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【74】雪の影
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霜雹公領の新たな街――プルイナソルに、雪が舞っている。
この凍て地では珍しいことではない。
溶けにくい氷は今や、この地の特産だ。削り出した透明氷は高値で取引され、街の財政を支えている。
寒さは資源だ。
だが同時に、刃でもある。
「魔族は丈夫とはいえ、弱い奴は凍死もしますからねー」
《深影候》ザイファが、書類を片手に軽い口調で言った。軽い笑みだが、目はちゃんと真剣だ。
「まー仕方無いっすね……って言いたいとこっすけど、民は国の所有物っていうジルディウス様の命もありますからねー」
ヒューは何も答えず、ただ頷いた。
魔族の感覚に、弱者を守るという発想は本来ない。弱い者は淘汰される。それが自然だ。
だが、ここは“国”になろうとしている。
ジルはそのことをちゃんと分かっている。
「これから、もっと寒くなんのか?」
「ええ……雪が降り出すと。吹雪けば、慣れていない流民は持ちません……」
《宵帳候》ヘイルが、別の書類を差し出す。
「他公領からの流入が急増しています。ネメシア圏からの離脱者も含まれているようで……」
紙面には数字が並ぶ。
増える民。増える胃袋。増える弱点。
「移民が霜雹領公に偏ってんな……ここに力入れてるから仕方ねーけど……」
「増やし過ぎたかもしれません……ダルいことに……」
ヘイルが息を吐きながら言う。
「申し訳ございません……」
三候の所為ではない。
いまは各地に街を作っている余裕が無い。
一箇所にまとまったほうが守りやすいと思うのは、自然だ。
魔族は仕事が早い。
新しい街は急速に栄え、民が増えたぶん、問題も増える。
栄えた街への移住を希望する者が増え、人材の増加は街の発展を加速させた。しかし、そろそろキャパオーバーを起こしかけている。
それに加え、霜雹公領独特の寒さだ。
「寒冷の属性を持つゼルナンド公の眷属なら、寒さに強いですがぁ」
《静露候》リリザが、ふわりと毛布を広げた。
「これ、余り布で作ったんですぅ。まあまあ暖かいですよぉ」
ヒューは触れてみる。
粗いが、確かに温もりはある。
「まだあるなら、生地は夜冠公が買い上げる。毛布を量産して開拓地へ送ってくれ」
「あ、でも職人はいま交易品の織物に追われてましてぇ……」
「城の使用人にも縫わせる。裁縫が出来る者は多いはずだ」
「かしこまりましたぁ」
決断は速いほうが、彼らも動きやすいと、ヒューも分かってきた。
魔族は、動き出すと止まらない。
ザイファがにやりとする。
「弱者に優しいですね、夜冠公妃」
「弱者を放置すると、後で面倒になる」
ヒューは感情が出ないよう、素っ気なく返した。
だが本心は、別だ。
凍える者を見るのが嫌いなだけだ。
雪がちらつくと、神聖国での寒さを思い出す。
降り始めが一番怖かった。これからどんどん寒くなっていくのだと、それが分かっているから恐ろしかった。
「……凍死者は、出さないようにしてくれ」
そのとき、扉が開いた。
静かな足音。
空気が一瞬で冷える。
「失礼いたします」
氷の気配を纏わせ、魔族の女が入室した。
雪のような白い肌と、白い髪を結い上げ、頭の高いところで一つに長く垂らしている。
透き通った氷のような角は、冷たき眷属の証だ。
「《残雪候》ニヴェリアです。夜冠公妃様に、申し上げたきことがあります」
実直な彼女が、膝を突こうとしたので、ヒューは慌てて止めた。
「いいよ、普通で」
「では、夜冠公妃様。ゼルナンド様からのご提案があります」
「ゼルナンド?」
あの眠たいと言ってばかりの男が、珍しい。
ヒューは首を傾げた。
ニヴェリアが淡々と告げた。
