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嵐のまえぶれ
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「てゆーかさあ、三谷さんって何なの?」
嘲笑を滲ませた棘のある言葉が、私に突き刺さった。
月曜朝の、会社の給湯室。この後の展開が、容易に浮かぶ。
週の始まりで、高まっていた私の気分は、一気に萎えた。
「いい年してさぁ、いつまでここに居座る気?」
ズケズケと痛いところを突いてくるのは、多分入社三年目の相良美奈子だろう。
「まああの見た目じゃ、相手にする人なんていないだろうけどね!」
「ちょっ、美奈子ひっどー!」
口ではそう言いながらも、美奈子の毒舌に取り巻きの二人は笑い声を上げる。
朝の給湯室は、陰口と噂話のオンパレードだ。
……なんとなく煙たい人っている。
彼女たちからしたら、多分私がそれ。
とある地方に本社を置く総合商社、桜庭物産株式会社。巨大な本社ビルの五階にある外食事業部が、今のところ私の居場所だ。
結婚しても仕事を続ける女性が増えているとはいうけれど、令和の時代になっても、結婚や出産を機に退社を決意する女性社員も案外多い。
美奈子たちは、入社退社の入れ替わりが激しい中、この年になっても結婚の予定もなく、いつまでもここに居座っている何かと口うるさい私のことが面白くないんだろう。
彼女たちの陰口や、まるで私への当てつけのような職務怠慢にいちいち目くじらを立てても仕方がない。
ここで過ごした数年間で、「これくらいのこと」と流せるくらいには、私も強くなった。
……それでも。
「もう朝礼始まるわよ」
給湯室の入り口に立ち、そう言い放つ。瞬間、その場の空気が凍りついた。
「無駄口叩いている暇なんて、ないと思うけど」
わざとヒールの音を響かせて、キッチンにもたれたまま私を睨みつける美奈子に近づいた。
「野々村部長にお茶を出したいんだけど」
「……媚び売って、やだぁ」
小声で漏らしたのは、美奈子の取り巻きだ。
部長はお茶の好みにうるさく、私以外の人が入れたお茶はなかなか口にしようとしない。今どき珍しく奥さんも亭主関白を許しているようで、部長自らお茶を入れることももちろんない。
「この時代に朝から上司のお茶出しなんて」と言われることもあるけれど、お茶一杯で朝から部長の機嫌を損ねずにすむのなら、私にはこれくらいの労力どうってことない。
「邪魔だから、どいてくれる?」
嫌味には耳を貸さず、尚も動く気配のない美奈子に圧をかける。
「……すみません」
意外にも、美奈子はあっさりと体をどけた。
張りつめた空気などものともせず、自分のペースでお茶を入れ、給湯室から一歩踏み出す。
「何よあれ……、むかつく!」
私にも聞こえるように、わざとこのタイミングで言ったのだろう。聞こえてきた捨て台詞に、ため息が漏れた。
こんなこと、もう慣れっこだ。
慣れてしまえば、自分に向けられた酷い言葉もため息と共に流すこともできる。
私だって好きで若い子たちに小言ばかり言ってるわけじゃない。少しでも早く独り立ちして欲しいから、ついつい指導は厳しいものになる。
たとえそれで後輩たちに煙たがられたって、私は私の役割を全うしているんだから、別に構わない。
この春で入社6年目。
今まで自分なりにプライドを持って仕事に取り組んできた。
少なくとも今の私は、一人で立っていられていると思う。
淹れたてのコーヒーを手に戻ると、オフィス全体が妙にざわついていた。
何かあったんだろうか? 部長が朝礼を始めようと席を立っても、一部の女姓社員がおしゃべりを止めない。
「……上村?」
「そうです。私と一緒に三谷さんに新入社員指導してもらった上村くん、来月から本社に戻ってくるらしいですよ」
朝礼後、書類のチェックを頼みにやってきた中山響子が私にそう耳打ちをした。
明るい色のショートヘアに、黒目がちの大きな瞳。趣味はおしゃべり? ってくらいよくしゃべって、いつも元気いっぱいの響子は、私よりも2つ下の26歳。
陽気な性格で飲み会大好き。上司たちの受けもいい。
