刺青将軍

せんのあすむ

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一 汾河恋情

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 今年も実りの秋がやってくる。それと共に、北方から契丹の兵が、

(まさに穀物に群がる虫のごとく…)

 やってくるだろう、と、苦笑しながら、青年は馬上で弓を構え直した。

 青年が所属している国は、宋という。彼が住んでいる汾州西河(現山西省汾陽市)は、首都である開封から見て、やや北西に二百キロ離れており、黄土高原の東に位置していた。

 当時、この地方は、宋と北方異民族の国、契丹(現内モンゴル自治区)との国境にあった。険しい山岳地帯を中央で両断するように、黄河の支流である汾河が南北に流れている。河沿いに北上すると、太原いう名の地方随一の大都市がある。この太原と同じ郡あるいは州に属しているのが、汾州西河というわけだ。

 北、東、西の三方を山に囲まれた盆地にあり、標高約八百メートルの高原地帯である。さらには北にゴビ砂漠があるから、気候区分としてはステップ地帯に属する。雨季と乾季とにはっきりと分かれた気候で、秋、冬、春先までが乾季に相当する。現在でも、ほとんど雨の降らないこの時期には、北方のゴビ砂漠より吹く風が黄砂を運び、春先になるとそれが砂嵐になるため、しばしば視界が遮られるのだという。

 とはいえ、雨季にあたる夏の気温は、最高でも三十度を越すことはないから、比較的快適に過ごせる。盆地内における土地の形状は平坦で、土壌も肥沃であるため、古くから農業が発達していた。

 生産できる農作物には、この国の主食であるコメを始め、コムギ、トウモロコシ、コーリャンなどがある。従って、裕福とまでは言えぬが、日々の糧には困らぬほどに暮らせる住人が多かった……と言いたいのだが、

(お前たちの国に、俺たちの国がどれだけ良くしてやっている。それでもお前たちはなお、俺たちから獲ろうというのか)

 河沿いの街道に積もった黄砂を、彼らが乗っている馬が蹴立てているのだろう。乾燥した気候のせいで空気は澄み、遠くからでも異民族たちがやってくるのが良く分かって、件の青年は眉をしかめ、ふくらませた鼻の穴から大きく息を吐いた。

 彼の名は狄青、字は漢臣という。彼がこの世に生を受けたのは、景徳四(一〇〇八)年のことである。その四年も前景徳元(一〇〇四)年、宋と契丹との間にいわゆる澶淵の盟と呼ばれる和議が結ばれていた。これが宋第三代、真宗の時である。

 その和議で定められたことは、国境の現状維持、不戦、宋が契丹を弟分として扱うこと、宋から契丹に対し、歳幣(毎年の贈物)として絹二十万匹・銀十万両を送る事、である。にもかかわらず、十数年経った今も契丹の民達はやってくるのだ。

 朝廷が無責任にした約束のツケは、どうしても宋の全ての国民にかかる。せっかく肥沃な土地に住んでいても……肥沃な土地であるからこそ……そこから獲れる豊かな作物のほぼ全てを税として差し出さねばならない。でなければ、契丹側の要求を満たすことが出来ないからだ。

 言わずもがなであるが、その結果、民の手に残るものといったら、ほんの僅かである。その僅かに残ったものを日々の糧にして、人々は健気に生きている。そんなところへ、

(我が物顔にやってきて侵していく。要するに、舐められているのだ)

そう思うと、若い彼の頬に血が上る。

この地方の人々が、

「異民族の侵入をなんとかしてくれ」

 と、何度も朝廷に訴えたであろうことは想像に難くない。

 しかし、軍人が台頭することを異常に嫌った宋の初代皇帝の意向が未だに効いているのか、朝廷からは色よい返事はない。よい返事の無いまま、この地方が宋の統治下に入った太平興国四(九七九)年より三十年以上が過ぎてしまった。

 皇帝が軍人を抑えているのだから、優れた武人も現れようがない。従ってそのことはそのまま、この王朝が「文弱」であるという最大の欠点に繋がった。それを充分すぎるほど知っている、北や西に新しく興った異民族の国は、宋の国境を脅かしてはその地方の人々からわずかな生活の手段を奪い取る。先述のように、莫大な「仲直りの印」を贈っているはずなのに、それは変わらず続いているのだから、

(朝廷には何の援助も期待は出来ぬ。今の朝廷は頼りにならぬ)

 何度か訴えた後、やがて人々は諦めた。自分たちが生きようと思えば、それらを自力で追い払うしかない。

 従って宋建国当初から、

「自分たちの暮らしは、自分で守るのだ」

 という気風が、この地方の……というよりも、異民族との国境に接している全ての地方だったかもしれないが……人々に脈々と受け継がれている。

 とはいえ、所詮は民間人の防衛である。遠いところから馬で駆けてくる異民族らを追い払うのがせいぜいで、追撃、殲滅、といったことまでは残念ながら力が及ばぬ。よって、

「青! 何をぼんやりしている、追い払え!」

 我が父が今日も叫ぶように、彼らは何度もやってくるのだ。

 父へ大きく頷いてから、狄青は馬の腹を蹴った。数えで十歳程度の頃から、二十代半ばになった今までずっと、こうして異民族を追い払っているのだ。砂塵を見れば、こちらへやってくるのが何騎であるのかも分かる。

 汾州は、山が両脇から迫るような地形のため、主だった都市は汾河沿いにある。異民族もまた、いつものごとく河沿いの道をやってくるに違いない。

(来た)

 北方ヘ向かって片手をかざし、濃い眉の下の大きな目を凝らしていると、やがて一群の騎馬の姿が見えてきた。狄青は、落ち着き払った様子でそれへ向かって矢を番え、ひょうと放つ。それを皮切りに、異民族側からも雨のごとく、矢が降ってくる。

 それらの矢を、狄青は憎らしいほどに落ち着き払って馬を操りながら避け、かつ矢を射返していった。

 糧を奪われてなるものか、といった憤りに頭の中が熱くなるような感覚に囚われながら、

(人を射るなど、飛ぶ鳥を落とすより格段に容易い)

 その一方で、妙に冷静にそう思っている。腰の位置が安定しない馬上で、標的へ向かって正確に弓を射ることもいつの間にか習得した。的を違えず矢を射る技術の正確さは、付近の住人随一だとも言われている。

 その評判通り、彼が放つ矢は、まことに正確に相手の体のいずれかを射抜いていった。そのたびに馬から落ちる異民族の姿も見えて、

(この分なら)

 と、彼は少しの間、矢を射る手を休めて目を凝らした。いつものごとく、この矢の応酬だけで、異民族たちは引き上げていくに違いない。

 案のごとく、彼らは口々に「引き上げろ」といった意味の言葉を……微妙に発音の違った言葉だが、接しているうちになんとなく覚えた……叫んで退却していくのだが、

「……まだ残っている奴がいる」

 隣で、兄が憎憎しげに呟いたように、砂埃を上げて逃げていく中、ただ一騎のみ、留まっている姿がある。

 その人物は何を思ったか、馬の腹を蹴ってこちらへ向かってきた。右手に掲げたものが日を受けてギラリと光った所を見ると、

「刀か」

「そうらしい」

 兄弟は、顔を見合わせて苦笑した。もちろん、刀でもこちらがひけを取るとは考えていないが、

(よほど、こちらの収穫物が欲しいらしい)

