響き渡った。
「呼吸、脈拍、血圧等の生理反応に異常値が検出されました。今の発言は嘘です」
『――閉じ籠って何やら作っていると思ったら、嘘発見器だったのかね』
そして、得心がいったと言うようなクラッドの言葉の後に、今度はピンポーンと鐘を鳴らすような音が鳴る。どちらの音も、鳴ると同時にイエニスタスの外套の合わせ目の下が薄ぼんやりと発光していた。どうやらそこに装置を隠し持っているようだ。
「僕からお二人への贈り物です。ただでさえ我々サリュート人は他民族に誤解され易いのに、兄上は輪を掛けて口下手ですから、意思疎通の助けになればと……こんな形で役立つとは思いませんでしたよ」
そう言いながら首を巡らせたイエニスタスは、まずは兄にその円らな青い瞳を向けた後、クラリスを見遣る。
「初めまして、シャトリン兄上の弟でイエニスタス=ヴォーグ・クワンです。兄上は良い番い相手を見つけられましたね。パンダ目に悪い人間はいません」
「こちらこそ初めまして……あの、パンダ目って何ですか?」
「シュラン人特有の目化粧です。彼の国にはパンダと呼ばれる白黒の毛に覆われたクマ科の動物がいて、目の周りの毛がまるで隈のように真っ黒なのですよ。見た目の愛らしさも然ることながら、前足に六本の指を持ち、その神秘性からシュランでは国獣と崇められています」
耳慣れない言葉にクラリスが小首を傾げると、彼は淀みなく説明してくれる。
「シュラン人は目の周りをわざわざ黒く塗っていますが、その必要のない僕や貴女のような隈が濃い人間は、あの国の人々にとって羨望の的なのです。たかだか眼精疲労による血行不良や色素沈着なのに、馬鹿馬鹿しいくらいにモテますよ。どうぞ自信を持ってください」
「……そ、それはどうも」
真面目くさった顔付きで続けるイエニスタスを後押しするように、胸元の噓発見器が軽快に鐘の音を鳴らした。立て板に水のような理路整然とした口振りはシャトリンにも似ていたが、それ以上に今は機能停止しているカルガゾンヌを彷彿とさせる。彼の言葉が真実なのは疑いようがなく、悪気のないことも分かるが、最後の一言がどうにも余計な世話だ。
果たして歓迎されているのか否か……クラリスは判断に困った。
“私を無視するでないわ!”
癖の強い弟登場に刹那その存在を忘れ掛けていたクロエスドイルが、一層刺々しい思念を飛ばしてくる。
「はい、もちろんです。ちゃんと貴女の言い分を聞かせてもらうつもりですから、今は落ち着いてください。落ち着かれたら、どうぞ存分に申し開きを」
対してクラリスは、落ち着き払った口調で彼女に発言を促す。城下で捕らえたコソ泥を尋問する時のように背中で両腕を組み、自分よりも頭二つ分背の高いクロエスドイルを見据えた。居丈高だった彼女は、クラリスの催促が予想外だったらしく、石を投げ入れられた湖面のように言外の動揺がさわさわと伝わってくる。
「シェルツァーだか何だか知りませんが、先程の液体はサリュート人の血液なのですよね? 他所の執事に対する暴行もそうですが、そんなものを初対面の人間にぶつけて頭ごなしに罵るなんて、とても上位種の人間がする行動とは思えません……貴女はどんな理由があれば、そんな無体が許されると思ったのでしょうか?」
仮にも神族相手に慇懃無礼過ぎるかと思ったが、知ったことではない。冷静になったからと言って、怒りまで煙の如く掻き消えた訳ではないのだ。目立たず控え目に軍隊生活を送ってきたクラリスだが、常識的な矜持は持ち合わせていた。管理監督責任のある部下達や、気心の知れた同僚、守るべき弱者や愛する家族のためなら進んで泥も被るが、今は守りよりも攻めに徹する時だ。
理由なき暴力など、自分は絶対に認めない。
サリュート人の尊き神族を異国民の自分に罰する権限などないが、受けた無礼に言い返す権利くらいはあるはずだ。
「……シェルツァーとは、ミー・ガンの掟が許した番い相手を巡る決闘のことだ」
急に引っ込み思案になったかのように口を噤んだクロエスドイルに代わり、暫く待ってシャトリンが口を開く。
