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食事のあとは、珍しくドライブに誘われた。
すっかり暗くなった街中をしばらく抜けたあと、なだらかな坂道に入った車は小高い丘へと登ってゆく。平日の晩ということもあり、すれ違う車もほとんどないまま、少し開けた展望スペースに車は到着した。
「たまに来るんだよ、ここ。穴場だろ?」
低いベンチが2つあるだけの小さな場所には、眼下の景色を見晴らすための木製の太い手すりがついていた。
歩み寄り、そっと撫でると木の感触が心地いい。
虫の声が、りんりんと聞こえた。
「きれいだね」
そんなに高い場所ではないが、一望できる街の夜景は美しい。1つ1つの窓が分かる高さだから、かえって暖かみを感じる。
隣に並んで、手すりに肘を置いた櫻井としばらく街を眺めていた。
辺りは静かで、虫の声だけが響いている。遠くからエンジン音が聞こえ、1台だけ車が背後を通り過ぎた。その一瞬が過ぎると、また虫の声が戻ってきた。
「ボストンに行くことになった」
不意に話す櫻井の目線は、前を向いたままだった。
「ボストン? って……アメリカの?」
「うん、そう」
「へぇ。いつ?」
「来月」
もう11月も後半だから、すぐだ。出張だろうか。
「そうなんだ。どのくらい行くの?」
「そうだねぇ……2年、いや3年かな」
「えっ!」
思わず大きな声が出た。
櫻井が、穏やかな顔で振り向く。
「……嘘だよね?」
「この前から動いてた案件でね。行ってくるよ」
「………」
くしゃりと顔が歪むのが自分で分かった。
「いいところなんだよ、前にも行ったことがある。本城君、海外は?」
「………」
「冬はちょっと厳しいんだけどね。……そんな顔、しないでくれる?」
くくっと笑った櫻井が、薫の頬を撫でた。
「……どんなところに住むの?」
「アパートを借りるよ」
「食事は? どうするの」
「自炊するよ」
「ラーメンしか作れないのに?」
「ははっ、そうだね」
行かないで欲しい、なんて言えなかった。
言うつもりもなかった。
「……待ってる」
「待たなくていいよ」
「……待ってるっ」
櫻井の温かい指が頬を滑り後頭部に回ると、そのままぐい、と胸元へ押し当てられた。
「待たなくていい──薫」
櫻井の胸にしがみつく。
堪えていた涙が零れた。
「……待ってる」
ふう、と息を吐いた櫻井が、薫の背中に両手を回す。より一層、櫻井の胸に顔が埋まる。
「若いね」
くくっと震えた櫻井の体にしがみつき、薫は深く息を吸い込んだ。
この匂いを忘れない。
この温もりを、忘れない。
この日の滲んだ夜景と虫の声は、薫の脳裏にいつまでも残った。
すっかり暗くなった街中をしばらく抜けたあと、なだらかな坂道に入った車は小高い丘へと登ってゆく。平日の晩ということもあり、すれ違う車もほとんどないまま、少し開けた展望スペースに車は到着した。
「たまに来るんだよ、ここ。穴場だろ?」
低いベンチが2つあるだけの小さな場所には、眼下の景色を見晴らすための木製の太い手すりがついていた。
歩み寄り、そっと撫でると木の感触が心地いい。
虫の声が、りんりんと聞こえた。
「きれいだね」
そんなに高い場所ではないが、一望できる街の夜景は美しい。1つ1つの窓が分かる高さだから、かえって暖かみを感じる。
隣に並んで、手すりに肘を置いた櫻井としばらく街を眺めていた。
辺りは静かで、虫の声だけが響いている。遠くからエンジン音が聞こえ、1台だけ車が背後を通り過ぎた。その一瞬が過ぎると、また虫の声が戻ってきた。
「ボストンに行くことになった」
不意に話す櫻井の目線は、前を向いたままだった。
「ボストン? って……アメリカの?」
「うん、そう」
「へぇ。いつ?」
「来月」
もう11月も後半だから、すぐだ。出張だろうか。
「そうなんだ。どのくらい行くの?」
「そうだねぇ……2年、いや3年かな」
「えっ!」
思わず大きな声が出た。
櫻井が、穏やかな顔で振り向く。
「……嘘だよね?」
「この前から動いてた案件でね。行ってくるよ」
「………」
くしゃりと顔が歪むのが自分で分かった。
「いいところなんだよ、前にも行ったことがある。本城君、海外は?」
「………」
「冬はちょっと厳しいんだけどね。……そんな顔、しないでくれる?」
くくっと笑った櫻井が、薫の頬を撫でた。
「……どんなところに住むの?」
「アパートを借りるよ」
「食事は? どうするの」
「自炊するよ」
「ラーメンしか作れないのに?」
「ははっ、そうだね」
行かないで欲しい、なんて言えなかった。
言うつもりもなかった。
「……待ってる」
「待たなくていいよ」
「……待ってるっ」
櫻井の温かい指が頬を滑り後頭部に回ると、そのままぐい、と胸元へ押し当てられた。
「待たなくていい──薫」
櫻井の胸にしがみつく。
堪えていた涙が零れた。
「……待ってる」
ふう、と息を吐いた櫻井が、薫の背中に両手を回す。より一層、櫻井の胸に顔が埋まる。
「若いね」
くくっと震えた櫻井の体にしがみつき、薫は深く息を吸い込んだ。
この匂いを忘れない。
この温もりを、忘れない。
この日の滲んだ夜景と虫の声は、薫の脳裏にいつまでも残った。
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