 思って、狄青もまた、腰の刀剣を抜いた。この少年は、刀術の腕前も、決して射術に劣らない。

 向かってくる相手をよくよく見れば、己とほぼ同年代らしき風貌である。「一人で充分」と、兄へ言い置いて、狄青は再び馬の腹を蹴った。

 途端、山間を通り抜ける風が吹き付けて、少し縮れ気味の髪の毛が乱れる。彼が向かってくると見るや、相手の方も少し遅れて馬の腹を蹴り、こちらへ駆けてくる。互いの刀剣が、宙で火花を散らして交わったかと思うと、

(なんと)

 相手のほうが、呆気なく落馬した。半ば拍子抜けしながら、しかし油断無く馬から下り、

「……お前は幾つだ。契丹の、何処からやってきた」

 仰向けに倒れた相手の、肩の辺りの衣服を地面へ縫いつけるように刀を突き立てて、狄青は尋ねた。

 当初の、己とほぼ同い年、と思った印象は当たっていた、というよりも、むしろ、

(ほんの子どもではないか)

 背から地面へ落ちた衝撃だろうか、苦しげに呼吸を繰り返している相手の顔は、驚くほど幼い。

 ひょっとすると己よりも一回りほど年下でさえあるかも知れぬ。その顔を、彼はつくづくと眺めながら、

「親はどうした。いないのか」

 重ねて彼はその少年に尋ねた。尋ねられてその少年は、しばらくの間ぐっと唇をかみ締め、憎憎しげに狄青の顔を睨みつけていたが、

「……両親は、先年二人とも死んだ。だから、俺が代わりに、残された小さな弟や妹たちを養わなければならない。こういったことに加わるのは初めてだが、手ぶらで帰るわけにはいかない」

 やがて開き直ったように、吐き捨てるようにそう答えた。

 それを聞いて、

「それが、他の仲間が逃げてもお前が留まった理由か」

 狄青は苦笑しながら刀を抜き取り、少年の体を抱き起こしながら言う。思いのほかの「待遇」に、戸惑った顔をしながらも、

「そうだ。俺たちの村はここ数年、飢饉が続いた。それなのに、すぐ側に住むお前たちは潤っている。潤っている所から獲らねば、俺たちは生きていけぬ。お前たちからすれば、俺たちが獲るものなど、わずかな量だろう」

 契丹の少年は、殺されることを覚悟したのか一気に言い募った。

「俺たちが潤っているなど、誰から聞いた」

「大人たちが言っている。お前たちの国は、俺たちの国に毎年莫大な貢物をしているから、庶民のお前たちも、さぞかし贅沢な暮らしをしているに違いない。だから奪っても構わないと」

 いつの間にか、兄も側へやってきて、二人の会話を聞いている。少年の言い分を聞きながら、兄と思わず顔を見合わせて狄青は再び苦笑した。

「兄者、前の獲物はまだ残っていたな」

「ああ、そうだが?」

 弟が言っているのが、先日狩猟で獲った山鳥のことであるとはすぐ分かる。しかし何を言いたいのか咄嗟には分からず、狄青の兄が首をかしげると、

「逃げぬようにこいつを見ていてくれ。俺は一旦家に戻る」

 契丹の少年のほうへ顎をしゃくりながら言って、狄青は再び馬に乗り、兄が止める間もなく家の方角へ向かって駆けていった。

 狄青の家は、戦闘があった場所からさほど離れていない。

「無事に帰ってきたのかえ」

 言い言い、薄暗い家の中から出てきた母は、いつものように藁を打っていたようだ。

 それの作業を手伝いにでも来ていたのだろうか、同じようにホッとした表情をしてこちらを見ている隣の魯家の娘、栄と母とに軽く会釈しながら、彼は軒先を見上げる。そこからは先日の獲物である山鳥が、足首を縛られて逆さに吊るされていた。
その鳥の縄を切り、再びかの場所へ駆け戻ると、

「おい、弟ッ!」

 馬を降り、狄青は無言で山鳥の両足を掴んでいる片手を差し出す。そんな彼を見て、狄青の兄は言うまでもないことながら、

「お前は、一体」

 契丹の少年も、反って驚き、うろたえた。

「獲ろうとする相手に情けをかけるのか。いっそのこと、殺せ」

「お前には待つ者がいる」

 顔を赤くして叫ぶ少年に、狄青は静かに言って、さらにその片手を少年の薄い胸に押し付ける。すると、

「俺が嘘を言っていると思わないのか」

 幼い頬が、ますます顔を赤くなった。叫ぶ少年へ、

「嘘でもいい。持って帰れ」

 狄青は少し厚い唇をわずかに歪めた。

「だが、こうやって獲物を差し出したからといって、俺たちが富んでいるとは思うな。お前の認識は間違っている」

 彼が言うと、契丹の少年は何かに打たれたように狄青の顔を見つめた。差し出されている鳥と狄青とをしばらく見比べていたかと思うと、突然、その鳥をヤケクソのようにひったくる。

「……お前のことは信じているが」

 獲物を大事そうに片手に抱え、馬に乗って駆け去っていくその後ろ姿を何となしに見送りながら、狄青の兄は大きくため息を着き着き、微苦笑をもらした。

 同じように粗末なものを食べ、同じような粗末な床で寝起きしているのに、いつの間にかその背丈は、父は無論、兄をも少し越えんばかりになっていて、

「お前は優しすぎる。奴が自分でも言っていたように、あれは嘘かも知れぬ。だとすると、お前の好意は無駄になる。奴はこれに味を占めて、また俺たちの村へやってくるかもしれん。俺たちだとて、他人に施しをしてやるほど、暮らしに余裕はないのだぞ」

 だが、そんな風に言っている兄の言葉には、

(こいつは昔からこんな風な奴だった)

 といった風な、弟である自分への限りない愛が込められていた。

 言い出したら聞かない弟の頑固さを、この兄はよく承知している。頑固さばかりではなく、弟の性癖をよく飲み込んだ上での発言だと狄青も知っているから、

「養うべき小さき者がいるという言葉には、嘘はないと思った。それにそんなことを聞いてしまったら、もう俺には捨て置けぬ。あいつの顔は幼い。恐らく俺よりずっと遅れて生まれているに違いない。そんな歳で両親を失って、それでも生きていくことは、並大抵でない」

 こうして、いささかの甘えを込めて反論するのだ。

「ああ、お前はお人よしだ。そのおかげで俺たちの食い分がまた減った。またお前は親父に叱られるぞ。またあの木に、鳥や兎なんぞのように吊られるぞ」

「いい。その分、俺がまた狩りに出かける。俺の今晩の飯はなくてもよい」

「分かった」

 その言葉を聞いて、兄は苦笑して馬の腹を蹴った。少し遅れて同じ動作をした弟と、並んで家へ向かって駆けながら、

「あの木も、ずいぶん伸びたな」

 再び兄は狄青へ話しかける。兄と同じように苦笑しながら頷いた狄青の脳裏に浮かんだのは、幼い頃に同様な真似をして、父に散々殴打された後、吊るされた桑の木のことだ。

 およそ十年ほど前の冬ことになろうか。

 父が狩りに出かけて留守の間、何がしかの物を奪い取りにやってきた契丹の兵へ、狄青は父が前の日、狩りで取ってきた兎を与えた。その兎は父母と兄、そして彼の四人で構成されている狄一族の、数日分にも当たる貴重な食料であったし、加えて父は天性、さほど弓が上手ではない。

 雪の中、指が千切れそうになる感覚を堪えながら、やっとのことで捕らえた獲物である。それを息子が敵へ易々と渡してしまったのだから、

「俺がどれだけ大変な思いをして獲ってきたのか、分からないか。お前は、家族よりも敵が生き延びるほうが良いというのか。家族と赤の他人と、どちらが大事だというのだ」

 言って、狄青の父は激怒した。そんな父を見上げながら、

「だが、あの契丹の兵は家族が飢えていると言った。俺たちはまだ、あの兵士のように飢えていないではないか」

 ……だから、施したのだ、と、子はそう返事したものだ。

「俺たちから奪いにきた奴の言うことを、信じるやつがあるか! お前はどこぞの聖人君子にでもなったつもりか!」

 当然ながら、この答えは父の火のような怒りに油を注いだ。やがては怒りのあまり、ほとんど言葉にならない声を上げながら、幼い彼の頭を拳骨で殴り、頬を平手で何度も打った。

 母と兄が慌てて止めに入って、ようやくその殴打は止んだが、

「しばらくそこで、己が何をやらかしたか考えろ」

 父は彼の両手を縛り、さらに胸の周りをも縛った挙句、家の軒近くへ差し伸べられている桑の枝へと幼い体を吊り下げたのである。

 この桑は、狄青が生まれて間もない頃、記念にと貧しい蓄えから父が買ってきたものだ。兄が生まれた折も、父は桑を買ってきたから、少し背丈の違う桑がそろって二本、今も家の側に生い茂っている。

「……お前は結局、謝らなかった。さしもの親父も根を上げた」

「ああ、そうだったな」

 懐かしそうな、照れくさそうな表情をして、兄弟は互いの顔を見合わせ、笑った。

「本心からでなくでもいいから、謝ってしまえ」、「さもなければお前は死ぬぞ」と、これも眠れずにいた母も兄も桑の側にいて、彼にそう言い聞かせ続けていたものだ。

 繰り返すが、季節は冬だったのだ。この地方は春から秋までは比較的亜温暖であるが、冬になると日中でも気温が氷点下を記録する時がある。そんな気候の中、傷ついた幼い子が一晩中外にいるなど狂気の沙汰だ。

 彼を桑に吊るした父も、当然ながら本気ではない。冬の寒さに耐えかねて、狄青がすぐに根を上げるだろうと思っていた。とにかく、謝罪の言葉さえその口から聞けたらそれで良かったのだ。だから、妻と子の行動を見て見ぬふりをして、これまた家の中から様子を伺っていたのである。

 だが狄青は、

「困っている人間に、異民族も何もあったものじゃない。俺は正しいことをした。だから謝る必要はない」

 まだ両手で数えられるほどの年齢ながら、はっきりとではないが、右のようなことを繰り返し言って、母と兄をほとほと困らせた。

 そして気が付けば、辺りは吹雪になっている。雪はあっという間に降り積もり、母などは、兄に命じて狄青の側で火を起こさせて、幼い体を二人して左右から擦り続けていたものだ。その様子を見て、

「家へ入れ。俺が悪かった。お前が死んでしまうのは耐えられぬ」

 息子を吊り下げて一刻も経たぬうちに、ついに父のほうが折れてしまった……。

 こんな狄青だから、

「鳥をどうしたのだえ」

 帰ってきた兄弟へ尋ねかけた母も、

「まあ、お前のほうがお父さんよりも大きくなってしまったから」

 兄が黙って肩をすくめたのを見て納得したように頷き、

「まさか吊るされることはないだろうがね」

 続けてぽつりと呟いて、貧しい夕飯を整え始めた。当の父親は、異民族を追い払った後、村落の集まりへ顔を出していて、まだ帰宅していないらしい。

 母の傍らには、隣家の魯栄もまだそこに居て、夕餉の支度を手伝いなどしている。

「栄は帰らないのか」

 弓を壁にかけながら、狄青は尋ねた。

 その問いに、栄は黙ったまま瞳を伏せる。要するに、帰らなくても良い、ということらしい。その態度も、

(何も言わなくても、そちらが察しろ、か)

 もはや慣れっこになっているので、何とも思わないが、

(村の奴らは、栄のこんな一面を見たらなんと思うだろう。少なくとも俺は苦手だ)

 言葉にして、きちんと言ってもらわなければ無理だ、と、内心密かに苦笑するのが常なのだ。

 隣の魯家の子どもは、長女の栄のみである。あまりにも家が貧しすぎるため、狄青同様、よい歳になっていながら嫁のもらい手がない。他にも子はいたのだが、飢餓と病で皆、幼いうちに亡くなってしまっていた。

 だから、彼女の両親はそれこそ日にも当てぬようにして彼女を育ててきた。狄青にしてみれば、特に彼女の体が弱そうにも見えないのだが、この村の女がやるべき畑仕事も、「倒れるといけないから」と、一日の半分ほどしか手伝わせていない。

 結果、栄は村で一番肌色が白くきめ細やかな、見るからに男の庇護本能をくすぐりそうな腰の細い娘に育った。さらには、彼女の両親が、娘の欲するところを先回りして察し、それを叶えてしまうので、栄の方も余計な言葉を発することを必要としないまま、成長した感がある。

 従って、

「己が言わんとするところを全て言わなくても、他人が察するのは当たり前」

 になってしまったのだろう。しかも彼女の両親は、それを良しとしている風なのだ。つまるところ、彼らは彼女を溺愛していたということになる。

 それほどまでに大事な娘が、日が暮れても自分たちの側にいないとなれば、それこそ天地がひっくり返ったかのような大騒ぎをするに違いないのだ。

「青兄様。両親が良いと言ったのです。今夜は兄様の家の世話になれと」

 並んで座った狄兄弟の前に、出来上がった夕餉を並べながら魯栄が答えるのへ、

「そうか。あの小父御も寛大になったことだ」

(……二十一年。長いようで短いような)

 彼女が生まれたのは、狄青が生まれたちょうど五年後である。その年月を思い、狄青も単純に納得して頷いた。

 彼女とは、隣同士に住むものとして、実の兄妹のような付き合いを続けてきたし、それは現在も進行中である。だから、栄も狄青を当然のように兄と呼ぶ。狄青のほうも、先に述べたような彼女の雰囲気が苦手ではあるが、妹に対するような親しみを持っていることには変わりない。彼にとっては、ただそれだけの話である。

 その日は夕餉を済ませた後、狄青が二間も離れていない隣家まで魯栄を送っていったわけだが、

「普通は兄からするもので、順序は逆だが、青、そろそろ栄を嫁にする気はないか」

 翌朝、父が尋ねたのへ、彼はしばらく目を丸くした後、

(ああ、そういう意味だったのか)

 少しだけ声を上げて笑った。

「何を笑うか」

「親父、俺たちは貧しい。今のままでは栄を嫁にもらったところで、俺には到底、栄を養ってはいけぬ」

「隣の魯家とて、俺たちと同じくらい貧しいし、お前ならば安心して任せられると言っている。一人娘ゆえ、次男のお前が隣に住む形になるが、もともと家族同然に暮らしてきたのだ。気兼ねも要るまい」

「無理だ。今日は異民族どもの襲来もなさそうだから、俺は山へ狩りに行く」

 いつもならば、彼のこういったすげない答えに、あっさりと折れるはずの父は

「青ッ!」

 昨夜、魯栄もともに夕餉に着いた埃だらけの卓へ、拳を叩きつけて息子の名を叫んだものだ。

「何だ」

 その尋常ならざる雰囲気を感じ取って、狄青は壁の弓へ伸ばしかけた手を止め、父を振り向いた。

「魯栄はすでに承知している。お前は栄を見ても何とも思わないのか。俺の言うことを聞けぬか。よい歳をした男が家を成さぬのは、不孝と思わないか」

(親父も年老いた)