「先にも言ったが、クロエスドイルが私の婚約者と言うのは偽りだ。一時期縁談が持ち上がり掛けたが、そもそも覚醒期が違っていたので立ち消えた。直接話をしたことも片手で数えられる程しかない。イエニスタスの警告も正直冗談だと思っていたのだが、まさか本当に現れるとは……信じ難い、彼女は完璧なソリュートリアンなのに非論理的この上ない」
僅かに困惑の混じった彼の台詞に、クラリスは忘れ掛けていた一つの疑問を思い出す。
今のような事態が起こりかねないと敏い弟から忠告を受けていたため、ゾーイの上でシャトリンは自分に愛用の弓の不所持について尋ねたのだ。この国についてから、自分の手に合う物を用意してくれるとも言っていたが、その時の彼は目を泳がせていた。きっとシャトリン自身が半信半疑だったからだ。
「本当に兄上は、仕事以外に何の興味もないのですね」
父を両腕に抱いたままイエニスタスは、やれやれと言うように首を左右に振る。
「ザッカー・クワン家は、神族の血を笠に着た現女当主の放蕩が過ぎて没落寸前なのです。スーシエからの追加援助も却下され、このままでは御家断絶もやむなし……屁理屈でも何でもいいからごねて違約金でもせしめようと思ったのか、はたまた悪い噂が広まり過ぎて縁談話が途絶えたことに焦った彼女の単独暴そ」
「ガラックっ……!」
彼の淡々とした言葉が全て終わる前に、クロエスドイルの甲高い叫び声がそれを遮った。同時に右腕を大きく振り被ったのを見たクラリスは、咄嗟に目の前のテーブルを飛び越え、イエニスタスに向かって振り下ろそうとしたその手の前に出る。
重い一打を予想し、顔の前で両腕を組んだクラリスだったが、衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
「……兄上」
イエニスタスが零した呼号に腕を下ろすと、開けた視界の先には自分達を庇い立つシャトリンの姿があった。
「時季外れのムライドなど生きている価値はない」
クロエスドイルの手刀を受け止めて言った彼の言葉に、大きく息を吞む気配を感じる。首を巡らせた先に見たのは、銀の眉を逆立て頬を真っ青に染めたフェレンルイエだった。淡い緑のペティコートを握り締めた両手がワナワナと震えている。驚く程感情が削ぎ落された低音の紡いだ台詞がどれだけ屈辱的であるかは、その姿を見れば明らかだ。
「そう言って嘲笑った貴女の顔を、私は片時として忘れたことはない……だが、それはこの際どうでもいい。お帰り頂こう、クロエスドイル」
“ひっ……!”
ミシリ、と音が聞こえるくらい強く締め上げられた手首に心の悲鳴が上がる。背後からでは彼の表情は分からないが、大きく歪んだクロエスドイルの顔から緊迫感は十分に伝わった。
「待って! 待ってください、大佐っ……!」
咄嗟に叫んだクラリスが、シャトリンの背に縋る。これ以上のことを彼にさせてはいけない。
「クロエスドイル、姫……? シェルツァーをお受け致します!」
「少尉っ……?」
続けて言った台詞に、狙い通り彼女の手首の拘束を解いたシャトリンが、クラリスを振り返る。もっと興奮しているかと思ったが、その顔は蝋人形のように真っ白だ。逆に血の気が引いたのかもしれない。
「度重なる無礼な振舞いには、私も我慢の限界です。諸々の私怨は、合法的な掟に則ってすっかりきっぱり拳で晴らさせて頂きます」
要するに、貴方が殴れば角が立ちそうだから自分に殴らせろと言う訳だ。
相手が人種的に数段優れたサリュート人だろうと関係ない。
弓騎兵舐めんな。
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連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
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