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地の章
蛮土
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(確か、ここいらで邪悪な気が散じたのを感じたが)
流星のようにその地へ降り立って、那陀は両目を閉じた。
ここは、どうやら樹海らしい。季節は春らしいが、遠くに白い雪を頂く大きな山が見える。
深く呼吸をしながら心を落ち着かせ、己の心の中を覗くようにすると、
(ここから、東)
邪な気が発散されている場所が分かる。それは異母兄の二郎神君だけではなく、他のどの神族にもない、那陀独自の能力で、
(そのせいもあって、父は私へ邪鬼退治を命じたのだ)
那陀はそう思っている。そしてそのことだけは己が唯一誇れることで、
(私は父に愛されていないわけではない)
自分に言い聞かせながら、那陀は森の中を進んだ。
今ままで戦ってきたどの土地とも違う、うっそうと枝が茂る森林の中は、水蒸気が立ち込めている。
時折己の眼前をふさぐように垂れ下がる枝を、腰の短刀で無造作に切り払いながら、進んでいくと、突然森が途切れた。
(もっと、東)
己の心を信じて平地を進んでいくと、しかしそこからは海である。その向こうには大きな島が浮かんでいて、そこからは黒い煙が上がっているのが見えた。
(あれか?)
短刀を持ったままの右手をかざして、その島を那陀が眺めていた時、
「この土地のものか? ならば尋ねたいことがある」
背後から、声がかかった。何の気なしにそちらを振り返ると、そこには弓矢や長刀、長剣を持った軍勢がいて、
「あの島に渡るための船は、どこから出ている?」
那陀に問いかけた男が、どうやらその軍勢の「親玉」らしい。
異母兄の二郎神君とはまた違う、整った顔立ちながらどこか精悍な雰囲気を持つ若者である。
だが、思考を邪魔されて、
「…私はこの土地のものではない。今しがたここに着いたばかりだ」
ムッとしながら那陀が答えた途端、
「無礼者! こちらの御方はオシロワケノスメラミコトの御子だぞ」
その男の脇に従っていた強靭そうな男が那陀を叱咤する。
「本来なら、ただの旅人であるお前など、口も聞けぬ御方だ」
「…よい、弟彦」
すると、「親玉」は苦笑しながらそれを止め、
「こちらこそ、失礼した。改めて尋ねたい、旅の方よ」
柔らかく笑った。
「もしかしてここに来る途中で、船を見かけられなかったか?」
「私は、森の中からここへ来た」
その笑顔を、どこか(懐かしい)と思い、そう思った自分に戸惑いを覚えながら、
「私も今から、あの島へ渡ろうと思っていたところだ」
初対面の「人間」に、言わずもがなのことまで言っていた自分に、那陀はさらに驚きを覚えた。
厳密には、初対面の人間と口を聞いたことがなかったわけではないが、
(太公望は、知っていたからな…)
妲己、褒似といった、世にも美しい女に化けて人の気を暗いつくし、父天帝の護る中国の王朝を滅ぼそうとしたあの妖獣を討つために協力を要請した太公望は、天界の事情も知っている仙人だった。
だが今回ばかりは勝手が違う。土地勘もないうえに、気候も人々の考え方もまるで違う異国へ行くとなって、さすがに那陀へついていくという人間は現れなかったのだ。
(それはそれでいいさ。今までも一人だった)
那陀のほうでも、特にそれを気にしたこともない。だもので、
「あの島に何か用があるのか? なら我らと同行しないか」
彼が言うのへ、
「お断りする」
素っ気無く那陀は言葉を返した。途端、弟彦と呼ばれた件の男が殺気立つのを若者は押さえ、
「そうか、残念だ」
あっさりそう言い、人懐っこい笑みさえ那陀へ向けてくるのである。
「あの島には、悪さをする神が住み着いているという。もしかしてそれを知っていて、
お前も我らと同じく、その神を懲らしめに行くのかと思った。縁があればまた会おう」
「待て!」
それを聞いて、那陀は思わずその若者を呼び止めていた。
「何か?」
尊い御方の子、という話だが、ならばなぜ旅慣れた様子で、しかもその笑顔は日に焼けているのだろう。
それに見知らぬ旅人に対しているというのに物腰には少しも尊大なところがなく、
