神の翼

斗弧呂天

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救済

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ゆっくりと落ちて行く視界の中で捉えたのは、だった。
腕輪に入ったヒビから、黒い液体のような、気体のようなものが溢れ出している。
それはやがてディークを包み込み、呑み込んだ。
その黒い塊に包み込まれ、ディークは身体の感覚が、四肢の感覚が、無くなっていくのが分かった。
指先から手首、腕、そして肩。
やがて、全身が一つとなってーーー。


「何が起こった?」
カルダン王とその家臣達は後ずさる。
彼らの前には、形を変えながら渦を巻く黒い何かがあるばかり。
不意に、カルダン王が倒れた。
草むらに崩れ落ちたカルダン王の首からは、鮮血が迸っていた。
代わりに兵士の前に躍り出たのは、一匹の大きな犬だった。
深い緑色の長い毛を靡かせ、その犬は次々と兵士に飛びかかった。

刹那、デアハラムに恐ろしい雄叫びが響き渡った。
何重にも重なるその声は、デアハラムの更に奥ーーー嘗て人々が畏れ崇めた森、緑の精ナーテルダンの森から聴こえたのであった。
そして声の反響が尾を引くなか、地響きと共に、おぞましい生き物達が一斉に森から走り出てきた。

森の民だ。

民達は敵兵を薙ぎ払い、ある者は火を吹き、ある者は岩を投げつけ、またある者は人々に噛みつき、次々と兵士を倒していった。
何が起こったのか全く理解出来ずに立ち尽くす兵に、民達は容赦なく襲いかかった。
呆然としていたフレッタに、一匹の小人ホビットが走り寄った。
『よお嬢ちゃん、また会ったな!』
「あなたは…へグレタ!」
へグレタは石のハンマーを得意げに持ち替えまくし立てた。
『名前を覚えていてくれるとはな。嬉しいよ。ところで嬢ちゃん、何でこんなところにいるんだい?もしかして名無し子ヴァルサの奴、戦に女を連れ込むようになっちまったのか?こんな所にいたら危ないぜとにかく安全な場所へ。』
「へグレタ、教えて。あなた達は、どうしてここへ?」
『本当は森の外へは行っちゃいけないんだが、碧眼の君直々のお達しだ。参戦して我々の森を守れとさ。初めはぶーたれてる民達もいたんだが、俺たちの森を焼こうとした奴らってんなら話は別だ。』
へグレタはハンマーで近くの敵の脛を軽い身のこなしで打ち砕き、フレッタに振り向いた。
「碧眼の君…。」
『さあ。とにかく森の中は安全だ。ちょっと焼けちまったがな。まあ、ここよりはマシだぜ。ほら、こっちだ。』
へグレタに導かれるまま森へ向かおうとしたフレッタは、ふと何かを思い出して振り返った。
「ディーク!ディークは?王はどうなったの?」
『ディーク?誰だか知らんが、王様を討つ役はフルダムが買って出てる。碧眼の君の飼い犬だ。まあ負けることはないだろう。』


フルダムは近くの兵士をあらかた倒すと、黒い塊に駆け寄り、叫んだ。
汝、我の声を受けよデル・パルザヴ・ダッガ叫びの怨霊タキシム、お前達との契約はもはや無くなったはず!直ぐにその人間を離せ!敵なら討てただろう!』
しかし、フルダムの声は叫びの怨霊タキシムの塊には届かなかった。
『…そのまま負の魔力の餌食にするつもりか。』
フルダムは塊に飛びかかり、噛み付いた。
鋭い牙が黒黒とした肉に食い込み、ディークから引き剥がす。
タキシムは悲痛な叫び声をひとつあげ、ばらばらとディークから剥がれていった。
しかし、ディークの四肢は途中で千切れ、皮膚の至る所に黒い斑点が出来、翼は大きくひしゃげていた。
気を失っているらしく、タキシムが身体から離れた瞬間、ディークは倒れ込んだ。
名無し子ヴァルサ!』
フルダムの呼びかけにぴくりとも反応しない。
『負の力に身体を蝕まれている。このままでは…。』
フルダムは何やら呪文を唱えると、骨格がみるみるうちに変化し、人間のそれへと変わっていった。
暫くすると、そこに居た墓場の番犬クー・シーは見る影もなく、深緑の髪と服を身につけた男が立っていた。
『碧眼の君の命だ。少々癪だが、お前を死なせるわけにはいかない。持ちこたえろ。』
フルダムはディークを抱え上げ、全速力で走りだした。
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