50 / 52
番外編(ミオ一人称)
利き手
しおりを挟む
あと五センチくらい身長が欲しかった。
と、掃除してると時々思う。
書斎の整理をしているのだけど、一番上の棚に背が届かないのである。
大きさとかシリーズごとに纏めるのを諦めれば、なんとか届く範囲に捩じ込むことはできる。でも、それはどうにも許せない。
かといって、脚立も見当たらず、仕方なく椅子を運んでくる。少しお行儀が悪いけれど背に腹は代えられない。
靴を脱いで椅子の上に立ち、本を仕舞おうとしたそのとき。
バキッ――
「う、うそっ!?」
絶望的な音に、裏返った声が出た。
足場が揺らいで、体が傾く。……馬鹿なことで怪我する羽目になるな……とか妙に冷静に痛みを覚悟していたけれど、それは一向に訪れることなく。
反射的に閉じていた目を恐る恐る開けると、すぐそばに、呆れたように私を見下ろす闇色の瞳があった。
「わぁぁ!?」
片手で私を受け止めていたミハイルさんから、叫び声をあげて思い切り飛び退き、座り込む。
「助けてやったのに随分な態度だな」
「す……すみません! ちょっと驚いて……」
溜め息を付きながら、ミハイルさんは私が落とした本を右手で拾って、易々と一番上の棚に戻した。
片手で私を支えられることといい、私が届かない場所にいとも簡単に届くところといい。どっちも私には無理だから、少し羨ましい……いや、そうじゃなくて。
「ごめんなさい。椅子壊してしまいました」
「……怪我は」
「大丈夫です。お陰様で……」
「ならいい。屋敷には古いものが多いから気を付けろ」
「すみません。私が重すぎただけかも」
「むしろ軽すぎる。ちゃんと食え」
いやリエーフさんのご飯美味しすぎる上に三食上膳据膳、絶対太ったと思う……。まさか壊れるとはかなりショックだ。
「……他には? 手伝ってやる」
「いえ、そういうわけには」
立ち上がろうとする私に、ミハイルさんが手を差し出してくれる。少しためらいながらその左手を取って――
「……ミハイルさんて左利きなんですか?」
さっき私を支えた手も、本を戻すときも右だったような。でもナイフは右に下げてる。右手では抜きづらそうに見える……使ってるところを見たことないからわからないけど。
「別に、どっちも使える」
「そうなんですか。便利ですね」
でも、今はともかく、支えてくれたときは咄嗟のことだっただろう。そういうときに出る手が利き手だと思うけど。
※
「坊ちゃんは右利きですよ」
食事の支度を手伝いがてら、何気なくリエーフさんに聞いてみると、やはりそんな答えが返ってくる。
「でもナイフは右につけてますよね」
「あぁ……あれは主に自傷用なんですよ」
さらっと物騒な言葉が聞こえたんだけど。
「自傷?」
「坊ちゃんが力を使う所を見たことがおありでしょう? 幽霊は物理的なものに干渉されませんが、当家直系の血だけは例外なのです。なので自傷せざるを得ないときがあるのですよ」
一度、アラムさんに襲われた時に見せたあれか……
「……呪印を斬りたがるんですよね」
少し困ったような顔をして、リエーフさんが述べる。
「それは……呪印で傷が目立たないようにするためでしょうか?」
「逆です。傷で印を隠したいのかと。……坊ちゃんは歴代の中でも特に呪印がはっきり大部分に出てしまっているし無理なんですけどね。本人も当然わかってるでしょうが、まぁ、癖でしょう」
そうなのか……、そういえば、三人目の婚約者が去った理由も、その呪印のせいだったっけ。じゃあ、天気が良くて暖かいときでも、いつも長袖で手袋を着用してるのも――もしかして。
「隠すためにいつも手袋をしてるので、素手でないといけない作業なども専ら左ですからね。今となっては両利きといって差し支えないかと」
やっぱり。そして、使う手がまちまちなのはそういうことか。
「ミオさんはあれが気にならないのですか?」
「え? 最初見たときはちょっと驚きましたが。特には……」
「そうですか。では是非そう言ってあげて下さい。一度、焼こうとしたほど本人は嫌っていらっしゃるので」
焼く……って。少しぞっとする。
いくら嫌っているとはいえ、そこまでする方が普通じゃない。だけど……そのせいで大事な人に背を向けられたなら。
あの人は、力を使うために躊躇いなく自分を傷つける。そんなことを繰り返してたら、痛みが麻痺してしまっても仕方ないのかもしれない。
そう考えると少し胸が痛むけど。