「……霜雹公領の北側に、ゼルナンド様が氷壁を築くと。風向きが変われば被害は減ります」
「氷壁?」
ヒューが問い返す。
「氷壁で地形を変え、吹き溜まりを制御します。寒さは多少“管理”出来ると」
簡単に言うが、とんでもない提案だ。
「さすが霜雹領公様。氷を売るだけじゃなく、氷で守られた地か」
ザイファが目を細めた。
「……寒さは民の敵になりえますが」
ニヴェリアの真横に、窓がある。その外で、降り始めた雪が舞っている。
「扱い方を知らぬ者にとってのみです」
ヒューはしばらく雪を見ていた。
寒さは敵だ。
だが、ゼルナンドたちにとっては、武器にも盾にもなるということだ。
「でも、氷壁で北側は更に気温が下がる。完全に極寒の地になるな」
「はい。氷壁を築けば、街の風は穏やかになります。ただし……」
ニヴェリアが一瞬だけ言葉を区切る。
「そのぶん、北側の荒野に風圧が集中します。開発予定だった地は、計画を断念せざるを得ないでしょう」
ヒューは迷わず答えた。
「氷壁を作ろう。守れば、どこかに歪みが出る。仕方ない」
「はい」
ニヴェリアがあっさり頷く。
「何もせずに凍死者を出すよりは、制御下に置けばよいだろうと、ゼルナンド様が」
「なんか、意外だな」
ヒューは目を瞬かせた。
ゼルナンドは自分の領地に無頓着で、荒れ地のままにしていた男だ。
「公は現在、魔瘴濃度も合わせて計測中です。氷壁を魔術式に組み込み、魔瘴の侵入を防ぐと」
ザイファが口笛を吹いた。
「結界兼、防壁兼、気候操作っすか。さすが上位魔公の中でも、魔術応用の大天才だ」
「この霜雹公領内においては、ゼルナンド様こそ至高の王ですから」
冷静なニヴェリアの声に、わずかな誇りが滲む。
ヒューはその横顔を見た。
彼女の瞳はゼルナンドを尊敬している。忠実な軍人の目をしていた。
「ニヴェリア。ゼルナンドは、いまどこに?」
「北側測量地に」
「行って来る」
ヒューの言葉に、三候が顔を見合わせる。
「今からですか?」
「今から」
ヒューは外套を掴んだ。
「寒さを管理するってんなら、詳細も聞きたいし。ここはもう、俺の国でもある」
「夜冠公妃様、私が送ります」
ニヴェリアが申し出た。
「霜雹公配下の魔候であれば、この領地を自由に転移出来ますから」
彼女の手が、静かに空間を裂いた。
氷片が砕けるような音と共に、青白い転移陣が展開する。
「風圧が強いです。お足元にご注意を」
次の瞬間、視界は白に塗り潰された。
――北側荒野。
吹き付ける風は、街中とは比べものにならない。
ヒューの頬を裂くような冷気。
肺が凍り付くほどの乾いた空気。
その中心に、立っている男がいた。
色の無い髪が風に揺れ、眠たげな半眼がこちらを向く。
陽光の無いのに透き通って輝く氷角と、脊柱から伸びているのは、氷柱なのか翼なのか、判別が出来ないが、淡い輝きをはらんで美しい。
その彼の周りは、あっという間に冷たく凍りつき、周囲には氷の塊がいくつも転がっている。
「……眠い……」
ゼルナンドは第一声でそれだけ言った。
「お前、立てたのか……」
ヒューは思わず呟いた。玉座に寝そべっている姿しか見たことがない。
「そりゃ立てるよ……」
欠伸をつく姿は、なんだかセシィリアを思い出す。
その足元には、氷の杭が何本も突き立てられていた。
それぞれが魔術式の基点になっているらしい。
「どうするんだ?」
「風向きが北東に偏っているから……氷壁を湾曲させれば、街への直撃は避けられる……」
ゼルナンドが淡々と説明する。
「ありがとう。街を、守ってくれるなんて……思わなかったよ」
「まあ、俺の領内だしね……」
んー、とゼルナンドが曖昧に言葉を濁す。
「……ちょっと、うちも賑やかになってきたっぽいし……」
声は無感情だが、どこか以前の彼と違う。
孤独な氷の城の中で、栄えていく領内の様子を見ているのだろうか。