ただ、響子は致命的にお酒に弱い。
入社当初から飲み会のたびに酔いつぶれてしまう響子を介抱するのは、いつの間にか私の役目になっていて、響子の家まで送ったり、仕方なく自宅に連れ帰ったり。
そんなことが度重なって、いつの間にか私は、彼女にすっかり懐かれていた。
「ああ、上村がねぇ。だからみんな浮ついてるのか」
営業職の上村達哉(たつや)は、そのルックスと経歴が人目を引いて入社当時から目立っていた。
物腰が柔らかく人当りの良い穏やかな印象で、女子社員にかなり人気があった。
関東の有名私大を卒業して、早くから将来の幹部候補と噂されていた上村は、入社1年目にして飲料水事業部の新規事業だった天然水ブランドの立ち上げ要員として、隣県の事業所に配属された。
この異例の抜擢は、社内でも結構な話題になった。
美奈子のように、「あわよくば」と玉の輿を狙う一部の女の子たちからすれば、上村はこれ以上にない優良物件というわけだ。
「異動もまだなのに、本当に上村が帰って来たら一体どうなるのよ。まったく、みんな何しに会社に来てんだか」
始業時間はとっくに過ぎてるのに、さっきの三人組もまだ帰って来ていない。
「もう! そんなに冷めてるの三谷さんだけですよ。きっとこれから面白くなりますよー。美奈子なんてすでに目の色変えてるし」
「……ふうん」
ひょっとして響子も? と思ったけれど、彼女はただこの騒ぎを面白がってるだけだ。上村狙いというわけではないみたい。
でもここで話に乗ってしまうと、ゴシップ好きの響子の口はたぶん止まらなくなる。
仕事を邪魔されたくない私は、わざとそっけない返事をした。
「ふうんって、三谷さん興味ないんですか?」
「ないなあ」
「もうっ、つまんない! 三谷さんに話を振った私がバカでした。もういいですっ」
ふくれっ面でそう言うと、響子はつまらなさそうに自席に帰っていった。
社屋5階の廊下の窓から眼下に流れる川を見下ろした。
今年は雨が多くて、4月1日の入社式まで桜が持たなかった。
僅かに花を残す葉桜の下をリクルートスーツに身を包んだ新入社員たちが歩いている。
無事入社式と1週間の社外研修を終え、今日から私の元にも新入社員がやってきた。
私の受持ちは2人。関西の私大を出た岸くんと地元の国立大を出たという二宮さんだ。
「指導担当の三谷です。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「研修期間中はとりあえず外食事業部所属だけど、二週間の研修が終わったら、正式に配属が決まるから」
岸くんはかなり緊張しているのか、見るからにガチガチだ。それに比べたら、二宮さんは結構余裕があるように見える。見るもの全てが珍しいようで、興味津々といった様子でオフィス中を見回している。
「二人ともデスクはとりあえずここを使って。あ、二宮さんは今から一緒に給湯室に行ってくれる?」
「え? 私だけですか」
私が二宮さんに声をかけると、彼女は驚いた顔をして立ち止まった。
「もうすぐ朝礼が始まるから、とりあえずついてきて」
私は眉をひそめて立ち止まったままの彼女を、廊下へと引っ張り出した。
「若手は来客時にお茶を頼まれることが多いの。特に年配の方は、女性社員に頼みがちだから。茶葉や茶器の場所を早めに覚えておいた方がいいわ」
給湯室に着くと、私はいつもどおり、野々村部長のお茶を入れる用意をした。
急須と湯呑みにお湯を注いで丁寧に温める。外側までしっかり温まったらいったんお湯を捨て、急須に茶葉を入れて、またお湯を注いで茶葉が開くまでゆっくり待つ。
暫くすると、急須の注ぎ口から玉露の芳しい香りが立ち上ってくる。
私は大きく深呼吸をして、入れたてのお茶の爽やかな香気を体内に取り込んだ。
仕事が忙しくて余裕がない時も、嫌なことがあった時も、私はお茶だけは丁寧に入れるように心がけている。朝にふさわしいその香りは私の心まで満たし、忙しい日々で錆付いた頭をリセットしてくれる。
……私は、この瞬間が好きだった。
「……はあっ」
緑茶の香りを楽しんでリフレッシュできた私とは反対に、二宮さんは物憂げに深いため息をついた。
「どうかした?」
「あ、すみません。つい……」