「……そういうコンプレックスってさほど親しくもない人に触れられたくないと思います」
「おや、ミオさんは充分親しいではありませんか。是非『ありのままの貴方が好き』と」
「言いません。大体」
ずっと思っていながら黙っていたことが、リエーフさんの揶揄のせいでついつい口をついて出る。
「リエーフさん、少し干渉しすぎじゃないですか? 子供じゃないんですから、仕事とか結婚とか、そういうの口出しするのは良くないと思います」
「わたくしから見れば、まだ子供のようなものです」
「リエーフさんにとってはそうかもしれませんが、私から見たら立派に大人の男性ですよ。ちょっと不器用なだけで真面目な優しい人ですし、そんな誰彼構わずくっつけようとしなくても、そのうちいい人が見つかります」
「誰彼構わずというわけではないんですけどね……」
屈んで鍋の火を見つめながら、リエーフさんがぼそりと呟く。炎を映して、彼の紅い瞳が揺れる。その横顔は、何を考えているのかわからなくて、私は盛り付けの手を止めた。
「じゃあどうして私なんですか。私はこの世界の人間じゃありません。帰らなきゃならないんです。ここにはずっといられないんです」
「では、坊ちゃんがお嫌というわけではないんですね」
「茶化さないで下さい!」
声を荒げてしまってから、はっとする。
「どうしました、ミオさん。いつもは取り合って下さらないのに、今日は感情的でいらっしゃる」
指摘されなくてもわかってる。そうやって苛立つこと自体がおかしい。
冷静になろうと、ひとつ深呼吸を挟む。
……リエーフさんが何かとそういったネタで茶化してくるのは今に始まったことじゃない。真に受けてどうするんだ。
「夕飯、もうできますよね。ミハイルさんを呼んで来ます」
「……お願いします」
そう言ったのは、単にこの場を離れたかった口実に過ぎない。そんなことはお見通しだろうに、リエーフさんはいつものように、穏やかに笑って頭を下げた。
……そもそもミハイルさんは雇い主だ。嫌とか嫌でないとか、好きとか嫌いとかあまり考えたことはない。仕事先の人と同じで――
いや、仕事先でも苦手な人は苦手か。そう考えると、一緒に住んでいても不快だと思うようなことはない。
無愛想だし、少し失礼だけど、いつもニコニコしていてペラペラ喋る人よりかは信用できるかな……誰とは言わないけど。
部屋をノックすると、短い返事がある。扉を開けて、用件を伝える。
「夕飯ですよ」
「……少し早くないか」
机の上の時計に目を走らせて、ミハイルさんが呟く。確かに、いつもの時間よりほんの少し早いんだけど。だけど気にするほどのことでもないだろうに。
「何かあったのか?」
「いえ、別に……」
考えてみたら、リエーフさんにミハイルさんのことを聞いたのが間違いだった。そんなの茶化されるに決まってる。
利き手なんて、どっちだったとしても私に関係ないことだ。それなのに。
……ミハイルさんの子供の頃とか。婚約者のこととか。利き手とか……私、最近、そんなことばかり聞いてる。
「ミオ?」
「…………っ」
いつの間にか目の前まで来ていたミハイルさんが、私を見下ろして呼ぶ。
気が付きそうになったことを、敢えて追及するのはやめる。平静を装って、顔を上げる。
「リエーフさんを手伝っていたんですが、ちょっと気まずくなってしまって」
「……すまんな。俺からもきつく言っておく」
理由は言わずとも察したのだろう。ミハイルさんが溜め息と共に詫びてくれる。
「お前も、はっきり不快だと言っておいた方がいい。下手に出ていると調子に乗る」
「でも、私は使用人の立場ですので」
「別にそれが原因で追い出したりはしない」
襟元を直しながら、ミハイルさんが淡々と呟く。その手は、黒い手袋に覆われている。
暖かい室内で、従者と使用人が一人ずつしかいない屋敷で、彼は滅多に着崩すことがない。それも、手袋を外さないのも――今まで理由は知らなかった。ただ、真面目なだけかと思っていたけど。
「……食事に手袋は要らないんじゃないですか」
きっと、彼にとっては立ち入ったことを口にしたと思う。少し目付きを鋭くして、だけど何も言わずに、彼は私の横をすり抜けて部屋を出ていこうとする。
「不快なのは貴方の方じゃないんですか?」
遅れて、さっきの呟きに答えを返すと、彼は足を止めた。
掃除くらいしかできない、いつか出ていく私なんかを引き合いに出さなくても、彼にはもっと相応しい人がいくらでもいるはずだ。