「お前の名は、何と言う?」
那陀が尋ねると、彼はまた笑いながら背中の荷物を降ろして解き、
「倭建命。もっとも父につけられた名ではないが。お前は?」
赤く熟れた果物を左の手のひらに乗せ、那陀へ向かって差し出したのである。
そして、砂浜を行くこと半日。
「この国は天皇、という神が支配しているのか」
たった十数人の、しかもその中には弟橘姫と呼ばれる女性までいる軍の中に、那陀はいつの間にか混じって歩いていた。
「そうだ。我々はここからずっと西の大和の国から、東の国の者の苦情を受けてやってきた。正確には、ニニギノミコトという神の子孫だと言われている」
「…どう書く?」
こちらの国の発音は、那陀にとって耳慣れぬものばかりである。戸惑って尋ねると、
「…これだ」
転がっていた小さな棒切れを取り上げ、倭建はしゃがんでその文字を書いた。那陀の『国』で使われているのとと少し形状は違っているが、大まかには良く似ている文字で、
「父が付けた私の名は、オウスだ」
続けて彼はその隣に、小碓命、そして倭建命と書き、
「だが、私は今、ヤマトタケルと名乗っている」
そちらを棒の先で軽く叩きながら示した。
「…何故だ?」
「お前の名は?」
那陀の問いに、しかし倭建は小さく苦笑して答えず、逆に問い返す。
(聞かれたくないことだったらしい。それに私にとってもどうでもいいことではないか)
よって那陀も少し苦笑して、
「那、陀…だ」
その棒切れを拾い上げ、砂浜へ文字を書いた。
「ナダ、と読むのか」
「そうだ」
頷くと、彼もまた、了解したという風に大きく頷いて、部下達に火を焚くように言いつけた。
これから向かおうとしている方面に、ぽつりぽつりとではあるが人家らしきものが見えるし、彼らが足を止めたところには、打ち捨てられて久しい漁師小屋のようなものがあって、
「あそこなら、船を借りられる。今日はここで休む」
女性である弟橘姫がいるということを考慮したのだろう。春とはいえ、海からの夜風は少々強い。
その小屋へ、弟橘姫を押し込めるようにする倭建を見ながら、
「そのように大事な者を、わざわざ危険な旅に連れてきたのか」
砂浜へ戻ってきて、火の側へ腰を下ろした彼へ那陀が皮肉めいた口調で言うと、
「あれは、数少ない私の味方だ。妹のように思っている。だから連れてきた」
そんな不躾な質問にでも、倭建はどこか寂しげに笑って答える。
(数少ない…)
その言葉に、胸にちくりとした痛みを覚えながら、
「そうか」
那陀は燃える火へ視線を戻した。
「ところでお前は? どうやって海の向こうの大陸からここへ来た?」
だが、那陀へ問いかける倭建の声には、生来の明るさと悪戯っぽさが戻っていた。
(これだから、人間というやつは)
関わりを持つとすぐに相手のことを深く知りたがる、というのは今までの経験で分かっていたのだが、それでもつい行動を共にしてしまうのは、
(私が弱いからだ)
苦笑と共に、いつも那陀はそう思う。
「…知りたいか?」
那陀が苦笑しながら問うと、
「いや、無理に話さずともよい。敵の敵は味方だ。それに私の見るところ、お前は悪い『人間』ではなさそうだからな。私は人を見る目は持っているつもりだ」
けろりとした顔で彼は答える。
「はは、は」
ついに那陀は笑い声を上げていた。確かに自分は人間ではない。
「どうしたのだ?」
ゆらりと立ち上がった那陀へ、人の良さそうな、きょとんとした顔を倭建が向けてくる。
「確かに私は人間ではないからな。私は…こういうことが出来る者だよ」
腰の短刀をぴらりと抜いて、那陀は満月の姿を映す海へ振り下ろす。途端、凄まじい轟音を伴う地響きがあたりを覆い、うとうとしていた兵士達も驚いて目を覚ました。
「なんと…」
「船に乗る必要はない」
海の水を綺麗に二つに分けて、道が出来ている。確かにそれが海の底であるという証拠に、『道』の上には無数の魚が鱗をきらめかせて暴れていて、
「詳しくは言えないが、私は私の国の身分によって『太子』と呼ばれていた」
「そうか。賎の者ではなさそうだし、どこか雰囲気が違うと思っていたが、道理だ。お前も高貴な家の者か」
最初は呆気にとられていた倭建だったが、意外にあっさりと頷く。
「驚かないのか」