「何か心配事? 私でよければいつでも聞くわよ」
そう言うと、彼女はなんとも気まずそうな顔で私を見上げる。
「あの、やっぱりこの会社もお茶汲みは女性の仕事なんですか?」
「そういうわけでもないけど。二宮さん、お茶汲みは嫌?」
「今どき女性ばかりがお茶を入れるだなんて、先輩は男女差別だと思わないんですか?」
「べつに思わないわ」
「えっ?」
私が言いきると、と二宮さんは口を開けたまま、再び固まってしまった。
「お茶ってリラックス効果があるでしょう?」
「はい?」
私を見る二宮さんは、「この人は突然何を言い出すの?」とでも言いたげだ。それでも構わず、私は話を続けた。
「たとえば、残業続きで疲れてる営業さんがいるとするでしょう。朝から美味しいお茶を飲めば、リフレッシュできてまた今日一日頑張ろうって思ってくれるかもしれない。企画会議中、なかなかいいアイデアが出なくてみんなして煮詰まってたのに、自分の入れたお茶で気分転換ができて、新しい発想が生まれるかもしれない。例えはちょっと大げさかもしれないけど、お茶一杯でみんなが気分良く仕事してくれたらそれだけでも嬉しいと思わない?」
「あ……」
二宮さんの表情が、ほんの少し明るくなった。わかってくれたみたいで、私も嬉しくなる。
「考え方次第で、どんなにささいな仕事でも、やりがいって変わってくると思うの」
「そう……なのかもしれないですね」
二宮さんなりの気づきがあったらしく、みるみる表情が明るくなる。
「これから一緒に頑張りましょうね」
「はい!」
二宮さんは私の言葉に笑顔で頷いてくれた。私も満足して、彼女に笑みを返した。
「このお茶、私がお出ししてもいいですか?」
「もちろん! お願いするわね」
給湯室へ向かった時とは打って変わって、二宮さんはすっかり明るい表情になった。二人で廊下を歩いていると、外食事業部の方から女の子たちの甲高い声が聞こえてくる。
「……何かあったんでしょうか?」
「さあ、何かしら」
そろそろ朝礼が始まる時間だ。普段ならオフィスはピリッとした緊張感に包まれているはず。
二宮さんに部長へのお茶出しを任せて自分の席に戻ると、響子が慌てて駆け寄ってきた。
「何の騒ぎ?」
「何って三谷さん、上村くんですよ。彼、ここに配属になったんです」
「あ、上村も今日からだっけ」
私は響子と話をしながら、パソコンの電源を入れた。
デスクには書類とファイルの山。今日もやるべきことはたくさんある。
「そうですよ、ほら」
響子に肩を叩かれて顔を上げると、野々村部長と談笑している上村の姿が見えた。
相変わらず見栄えのする男だ。
涼やかな目元に、少しくせのある髪。身長はたぶん180センチを超えてるはず。外食事業部で一番背が高いはずの野々村部長が、上村のことを少し見上げて話している。
「しばらくはみんな落ち着かないわね」
みんなっていうのは、まあ主に女の子たちだけど。
「そうなんですよ。見てくださいよ、あの美奈子の張りきりよう!」
響子に腕をつつかれて、こっそり美奈子の顔を盗み見る。出勤した時よりもいくらかメイクが濃くなっているような気がした。
「ほんと、これから騒がしくなりそうですよねぇ」
「ちょっと心配でもあるけどね……」
ため息混じりにそう言って、私はその心配のもとである美奈子の様子を窺った。
美奈子はただでさえ恋愛に現を抜かしがち。そして、そうなるとさらに仕事が疎かになってしまう。
思わず頭を抱える私に反し、響子はすっかりこの状況を楽しんでいる。舌なめずりでもしそうな勢いだ。
「響子、トラットリア・ロッソの契約書終わったの? 鮫島主任がまだ書類が上がってこないって朝からぼやいてたわよ」
「いけない! すぐやりまっす」
天敵、鮫島主任の顔が頭に浮かんだのか、響子は逃げるようにデスクに帰っていった。
「はあ……」
今日何度目かわからないため息が漏れる。
私はスムーズに仕事を進めたいだけなのに、美奈子は仕事そっちのけで目新しい男に気を取られている。いや、ひょっとしたら、美奈子だけじゃないのかも。
このオフィスのあちこちで、私の憂鬱の種は今にも芽吹こうとしているのかもしれない。不安を感じて、私はまた重たいため息を吐き出した。