 今更怒鳴られたところで、恐怖の気持ちはまるで沸かない。己へ向かって怒鳴るその顔を見て、なぜかまるきり別のことをしみじみと思ったのは、父の髪に白いものが混じったり、皮膚に皺が増えたり、といったことのせいばかりではない。

「親父と栄には悪いが、俺は彼女を女として見たことがない」

 父の白髪を見ながら、

「この家を継ぐべき兄ならともかく、俺にはその義務もないはずだ」

 狄青は答え、答えながら(そういうことか)と、また別のことに思い当たって、彼は心の中で頷いていた。

 この国の常識として、家は存続させる必要があり、そのために男は嫁をもらう必要がある。今、この狭く汚く、貧しい家に兄がいる。二十代半ばでありながら、貧しさゆえにまだ嫁の来てがないが、もしも嫁が来た場合、

(俺が居ては夫妻の邪魔になる。食う口は一つでも減ったほうが良い)

 ということにもなるし、

(娘の栄一人しかいない隣の家にとっては、またとない働き手を得る形になる)

 ということが分かったからだ。そうなれば、やはり娘が年頃である今のうちに、婿を迎えたほうが良い。狄青ならば次子であるし、性格も気心もよく知れている。狄家を出る形になっても問題は無い……といったところであろう。

 彼女がおぼつかない足取りで、己の行く先々を追ってきた光景が、瞼に懐かしく蘇る。その頃から、栄が己に好意を持ってくれていることを、おぼろげながら彼は感じていたが、

(俺と同じように、実の兄妹が互いに抱くような、そんな程度の気持ちだろう)

 と、彼は思っていた。

 両家の父たちが、そんな損得勘定ばかりで今回の「婚姻」を決めたのではないことも、重々分かっている。分かっているが、

「余計なお世話だ。嫁くらい自分で見つける」

 狄青は苦笑しながら言い捨てて、後も見ずに家を出た。

 世の男が常にそうであるように、女、と聞いただけで心がざわめくような、体が熱くなるような時代を彼も経験した。経験はしたが、そのような折でもやはり、彼女を妹のようなものとしてしか見ることは出来なかったのだ。

 しかし、それでも、

(俺がこう言っていた、と聞いたところで、栄がこれからも家に来るのには変わりあるまい)

 そしていずれ、なし崩しに魯栄と結ばれるかもしれない、と彼は思い、また、

(だが、別にそれでも構わない。互いに婿に嫁に、なり遅れた者同士だ。似合いであろう)

 いつもの無造作でそうも思った。

 そして、家の裏の厩舎へ向かううち、そのことはすっぽりと狄青の心から抜け落ちてしまったらしい。彼に気づいた母が、三頭きりしかいない馬へ麦をやっている手を止めて、この背の高い次男坊を見上げた。

 年中狭い田畑をひっかいているため、日に焼けて染みが浮き、ために年齢よりも老けて見える母の顔を見下ろしながら、

「狩りへ行く。兄者は?」

 彼が問うと、

「お父さんの代わりに、集会に行ったよ」

 母はかすかな苦笑を浮かべて答えた。薄い壁であるし、窓は開け放しであるし、というので、母にも父と息子の会話が聞こえたに違いない。

 だが、母はそのことには一切触れず、

「また北の異民族がやってきているらしいからね。今度は集団ではなくて、何を思ったのかほんの数人ほどらしいけれど」

 言って、

「お前も、気をつけて」

 無精髭の生えた彼の頬を、荒れた手のひらで撫でた。

 照れ臭さのせいで、少し怒った顔になってそれへ頷き、彼は己の馬を引き出す。今日は珍しく風がさほど強くない。よって運ばれてくる黄砂も少なく、空はいかにも秋らしく澄んでおり、

(太原あたりまで足を伸ばしてみるか)

 少し浮き立つような気持ちにさえなって、狄青は天を仰ぎながら深呼吸をした。



 先にも述べたが、太原は、狄青の住む汾州より汾河沿いに北上したところにあり、古代からこの地方随一の都市である。春秋戦国時代には晋の都市であり、晋陽と呼ばれたし、秦の始皇帝時代には太原郡の治所が置かれ、前漢時代には并州の州府が置かれている。

 隋、唐、五胡十国時代を経て、太平興国四(九七九)年、宋の太宗に十国の一つである北漢皇帝、劉継元が降伏したことで宋の統治下に入った。

 河沿いに馬を走らせながら、

(こんな折でなければ)

 狄青はそのあたりの景色を見て思う。

 あるところでは、名も知らぬ黄色い花の咲く田園地帯を緩やかに流れ、しかしあるところでは、黄土を侵食して深い谷を作ったりもする汾河の表情を、

(どれだけ眺めても眺め飽きるということはない)

 彼は心からそう思っていた。つまり、彼はそれだけ故郷を愛しているし、

(俺が守るのだ)

 何の衒いも気負いも無く、ごく自然にそう考えているのだ。

 この澄んだ空気の中を、ともすれば柳の葉もゆったりと舞う。まことに風光明媚なその景色を、小高い山の中腹から眺めながら馬を走らせているうち、

(うむ)

 前方から二騎、同様に馬に乗った者たちが駆けて来るのに気づいて、狄青は頬を少し引き締めた。

(母が言っていた、契丹の者か)

 それにしては、彼らの身につけているものは、宋の民が着ている服と変わらないように見える。油断無くそちらへ注意を配りながら、腰に下げていた弓へ左手を伸ばし、相手の攻撃に備えていると、

「やあ。ちょうど良いところでお前に会えた」

 何の攻撃もせぬまま、相手はついに目と鼻の先までやってきた。そして、

「ずっとお前に会いたくて、お前の村のあたりをうろついていた。やっと会えた。あまりうろうろして、お前の村の者に射られてもつまらぬから、今日会えなければ、もうすっぱりあきらめようと思っていたのだ」

 何とも言えぬ親しみを込めた調子で、相手のほうから語りかけてくる。驚いてよくよく目を凝らしてみると、

「……お前か」

 それは先日、彼の村落へ襲い掛かってきたあの少年だった。先ほど己の目に写ったのは、間違いではなかったらしい。少年は、今日は契丹の衣装ではなく、宋の人間がまとうような、袖の短い上衣に、腹までの長さの上着を身に着けている。

 戸惑っている様子の狄青を見て、この少年はいかにも少年らしい白い歯を見せて少し笑い、

「返す。悔しいが、今の俺にはお前ほどの腕はない。これが精一杯だ」

 と、茶色い毛をした兎を彼に差し出した。

「……そうか」

 あの折の情けを返しに来たのだ、と言いたいらしい。少年の表情と声で、それが嘘ではなく真心から発しているのが良く分かる。

 だから狄青もまた、笑ってそれを受け取って、

「それだけのために、わざわざここまで来たのか」

 皮肉の一切ない、しみじみとした調子で声をかけた。そこには、年下の者に対する限りない労りが篭っていて、

「……俺は借りを作るのは嫌だ」

 顔を赤くしながら、慌てたようにそっぽを向いてその少年は言うのである。

「これからはもう、少なくとも俺たちはお前たちの国を襲わない。襲わない代わりに、狩りで暮らしを立てることにした。だが、お前ほどの弓の使い手は、俺たちの国にも居ない。だから」