この苛立ちは、きっと……そのせい。
「力とか呪印とか、そんな些細なことに惑わされない人が、きっといます。だから隠さないで、貴方は貴方らしく堂々としているべきです」
「……使用人風情がでかい口を叩くようになったな」
「当主様が、それが原因で追い出すことはないと仰られたので」
「ふっ。口の減らない奴だ」
振り返って、呆れた声を上げる。そして彼は右手の手袋を外した。その手の甲には、血で刻まれたような印がある。
「お前が思うほどには、屋敷の事情も俺の力も些細ではない」
「でも、私は平気ですし。他にもそんな人はいますよ」
「そんな馬鹿、他に探す気になるか。余計に結婚などする気が失せた。不快もいいところだ」
「な、なんで……」
投げつけられた手袋が、ぺしっと額に当たって落ちる。
「……夕飯なんだろう。さっさと行くぞ」
それを拾おうとした私に、ミハイルさんが右手を差し出す。
指先に触れた手袋を拾うのを止め、屈みかけた体を起こして。私はためらわずに、その手を取る。
「はい!」
と、掃除してると時々思う。
書斎の整理をしているのだけど、一番上の棚に背が届かないのである。
大きさとかシリーズごとに纏めるのを諦めれば、なんとか届く範囲に捩じ込むことはできる。でも、それはどうにも許せない。
かといって、脚立も見当たらず、仕方なく椅子を運んでくる。少しお行儀が悪いけれど背に腹は代えられない。
靴を脱いで椅子の上に立ち、本を仕舞おうとしたそのとき。
バキッ――
「う、うそっ!?」
絶望的な音に、裏返った声が出た。
足場が揺らいで、体が傾く。……馬鹿なことで怪我する羽目になるな……とか妙に冷静に痛みを覚悟していたけれど、それは一向に訪れることなく。
反射的に閉じていた目を恐る恐る開けると、すぐそばに、呆れたように私を見下ろす闇色の瞳があった。
「わぁぁ!?」
片手で私を受け止めていたミハイルさんから、叫び声をあげて思い切り飛び退き、座り込む。
「助けてやったのに随分な態度だな」
「す……すみません! ちょっと驚いて……」
溜め息を付きながら、ミハイルさんは私が落とした本を右手で拾って、易々と一番上の棚に戻した。
片手で私を支えられることといい、私が届かない場所にいとも簡単に届くところといい。どっちも私には無理だから、少し羨ましい……いや、そうじゃなくて。
「ごめんなさい。椅子壊してしまいました」
「……怪我は」
「大丈夫です。お陰様で……」
「ならいい。屋敷には古いものが多いから気を付けろ」
「すみません。私が重すぎただけかも」
「むしろ軽すぎる。ちゃんと食え」
いやリエーフさんのご飯美味しすぎる上に三食上膳据膳、絶対太ったと思う……。まさか壊れるとはかなりショックだ。
「……他には? 手伝ってやる」
「いえ、そういうわけには」
立ち上がろうとする私に、ミハイルさんが手を差し出してくれる。少しためらいながらその左手を取って――
「……ミハイルさんて左利きなんですか?」
さっき私を支えた手も、本を戻すときも右だったような。でもナイフは右に下げてる。右手では抜きづらそうに見える……使ってるところを見たことないからわからないけど。
「別に、どっちも使える」
「そうなんですか。便利ですね」
でも、今はともかく、支えてくれたときは咄嗟のことだっただろう。そういうときに出る手が利き手だと思うけど。
※
「坊ちゃんは右利きですよ」
食事の支度を手伝いがてら、何気なくリエーフさんに聞いてみると、やはりそんな答えが返ってくる。
「でもナイフは右につけてますよね」
「あぁ……あれは主に自傷用なんですよ」
さらっと物騒な言葉が聞こえたんだけど。
「自傷?」
「坊ちゃんが力を使う所を見たことがおありでしょう? 幽霊は物理的なものに干渉されませんが、当家直系の血だけは例外なのです。なので自傷せざるを得ないときがあるのですよ」
一度、アラムさんに襲われた時に見せたあれか……
「……呪印を斬りたがるんですよね」
少し困ったような顔をして、リエーフさんが述べる。
「それは……呪印で傷が目立たないようにするためでしょうか?」
「逆です。傷で印を隠したいのかと。……坊ちゃんは歴代の中でも特に呪印がはっきり大部分に出てしまっているし無理なんですけどね。本人も当然わかってるでしょうが、まぁ、癖でしょう」
そうなのか……、そういえば、三人目の婚約者が去った理由も、その呪印のせいだったっけ。じゃあ、天気が良くて暖かいときでも、いつも長袖で手袋を着用してるのも――もしかして。