嘲笑を滲ませた棘のある言葉が、私に突き刺さった。
月曜朝の、会社の給湯室。この後の展開が、容易に浮かぶ。
週の始まりで、高まっていた私の気分は、一気に萎えた。
「いい年してさぁ、いつまでここに居座る気?」
ズケズケと痛いところを突いてくるのは、多分入社三年目の相良美奈子だろう。
「まああの見た目じゃ、相手にする人なんていないだろうけどね!」
「ちょっ、美奈子ひっどー!」
口ではそう言いながらも、美奈子の毒舌に取り巻きの二人は笑い声を上げる。
朝の給湯室は、陰口と噂話のオンパレードだ。
……なんとなく煙たい人っている。
彼女たちからしたら、多分私がそれ。
とある地方に本社を置く総合商社、桜庭物産株式会社。巨大な本社ビルの五階にある外食事業部が、今のところ私の居場所だ。
結婚しても仕事を続ける女性が増えているとはいうけれど、令和の時代になっても、結婚や出産を機に退社を決意する女性社員も案外多い。
美奈子たちは、入社退社の入れ替わりが激しい中、この年になっても結婚の予定もなく、いつまでもここに居座っている何かと口うるさい私のことが面白くないんだろう。
彼女たちの陰口や、まるで私への当てつけのような職務怠慢にいちいち目くじらを立てても仕方がない。
ここで過ごした数年間で、「これくらいのこと」と流せるくらいには、私も強くなった。
……それでも。
「もう朝礼始まるわよ」
給湯室の入り口に立ち、そう言い放つ。瞬間、その場の空気が凍りついた。
「無駄口叩いている暇なんて、ないと思うけど」
わざとヒールの音を響かせて、キッチンにもたれたまま私を睨みつける美奈子に近づいた。
「野々村部長にお茶を出したいんだけど」
「……媚び売って、やだぁ」
小声で漏らしたのは、美奈子の取り巻きだ。
部長はお茶の好みにうるさく、私以外の人が入れたお茶はなかなか口にしようとしない。今どき珍しく奥さんも亭主関白を許しているようで、部長自らお茶を入れることももちろんない。
「この時代に朝から上司のお茶出しなんて」と言われることもあるけれど、お茶一杯で朝から部長の機嫌を損ねずにすむのなら、私にはこれくらいの労力どうってことない。
「邪魔だから、どいてくれる?」
嫌味には耳を貸さず、尚も動く気配のない美奈子に圧をかける。
「……すみません」
意外にも、美奈子はあっさりと体をどけた。
張りつめた空気などものともせず、自分のペースでお茶を入れ、給湯室から一歩踏み出す。
「何よあれ……、むかつく!」
私にも聞こえるように、わざとこのタイミングで言ったのだろう。聞こえてきた捨て台詞に、ため息が漏れた。
こんなこと、もう慣れっこだ。
慣れてしまえば、自分に向けられた酷い言葉もため息と共に流すこともできる。
私だって好きで若い子たちに小言ばかり言ってるわけじゃない。少しでも早く独り立ちして欲しいから、ついつい指導は厳しいものになる。
たとえそれで後輩たちに煙たがられたって、私は私の役割を全うしているんだから、別に構わない。
この春で入社6年目。
今まで自分なりにプライドを持って仕事に取り組んできた。
少なくとも今の私は、一人で立っていられていると思う。
淹れたてのコーヒーを手に戻ると、オフィス全体が妙にざわついていた。
何かあったんだろうか? 部長が朝礼を始めようと席を立っても、一部の女姓社員がおしゃべりを止めない。
「……上村?」
「そうです。私と一緒に三谷さんに新入社員指導してもらった上村くん、来月から本社に戻ってくるらしいですよ」
朝礼後、書類のチェックを頼みにやってきた中山響子が私にそう耳打ちをした。
明るい色のショートヘアに、黒目がちの大きな瞳。趣味はおしゃべり? ってくらいよくしゃべって、いつも元気いっぱいの響子は、私よりも2つ下の26歳。
陽気な性格で飲み会大好き。上司たちの受けもいい。
ただ、響子は致命的にお酒に弱い。
入社当初から飲み会のたびに酔いつぶれてしまう響子を介抱するのは、いつの間にか私の役目になっていて、響子の家まで送ったり、仕方なく自宅に連れ帰ったり。
そんなことが度重なって、いつの間にか私は、彼女にすっかり懐かれていた。