「ゼルナンド……ありがとう。助かる」
「ん……」
ヒューは、周囲を見渡した。
遮るものの無い、北側の荒野。
すでに地面が異様に白い。
「……ここ、冷え過ぎてないか?」
「そりゃ……もうすでに、寒さを集約してるし……」
「集約?」
「寒さも、魔瘴も、流れがある……無理に止めれば澱むから……」
言いながら、ゼルナンドは氷杭に手を触れた。
瞬間、空気が軋んだ。
「氷壁で街を守る――同時に、“溜める器”にする」
「器……ここに、魔瘴の吹き溜まりにするのか?」
「そういうこと……かな」
ヒューは眉を寄せた。
「つまり、この北側を捨てるってことか……」
「魔瘴を集めれば、寒冷を好む大型魔獣が寄る可能性が高くなります」
ニヴェリアが即座に補足した。
「しかし、そのぶん街や街道を襲う魔獣は、減るかと」
狼の遠吠えが聴こえた。
氷河狼――巨大な狼で、しかも群れだ。
あんな魔獣が街の近くに出現したら、魔境線への輸送も止まる。
ヒューが息を吐くと、冷たい空気にすぐに溶けた。
守れば、歪みが出る。自分で言った言葉だ。しかしゼルナンドはあえて、この荒野を歪ませ、リスクを集約させた。
「それでも大型魔獣が増え続けるなら、《氷柱結界》で街を囲むけど……」
ゼルナンドは軽く腕を振った。
雪が集まり、あっという間に氷の柱がそびえ立った。
「これを礎に作る結界。ただし、街全体の気温はさらに下がるね」
「最後の手段にしたいな……」
ヒューは肩を震わせ、呟いた。
いっそドレスを着てくれば良かった。ジルディウスが盛りに盛った防護機能で、寒さも感じない。
それでも体の中のミストの加護と、《魔炎公》フェルグリムに貰った不死鳥の石を装備しているので、少しは和らいでいる。
「……ん?」
体の奥で、そのミストが何か訴えている。
胸の痛みに似た、小さな信号。
自然に、ヒューは雪嵐の向こうを見た。
――そのとき。
遠くで、何かが動いた。
白い影。
魔獣にしては小さい。
「……あっちに、何かいる」
ゼルナンドの蒼い瞳が光る。
ニヴェリアの手が腰に下げた細剣に伸びた。
氷の王が視線を走らせると、その一帯だけ吹雪が薄れた。
見えた。
雪に覆われた毛並み。四つ足。鋭い爪。
だが、体格が小さ過ぎる。子供だ。
「ここらで見たことない……珍しい種だな」
ヒューがぽつりと呟く。
「狩りますか?」
ニヴェリアが尋ねる。
ヒューは目を細めた。
小さな獣は、こちらを睨んでいる。
逃げそうで、逃げない。
いや、逃げられないのか、と思った。
それだけの強さが無いのだ。
ヒューたちの姿に、驚き、戸惑っている。
まだそんな、幼い命だ。
その後ろにもう二つ、さらに小さな影が揺れた。
それを見たとき、ヒューの胸の奥が、酷く軋んだ。
雪の中で固まっている、三つの影。
小さな獣の兄弟たち。
一番前でこちらをじっと見ているのが、兄だろうか。
「……ぁ……」
小さく息を漏らし、ヒューは頭を振った。
「……だいじょぶ?」
ゼルナンドが、不思議そうに尋ねた。
ヒューはかすかに頷き、呻くように漏らした。
「……殺さないでくれ……」
何かを護るようにして立つ、幼い兄。
その後ろで寄り添う、小さな弟たち。
あんなふうに――雪の中で身を寄せ合った。
吹雪の中で見えなくなった、兄の背中。
腕の中で冷たくなった、弟の体。
ゼルナンドが半眼のまま、風の向こうを見つめる。
「獣の仔……」
呟いて、ニヴェリアに目線を送る。彼女は頷き、剣を抜いた。
獣の仔が、牙を剥く。
「やめて!」
思わずヒューが叫ぶと、ニヴェリアは抜いた細剣をただ掲げた。周囲の雪が跳ね、ヒューたちと獣たちの間に、白い幕が巻き上がる。
視界を遮る、雪のヴェール。
「これで、互いの姿は見えません……じきに去ります」
ニヴェリアが、静かに告げ、剣を収めた。
「しかし、さっきの獣たち……我が領の生き物ではありません。流れてきたのであれば、この地では生きられないでしょう」
単なる事実を、ニヴェリアは述べているだけだ。しかしそれが、ヒューの胸に刺さって、ずきずきと痛んだ。
心臓が抉られるように痛む。
「……お義姉ちゃん?」
ゼルナンドの無機質な声が、ヒューの耳に刺さるように響いた。
呼ばれて、自分が震えていることに気づく。寒さの所為じゃない。
「ヴァルナオグを倒した、人間の英雄……だっけ?」
ヒューは答えず、虚ろな視線を雪原に向けている。
獣たちはもう、去っただろうか。
「……そんなに強くても、人間は、心の傷で戦えなくなるんだね」
ゼルナンドが、静かに言った。
「それだと、姉貴にやられるよ」
彼は欠伸を噛み殺し、視線を戻した。
「……ていうか、その前に寒さにやられる。もう帰んな。あとは俺、やっとくから……」
そう言って、ゼルナンドは、氷壁の術式に手をかけた。
風が鳴る。吹雪が増す。
嵐の匂いがした。
この凍て地では珍しいことではない。
溶けにくい氷は今や、この地の特産だ。削り出した透明氷は高値で取引され、街の財政を支えている。
寒さは資源だ。
だが同時に、刃でもある。
「魔族は丈夫とはいえ、弱い奴は凍死もしますからねー」
《深影候》ザイファが、書類を片手に軽い口調で言った。軽い笑みだが、目はちゃんと真剣だ。
「まー仕方無いっすね……って言いたいとこっすけど、民は国の所有物っていうジルディウス様の命もありますからねー」
ヒューは何も答えず、ただ頷いた。
魔族の感覚に、弱者を守るという発想は本来ない。弱い者は淘汰される。それが自然だ。
だが、ここは“国”になろうとしている。
ジルはそのことをちゃんと分かっている。
「これから、もっと寒くなんのか?」
「ええ……雪が降り出すと。吹雪けば、慣れていない流民は持ちません……」
《宵帳候》ヘイルが、別の書類を差し出す。
「他公領からの流入が急増しています。ネメシア圏からの離脱者も含まれているようで……」
紙面には数字が並ぶ。
増える民。増える胃袋。増える弱点。
「移民が霜雹領公に偏ってんな……ここに力入れてるから仕方ねーけど……」
「増やし過ぎたかもしれません……ダルいことに……」
ヘイルが息を吐きながら言う。
「申し訳ございません……」
三候の所為ではない。
いまは各地に街を作っている余裕が無い。
一箇所にまとまったほうが守りやすいと思うのは、自然だ。
魔族は仕事が早い。
新しい街は急速に栄え、民が増えたぶん、問題も増える。
栄えた街への移住を希望する者が増え、人材の増加は街の発展を加速させた。しかし、そろそろキャパオーバーを起こしかけている。
それに加え、霜雹公領独特の寒さだ。
「寒冷の属性を持つゼルナンド公の眷属なら、寒さに強いですがぁ」
《静露候》リリザが、ふわりと毛布を広げた。
「これ、余り布で作ったんですぅ。まあまあ暖かいですよぉ」
ヒューは触れてみる。
粗いが、確かに温もりはある。
「まだあるなら、生地は夜冠公が買い上げる。毛布を量産して開拓地へ送ってくれ」
「あ、でも職人はいま交易品の織物に追われてましてぇ……」
「城の使用人にも縫わせる。裁縫が出来る者は多いはずだ」
「かしこまりましたぁ」
決断は速いほうが、彼らも動きやすいと、ヒューも分かってきた。
魔族は、動き出すと止まらない。
ザイファがにやりとする。
「弱者に優しいですね、夜冠公妃」
「弱者を放置すると、後で面倒になる」
ヒューは感情が出ないよう、素っ気なく返した。
だが本心は、別だ。
凍える者を見るのが嫌いなだけだ。
雪がちらつくと、神聖国での寒さを思い出す。
降り始めが一番怖かった。これからどんどん寒くなっていくのだと、それが分かっているから恐ろしかった。
「……凍死者は、出さないようにしてくれ」
そのとき、扉が開いた。
静かな足音。
空気が一瞬で冷える。
「失礼いたします」
氷の気配を纏わせ、魔族の女が入室した。
雪のような白い肌と、白い髪を結い上げ、頭の高いところで一つに長く垂らしている。
透き通った氷のような角は、冷たき眷属の証だ。
「《残雪候》ニヴェリアです。夜冠公妃様に、申し上げたきことがあります」
実直な彼女が、膝を突こうとしたので、ヒューは慌てて止めた。
「いいよ、普通で」
「では、夜冠公妃様。ゼルナンド様からのご提案があります」
「ゼルナンド?」
あの眠たいと言ってばかりの男が、珍しい。
ヒューは首を傾げた。
ニヴェリアが淡々と告げた。
「……霜雹公領の北側に、ゼルナンド様が氷壁を築くと。風向きが変われば被害は減ります」
「氷壁?」
ヒューが問い返す。
「氷壁で地形を変え、吹き溜まりを制御します。寒さは多少“管理”出来ると」
簡単に言うが、とんでもない提案だ。
「さすが霜雹領公様。氷を売るだけじゃなく、氷で守られた地か」
ザイファが目を細めた。
「……寒さは民の敵になりえますが」
ニヴェリアの真横に、窓がある。その外で、降り始めた雪が舞っている。
「扱い方を知らぬ者にとってのみです」
ヒューはしばらく雪を見ていた。
寒さは敵だ。
だが、ゼルナンドたちにとっては、武器にも盾にもなるということだ。
「でも、氷壁で北側は更に気温が下がる。完全に極寒の地になるな」
「はい。氷壁を築けば、街の風は穏やかになります。ただし……」
ニヴェリアが一瞬だけ言葉を区切る。
「そのぶん、北側の荒野に風圧が集中します。開発予定だった地は、計画を断念せざるを得ないでしょう」
ヒューは迷わず答えた。
「氷壁を作ろう。守れば、どこかに歪みが出る。仕方ない」
「はい」
ニヴェリアがあっさり頷く。
「何もせずに凍死者を出すよりは、制御下に置けばよいだろうと、ゼルナンド様が」
「なんか、意外だな」
ヒューは目を瞬かせた。
ゼルナンドは自分の領地に無頓着で、荒れ地のままにしていた男だ。
「公は現在、魔瘴濃度も合わせて計測中です。氷壁を魔術式に組み込み、魔瘴の侵入を防ぐと」
ザイファが口笛を吹いた。
「結界兼、防壁兼、気候操作っすか。さすが上位魔公の中でも、魔術応用の大天才だ」
「この霜雹公領内においては、ゼルナンド様こそ至高の王ですから」
冷静なニヴェリアの声に、わずかな誇りが滲む。
ヒューはその横顔を見た。
彼女の瞳はゼルナンドを尊敬している。忠実な軍人の目をしていた。
「ニヴェリア。ゼルナンドは、いまどこに?」
「北側測量地に」
「行って来る」
ヒューの言葉に、三候が顔を見合わせる。
「今からですか?」
「今から」
ヒューは外套を掴んだ。
「寒さを管理するってんなら、詳細も聞きたいし。ここはもう、俺の国でもある」
「夜冠公妃様、私が送ります」
ニヴェリアが申し出た。
「霜雹公配下の魔候であれば、この領地を自由に転移出来ますから」
彼女の手が、静かに空間を裂いた。
氷片が砕けるような音と共に、青白い転移陣が展開する。
「風圧が強いです。お足元にご注意を」
次の瞬間、視界は白に塗り潰された。
――北側荒野。
吹き付ける風は、街中とは比べものにならない。
ヒューの頬を裂くような冷気。
肺が凍り付くほどの乾いた空気。
その中心に、立っている男がいた。
色の無い髪が風に揺れ、眠たげな半眼がこちらを向く。
陽光の無いのに透き通って輝く氷角と、脊柱から伸びているのは、氷柱なのか翼なのか、判別が出来ないが、淡い輝きをはらんで美しい。
その彼の周りは、あっという間に冷たく凍りつき、周囲には氷の塊がいくつも転がっている。
「……眠い……」
ゼルナンドは第一声でそれだけ言った。
「お前、立てたのか……」
ヒューは思わず呟いた。玉座に寝そべっている姿しか見たことがない。
「そりゃ立てるよ……」
欠伸をつく姿は、なんだかセシィリアを思い出す。
その足元には、氷の杭が何本も突き立てられていた。
それぞれが魔術式の基点になっているらしい。
「どうするんだ?」
「風向きが北東に偏っているから……氷壁を湾曲させれば、街への直撃は避けられる……」
ゼルナンドが淡々と説明する。
「ありがとう。街を、守ってくれるなんて……思わなかったよ」
「まあ、俺の領内だしね……」
んー、とゼルナンドが曖昧に言葉を濁す。
「……ちょっと、うちも賑やかになってきたっぽいし……」
声は無感情だが、どこか以前の彼と違う。
孤独な氷の城の中で、栄えていく領内の様子を見ているのだろうか。
「ゼルナンド……ありがとう。助かる」
「ん……」
ヒューは、周囲を見渡した。
遮るものの無い、北側の荒野。
すでに地面が異様に白い。
「……ここ、冷え過ぎてないか?」
「そりゃ……もうすでに、寒さを集約してるし……」
「集約?」
「寒さも、魔瘴も、流れがある……無理に止めれば澱むから……」
言いながら、ゼルナンドは氷杭に手を触れた。
瞬間、空気が軋んだ。
「氷壁で街を守る――同時に、“溜める器”にする」
「器……ここに、魔瘴の吹き溜まりにするのか?」
「そういうこと……かな」
ヒューは眉を寄せた。
「つまり、この北側を捨てるってことか……」
「魔瘴を集めれば、寒冷を好む大型魔獣が寄る可能性が高くなります」
ニヴェリアが即座に補足した。
「しかし、そのぶん街や街道を襲う魔獣は、減るかと」
狼の遠吠えが聴こえた。
氷河狼――巨大な狼で、しかも群れだ。
あんな魔獣が街の近くに出現したら、魔境線への輸送も止まる。
ヒューが息を吐くと、冷たい空気にすぐに溶けた。
守れば、歪みが出る。自分で言った言葉だ。しかしゼルナンドはあえて、この荒野を歪ませ、リスクを集約させた。
「それでも大型魔獣が増え続けるなら、《氷柱結界》で街を囲むけど……」
ゼルナンドは軽く腕を振った。
雪が集まり、あっという間に氷の柱がそびえ立った。
「これを礎に作る結界。ただし、街全体の気温はさらに下がるね」
「最後の手段にしたいな……」
ヒューは肩を震わせ、呟いた。
いっそドレスを着てくれば良かった。ジルディウスが盛りに盛った防護機能で、寒さも感じない。
それでも体の中のミストの加護と、《魔炎公》フェルグリムに貰った不死鳥の石を装備しているので、少しは和らいでいる。
「……ん?」
体の奥で、そのミストが何か訴えている。
胸の痛みに似た、小さな信号。
自然に、ヒューは雪嵐の向こうを見た。
――そのとき。
遠くで、何かが動いた。
白い影。
魔獣にしては小さい。
「……あっちに、何かいる」
ゼルナンドの蒼い瞳が光る。
ニヴェリアの手が腰に下げた細剣に伸びた。
氷の王が視線を走らせると、その一帯だけ吹雪が薄れた。
見えた。
雪に覆われた毛並み。四つ足。鋭い爪。
だが、体格が小さ過ぎる。子供だ。
「ここらで見たことない……珍しい種だな」
ヒューがぽつりと呟く。
「狩りますか?」
ニヴェリアが尋ねる。
ヒューは目を細めた。
小さな獣は、こちらを睨んでいる。
逃げそうで、逃げない。
いや、逃げられないのか、と思った。
それだけの強さが無いのだ。
ヒューたちの姿に、驚き、戸惑っている。
まだそんな、幼い命だ。
その後ろにもう二つ、さらに小さな影が揺れた。
それを見たとき、ヒューの胸の奥が、酷く軋んだ。
雪の中で固まっている、三つの影。
小さな獣の兄弟たち。
一番前でこちらをじっと見ているのが、兄だろうか。
「……ぁ……」
小さく息を漏らし、ヒューは頭を振った。
「……だいじょぶ?」
ゼルナンドが、不思議そうに尋ねた。
ヒューはかすかに頷き、呻くように漏らした。
「……殺さないでくれ……」
何かを護るようにして立つ、幼い兄。
その後ろで寄り添う、小さな弟たち。
あんなふうに――雪の中で身を寄せ合った。