その様子に、反って那陀のほうが戸惑い、そう言うと、
「お前は悪いやつではない。協力、感謝する」
倭建は短剣を持っていないほうの那陀の手を、彼の両手で強く握り締めたのである。
「…あまり手を触れないが良い」
先頭に立ってその道を歩きながら、那陀は苦笑した。倭建の連れてきた兵士達は感嘆の声を上げながら、両側の「壁」へ手で触れようとする。
「術は完全なつもりだが、やはり『海』だからな。ふとした拍子に溺れかねぬ」
那陀が続けると、兵士達は慌ててその手を引っ込め、倭建は苦笑した。
満月が、海の底をこうこうと照らしている。その中を向こうに見える島へ向かって続くその『道』は白く輝いているように見えて、
「…お前は、こうやって我が国へ来たのか?」
歩きつかれた弟橘姫をおぶった倭建が尋ねるのへ、
(説明するのも面倒くさい)
那陀は曖昧に頷く。
どれくらいの距離を行ったろう。進むにつれて海の『壁』はますます高くなり、それにつれて邪な気配はどんどん濃くなる。
「もっとも深い場所だ」
黒くさえ見える海の底の景色に、逆におののく兵士達を安心させるように那陀は言いながら、
「ここからまた、道は上りになっている。もう少しだ」
前方を指すと、なるほど、確かに道はわずかに上へ向かって傾斜していた。その傾斜は最初は強く、次第に緩やかになっていき、島がいよいよ近いことを思わせた刹那、
「…あ」
一歩を踏み出した那陀の足元が暗くなった。
空を見上げると、彼らを照らしていた満月が、みるみるうちに黒雲に覆われる。たちまち大粒の雨が彼らの頬を打ちはじめたかと思うと、
「走れ」
それは嵐さえ予感させる激しさになった。那陀は短く言って自らも走り出す。
「海からの水が溢れる! 溺れるぞ!」
叫ぶと、兵士達もあわてて走り始める。激しい風が海の『両壁』から、驚くほど多くの海水を『道』の上へ運んでくる。舌打ちしながらふと島を見ると、
「…噴火している」
黒煙を上げるだけだったそれは、地響きを伴って赤い溶岩を噴出し始めていた。
「神がお怒りなのだ!」
「やはり神を懲らしめるなど、我々には」
たちまち動揺して足を止め、騒ぐ兵士達の上へ、赤く焼けた大きな岩が次々に襲い掛かる。
それに当たって倒れる兵士達へ駆け寄ろうとする他の者へ、
「つべこべ言わず、走れ! 私の妖力ではあまり長くは保たん!」
汗を流しながら那陀は叱咤した。言いながらも、肩に噴射岩の欠片を受けた兵士の手を引き、走り続ける。手を引くのが那陀であると知って、一瞬その手を引きかけた兵士…弟彦は、意外に強い那陀の力に逆らうことの無駄を悟って、よろけながらも共に走り始める。
(これほど大きな妖力を持っているとは)
彼らに襲い掛かった一連の出来事の中に、那陀は鋭くかの妖獣の気配を感じ取っていた。
(水を操るのなら、こちらが上手なはずなのに)
やはり「半分」しかその血を受け継がなかったためだろうか。
断続的に放たれるその『負』の力を、必死に己の力で押さえ込もうとしながら、
(今度こそ、捉えられるかもしれない)
顔を打ち付けるような大粒の雨を拭い、思う。
火山島とはいえ、小さな島である。どうやらこの噴火は、島の神とやらの助けを得てあの妖獣が起こさせているものらしい。
(まず、その噴火を抑えて…)
いつしか、『壁』から溢れた海水が脛まで浸している。目に見えて走る速度が衰えた後続の兵士達へ、
「あと少しだ、頑張れ!」
弟橘姫を背負ったままの倭建が励ますように叫んだ途端、火山が幾度目かの噴火を起こし、
「ミコト…!」
その背の姫が叫ぶ。海水の上へ降り立って、己よりも一回り大きな彼を突き飛ばし、その背に覆いかぶさる。
飛んできた火山弾は、容赦なくその華奢な背を押しつぶした。もがいてその下から出てきた倭建は、眼前の光景に嵐に負けぬ絶叫を放つ。
「くそ、保たん!」
気がつけば、彼らの周りにいた兵士は半分に減っていた。呆然と海水の中へ膝をついた
倭建の首根っこを捕らえて立たせ、
「生きている者は、私につかまれ!」
那陀は叫ぶ。度を失った兵士達がまさに藁にも縋るような表情をして、華奢な那陀の両手両足に取り付いたと見るや、
「…お前は…!」
その背に乗りながら、倭建は息を呑んだ。彼らのいた「道」を見下ろすと、彼らが「飛び立つ」と同時に轟音を立てて両側から海水が迫るのが見える。
空に黒雲が広がり、その雲は稲妻を呼ぶ。大粒の雨が風と共に容赦なく叩きつける嵐の中を、倭建とその生き残りの兵士達を乗せた『龍』は、火山から飛んでくる焼けた岩をかわしながら飛び、天に向かって吠えた。
すると、
「…光が…!」
龍が飛んでいる上空の黒雲が途切れる。いつしか夜明けになっていたらしい。そこからは慈愛に満ちた太陽の光が差し込み、相変わらず噴火し続けている火山と、
「あれが、『神』か!?」
倭建が恐怖と共に叫んで見つめる巨大な妖狐が、その火山島を慈しむように二つの尾で守っているのを照らしたのである。
「…手下だ」
「手下?」
下のほうから聞き覚えのある声がする。それが那陀の声だと気付いて、倭建がその角を両手で捕らえながら尋ねると、
「私も『それ』を追っていると言ったろう。ようやく捕らえたと思ったのだが、やはり雑魚だ」
龍は悔しそうな声で答え、
「しっかり捕まっておれ。これから島の神をまず退治する…島を砕いてしまったほうが早い」
「う、うむ。そうか」
倭建がごくりと唾を飲み込みながら頷くのを見ると、龍は再び飛んでくる火山弾をかわしながら、
「なるだけお前の国の民の生活には差し障りのないようにする。だってやっぱりお前は」
龍はそこでふと、優しい気配を放ち、
「お前の父と、お前の国の民を愛しているのだろう?」
言って、倭建が答える前に火山に向かって再び吠えた。
それに向けて、龍が開いた口からまばゆい光が発せられる。その光に照らされて、二つの尾を持つ妖狐は苦しそうに身体をくねらせ、耳障りな叫びを発した。それは丸い輪を幾重にも描いて、
(しまった、避け切れぬ!)
那陀の背を掠めたかと思うと、怪我をしていたかの兵士が咄嗟に倭建をかばう。
同時に人間一人分の重みが背中から消えて、
「弟彦っ!」
「…捕まっていろ!」
悲痛な叫びを聞きながら、那陀はわざとそう言い、
「この国の日の神よ、力を貸せ!」
叫んで、再び口からまばゆい光を放った。同時に雲の切れ間から太陽の強い光が差し込む。
ようやく怯んだ妖狐を見て、那陀は再び叫ぶ。
「タケル、腰の剣をかざせ!」
「…承知っ!」
彼の叔母で、祭祀をしているという倭姫からもらったのだという神剣、草薙。
哀しみを振り切るように力強い声でそれに答えて、倭建は那陀の背の上に立ち上がり、その剣を抜き放つと同時に島へ向かって大きく振りかぶる。
…瞬間、その島の周りだけの時間が止まったような静寂が訪れた。
「…結界だ。こうすれば他の地を津波や地震が襲うこともない」
「ああ」
その島と妖狐の周りを、優しい光の壁が取り囲む。その中でゆっくりと、その島と妖狐が海の中へ
崩れ落ちていくのが見えて、だが、
「危ない!」
那陀は叫んで身を翻した。
最後の噴火、とでも形容すべきだろうか。火山はありったけの力で噴火を起こし、三つの岩を飛ばしてくる。
それは晴れた空へ大きな弧を描いて、北西、東、西の方角へそれぞれ落ちていった。
「…この地で出来るのはここまでだ。あの岩に乗って、手下はその身を分けて逃げた。
またそれがそれぞれに力をつけると厄介だ。追わねば」
かつて『出発した』砂浜へ戻ってきて生き残った兵士と倭建を降ろし、人の形に戻った那陀は唇をゆがめながら笑って告げる。
だが、それに黙って頷いた倭建の目は那陀を見ていない。
「…大丈夫か」
「そう、だな」
重ねて声をかけると、かつてその島があったと思しき場所を見つめたまま、倭建は答える。
その大きく澄んだ群青色の瞳から涙が一筋零れ落ちるのを見て、那陀は慌てて目をそらし、
「先の泉で、少し水を浴びてくる」
告げて、この地へ初めて来た時に所在を確認していた近くの泉へ向かった。
砂浜から少し離れると、そこはもううっそうと茂った原生林である。焦げてしまった服を脱いで泉へ浸かり、那陀は少し顔をしかめた。
攻撃をかわしていたはずが、やはり己の体にもあちこちにかすり傷や火傷の跡がある。
(男でもない、女でもない…)
そして身体を見下ろすと、そこには相変わらず変えることの出来ぬ現実があって、
「…っ!」
人の気配に振り向くと、倭建がかすかな笑みを浮かべて立っている。思わず両手で己の体を抱き締めた那陀に、
「お前と二人で話がしたかった」
彼は静かな声で語りかけた。それから目をそらし、背を向けて、
「…さぞや怒っているのだろうな」
那陀は呟くように言う。
「すまなかった。私の状況判断が甘かった」
言いながら、彼より少し離れた岸辺へ上がっていく。
「何故謝る」
「何故、といって」
彼から背を向けたままであるのに、逆にそう問い返しさえする倭建に、那陀は限り無く戸惑い、泉の岸辺へ目を落とす。
生き残りの兵士達にも無傷な者はいない。皆がそれぞれ背に火傷を負うなど、なんらかの傷を負っていて、
「…お前の大事な存在を、私は二つも失わせたろう。やはり私が独りで行くべきだった」
それを思い返しつつ、再び俯いて言った那陀の声は震えている。かつて己の『妖狐』討伐につき合わせた人間の同様な哀しみを何度も見、そのたびに無言の非難を受けてきた。
だから今度こそはこのような思いをするまいと決めていて、人には関わるまいと思っていたはずなのに、
(…そんなことはやっぱり、出来ない)
やはり独りでは無理なのだと、那陀の視界がぼやけた。地面にぽつりと滴が落ちた時、
「…お前が気にすることはない。いくさに出るのだ。あの者たちもきっと、覚悟の上だった」
思いもかけない非情な言葉に、那陀はハッと顔を上げる。
「…東へ行く。あの岩が落ちた場所を探さなければ。災いをもたらすのだろう」
「あ、ああ」
「なら、行かねば」
頷く那陀へ、倭建はこちらの心がずきりと痛むほど優しい笑みを向け、
「出来ればあの能力は、使いたくなかったのだろう。違うか?」
「…あ」
どうやら那陀が龍に変化したことを言っているらしいと気付いて、那陀の視界は再びぼやけた。
「龍神よ。私が生きてある限り、側にいてくれ。私のことが気に食わないのでなければ、先だってと同じように私を助けてくれ、な?」
倭建は剣を扱うごつごつした利き手で、那陀の短い髪の毛を乱暴に撫でる。
「私は、神などではない。龍に化身することは出来るが…『半分』だけだ。見ろ」
赤くなって彼の手を払いのけ、
「だから、こんな風に中途半端なのだ…」
言葉を途切れさせて唇を噛み締め、彼の前に生まれたままの姿を晒した那陀を、
「ほう?」
倭建は首をかしげながら、上から下までつくづくと見て、
「だが、人間でもないのだろう? だったら、それはそれでいいではないか」
まるで長年の親しい友にするように華奢な肩へ己の腕を回し、ようやく元気を取り戻したように笑った。
「お前は私を助けてくれた。妖しの者であろうがなんであろうが、私の目の前にあるお前がお前であれば、私は構わん」
「このように…二つの性を持っていてもか。雄でも雌でもない…私は化け物だ」
自分で言って、余計に声を震えさせた那陀へ、
「だから、それでもいいと言ってる。中途半端者というなら私も同じだ。しかしお前が化け物か。それは驚いたな」
倭建はむしろ面白そうな声で言った。
「また美しい化け物もあったものだ。ところでもういいだろう。お前があの妖狐を追う目的を聞かせてくれ」
それが真実から発せられているのだと分かって、
「お前こそ変わった人間だ」
呆気に取られていた那陀は、零れた涙を指先で拭いながら、思わず笑っていた。
「ははは、私も人間ではない。神の子孫だよ。確かにそれにしては毛色が変わっていると、自分でも思っているが」
「…違いない」
話しているうちにいつしか肌は乾いていた。打ち捨てていた己の服を身につけながら、再び那陀が笑うと、
「いい顔で笑う」
側に転がっている潅木に腰掛けながら、倭建は那陀の顔を見て言う。
「馬鹿を言うな」
「馬鹿ではないさ。本当のことだ。お前はいい表情をしている」
頬を赤くする那陀へ、己の隣へ座るように顎で示しながら、
「私は、そうやって人々が笑っている顔を見るのが好きだ。だから、今回も放っておけなかった。
父の帝に言われただけではない」
(父、か)
その言葉を口にするたび、倭建は寂しい顔をする。ひょっとすると彼も、愛されたい肉親に心から愛されてはいないのだろうか。
「…お前はどうして神の『退治』に出てきた?」
「そうだな。先に私から話をするのが筋か」
那陀が問うと、倭建は少しだけ笑った。昼間であるというのに、木立が茂っているせいで彼の顔に差すのはほんのわずかな光のみである。その光を広げた手のひらに受け、慈しむように見つめて、
「私は、兄を殺した」
倭建は目を細めて話し始めたのである。
to be continued…
流星のようにその地へ降り立って、那陀は両目を閉じた。
ここは、どうやら樹海らしい。季節は春らしいが、遠くに白い雪を頂く大きな山が見える。
深く呼吸をしながら心を落ち着かせ、己の心の中を覗くようにすると、
(ここから、東)
邪な気が発散されている場所が分かる。それは異母兄の二郎神君だけではなく、他のどの神族にもない、那陀独自の能力で、
(そのせいもあって、父は私へ邪鬼退治を命じたのだ)
那陀はそう思っている。そしてそのことだけは己が唯一誇れることで、
(私は父に愛されていないわけではない)
自分に言い聞かせながら、那陀は森の中を進んだ。
今ままで戦ってきたどの土地とも違う、うっそうと枝が茂る森林の中は、水蒸気が立ち込めている。
時折己の眼前をふさぐように垂れ下がる枝を、腰の短刀で無造作に切り払いながら、進んでいくと、突然森が途切れた。
(もっと、東)
己の心を信じて平地を進んでいくと、しかしそこからは海である。その向こうには大きな島が浮かんでいて、そこからは黒い煙が上がっているのが見えた。
(あれか?)
短刀を持ったままの右手をかざして、その島を那陀が眺めていた時、
「この土地のものか? ならば尋ねたいことがある」
背後から、声がかかった。何の気なしにそちらを振り返ると、そこには弓矢や長刀、長剣を持った軍勢がいて、
「あの島に渡るための船は、どこから出ている?」
那陀に問いかけた男が、どうやらその軍勢の「親玉」らしい。
異母兄の二郎神君とはまた違う、整った顔立ちながらどこか精悍な雰囲気を持つ若者である。
だが、思考を邪魔されて、
「…私はこの土地のものではない。今しがたここに着いたばかりだ」
ムッとしながら那陀が答えた途端、
「無礼者! こちらの御方はオシロワケノスメラミコトの御子だぞ」
その男の脇に従っていた強靭そうな男が那陀を叱咤する。
「本来なら、ただの旅人であるお前など、口も聞けぬ御方だ」
「…よい、弟彦」
すると、「親玉」は苦笑しながらそれを止め、
「こちらこそ、失礼した。改めて尋ねたい、旅の方よ」
柔らかく笑った。
「もしかしてここに来る途中で、船を見かけられなかったか?」
「私は、森の中からここへ来た」
その笑顔を、どこか(懐かしい)と思い、そう思った自分に戸惑いを覚えながら、
「私も今から、あの島へ渡ろうと思っていたところだ」
初対面の「人間」に、言わずもがなのことまで言っていた自分に、那陀はさらに驚きを覚えた。
厳密には、初対面の人間と口を聞いたことがなかったわけではないが、
(太公望は、知っていたからな…)
妲己、褒似といった、世にも美しい女に化けて人の気を暗いつくし、父天帝の護る中国の王朝を滅ぼそうとしたあの妖獣を討つために協力を要請した太公望は、天界の事情も知っている仙人だった。
だが今回ばかりは勝手が違う。土地勘もないうえに、気候も人々の考え方もまるで違う異国へ行くとなって、さすがに那陀へついていくという人間は現れなかったのだ。
(それはそれでいいさ。今までも一人だった)
那陀のほうでも、特にそれを気にしたこともない。だもので、
「あの島に何か用があるのか? なら我らと同行しないか」
彼が言うのへ、
「お断りする」
素っ気無く那陀は言葉を返した。途端、弟彦と呼ばれた件の男が殺気立つのを若者は押さえ、
「そうか、残念だ」
あっさりそう言い、人懐っこい笑みさえ那陀へ向けてくるのである。
「あの島には、悪さをする神が住み着いているという。もしかしてそれを知っていて、
お前も我らと同じく、その神を懲らしめに行くのかと思った。縁があればまた会おう」
「待て!」
それを聞いて、那陀は思わずその若者を呼び止めていた。
「何か?」
尊い御方の子、という話だが、ならばなぜ旅慣れた様子で、しかもその笑顔は日に焼けているのだろう。
それに見知らぬ旅人に対しているというのに物腰には少しも尊大なところがなく、