「ああ、上村がねぇ。だからみんな浮ついてるのか」
営業職の上村達哉(たつや)は、そのルックスと経歴が人目を引いて入社当時から目立っていた。
物腰が柔らかく人当りの良い穏やかな印象で、女子社員にかなり人気があった。
関東の有名私大を卒業して、早くから将来の幹部候補と噂されていた上村は、入社1年目にして飲料水事業部の新規事業だった天然水ブランドの立ち上げ要員として、隣県の事業所に配属された。
この異例の抜擢は、社内でも結構な話題になった。
美奈子のように、「あわよくば」と玉の輿を狙う一部の女の子たちからすれば、上村はこれ以上にない優良物件というわけだ。
「異動もまだなのに、本当に上村が帰って来たら一体どうなるのよ。まったく、みんな何しに会社に来てんだか」
始業時間はとっくに過ぎてるのに、さっきの三人組もまだ帰って来ていない。
「もう! そんなに冷めてるの三谷さんだけですよ。きっとこれから面白くなりますよー。美奈子なんてすでに目の色変えてるし」
「……ふうん」
ひょっとして響子も? と思ったけれど、彼女はただこの騒ぎを面白がってるだけだ。上村狙いというわけではないみたい。
でもここで話に乗ってしまうと、ゴシップ好きの響子の口はたぶん止まらなくなる。
仕事を邪魔されたくない私は、わざとそっけない返事をした。
「ふうんって、三谷さん興味ないんですか?」
「ないなあ」
「もうっ、つまんない! 三谷さんに話を振った私がバカでした。もういいですっ」
ふくれっ面でそう言うと、響子はつまらなさそうに自席に帰っていった。
社屋5階の廊下の窓から眼下に流れる川を見下ろした。
今年は雨が多くて、4月1日の入社式まで桜が持たなかった。
僅かに花を残す葉桜の下をリクルートスーツに身を包んだ新入社員たちが歩いている。
無事入社式と1週間の社外研修を終え、今日から私の元にも新入社員がやってきた。
私の受持ちは2人。関西の私大を出た岸くんと地元の国立大を出たという二宮さんだ。
「指導担当の三谷です。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「研修期間中はとりあえず外食事業部所属だけど、二週間の研修が終わったら、正式に配属が決まるから」
岸くんはかなり緊張しているのか、見るからにガチガチだ。それに比べたら、二宮さんは結構余裕があるように見える。見るもの全てが珍しいようで、興味津々といった様子でオフィス中を見回している。
「二人ともデスクはとりあえずここを使って。あ、二宮さんは今から一緒に給湯室に行ってくれる?」
「え? 私だけですか」
私が二宮さんに声をかけると、彼女は驚いた顔をして立ち止まった。
「もうすぐ朝礼が始まるから、とりあえずついてきて」
私は眉をひそめて立ち止まったままの彼女を、廊下へと引っ張り出した。
「若手は来客時にお茶を頼まれることが多いの。特に年配の方は、女性社員に頼みがちだから。茶葉や茶器の場所を早めに覚えておいた方がいいわ」
給湯室に着くと、私はいつもどおり、野々村部長のお茶を入れる用意をした。
急須と湯呑みにお湯を注いで丁寧に温める。外側までしっかり温まったらいったんお湯を捨て、急須に茶葉を入れて、またお湯を注いで茶葉が開くまでゆっくり待つ。
暫くすると、急須の注ぎ口から玉露の芳しい香りが立ち上ってくる。
私は大きく深呼吸をして、入れたてのお茶の爽やかな香気を体内に取り込んだ。
仕事が忙しくて余裕がない時も、嫌なことがあった時も、私はお茶だけは丁寧に入れるように心がけている。朝にふさわしいその香りは私の心まで満たし、忙しい日々で錆付いた頭をリセットしてくれる。
……私は、この瞬間が好きだった。
「……はあっ」
緑茶の香りを楽しんでリフレッシュできた私とは反対に、二宮さんは物憂げに深いため息をついた。
「どうかした?」
「あ、すみません。つい……」
「何か心配事? 私でよければいつでも聞くわよ」
そう言うと、彼女はなんとも気まずそうな顔で私を見上げる。
「あの、やっぱりこの会社もお茶汲みは女性の仕事なんですか?」
「そういうわけでもないけど。二宮さん、お茶汲みは嫌?」