 共に教わりに来たのだ、と、彼同様、傍らで馬に乗っている小柄な人物を見た。

 こちらは騎馬民族らしい帽子を目深に被っている。まだまだ頬は赤く、少年より一段と幼い印象を受けて、狄青は少し首をかしげた。

「妹だ」

 その視線を追って、その少年はおかしそうに言う。同時に、その人物が被っていた帽子を取って、狄青に笑いかけた。

 中に隠れていた長い黒髪が、さらりと音を立てて背の後ろへ流れて、

「お前の妹だというのか」

 覚えず、胸の動機を覚えながら彼は問うた。

 とびきり気の強そうな、大きく澄んだ瞳をした少女である。覚えた動悸をなるだけ意識せぬようにしながら、

「契丹の者は、女でも弓をするのか」

 狄青は重ねて問うた。

 すると、

「いや、こいつは自分から狩りをすると言い出したのだ。狩りをする者が二人になれば、それだけ獲物も増える、と。俺は最後まで反対したのだが」

 と、少年は少し苦い顔をして首を振り、

「言ったろう。俺には両親がいない。俺は今年十八になった。この妹はやっと十六になったばかりで、下にもまだ、八つと六つになる弟が一人ずついる。親を亡くしてからは、村の長に面倒を見てもらってきたし、弟たちは自分で暮らしを立てられるようになるまで、という約束で今も面倒を見てもらっている。だが」

 そこで大きく息を吐いた。

「血の繋がらぬ他人に面倒をかけてもらう時期など、なるだけ短いほうがいい」

「……よく分かった」

 その様子を見て、狄青は再び何とも言えぬ気持ちに打たれ、

「余計なことを尋ねた。悪かった」

 頭を下げると、

「構わない。俺たちのほうが、余計に迷惑をかけている。そう言えば、まだ名乗ってもいなかった」

 少年はまた、白い歯を見せて微笑する。そしてひらりと馬から降り、地面に転がっていた木の枝を取ったかと思うと、

「俺はホウ、と言う。そして」

 同じように馬から下りた少女をその木の枝で指し、

「この妹は、セイという名だ」

 言いながら、その枝でもってがりがりと地面を掻いた。ホウ、セイ、というのが、狄青が辛うじて聞き取れた音である。だから、

「……難しい字だな。俺には皆目理解できん」

 地面に書かれた彼らの長い名を見て、狄青は腕組みをし、思わず嘆息したものだ。

 言葉は悪いが、もともと貧農の出である彼のこと、文字には暗い。自分の名前さえ書くことが出来ればそれでよい、学問をする間があったら生活のために働け、というわけで、己の国の言語である漢字もあまり知らぬ。したがって、自分の名前もうろ覚えなのだ。

 そんな彼に、

「俺たちとて名もない平民だが、お前たちの国の言葉は幼い頃から学ばされている。だから、お前の言っていることも分かるし、こうやって話せる。お前の名も、言ってもらえれば、お前たちの国の言葉ですぐに書いてやれる」

 やや得意げに、胸を反らしてホウは言うのである。

 現代において、契丹の人々は、民族系統としてはモンゴル系である、というのが定説になっている。実際にモンゴル民族の国とも国境に接していた契丹地方は、モンゴルだけではなく、他にも様々な国に周りを囲まれていた。そのような位置上や、外交上の事情があるため、この地方に住む人々は、それらの国の言語にも通じていた、とされている。

 ホウが書いたのは、俗に契丹文字、と呼ばれている多音節言語である。現代に残る契丹文字は、契丹内での表記に使われた大字及び、契丹太祖の弟、耶律迭剌が、ウイグル文字を元にして作った契丹小字とに大別されている。

 大字のほうが契丹国内においては、いわゆる「公用語」である。こちらは契丹の太祖、耶律阿保機が神冊五(九二〇)年九月に国内に公布した。多くは漢字を参考にし、あるいは借用したものだが、明らかにそうではなさそうな字も多くあるため、文字の起源は結局、はっきりしていない。

 小字のほうは、先ほど述べたように、阿保機の弟の迭剌が、外交上の必要にかられたため、ウイグルの使者に学びながら作ったものである。小字の隣に書かれた漢文から推測するに、こちらはいわば発音の仕方を書いた音節文字であると考えられている。しかしこれも、残されている資料の信憑性が低いため、比較表記されている漢文があるにも関わらず、現代に至ってもそのほとんどが解読されていない。

 ともあれ、そんな複雑な「事情」を持つ文字を、ホウは地面にすらすらと書いた。

 ばかりでなく、

「お前は何と言う名だ」

 先日とは打って変わって人懐っこい様子で、己の隣にしゃがんでいる狄青を見上げ、

 尋ねてくる。

「狄青だ。姓が狄、名は青。名の発音はお前の妹と同じ、セイだ」

「そうか。短いが良い名だ。どんな文字だ」

 妹と顔を見合わせて笑うホウへ、

「あの空の色だ。俺の一番好きな色だ」

 狄青は秋の空を仰ぎ、天へ向かって指を指した。

 するとホウは、

「そうか。ではこう書くのだな」

 一つ二つ頷いて、枝を持ち直す。

 青、と、ホウの持つ枝が黒く肥えた土に文字を書いた。

「そう、覚えは薄いが、確かにそれだ」

 狄青が答えると、三人は誰からともなく注視していた地面から顔を上げ、互いを眺めて微笑みあった。

(聞いたことはないが、鈴を転がしたような、とは、このような音を言うのではないか)

 セイの笑い声を聞いて、狄青は思ったものだ。理由は分からないが、どうしても妹のセイへ目が惹きつけられる。そして彼が目をやるたび、セイは気後れもせずに大きな瞳で彼を見返し、微笑する。

「順序が後になってしまったが、お前たちを誤解していたことを詫びる」

 そんな狄青へ、ホウは立ち上がってひょっこりと頭を下げた。

「俺たちの国でも、贅沢な暮らしをしているのは王族だけだ。あの時、お前の言葉を聞いてすぐに分かった。お前の国も、お前たちから取るだけ取って、王族だけが贅沢しているのだろう」

 誤解していた、悪かった、と、続けた。

「だから、俺は俺たちだけの力で、己の食い扶持を養うと決めた。頼む。弓を教えてくれ」

「俺でよければ」

 年下でありながら、ホウは対等な、無礼とも言っていい口を聞く。しかしその率直な物言いが何とも快く思えて、狄青は自然に口元をほころばせていた。

 そして、

(遅くなった。早く戻らねば)

 気が付けば、辺りはもう夕闇の中である。

 ホウとセイの兄妹へ弓を教えながら、己でも狩りをして、時間が経つのをすっかり忘れていた。腰に山鳥を二つ三つぶら下げながら、家へ馬を走らせて、

「月がなくなる頃、また来る」

 狄青が思い浮かべるのはホウのその言葉と、

(兄妹そろって、はきはきした物言いをする……)

 自分に向けられていたセイの大きな瞳ばかりだった。

 弓の番え方を教えている間、どうかするとその白い指先が触れる。そのたびに、甘く酸い柑橘系の果実のような香が、セイから漂ってくる。

 男のそれとはまるで違う肌に触れ、その香を嗅ぐ都度、

(もう俺は少年ではないのに)

 柄にもなく頬が熱くなって、それを、契丹のあの兄妹に知られはせぬか、と、密かに焦ったものだ。

 狄青とて決して木石ではない。同じ村の同世代の若者たちと、

「何某は他の村の女に恋をしたそうな」

「何某は、一目で見ただけであの家の女に惚れたそうな」

 などと、半ば笑い話のように、それらしきことを語らったこともある。また少しだけ懐に余裕があった数年前、家族には黙って太原へ行き、最も安く売られていた女を買ったこともある。

 情愛の伴わなかったその折の行為は、彼に不快感しか与えなかったが、つまり、女という生き物をまるきり知らなかったわけではない。しかし、恋をする、ということが、どうしてもこれまで実感として湧いてこなかった、ということになろう。