「お前の名は、何と言う?」
那陀が尋ねると、彼はまた笑いながら背中の荷物を降ろして解き、
「倭建命。もっとも父につけられた名ではないが。お前は?」
赤く熟れた果物を左の手のひらに乗せ、那陀へ向かって差し出したのである。
そして、砂浜を行くこと半日。
「この国は天皇、という神が支配しているのか」
たった十数人の、しかもその中には弟橘姫と呼ばれる女性までいる軍の中に、那陀はいつの間にか混じって歩いていた。
「そうだ。我々はここからずっと西の大和の国から、東の国の者の苦情を受けてやってきた。正確には、ニニギノミコトという神の子孫だと言われている」
「…どう書く?」
こちらの国の発音は、那陀にとって耳慣れぬものばかりである。戸惑って尋ねると、
「…これだ」
転がっていた小さな棒切れを取り上げ、倭建はしゃがんでその文字を書いた。那陀の『国』で使われているのとと少し形状は違っているが、大まかには良く似ている文字で、
「父が付けた私の名は、オウスだ」
続けて彼はその隣に、小碓命、そして倭建命と書き、
「だが、私は今、ヤマトタケルと名乗っている」
そちらを棒の先で軽く叩きながら示した。
「…何故だ?」
「お前の名は?」
那陀の問いに、しかし倭建は小さく苦笑して答えず、逆に問い返す。
(聞かれたくないことだったらしい。それに私にとってもどうでもいいことではないか)
よって那陀も少し苦笑して、
「那、陀…だ」
その棒切れを拾い上げ、砂浜へ文字を書いた。
「ナダ、と読むのか」
「そうだ」
頷くと、彼もまた、了解したという風に大きく頷いて、部下達に火を焚くように言いつけた。
これから向かおうとしている方面に、ぽつりぽつりとではあるが人家らしきものが見えるし、彼らが足を止めたところには、打ち捨てられて久しい漁師小屋のようなものがあって、
「あそこなら、船を借りられる。今日はここで休む」
女性である弟橘姫がいるということを考慮したのだろう。春とはいえ、海からの夜風は少々強い。
その小屋へ、弟橘姫を押し込めるようにする倭建を見ながら、
「そのように大事な者を、わざわざ危険な旅に連れてきたのか」
砂浜へ戻ってきて、火の側へ腰を下ろした彼へ那陀が皮肉めいた口調で言うと、
「あれは、数少ない私の味方だ。妹のように思っている。だから連れてきた」
そんな不躾な質問にでも、倭建はどこか寂しげに笑って答える。
(数少ない…)
その言葉に、胸にちくりとした痛みを覚えながら、
「そうか」
那陀は燃える火へ視線を戻した。
「ところでお前は? どうやって海の向こうの大陸からここへ来た?」
だが、那陀へ問いかける倭建の声には、生来の明るさと悪戯っぽさが戻っていた。
(これだから、人間というやつは)
関わりを持つとすぐに相手のことを深く知りたがる、というのは今までの経験で分かっていたのだが、それでもつい行動を共にしてしまうのは、
(私が弱いからだ)
苦笑と共に、いつも那陀はそう思う。
「…知りたいか?」
那陀が苦笑しながら問うと、
「いや、無理に話さずともよい。敵の敵は味方だ。それに私の見るところ、お前は悪い『人間』ではなさそうだからな。私は人を見る目は持っているつもりだ」
けろりとした顔で彼は答える。
「はは、は」
ついに那陀は笑い声を上げていた。確かに自分は人間ではない。
「どうしたのだ?」
ゆらりと立ち上がった那陀へ、人の良さそうな、きょとんとした顔を倭建が向けてくる。
「確かに私は人間ではないからな。私は…こういうことが出来る者だよ」
腰の短刀をぴらりと抜いて、那陀は満月の姿を映す海へ振り下ろす。途端、凄まじい轟音を伴う地響きがあたりを覆い、うとうとしていた兵士達も驚いて目を覚ました。
「なんと…」
「船に乗る必要はない」
海の水を綺麗に二つに分けて、道が出来ている。確かにそれが海の底であるという証拠に、『道』の上には無数の魚が鱗をきらめかせて暴れていて、
「詳しくは言えないが、私は私の国の身分によって『太子』と呼ばれていた」
「そうか。賎の者ではなさそうだし、どこか雰囲気が違うと思っていたが、道理だ。お前も高貴な家の者か」
最初は呆気にとられていた倭建だったが、意外にあっさりと頷く。
「驚かないのか」