「今どき女性ばかりがお茶を入れるだなんて、先輩は男女差別だと思わないんですか?」
「べつに思わないわ」
「えっ?」
私が言いきると、と二宮さんは口を開けたまま、再び固まってしまった。
「お茶ってリラックス効果があるでしょう?」
「はい?」
私を見る二宮さんは、「この人は突然何を言い出すの?」とでも言いたげだ。それでも構わず、私は話を続けた。
「たとえば、残業続きで疲れてる営業さんがいるとするでしょう。朝から美味しいお茶を飲めば、リフレッシュできてまた今日一日頑張ろうって思ってくれるかもしれない。企画会議中、なかなかいいアイデアが出なくてみんなして煮詰まってたのに、自分の入れたお茶で気分転換ができて、新しい発想が生まれるかもしれない。例えはちょっと大げさかもしれないけど、お茶一杯でみんなが気分良く仕事してくれたらそれだけでも嬉しいと思わない?」
「あ……」
二宮さんの表情が、ほんの少し明るくなった。わかってくれたみたいで、私も嬉しくなる。
「考え方次第で、どんなにささいな仕事でも、やりがいって変わってくると思うの」
「そう……なのかもしれないですね」
二宮さんなりの気づきがあったらしく、みるみる表情が明るくなる。
「これから一緒に頑張りましょうね」
「はい!」
二宮さんは私の言葉に笑顔で頷いてくれた。私も満足して、彼女に笑みを返した。
「このお茶、私がお出ししてもいいですか?」
「もちろん! お願いするわね」
給湯室へ向かった時とは打って変わって、二宮さんはすっかり明るい表情になった。二人で廊下を歩いていると、外食事業部の方から女の子たちの甲高い声が聞こえてくる。
「……何かあったんでしょうか?」
「さあ、何かしら」
そろそろ朝礼が始まる時間だ。普段ならオフィスはピリッとした緊張感に包まれているはず。
二宮さんに部長へのお茶出しを任せて自分の席に戻ると、響子が慌てて駆け寄ってきた。
「何の騒ぎ?」
「何って三谷さん、上村くんですよ。彼、ここに配属になったんです」
「あ、上村も今日からだっけ」
私は響子と話をしながら、パソコンの電源を入れた。
デスクには書類とファイルの山。今日もやるべきことはたくさんある。
「そうですよ、ほら」
響子に肩を叩かれて顔を上げると、野々村部長と談笑している上村の姿が見えた。
相変わらず見栄えのする男だ。
涼やかな目元に、少しくせのある髪。身長はたぶん180センチを超えてるはず。外食事業部で一番背が高いはずの野々村部長が、上村のことを少し見上げて話している。
「しばらくはみんな落ち着かないわね」
みんなっていうのは、まあ主に女の子たちだけど。
「そうなんですよ。見てくださいよ、あの美奈子の張りきりよう!」
響子に腕をつつかれて、こっそり美奈子の顔を盗み見る。出勤した時よりもいくらかメイクが濃くなっているような気がした。
「ほんと、これから騒がしくなりそうですよねぇ」
「ちょっと心配でもあるけどね……」
ため息混じりにそう言って、私はその心配のもとである美奈子の様子を窺った。
美奈子はただでさえ恋愛に現を抜かしがち。そして、そうなるとさらに仕事が疎かになってしまう。
思わず頭を抱える私に反し、響子はすっかりこの状況を楽しんでいる。舌なめずりでもしそうな勢いだ。
「響子、トラットリア・ロッソの契約書終わったの? 鮫島主任がまだ書類が上がってこないって朝からぼやいてたわよ」
「いけない! すぐやりまっす」
天敵、鮫島主任の顔が頭に浮かんだのか、響子は逃げるようにデスクに帰っていった。
「はあ……」
今日何度目かわからないため息が漏れる。
私はスムーズに仕事を進めたいだけなのに、美奈子は仕事そっちのけで目新しい男に気を取られている。いや、ひょっとしたら、美奈子だけじゃないのかも。
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最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
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