コントレイルとちぎれ雲

葉月凛

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 死を間近にした人間に賢人であり続けることなど、望めない。執着から芽生えた暗い気掛かりは、あっという間に彼の心を支配した。決してきれいごとで済まないのだ。

 それでも──

「……そんなの、おかしいよ。死んでからも縛りつけようなんて、間違ってる」

  櫻井は、穏やかな顔をしていた。

「その通りだ。でも美奈子は、あいつの執着が嬉しいって言ってたよ」
「そんなの、酷いじゃないか」
「俺もね、嬉しかったんだよ。だって、あの子の親になれる。あいつの子供の、父親になれるんだから」
「………」

 ──ああ。櫻井は、その親友のことが好きだったのだ。そんな非情な申し出を、嬉しいと思える程に。

「翼という名は、亡くなる直前にあいつが考えたんだ。いい名前だろう? 自分の代わりに、翼を広げて羽ばたいて欲しいって。翼は、あいつの若い頃にそっくりなんだよ」

 残酷じゃないか。
 その親友は、最低だ。

「その人……知ってたの? あんたの気持ち」

 櫻井は、しばらく黙って薫の顔を見た。

「……どうだろうね、言ったことはないよ」

 櫻井が小さく微笑んだ。

「美奈子は、分かってたけどね」

 その親友も、知っていたに違いない。
 知っていて、その気持ちにつけ込んだのだ。

「酷いよ、そんなの……その親友は、最低だ」

 薫の目から、ぽろりと涙が零れた。

「いいんだ、俺がそうしたくて選んだことだから。どんな形でも、繋がっていたかったんだよ」

 美奈子が臨月を迎えた頃、2人が籍を入れたことを見届けて、安心したように彼は息を引き取った。

 恋人と親友に重い十字架を負わせた彼に、自分の息子を見ることを、神様は許さなかった。

「その後が、また大変でね。悲しむ暇もなかった」

 彼の病気は当時の医学ではどうしようもないものだった。

 大学病院の担当医師は、まだ30代の後半だった。医師としては十分若い方に入る。
 ただその分、寝る間も惜しんで過去の症例や論文を読み漁り、少しでも可能性のある治療法を見つけてはリスクを含め本人と両親に丁寧に説明し、できる限り試した。それは時に若干の効果を見せ、また時に副作用に苦しんだ。

 医師は懸命だったのだが、後にそれが災いする。

 彼の両親は、まだあまりに若すぎる息子の死を、到底受け入れられなかった。

 やり場のない悲しみは怒りに変わり、その感情は医師へと向けられた。経験不足の若い医師が医療ミスをしたのだと、助かる筈の息子を殺したのだと、訴えた。

 医学を学んでいた櫻井は、彼に医療ミスなどなかったことを知っていた。それどころか、その医師がどれだけ親身になって患者に向き合っていたか、その献身ぶりをずっと側で見てきたのだ。

 そのことを櫻井がいくら説明しても、医師に怒りを向けることで悲しみを転嫁している両親には、届かなかった。

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