吹雪の中で見えなくなった、兄の背中。
腕の中で冷たくなった、弟の体。
ゼルナンドが半眼のまま、風の向こうを見つめる。
「獣の仔……」
呟いて、ニヴェリアに目線を送る。彼女は頷き、剣を抜いた。
獣の仔が、牙を剥く。
「やめて!」
思わずヒューが叫ぶと、ニヴェリアは抜いた細剣をただ掲げた。周囲の雪が跳ね、ヒューたちと獣たちの間に、白い幕が巻き上がる。
視界を遮る、雪のヴェール。
「これで、互いの姿は見えません……じきに去ります」
ニヴェリアが、静かに告げ、剣を収めた。
「しかし、さっきの獣たち……我が領の生き物ではありません。流れてきたのであれば、この地では生きられないでしょう」
単なる事実を、ニヴェリアは述べているだけだ。しかしそれが、ヒューの胸に刺さって、ずきずきと痛んだ。
心臓が抉られるように痛む。
「……お義姉ちゃん?」
ゼルナンドの無機質な声が、ヒューの耳に刺さるように響いた。
呼ばれて、自分が震えていることに気づく。寒さの所為じゃない。
「ヴァルナオグを倒した、人間の英雄……だっけ?」
ヒューは答えず、虚ろな視線を雪原に向けている。
獣たちはもう、去っただろうか。
「……そんなに強くても、人間は、心の傷で戦えなくなるんだね」
ゼルナンドが、静かに言った。
「それだと、姉貴にやられるよ」
彼は欠伸を噛み殺し、視線を戻した。
「……ていうか、その前に寒さにやられる。もう帰んな。あとは俺、やっとくから……」
そう言って、ゼルナンドは、氷壁の術式に手をかけた。
風が鳴る。吹雪が増す。
嵐の匂いがした。
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※短め
昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
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主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される
水凪しおん
BL
「お前の匂いがないと、私は息ができない」
宮廷薬師のルチアーノは、オメガであることを隠し、自作の抑制薬でベータと偽って生きてきた。
しかしある日、冷徹無比と恐れられる「氷の宰相」アレクセイにその秘密がバレてしまう。
処刑を覚悟したルチアーノだったが、アレクセイが求めたのは、ルチアーノの身体から香る「匂い」だった!?
強すぎる能力ゆえに感覚過敏に苦しむ宰相と、彼の唯一の安らぎとなった薬師。
秘密の共有から始まる、契約と執着のオメガバース・ロマンス!
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とてもとても描写の美しい作品、楽しませて頂いております。うっとりする様な視覚的表現やそれぞれの名付けの言葉選びに美しさのある小説は稀で何度も読み返してしまいます。特にジルディウスの城に転移してからの下りが大好きです。ノクティアの衣装素敵…。登場人物それぞれの背景や個性の設定も脇役に至るまで隅々までガッツリしっかりしており、読み応えがあります。このクオリティで毎日の更新、大変な質量のお仕事だと察せられますが、読み手としては毎日素晴らしい物語の続きを目にする事が出来、感謝しております。本当にありがとうございます!
「俺の部下になれ、そうすれば俺がすべてを管理してやる。
になってましたが 」で閉じるの忘れてますよ
ご報告ありがとうございます。
これは読みにくいですね。助かりました。
修正しました。
けれどのその毒すら、ミストは引き受けて成長する。
になってましたが
けれどその毒すら では?
ご報告ありがとうございます。
こちらも遅くなりましたが、修正しました。