(女ならば誰でも欲しい、という、少し前までの感じ方とはまた違う。これが、世間で言うところの恋、というものか。何のことはない。結局、女の好みが違っていた、というだけの話ではないか)

 隣家の幼馴染のように、「誰かが守ってやらねばどうしようもない」というようなか弱い女ではなく、己の欲するところを自ら果敢に行う、そういった女が好きだったのであり、

(だから、俺は魯栄を女として見られなかったのだ)

 この時狄青は、それを初めて自覚したのである。

 月がなくなるまで、つまり新月になるまで、まだあと一週間ほどもある。兄妹に、というよりも、特にセイに会うのが待ち遠しい。
そういった想いもどうやら、恋というものになるらしい、と、彼は馬上で一人、頷いた。しかもこれは、くだんの仲間たちの話に出てきた「一目惚れ」というものではなかろうか。

 話に聞いた折には、たった一度だけ会っただけの女に恋するなど、到底あり得ぬ、などと心の中で笑ってさえいたのに、

(俺は俺より一回りも年下の、しかも異民族のあの少女に一目で恋をした)

 はっきりと自覚した次に苦笑した。

(だが、悪くない)

 たどり着いた我が家の粗末な厩舎へ、ほぼ無意識に馬を引き入れながら、

(ああ、悪くない)

 彼は心の中で繰り返す。

 女の顔を思い浮かべるたびに、心が浮き立つような、口元へ無意識に笑みが浮かぶような、そんな高揚感を味わったのは、彼にとってこれが初めてだった。

 ただ生活するためだけに生を終えるか、だがそれでも良いと割り切っていた己の暮らしに、何やら潤いが与えられたような心持ちでもある。

(だが、それだけのことだ)

 その気持ちは、粗末な家に入って、隣家の娘がそこにいるのを見た時に少し収まった。異民族の、しかも今の今まで敵対していた娘に恋したなどと、

(親父とお袋が知ったら、それこそ正気の沙汰ではない……)

 粗末な食事が並んでいる食卓の、己の席に着くと、魯栄が湯気の立つ椀を前に置く。その白い指を見ながら、

(俺が誰にも言わねば良いことだ。それで良い)

 狄青は考えた。セイへほのかな思いを寄せた、その胸のうちを誰にも知られることがなければ、このまま己は魯栄を嫁に取り、隣家に住まうことになるだろう。

(それが一番良いのだ)

 第壱、 そのような思いは狄青が自分勝手に抱いているだけで、セイ自身の彼に対する気持ちはどうだか分からないのだ。それに思い当たって、

(全く愚かなことだ。俺が一生、言わねばすむ。それだけのことではないか)

 思わず苦笑した彼を、魯栄が怪訝な顔をして見つめていることに、狄青は気づかなかった。



 そして、狄青が契丹の兄妹へ弓を教えること早数年。

「今日は風が強い」

 太原近郊の山の中腹である。そこは木々がまばらな、野原のような場所で、彼が兄妹と初めて出会った所から少し離れていた。

「お前たちの土地には、さぞや砂が降り積もるに違いない」

 左手に弓を持ったまま、右手をかざして彼が空を仰ぐと、ホウとセイも真似をして空を仰ぐ。まだ夕餉時には随分と間があろうのに、太陽はすでに西へ傾きかけていた。

 間もなく冬である。日に日に、昼の長さが短くなっていくのが実感される。朝晩がぐんと冷えるようになったが、

「無理はするな。特に、指先を冷やさぬように注意しろ」

 狄青が兄妹へかける言葉には、変わらぬ温かい労りがこもっている。

 心得たように頷いて、ホウが少し離れた場所へ駆けていった。その方角に獲物を見つけたらしい。

 そんな兄の様子を見ながら、

「貴方のおかげで、空を舞う鳥も、三羽に一羽は射落とせるようになりました」

 狄青へ、はきはきと答えるセイの声の調子も変わらず、

「地を駆けるものも、たやすく捕らえられます。これで冬も飢えに怯えず過ごすことが出来る。感謝しています」

 言葉どおり、感謝と敬意を込めて見上げてくる彼女の大きな瞳は、晩秋の空を映して青い。

 空気がより一層乾いているせいか、セイの体臭もいつもより強く感じられて、

「……冬になれば、獲物が少なくなる。今のうちに、捕らえられるものは捕らえておいたがよい」

 いつまでも見つめていたくなるその瞳から慌てて目を反らし、狄青はホウを気にかけるフリをしながら言った。

 素直にこっくりと頷くセイの耳飾りが、かすかに音を立てる。長い黒髪を無造作に後ろで一つに束ねているため、白い項が、羽織っている上衣の黒い衿からわずかに覗いていた。

 ちらりとそれを見やって、その白さに少し目を細めながら、

「お前たちに教えることも、もう無くなる。お前たちは筋がいい」

 狄青は続けた。

 近頃では、魯栄が以前とは違う彼の様子をさすがに気づいたらしく、彼に向かってしきりに何かを訴えたそうな素振りをする。当然ながら、この兄妹のことを彼女は知らない。だが、女性らしい鋭い直感でもって、「何かがある」と察し、その何かに漠然とした不安を抱いているのだろう。

 事実、今朝方家を出てくる時も、

「獲物が少なくなってきたから、太原へ出る」

 とだけ告げたのに、

「……青兄さまの体から、良い香りがします。まるで女人のような」

 もはや当然であるかのように我が家にいる魯栄は、狄青の肩へ粗末な上着をかけながら、彼だけに聞こえるように小さく言ったものだ。

 それを聞いて、

(まさかにセイの体臭が、俺に移ったわけでもあるまいに)

 女性とはまことに鋭いものだ、と、狄青は内心、ひやりとしつつ苦笑した。

 たかが一、二週に一度程しか会うことのない他の女の香が、彼に移るわけはないし、ましてや栄に匂ったわけではあるまい。つまり彼女は、狄青の雰囲気が変わった、と言いたかったのだろう。

 そして彼はその折、

「お前の気のせいだ」

 と告げたのみで出てきた。事実、そうとしか言いようがない。

 魯栄が彼の嫁になると「正式に決まった」のは、半年前の春である。それからは、以前はさほどでもなかった栄自身の立ち居振る舞いが、はっきりと変わった。

 毎朝早くから我が家へやってきては、狩りへ出かける折に狄青へ上衣を着せ掛けたり、彼の衣の綻びを繕ったり、といったような世話を焼く。

 そんなことからしてみると、もはや両家の親のみならず、彼女自身の意識ももう、完全に「狄青の嫁」であるらしい。狄青自身から、はっきりとした意思を聞いていないし、両家は変わらず貧しいし、などという理由が重なって、これまでずるずると婚礼を先延ばしにしていたが、

「もうこれ以上は待てぬ。娘は二十歳を超えてしまう」

 このままであると、魯栄は「行かず後家」になる、と、彼女の両親が焦り、狄青の両親をせっつくようになっている。ゆえに、このまま彼が何も言わずとも、来年の夏までには祝言を挙げさせられそうな状況なのだ。

(栄が、この兄妹のことに気づく前に。俺の心の内を栄に知られる前に)

「……そうなれば、お前たちはすぐに国へ帰れ」

 近頃はどうしたものか、契丹の異民族が、こちらへ侵入してくる度合いも格段に減っている。であるから、「こっそりと侵入してくる異民族」は、いかに宋の人間らしい格好をしているとはいえ、やはり目立ってしまうし、見る人間が見れば分かるのだ。

 この兄妹が敵対する意思を持っていないのを知っているのは、大げさに言えば宋の国では狄青だけなのだから、

「危険だ」

 言うと、セイは大きな目を哀しげに伏せた。

 いつの間にかホウも、獲物を片手にぶら下げて彼らの側へ戻っていて、

「ならば、お前が俺たちの国に来ればよい」

 この付き合いの間、何度も口にした事のある言葉を狄青に告げた。

「……馬鹿を言うな」

「馬鹿ではない。お前なら村の長も歓迎する。お前は次男だろう。お前の国では、親の面倒は、長男が見るとお前は言ったではないか。ならば、お前がこちらへ来ても一向に構わない。お前一人がいなくなったとて、親も困らないだろう」

 ホウは若いだけに、物の言い方と考え方がいつも直線的である。

「物事がそう簡単にいけば、どんなに良いかもしれないが」

「良いと思うなら、そうしろ」

 苦笑する狄青へ力強く言い、次に妹のほうを見て、

「セイもそれを望んでいる」

 ホウは続けた。

「しかし」

 狄青が思わずセイを見やると、彼女の大きな瞳もまた、潤みを含んでこちらを見ている。

(魯栄だ)

 その目には、隣家の幼馴染が己を見る目と同じ輝きが含まれている。それに気づいた途端、彼の胸の動悸が苦しいほど激しくなり、

「……俺の一存では決められない。決められないが」

 あえぎながら、彼はようようそれだけを告げた。

 己は何よりも故郷を愛している。それに、何のかのと言いながら結局、己の意思を尊重しつづけてくれた両親をも愛している。

(それらを捨てて、異国には行けぬ。今ならまだ、引き返せる)

 だが、セイの大きな瞳にもまた、己にとってはそれらを捨ててなお、余りある価値が秘められているようにも思える。

 ついに狄青は黙りこみ、彼らしくなく顔を伏せてしまった。兄妹より一回り以上大きな体躯が、一気に縮んだように見える。そんな彼の答えを、契丹の兄妹は辛抱強く待っていた。

 そこへ突然、

「セイ!」

 夕闇を切り裂いて、誰かがその名を呼んだ。同時に振り向いた二人の「セイ」のうち、地面へ倒れたのは契丹の少女のほうで、

「お前が異民族と会っている、というのは真実だったのか!」

「…セイッ!」

 妹の名を呼びながら、ホウが慌ててそちらへ駆け寄る。彼女の白い喉には矢が深々と突き刺さっており、その様子を見ながら、

「俺はお前を信じている。よもや異民族と通じた、というわけではなかろうが、面倒は取り除いておくに越したことはない」

 ぞっとするほど冷たい声で、そこに現れた狄青の兄は続けた。右手に掲げている松明の火までが震えているように見えたのは、怒りのためであろうか。

 そして、

「……異民族め、失せろ。糧ばかりではなく、俺の大事な弟まで奪うか」

 馬を降りながらきりきりと弓を引き絞り、兄はホウへ矢の先を向ける。

「ホウ、逃げろッ!」

 兄へ飛び掛りながら、狄青は絶叫した。するとホウは、憎しみに満ちた目で狄青と、彼に地面へ押さえつけられてもがくその兄を見つめた後、ぱっと身を翻して駆けていく。

 やがて馬のいななきと、蹄が地面を蹴る音が聞こえてきた。それが遠ざかった頃、

 ようやく狄青は兄の体を解放したのである。

「……何をする?」

 立ち上がりざま、側の地面を両手で掘り始めた弟へ、兄は静かに問う。

「墓を作る。それくらいは良いだろう!」

 その問いに、弟は絶叫で答えた。

 辺りはゆっくりと、夜の闇の中へ沈んでいく。粗末な服に付いた土を払いながら、兄は転がった松明を拾い上げ、黙って弟のほうへ掲げた。

 側には、まだ喉に矢が突き刺さったままのセイが横たわっている。その白い肌を山の獣どもが食い荒らさぬようにと、ただそれのみを考えるようにしながら、狄青深く深く土を掘り続ける。

 やがて、黙ったまま、狄青は兄へ矢を差し出した。

「……ああ」

 兄は一つ頷いてそれを受け取る。その先には、乾ききってドス黒く変色した血がこびりついており、それを無造作に上衣の裾で拭いながら、

「栄が、知らせてくれたのだ」

 息絶えた契丹の少女の体を、深く掘った穴へ大事そうに下ろした弟に、兄は告げた。

「栄が」

「そうだ。夏の終わり頃からお前の様子がおかしいというので、ついに今日、俺にお前を見張れと言った。何かあった後では遅いからと。だから俺は、今日は朝からお前の後を追っていたのだ」

「そう、だったか」

(栄が、言ったのか。栄はそこまで)

 何よりも、そのことが狄青の心を打ちのめした。

(俺は、なんと迂闊な)

 のろのろと顔を上げ、穴から上がってくる弟に手を貸してやりながら、

「途中でお前の姿を見失ってしまったから、こんな時間になった。俺も、狩りをするだけなら、お前がどこで獲物を獲ろうと何も言わぬ。俺も両親も、お前の弓の腕を信頼している」

 年長者らしく、懇々と兄は諭し始める。

「だが、敵と密かに会っているとなると、そうはいかない。お前は密通者として、村から追放……悪くすれば、処刑される。そうなれば、俺たちとて村にはいられない。そこまでお前は考えていたか」

「兄者、しかし」

「分かっているさ。お前はそんな奴ではない。だがな」

 言いかけた狄青を遮って、

「今度は西から、党項(タングート)族どもがやってくるという噂もある。よって皆また、神経を尖らせているのだ。そんな折に異民族と、ただ会って話をし、共に狩りをしていただけだと言っても、通用すると思うか」

 兄は決して責める口調ではなく、むしろ労りすら込めて言う。

 その兄へ、

(……もう俺は、あの村には住めぬ)

 狄青は言い返すことの無駄を悟り、墓穴へ向かって土を落としていった。

 もう少しで少女の体が土中へ隠れんか、という頃合になった時、彼はふと、目を細めた。兄の掲げる松明の明かりに煌くものを見つけたからである。

(耳飾り、か)

 おずおずとそれへ手を伸ばし、狄青は物言わぬセイの耳朶からそれを抜き取った。

 盛り上げた土の周りを拾い集めた石で囲い、形ばかりの墓は完成である。立ち上がりかけてふと、傍らに咲いていた野生の白百合に気づいて、

(……目印になろう)

 彼はそれを球根ごと掘り起こし、盛り土へ植えた。そして兄に促されるまま己の馬へ乗る。魂が半ば抜けたようになったまま、馬に揺られてしばらくすると、己の住む家が見えてきた。

 さらによくよく見ると、夕餉の匂いの漂う粗末な扉の側に、誰かが佇んでいるのも分かる。それが隣家の魯栄であると気づいて、狄青は思わず目を閉じた。

「青兄さま、ご無事で」

 彼の姿を見つけると、栄は弾んだ声を上げて駆け寄ってくる。馬から下りた兄が彼女へ向かって、

「お前の言った通りだった。こいつはよりにもよって、契丹の女と会っていたのだ。危うく我が弟を、異民族に取り込められるところを未然に防げた。感謝する」

 と言い、それへ魯栄がわずかに微笑んで会釈するのをぼんやりと見つめながら、

(栄はやはり察していた)

 今更ながら改めて思い、狄青は兄と己の、二頭の馬の手綱を取って、いつものように我が家の厩舎へ向かった。

「青兄さま、夕餉の支度がすっかり出来ております。たんとお召し上がりになって」

 彼の後を軽やかな足取りで付き従いながら、魯栄は心なしか弾んだ声で告げる。そんな彼女の名を、

「……栄」

 彼女へ背を向けたまま、馬の手綱を柵へ結びつけながら狄青は呼んだ。

 その硬い声の意味を、敏感に察したのだろう。彼女が顔をこわばらせ、細い肩をびくりとすくめる気配がする。

 馬の尻を叩いて、それらを小屋の中へ追いやりながら、

「すまなかった」

(この言葉だけで、栄には通じるだろう)

 狄青が言うと、彼女が安心したようにホッと息をつく音がした。

 しかし、そこで狄青が振り向くと、魯栄は再びハッと息を呑む。そんな栄から目を反らして、狄青は地面へ視線を落とした。

(俺は今、どんな顔をしているのだろう)

 頬も口も、何かが張り付いたように動かないのは、空気が冷え切ってしまっているせいばかりではあるまい。

 辺りを、冴え冴えとした満月が照らしている。狄青の体が建物の陰に入っているため、魯栄の影だけが細く長く地面へ伸びていて、

「……だが、俺はもう、お前とは一生を共に出来ぬ」

 それを眺めながら、彼は告げた。

 途端、その影がはっきりと分かるほどに震え始める。その横を通り過ぎながら、

「お前だけではない。俺はもう、例えどんな女でも、一生嫁にはもらわぬと決めた」

 彼が再び言うと、栄は地面へがっくりと膝をついた。

 魯栄が他の家へ嫁ぐと言い出したのは、黄砂がいつものように吹いてきた翌年春のことである。当然のごとく祝言を挙げる予定でいた両家にとっては、まさに「晴天の霹靂」であったろう。

 狄青の老いた父などは、

「ぜひとも嫁にもらってくれと言ったのは、そちらの方ではないか」

 などと隣家へ文句を言いに乗り込んでいったりしたものだ。

 激怒している狄青の父の前で、

「まことに面目ない。もう青の元には嫁がぬと、ただその一点張りで」

 魯栄の両親は、頭を床に擦り付けんばかりにしながらそう繰り返した。栄が心変わりの理由を頑として語らないため、彼女の両親でさえ、その「真の事情」を知らぬのである。

「まことに申し訳ない。この話は白紙に戻してもらいたい」

 どのように問い詰めても、なだめても駄目なのだと語るその言葉や態度には、微塵の嘘も感じられない。彼らもまた、疲れきり、困惑しきっている様子で、平謝りに謝るばかりであるし、何より当人同士、事情を知っているはずの狄青に尋ねたところが、

「栄ではなく、俺が悪いのだ」

 と、ぽつりと言ったきりで、それ以上弁明もしない。だもので、息子の頑固さを誰よりも知っている彼の両親も、ついに何も言わぬようになった。

 狭い村落のことだ。そんな話もすぐに端々まで知れ渡る。評判を落とすのは彼らの息子ではなくて、

「ぜひとも、と言っておきながら、良い縁談を自分から蹴った……」

 我侭な魯栄の方だった、ということも、両親があまりうるさく言わなくなった一因であるかもしれぬ。

 どことなく冷えてしまった狄・魯両家の間とは裏腹に、厳しかった冬の寒さは日に日に和らでいく。それに比例するかのように、今度は北方の契丹からではなく、西方の西夏から、異民族が略奪しにやってくる割合が多くなっていた。狄青ら庶民には預かり知らぬことだが、西夏で李元昊が国王として即位した、明道元(一〇三二)年頃からである。

 契丹へは変わらず莫大な歳幣を贈らされ続けている。これ以上の異民族の侵入を許せば、宋朝廷の沽券にも関わる。国境へ急いで兵を派遣したものの、それに対応できる優秀な武人はいない。そうこうしているうちに宝元元(一〇三八)年、ついにかの「蛮王」李元昊が、自ら兵を率いて国境を侵し始めた。

 西夏対策のため、特にこの地方から青年を兵として徴収する、と公布されたのは、それから二年後の宝元(一〇四〇)年のこと。狄青の人生においては、栄との婚姻が破談になってから、さらに五年後にあたる。

 時に、狄青三十二歳。

「兵を募集していると聞いた」

 特に自己申告せずとも、年頃の青年、特に農村の次男以下はほぼ強制的に徴収されるものを、彼は自ら兵になると言い出したのである。

「俺が名乗り出れば、嫌々兵に行かされる奴が一人は減る」

 それに対して両親と兄は哀しげな顔をしたものの、行くなとは言わなかった。

 狄青のほうにも、あれから二、三の縁談の話はあったが、彼はそれらを全て断り続けている。従って、

(栄との話が壊れた折の傷心が、未だに癒えていないのだ)

 と、家族は勝手に解しているのだ。

(そう思っておいてもらっても良い)

 事情を深く知らぬ両親や兄は、変わらず己を愛してくれている。それが苦しくてたまらず、

(ここに居続けていれば、俺はますます俺自身を嫌いになる。だが、兵になれば、たとえ離れていても故郷を守ることになる)

 狄青は思い、むしろ故郷を出る日を心待ちにしていたのだ。

 汾州の若者たちを率いていく役目は、特に武術に秀でているという理由で彼に当たった。いよいよその前夜になり、宵のうちから寝床へ引き上げた狄青だったが、

(眠れない)

 生まれて初めて別の土地、ことに宋の都、開封へ行くのである。

(俺の村のような田舎とは違って、さぞや賑やかであろう)

 傷心とはまた別種の興奮が、若い彼の胸を襲う。瞼を閉じたまま、所在なげに寝床の上でしばし寝返りを打った後、

(これで見納めになるかもしれないから)

 ついに狄青は起き上がった。

 両親と兄は、鼾さえ掻いて眠りこけている。それを起こさぬように、彼はそっと家の外へ出た。

 春先のこととて、夜の空気はぞっとするほど冷たい。それなりに温かかった彼の肌も瞬時に冷えていくのが分かったが、

(心地よい)

 慣れ親しんだその空気を、狄青は分厚い胸いっぱいに吸い込んで、

「……栄。お前はどうしたのだ」

 かすかな物音に振り返り、言った。 

 彼が出てきたのに気づいて、自分も出てきたものらしい。一度は地にまで落ちた隣家の幼馴染の「名誉」も、兵の募集騒ぎに取って代わられたためか、近頃ようやく回復した。ために、

(嫁ぎ先が決まったと聞いていたが)

 母から聞いた話を思い出して、彼は微笑む。

 魯栄の答えを待つ狄青を見上げ、彼女は何かを訴えたそうな素振りをした。しかし結局は何も言わず、顔を伏せてしまう。

(察しろ、というのか。相変わらずだ)

 かつては悩まされた彼女の性癖が、今となっては何故か懐かしい。

「栄」

 狄青が再び己の名を呼ぶと、魯栄の長い睫がぴくりと震える。

「すでに聞いていたかもしれないが、明日、出発する。幸せに」

 そんな彼女へ、狄青はかすかに微笑いかけ、我が家へと踵を返した。

 狄青が進んで応募したおかげで徴用を免れたのが、魯栄の夫となる男だったということを彼が聞いたのは、開封へ向けて出発した後のことである。

(まさかとは思うが栄は、あの時、俺に礼を言いたかったのか)

 今となっては、思っても仕方の無いことである。小憩を取る都度、狄青は歩んだ道を振り返り、村の影を探した。

 黄色い砂を含んだ風が、その日も吹いていた。

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