コントレイルとちぎれ雲

葉月凛

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 櫻井は、12月に入ってすぐボストンへと出立した。

 見送りには行っていない。出発日は聞かなかった。その日、美奈子から櫻井が出発したと聞いた時は、さっと全身の血が下がった。

 事務所の窓から見上げた空はきれいな青で、ちぎれたような小さな雲がふわふわと浮いていた。その中を1本の飛行機雲コントレイルがくっきりと、その先端をはるか遠くへと伸ばしてゆくのが見えた。

 2回目の血液検査も問題なしとの連絡をもらい、心機一転、正社員の話を受けると美奈子に伝えた。美奈子は喜んでくれたが、就職に当たって提出した履歴書を見て、ぎょっとしていた。

『えっ、本城君のいた広告代理店って、あの大手だったの!? 何で辞めちゃったのよ、もったいない!』

 美奈子はもっと小さな会社だと思っていたようで、何なら薫はフリーターでふらふらしているくらいに考えていたらしい。

『待って、だめだわ。本城君ならもっといいところに再就職できるわよ』

 慌てて正社員の話を白紙に戻そうとする美奈子に、今度は薫が慌てて説得するはめになった。

 ここでの仕事が楽しくなっていることや音響に興味が出てきたこと、事務所の事業に深く関われることにやりがいを感じていること。
 話しているうちに、ああ自分はこういう会社で働きたかったんだな、と再認識できたのだった。

 前の会社では英司がいたから、自分はいつまでも後輩だという意識が取れなかった。年月と共に薫にも後輩社員ができていたのに、ろくに興味も示さなかったように思う。先輩社員としては最悪だったと今なら分かる。

 今月から始まる音響スタッフの研修は、親身になって取り組みたいと思っている。後輩社員の面倒見の良かった英司を、そこは素直に見習いたい。

 それに……櫻井と、どんな形でも繋がっていたかった。正社員の話を受けるに当たって、結局最後の踏ん切りは、そこでついた。どこかで聞いた話だと自嘲しながら。──櫻井は、好きだった親友とどんな形であれ繋がりが欲しくて、遺された子供の父親になったのだ。

 でも、たとえ始まりがそうであったとしても、櫻井はいい父親になっている。自分も、この仕事をがんばっていきたいと思う。

 年始にかけて田舎の実家に帰省して転職を伝えると、姉に『あんた音楽とか好きだっけ?』と不思議そうな顔をされた。両親は、ただ『がんばれ』と言ってくれて、ありがたかった。

 冬が緩み、桃の花が咲く頃に、絵里は元気な双子を生んだ。男女の双子は可愛らしく、絵里は誇らしげに母親の顔で笑っていた。

 その頃には披露宴の音響にも入るようになり、仕事の幅も広がった。人生の最高の瞬間に立ち会えるこの仕事は、緊張もさることながら達成感が大きい。何より、毎回幸せな気持ちになれる。

 美奈子は張り切って新しい仕事を取ってくるし、櫻井音楽事務所は忙しい日々を送っていた。

 ──櫻井とは、連絡を取っていない。

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