「隠すためにいつも手袋をしてるので、素手でないといけない作業なども専ら左ですからね。今となっては両利きといって差し支えないかと」
やっぱり。そして、使う手がまちまちなのはそういうことか。
「ミオさんはあれが気にならないのですか?」
「え? 最初見たときはちょっと驚きましたが。特には……」
「そうですか。では是非そう言ってあげて下さい。一度、焼こうとしたほど本人は嫌っていらっしゃるので」
焼く……って。少しぞっとする。
いくら嫌っているとはいえ、そこまでする方が普通じゃない。だけど……そのせいで大事な人に背を向けられたなら。
あの人は、力を使うために躊躇いなく自分を傷つける。そんなことを繰り返してたら、痛みが麻痺してしまっても仕方ないのかもしれない。
そう考えると少し胸が痛むけど。
「……そういうコンプレックスってさほど親しくもない人に触れられたくないと思います」
「おや、ミオさんは充分親しいではありませんか。是非『ありのままの貴方が好き』と」
「言いません。大体」
ずっと思っていながら黙っていたことが、リエーフさんの揶揄のせいでついつい口をついて出る。
「リエーフさん、少し干渉しすぎじゃないですか? 子供じゃないんですから、仕事とか結婚とか、そういうの口出しするのは良くないと思います」
「わたくしから見れば、まだ子供のようなものです」
「リエーフさんにとってはそうかもしれませんが、私から見たら立派に大人の男性ですよ。ちょっと不器用なだけで真面目な優しい人ですし、そんな誰彼構わずくっつけようとしなくても、そのうちいい人が見つかります」
「誰彼構わずというわけではないんですけどね……」
屈んで鍋の火を見つめながら、リエーフさんがぼそりと呟く。炎を映して、彼の紅い瞳が揺れる。その横顔は、何を考えているのかわからなくて、私は盛り付けの手を止めた。
「じゃあどうして私なんですか。私はこの世界の人間じゃありません。帰らなきゃならないんです。ここにはずっといられないんです」
「では、坊ちゃんがお嫌というわけではないんですね」
「茶化さないで下さい!」
声を荒げてしまってから、はっとする。
「どうしました、ミオさん。いつもは取り合って下さらないのに、今日は感情的でいらっしゃる」
指摘されなくてもわかってる。そうやって苛立つこと自体がおかしい。
冷静になろうと、ひとつ深呼吸を挟む。
……リエーフさんが何かとそういったネタで茶化してくるのは今に始まったことじゃない。真に受けてどうするんだ。
「夕飯、もうできますよね。ミハイルさんを呼んで来ます」
「……お願いします」
そう言ったのは、単にこの場を離れたかった口実に過ぎない。そんなことはお見通しだろうに、リエーフさんはいつものように、穏やかに笑って頭を下げた。
……そもそもミハイルさんは雇い主だ。嫌とか嫌でないとか、好きとか嫌いとかあまり考えたことはない。仕事先の人と同じで――
いや、仕事先でも苦手な人は苦手か。そう考えると、一緒に住んでいても不快だと思うようなことはない。
無愛想だし、少し失礼だけど、いつもニコニコしていてペラペラ喋る人よりかは信用できるかな……誰とは言わないけど。
部屋をノックすると、短い返事がある。扉を開けて、用件を伝える。
「夕飯ですよ」
「……少し早くないか」
机の上の時計に目を走らせて、ミハイルさんが呟く。確かに、いつもの時間よりほんの少し早いんだけど。だけど気にするほどのことでもないだろうに。
「何かあったのか?」
「いえ、別に……」
考えてみたら、リエーフさんにミハイルさんのことを聞いたのが間違いだった。そんなの茶化されるに決まってる。
利き手なんて、どっちだったとしても私に関係ないことだ。それなのに。
……ミハイルさんの子供の頃とか。婚約者のこととか。利き手とか……私、最近、そんなことばかり聞いてる。
「ミオ?」
「…………っ」
いつの間にか目の前まで来ていたミハイルさんが、私を見下ろして呼ぶ。
気が付きそうになったことを、敢えて追及するのはやめる。平静を装って、顔を上げる。
「リエーフさんを手伝っていたんですが、ちょっと気まずくなってしまって」
「……すまんな。俺からもきつく言っておく」
理由は言わずとも察したのだろう。ミハイルさんが溜め息と共に詫びてくれる。
