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五 華一掬 6
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一方で狄青自身はといえば、
(いつ官位返上を申し上げよう)
都へ戻って来てから、実はそのことばかり考えている。
枢密使ともなれば、軍事だけでなく民事も担当しなければならぬ。しかし実際に、朝議において彼がしたことと言えば、
「故范仲淹殿の所領を、そのご家庭ご子孫がある限り、後世に必ず伝えることをお願い申し上げたい」
と奏上した……幸いにもその案は容れられた……ただそれだけであった。
官吏が血縁一族のために設置していた一族共用の所領は、宋代では義荘と呼ばれている、このことにより、范仲淹の所領(范氏義荘)は後世、義荘の模範と呼ばれるのだが、
(こんなことでは、范仲淹殿の恩に報いきれたとは到底言ええぬ。だが、他に俺に何が出来ようか)
狄青は何とも言えぬもどかしい思いを抱いていた。
確かに范仲淹には恩がある。しかし、それはあくまで個人的なことだ。
三班差使などという「下っ端」であった頃ならともかく、現在自分が就いているのは、宋朝廷内で最高位と言える地位なのである。あまり范仲淹とその一族のことばかり気にしすぎると、
「宰相の立場にありながら、身びいきが過ぎる」
などと言われてしまうであろう。
さすがにこの頃になると、政治に疎い狄青でもよく分かっていたから、
(この程度で満足するしかないか……)
南方から引き上げてくる時、必ず范仲淹の供養をすると誓った彼自身としては甚だ物足りなかった。しかし他官吏の感情を思うと、そうやって己を納得させるしかない。
それに、再び五月蠅いほどに、
「貴方のための邸宅を建てましょう」
と言ってくる官僚を、
「俺は兵士たちの面倒を見たいのです」
そんな口実で追い払うのにも忙しい。
それをもって、兵士たちは、
「刺青の枢密使殿は、高位に上がっても未だに俺たちの立場で物事を考えている」
などと彼を誉めそやすのであるが、それに対して、
「俺は、単に寂しがり屋なのだ。だから、馴染んだお前たちのいる宿舎から離れられないのだ。そこまで深くは考えていないよ」
狄青は苦笑しながらそう返すのが常だった。実際に、彼は政務の後、毎日のように鍛錬場に訪れては、兵士たちの弓の訓練をみているのである。
妻子を持たぬ、従って家という名の付くものを生涯持たなかった男の、行き場をなくした愛が、それらに代わって兵士たちに注がれていた、と言えなくもない。
だが、
(疲れたな)
素直に思って、彼は肩を回しながら天を仰いだ。
(いつ官位返上を申し上げよう)
都へ戻って来てから、実はそのことばかり考えている。
枢密使ともなれば、軍事だけでなく民事も担当しなければならぬ。しかし実際に、朝議において彼がしたことと言えば、
「故范仲淹殿の所領を、そのご家庭ご子孫がある限り、後世に必ず伝えることをお願い申し上げたい」
と奏上した……幸いにもその案は容れられた……ただそれだけであった。
官吏が血縁一族のために設置していた一族共用の所領は、宋代では義荘と呼ばれている、このことにより、范仲淹の所領(范氏義荘)は後世、義荘の模範と呼ばれるのだが、
(こんなことでは、范仲淹殿の恩に報いきれたとは到底言ええぬ。だが、他に俺に何が出来ようか)
狄青は何とも言えぬもどかしい思いを抱いていた。
確かに范仲淹には恩がある。しかし、それはあくまで個人的なことだ。
三班差使などという「下っ端」であった頃ならともかく、現在自分が就いているのは、宋朝廷内で最高位と言える地位なのである。あまり范仲淹とその一族のことばかり気にしすぎると、
「宰相の立場にありながら、身びいきが過ぎる」
などと言われてしまうであろう。
さすがにこの頃になると、政治に疎い狄青でもよく分かっていたから、
(この程度で満足するしかないか……)
南方から引き上げてくる時、必ず范仲淹の供養をすると誓った彼自身としては甚だ物足りなかった。しかし他官吏の感情を思うと、そうやって己を納得させるしかない。
それに、再び五月蠅いほどに、
「貴方のための邸宅を建てましょう」
と言ってくる官僚を、
「俺は兵士たちの面倒を見たいのです」
そんな口実で追い払うのにも忙しい。
それをもって、兵士たちは、
「刺青の枢密使殿は、高位に上がっても未だに俺たちの立場で物事を考えている」
などと彼を誉めそやすのであるが、それに対して、
「俺は、単に寂しがり屋なのだ。だから、馴染んだお前たちのいる宿舎から離れられないのだ。そこまで深くは考えていないよ」
狄青は苦笑しながらそう返すのが常だった。実際に、彼は政務の後、毎日のように鍛錬場に訪れては、兵士たちの弓の訓練をみているのである。
妻子を持たぬ、従って家という名の付くものを生涯持たなかった男の、行き場をなくした愛が、それらに代わって兵士たちに注がれていた、と言えなくもない。
だが、
(疲れたな)
素直に思って、彼は肩を回しながら天を仰いだ。
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