幽霊屋敷の掃除婦

羽鳥紘

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第三十四話 悲劇の始点

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 それから私たちはアラムさんについて回った。彼は屋敷で暮らす病人や怪我人の治療に一日中駆け回っていた。

 飄々とした人だと思っていたけれど、医者としての彼は熱心で、丁寧で、優しくて、一人ひとりに時間を割いて向き合い、時には治療に関係のない相談まで嫌な顔一つせずに聞いていて、普段のアラムさんとは別人のようだった。

「アラムさん、活き活きしていますね」
「ああ。俺もあんな顔は初めて見る。歴代当主も知らなかった顔だろうな……」

 そんなアラムさんを見ていると、いや、この屋敷の人たちを見ていると、魔法さえなければ、という気持ちは理解できるんだけど。

 でも……最初に辿り着いた村の人たちも、商店街で見た街の人々だって、とても活き活きとしてた。「魔法が人を駄目にする」と結論づけてしまうのは早計だという気もする。

「ミオ」

 呼ばれて顔を上げる。なぜ呼ばれたかはすぐにわかった。アラムさんが固い表情で辺りを伺っている。

「……何かあったんでしょうか」

 少し不安になる挙動だ。でも今の時点ではその理由がわからない。そのままアラムさんを追って行くと、角を曲がったところで急に彼の姿が見えなくなった。

「あれ? 今確かに、この角を曲がりましたよね」

 一瞬でアラムさんを見失う。でも確かに見たのだ。もしや魔法でも使ったのかと思ったのだが、ミハイルさんが上げた声でそうでないことを知る。

「……隠し通路だな」

 言われて彼の視線の先を追うと、床の積もった埃に切れ目が見える。

「お屋敷が広くてここまで掃除の手が回りませんでした」
「それは幸いだな。お前に掃除されてたら気づかなかったかもしれん」

 確かに。しかし、アラムさんの人目を気にする様子に、隠し通路……穏やかではない。さらによく調べると、別の小さな切れ目を発見する。押すと、その場所が回転して取っ手になった。ミハイルさんがそれを掴んで床を持ち上げると、地下へ続く階段がぽっかりと口を開ける。冷気が肌を刺した。

「この、階段って……」

 地下へ続く階段を見て、思い出すのは一つ。あの扉へと続く階段だ。無言のまま、先にミハイルさんが階段を降り、私もそれに続く。真っ暗だったお屋敷の階段とは違い、壁には定期的に灯りがあって、どうにか足元は確認できる。長い階段を足早に降りていると、やがて声が聞こえてきた。

「よく来てくれた、アラム。さあ今日こそ息子の病気を治してくれ」

 伯爵の声だ。それに気づいて、ミハイルさんは足を止めた。伯爵には私たちが「見える」。迂闊な行動はできない。

「伯爵。昨日も申し上げましたが」
「頼む。貴殿ほどの医者ならば、息子の病気などすぐに」
「手は尽くしました。ですが、ご子息はもう息を引き取られました!」

 アラムさんの、冷たい声が耳を貫く。淡々としていたが、その声にはやりきれない無力感が溢れていた。

「……馬鹿な。なら、何故俺は存在する」

 ミハイルさんが呟く。確かに、伯爵の子が亡くなっているなら、子孫は存在しないはずだ。いや、でも、今後また生まれたのかもしれないし、養子という手だってあっただろう。

 ……このまま、この家に何も起こらなければ。

 ガシャン、と激しい音がして、それから扉が開く音。階段しかないこの場所では隠れるところはない――、もし伯爵だったら? そう危惧したが、目の前を歩いていくのはアラムさんだった。頬が腫れ、口から血を流している。その表情は――暗く、陰惨なものだ。

「……魔法で病気を治せるならば、こんな無力を味わうこともないのだろうか……」

 すれ違いざまに、彼の呟きが耳に入った。その顔に、さっきまで活き活きと患者を診ていた面影は微塵もなかった。
 ほどなくして、また声が聞こえてくる。伯爵のものでもアラムさんのものでもない、女性の金切り声。

「陛下に頭を下げましょう! 魔法ならこの子を助けられるかもしれないじゃないですか!」
「今更そんなことができるか! これほど魔法を否定しておいて、自分の都合が悪くなったら掌を返すなど……、許されるわけがない。我らや屋敷に集ったものの命さえも保証がない!」
「あなたが! あなたが陛下に逆らうから!!」

 扉が開く音がして、今度は貴婦人が通り過ぎて行く。アラムさんより深い絶望を顔にたたえて。その目は焦点があっておらず、今にも転びそうなくらいフラフラの足取りで、階段を上っていく。思わず彼女の指に目を走らせた。見覚えのある指輪。無意識に左手を押さえる。

 間違いない。伯爵夫人だ。

 おそらく、今部屋には、亡くなったという伯爵の息子と、伯爵がいる。

 こんな地下にいるということは、人目を避けているのだろう。私たちに見られたと知ったら、伯爵は逆上したりしないだろうか?
 きっとミハイルさんも同様のことを考えている。進むか、引き返すか……、その結論を迷っている間に、目の前を駆け抜けていく者がいた。結わえられた銀色の髪に燕尾服――

「リエーフ」

 ミハイルさんの足が、リエーフさんを追いかけて下へと向く。扉を開けて、リエーフさんはその中へと駆け込んだ。開け放たれたままの扉の脇に身を寄せて、そっと中を伺う。

「旦那さま、どうか目をお覚まし下さい!」
「何を……言っている、リエーフ。私は正気だ」
「ならば、お認め下さい。坊ちゃんはもう亡くなられたのです!」
「黙れ!」

 伯爵がリエーフさんを問答無用で殴りつける。その勢いで床に倒れながらも、リエーフさんはすぐに起き上がり、食い下がった。

「旦那様もわかっておいでのはず! そうでなければ何故人目を忍んでこんな場所に坊ちゃんを隔離するのです!」
 
 伯爵がまた手を振りかぶる。暴力で人を従えることなどしそうにない、温厚そうだった伯爵の面影はそこにはない。また、殴られる――、思わず目を閉じたのだが。

「……わかって……いるさ」

 力ない声が聞こえてきて、目を開ける。

「わかっている。私にもわかっているのだ。息子が……もう目を覚まさないことは」

 伯爵が悲痛な声と共に崩れ落ちる。リエーフさんが、幾分かほっとした声をして、その伯爵の肩に手を置いた。

「旦那様。でしたら、早く坊ちゃんを弔って差し上げましょう。このような暗く寒い場所ではお可哀そうです」
「いや、ここでなければ駄目なのだ」
「……?」

 リエーフさんが不可解な顔をする。そんなリエーフさんに、伯爵が笑いかける。壮年の男性には少し違和感のある、無邪気な笑顔。

「私は賢者から聞き出したのだ。死人を蘇らせる禁断の魔法を」
「……馬鹿な! いくら魔法といえど、そのようなことできるわけがありません!」

 リエーフさんの顔から血の気が引く。やっぱり伯爵は正気じゃない。一度は正気に戻ったと思っただけに、リエーフさんもショックが大きかったのだろう。いつも冷静な彼が、目に見えて動揺している。

「賢者もそう言っていた。理論はできているが成功したことはないと。ならば私がそれを成功させればいい。準備はもうできている。屋敷でここが一番場所が良かった……、ここに陣を敷いた。あとは」

 伯爵が、胸元から短剣を取り出す。スラリとそれを引き抜き、頭身が薄暗い部屋の中で蝋燭の灯りを映して妖しく光る。

「……何をするおつもりですか」
「理論は完成しているのだ。なのにうまくいかないのは、亡くなった命を補うだけの何かが足りない……そう思わないか? ならばあとは命を一つ、用意すればいい」

 そう言って、伯爵が短剣を逆手に持ちかえる。

「旦那様!」

 それと同時にリエーフさんは伯爵の手に飛びついていた。もみ合った末に、リエーフさんがどうにか伯爵の手から短剣を奪い取り、ほっと息をつく。しかし、伯爵は引かなかった。

「返せ!!」

 悲痛――などという言葉では表現しきれない、聞くだけで耳を塞ぎたくなるような伯爵の絶叫。だがリエーフさんは短剣を渡さず、それを持ったまま後ずさった。

 だけど、それで事が終わったかといえば、そうではなかった。


「命が一つ、あればよろしいのですね?」


 静かなリエーフさんの声が、場に落ちた。
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