「お前も、はっきり不快だと言っておいた方がいい。下手に出ていると調子に乗る」
「でも、私は使用人の立場ですので」
「別にそれが原因で追い出したりはしない」
襟元を直しながら、ミハイルさんが淡々と呟く。その手は、黒い手袋に覆われている。
暖かい室内で、従者と使用人が一人ずつしかいない屋敷で、彼は滅多に着崩すことがない。それも、手袋を外さないのも――今まで理由は知らなかった。ただ、真面目なだけかと思っていたけど。
「……食事に手袋は要らないんじゃないですか」
きっと、彼にとっては立ち入ったことを口にしたと思う。少し目付きを鋭くして、だけど何も言わずに、彼は私の横をすり抜けて部屋を出ていこうとする。
「不快なのは貴方の方じゃないんですか?」
遅れて、さっきの呟きに答えを返すと、彼は足を止めた。
掃除くらいしかできない、いつか出ていく私なんかを引き合いに出さなくても、彼にはもっと相応しい人がいくらでもいるはずだ。
この苛立ちは、きっと……そのせい。
「力とか呪印とか、そんな些細なことに惑わされない人が、きっといます。だから隠さないで、貴方は貴方らしく堂々としているべきです」
「……使用人風情がでかい口を叩くようになったな」
「当主様が、それが原因で追い出すことはないと仰られたので」
「ふっ。口の減らない奴だ」
振り返って、呆れた声を上げる。そして彼は右手の手袋を外した。その手の甲には、血で刻まれたような印がある。
「お前が思うほどには、屋敷の事情も俺の力も些細ではない」
「でも、私は平気ですし。他にもそんな人はいますよ」
「そんな馬鹿、他に探す気になるか。余計に結婚などする気が失せた。不快もいいところだ」
「な、なんで……」
投げつけられた手袋が、ぺしっと額に当たって落ちる。
「……夕飯なんだろう。さっさと行くぞ」
それを拾おうとした私に、ミハイルさんが右手を差し出す。
指先に触れた手袋を拾うのを止め、屈みかけた体を起こして。私はためらわずに、その手を取る。
「はい!」
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
死に物狂いで支えた公爵家から捨てられたので、回帰後は全財産を盗んで消えてあげます 〜今さら「戻れ」と言われても、私は隣国の皇太子妃ですので〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能、我が公爵家の恥だ!」
公爵家の長女エルゼは、放蕩者の父や無能な弟に代わり、寝る間も惜しんで領地経営と外交を支えてきた。しかし家族は彼女の功績を奪った挙句、政治犯の濡れ衣を着せて彼女を処刑した。
死の間際、エルゼは誓う。 「もし次があるのなら――二度と、あいつらのために働かない」
目覚めると、そこは処刑の二年前。 再び「仕事」を押し付けようとする厚顔無恥な家族に対し、エルゼは優雅に微笑んだ。
「ええ、承知いたしました。ただし、これからは**『代金』**をいただきますわ」
隠し金庫の鍵、領地の権利書、優秀な人材、そして莫大な隠し資産――。 エルゼは公爵家のすべてを自分名義に書き換え、着々と「もぬけの殻」にしていく。
そんな彼女の前に、隣国の冷徹な皇太子シオンが現れ、驚くべき提案を持ちかけてきて……?
「君のような恐ろしい女性を、独り占めしたくなった」
資産を奪い尽くして亡命した令嬢と、彼女を溺愛する皇太子。 一方、すべてを失った公爵家が泣きついてくるが、もう遅い。 あなたの家の金庫も、土地も、働く人間も――すべて私のものですから。
旦那様、彼は仕事において必要不可欠なパートナーなのです
ましゅぺちーの
恋愛
伯爵夫人フルールは、夫である伯爵と愛人の秘書に長年頭を悩ませていた。
何度夫に苦言を呈しても「彼女は仕事において必要不可欠なパートナーだから」と一切聞く耳を持たない。
困り果てていたそのとき、彼女は突然前世の記憶を取り戻した。
このままだと夫と愛人の真実の愛の犠牲になってしまう。
それだけは御免だ。
結婚五年目にして、彼女はようやく夫を見限り、新たな事業を立ち上げた。
そして事業を成功させたフルールの隣には、いつも同じ男が立っていた。
その男は誰なのかと問い詰める夫に、フルールはニッコリ笑って言った。
「彼は仕事において必要不可欠なパートナーなのです」と。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる