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逃走
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走るバルドゥルに、少女は事態が全く飲み込めていなかった。
ただ、大変なことが今起こっているのだということだけはわかった。
「おい!後ろ見えるか?」
突然バルドゥルに話しかけられた。
肩越しに後方を見やる。
一瞬何でもない人垣だが、少女にはすぐに分かった。
人々の波の中、確かに2人に近づいてくる1人の人間。
黒いローブのフードを深く被ったその人物は、行き交う行商や町民の間を縫うようにして少しづつ距離を縮めていっている。
「あれは誰ですか?」
「さあな。」
「誰かも分からない人から逃げてるんですか?」
「ああ、ただひとつ分かるのは、あれが俺の味方じゃないってことだな。」
走り続けるバルドゥル。
と、いきなり速度を落とし、危うく少女はバルドゥルの腕から転げ落ちそうになった。
「バ…バルドゥル?」
少女の問いかけに答えるでもなく、ただバルドゥルは荒い息を吐きながら壁に手をついてついに足を止めた。
どこかが痛むのだろうか。
振り返ると、もうすぐそこまで黒いフードが近づいている。
「バルドゥル!」
「っち…わかってるって。」
バルドゥルは再び走り出したが、先程よりも速度はぐっと落ちていた。
少女はバルドゥルの肩に手を置き、もう片手を横に伸ばした。
「おい…何してんだよ。」
「私にも何かさせて下さい!」
向こう側から歩いてくる中年女性がオレンジの入った籠を運んでいるのを見てとると、すれ違いざまにさっと腕を伸ばしてそれをひとつ掴み、後ろに狙いをつけて投げた。
見事オレンジは追手の頭に当たり、それに驚いた弾みでフードが外れた。
少女は息を飲んだ。
その男の目は、瞳が片方に2つずつ付いていたのだ。
バルドゥルと同じかそれより若いだろうか。
長い金髪を後ろで束ね、合計四つの瞳は、深い怒りを湛えた、しかし美しい藍鉄色だった。
近くにいた人々は、その男を見、ぎょっとして離れていった。
それに気づいた他の者も、同じように後ずさった。
バルドゥルは歩みを止め、様子を伺った。
「ひっ…何なのあの目は。」
「瞳が四つも…。」
「明らかに普通じゃない。近づくな。うつるかもしれん…。」
「まるで化け物…」
「気持ち悪い…。」
今や男の近くを避けて人が取り囲み、男に好奇の目を向けていた。
まるで、見世物小屋のように。
少女は、男が一瞬…ほんの一瞬だけ…悲しみと恐怖に満ちた表情をするのを見た気がした。
しかし、すぐに表情を変え、2人を睨みながらフードをかぶり直した。
今日はここまでだ。
だが、次はこうはいかないぞ。
そう男の目は告げていた。
男は2人から目を離し、人混みへと走った。
慌てて見物客が道を開ける。
と、男は裏路地へと駆け入り、姿を消してしまった。
森は夕暮れが近くなり、木々の長い影が泉の水面まで伸びていた。
森に戻ってから、バルドゥルはベッドに腰掛けたまま、ただ1点を見つめ、ずっと何やら考え込んでいる。
少女は暫く突っ立っていたが、沈黙に耐えかねて口を開いた。
「あの、あの人は何者でしょう?」
「…さあな。」
「さっき、どこか痛がっているようでしたが、どうしたんですか?」
「別に…。」
また沈黙。
次の言葉を発して良いものか考えていると、突然バルドゥルの方から話しかけられた。
「そういや、お前はなにか思い出したか?」
「え?」
「街の景色とか、城とか、色々見ただろ。なにか思い出せるもんとかあったか?」
少女は確かにそうだと思い記憶を辿ったが、やはり自らの過去の部分だけは濃い霧がかかったようだった。
「…そうか。」
黙ったままの少女を見て察したのだろう。
しばらくするとおもむろに立ち上り、街でずっと肩に掛けていた皮の袋を手に取り、中のものを引っ張り出した。
町娘が着るような深い緑のシンプルなドレスだった。
膝くらいの丈のスカートで、縁には金のラインが控えめに刺繍されている。
腹から胸元までは黒いリボンで締め上げられており、全体に引き締まった感じを与えていた。
「これは…?」
「いつまでもそんな服じゃ森で目立ってしょうがねえ。またオークに見つかって死にかけるよりいいだろ。」
バルドゥルは少し用事があるからと小屋を出た。
少女はそのドレスを抱いたまましばらくじっとしていたが、静かに泉の前まで歩いていった。
当たり前のように泉の水は澄み切っていて、当たり前のように森の木々は静まり返っている。
泉に映るのは、1人の少女。
少女は自分自身の姿を見るのは、もしかしたら初めてかもしれないと思った。
金髪の15,6の少女。
真剣な、あるいは険しい表情をした、1人の人間。
少女はすっかり汚れてしまった空色のドレスを脱いだ。
下着も、靴も、全部。
次に水面に現れたのは、全裸の少女だった。
これが、私。
誰だかもわからない、私。
バルドゥルも、あの男も、街の人々も、皆、自分が誰だか分かっている。
自分の居場所がある。
自分を…知っている人がいる。
私は?
私にもそんな人がいるのだろうか。
私は、私は、誰なのだろうか?
この水面に写っているのは、確かに私だが、同時にわたしではないのだ。
あくまで、肉体として、物体としての私でしかないのだ。
では、私はどこに…?
少女は吸い込まれるように泉に飛び込んだ。
ただ、大変なことが今起こっているのだということだけはわかった。
「おい!後ろ見えるか?」
突然バルドゥルに話しかけられた。
肩越しに後方を見やる。
一瞬何でもない人垣だが、少女にはすぐに分かった。
人々の波の中、確かに2人に近づいてくる1人の人間。
黒いローブのフードを深く被ったその人物は、行き交う行商や町民の間を縫うようにして少しづつ距離を縮めていっている。
「あれは誰ですか?」
「さあな。」
「誰かも分からない人から逃げてるんですか?」
「ああ、ただひとつ分かるのは、あれが俺の味方じゃないってことだな。」
走り続けるバルドゥル。
と、いきなり速度を落とし、危うく少女はバルドゥルの腕から転げ落ちそうになった。
「バ…バルドゥル?」
少女の問いかけに答えるでもなく、ただバルドゥルは荒い息を吐きながら壁に手をついてついに足を止めた。
どこかが痛むのだろうか。
振り返ると、もうすぐそこまで黒いフードが近づいている。
「バルドゥル!」
「っち…わかってるって。」
バルドゥルは再び走り出したが、先程よりも速度はぐっと落ちていた。
少女はバルドゥルの肩に手を置き、もう片手を横に伸ばした。
「おい…何してんだよ。」
「私にも何かさせて下さい!」
向こう側から歩いてくる中年女性がオレンジの入った籠を運んでいるのを見てとると、すれ違いざまにさっと腕を伸ばしてそれをひとつ掴み、後ろに狙いをつけて投げた。
見事オレンジは追手の頭に当たり、それに驚いた弾みでフードが外れた。
少女は息を飲んだ。
その男の目は、瞳が片方に2つずつ付いていたのだ。
バルドゥルと同じかそれより若いだろうか。
長い金髪を後ろで束ね、合計四つの瞳は、深い怒りを湛えた、しかし美しい藍鉄色だった。
近くにいた人々は、その男を見、ぎょっとして離れていった。
それに気づいた他の者も、同じように後ずさった。
バルドゥルは歩みを止め、様子を伺った。
「ひっ…何なのあの目は。」
「瞳が四つも…。」
「明らかに普通じゃない。近づくな。うつるかもしれん…。」
「まるで化け物…」
「気持ち悪い…。」
今や男の近くを避けて人が取り囲み、男に好奇の目を向けていた。
まるで、見世物小屋のように。
少女は、男が一瞬…ほんの一瞬だけ…悲しみと恐怖に満ちた表情をするのを見た気がした。
しかし、すぐに表情を変え、2人を睨みながらフードをかぶり直した。
今日はここまでだ。
だが、次はこうはいかないぞ。
そう男の目は告げていた。
男は2人から目を離し、人混みへと走った。
慌てて見物客が道を開ける。
と、男は裏路地へと駆け入り、姿を消してしまった。
森は夕暮れが近くなり、木々の長い影が泉の水面まで伸びていた。
森に戻ってから、バルドゥルはベッドに腰掛けたまま、ただ1点を見つめ、ずっと何やら考え込んでいる。
少女は暫く突っ立っていたが、沈黙に耐えかねて口を開いた。
「あの、あの人は何者でしょう?」
「…さあな。」
「さっき、どこか痛がっているようでしたが、どうしたんですか?」
「別に…。」
また沈黙。
次の言葉を発して良いものか考えていると、突然バルドゥルの方から話しかけられた。
「そういや、お前はなにか思い出したか?」
「え?」
「街の景色とか、城とか、色々見ただろ。なにか思い出せるもんとかあったか?」
少女は確かにそうだと思い記憶を辿ったが、やはり自らの過去の部分だけは濃い霧がかかったようだった。
「…そうか。」
黙ったままの少女を見て察したのだろう。
しばらくするとおもむろに立ち上り、街でずっと肩に掛けていた皮の袋を手に取り、中のものを引っ張り出した。
町娘が着るような深い緑のシンプルなドレスだった。
膝くらいの丈のスカートで、縁には金のラインが控えめに刺繍されている。
腹から胸元までは黒いリボンで締め上げられており、全体に引き締まった感じを与えていた。
「これは…?」
「いつまでもそんな服じゃ森で目立ってしょうがねえ。またオークに見つかって死にかけるよりいいだろ。」
バルドゥルは少し用事があるからと小屋を出た。
少女はそのドレスを抱いたまましばらくじっとしていたが、静かに泉の前まで歩いていった。
当たり前のように泉の水は澄み切っていて、当たり前のように森の木々は静まり返っている。
泉に映るのは、1人の少女。
少女は自分自身の姿を見るのは、もしかしたら初めてかもしれないと思った。
金髪の15,6の少女。
真剣な、あるいは険しい表情をした、1人の人間。
少女はすっかり汚れてしまった空色のドレスを脱いだ。
下着も、靴も、全部。
次に水面に現れたのは、全裸の少女だった。
これが、私。
誰だかもわからない、私。
バルドゥルも、あの男も、街の人々も、皆、自分が誰だか分かっている。
自分の居場所がある。
自分を…知っている人がいる。
私は?
私にもそんな人がいるのだろうか。
私は、私は、誰なのだろうか?
この水面に写っているのは、確かに私だが、同時にわたしではないのだ。
あくまで、肉体として、物体としての私でしかないのだ。
では、私はどこに…?
少女は吸い込まれるように泉に飛び込んだ。
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