その様子に、反って那陀のほうが戸惑い、そう言うと、
「お前は悪いやつではない。協力、感謝する」
倭建は短剣を持っていないほうの那陀の手を、彼の両手で強く握り締めたのである。
「…あまり手を触れないが良い」
先頭に立ってその道を歩きながら、那陀は苦笑した。倭建の連れてきた兵士達は感嘆の声を上げながら、両側の「壁」へ手で触れようとする。
「術は完全なつもりだが、やはり『海』だからな。ふとした拍子に溺れかねぬ」
那陀が続けると、兵士達は慌ててその手を引っ込め、倭建は苦笑した。
満月が、海の底をこうこうと照らしている。その中を向こうに見える島へ向かって続くその『道』は白く輝いているように見えて、
「…お前は、こうやって我が国へ来たのか?」
歩きつかれた弟橘姫をおぶった倭建が尋ねるのへ、
(説明するのも面倒くさい)
那陀は曖昧に頷く。
どれくらいの距離を行ったろう。進むにつれて海の『壁』はますます高くなり、それにつれて邪な気配はどんどん濃くなる。
「もっとも深い場所だ」
黒くさえ見える海の底の景色に、逆におののく兵士達を安心させるように那陀は言いながら、
「ここからまた、道は上りになっている。もう少しだ」
前方を指すと、なるほど、確かに道はわずかに上へ向かって傾斜していた。その傾斜は最初は強く、次第に緩やかになっていき、島がいよいよ近いことを思わせた刹那、
「…あ」
一歩を踏み出した那陀の足元が暗くなった。
空を見上げると、彼らを照らしていた満月が、みるみるうちに黒雲に覆われる。たちまち大粒の雨が彼らの頬を打ちはじめたかと思うと、
「走れ」
それは嵐さえ予感させる激しさになった。那陀は短く言って自らも走り出す。
「海からの水が溢れる! 溺れるぞ!」
叫ぶと、兵士達もあわてて走り始める。激しい風が海の『両壁』から、驚くほど多くの海水を『道』の上へ運んでくる。舌打ちしながらふと島を見ると、
「…噴火している」
黒煙を上げるだけだったそれは、地響きを伴って赤い溶岩を噴出し始めていた。
「神がお怒りなのだ!」
「やはり神を懲らしめるなど、我々には」
たちまち動揺して足を止め、騒ぐ兵士達の上へ、赤く焼けた大きな岩が次々に襲い掛かる。
それに当たって倒れる兵士達へ駆け寄ろうとする他の者へ、
「つべこべ言わず、走れ! 私の妖力ではあまり長くは保たん!」
汗を流しながら那陀は叱咤した。言いながらも、肩に噴射岩の欠片を受けた兵士の手を引き、走り続ける。手を引くのが那陀であると知って、一瞬その手を引きかけた兵士…弟彦は、意外に強い那陀の力に逆らうことの無駄を悟って、よろけながらも共に走り始める。
(これほど大きな妖力を持っているとは)
彼らに襲い掛かった一連の出来事の中に、那陀は鋭くかの妖獣の気配を感じ取っていた。
(水を操るのなら、こちらが上手なはずなのに)
やはり「半分」しかその血を受け継がなかったためだろうか。
断続的に放たれるその『負』の力を、必死に己の力で押さえ込もうとしながら、
(今度こそ、捉えられるかもしれない)
顔を打ち付けるような大粒の雨を拭い、思う。
火山島とはいえ、小さな島である。どうやらこの噴火は、島の神とやらの助けを得てあの妖獣が起こさせているものらしい。
(まず、その噴火を抑えて…)
いつしか、『壁』から溢れた海水が脛まで浸している。目に見えて走る速度が衰えた後続の兵士達へ、
「あと少しだ、頑張れ!」
弟橘姫を背負ったままの倭建が励ますように叫んだ途端、火山が幾度目かの噴火を起こし、
「ミコト…!」
その背の姫が叫ぶ。海水の上へ降り立って、己よりも一回り大きな彼を突き飛ばし、その背に覆いかぶさる。
飛んできた火山弾は、容赦なくその華奢な背を押しつぶした。もがいてその下から出てきた倭建は、眼前の光景に嵐に負けぬ絶叫を放つ。
「くそ、保たん!」
気がつけば、彼らの周りにいた兵士は半分に減っていた。呆然と海水の中へ膝をついた
倭建の首根っこを捕らえて立たせ、
「生きている者は、私につかまれ!」
那陀は叫ぶ。度を失った兵士達がまさに藁にも縋るような表情をして、華奢な那陀の両手両足に取り付いたと見るや、
「…お前は…!」
その背に乗りながら、倭建は息を呑んだ。彼らのいた「道」を見下ろすと、彼らが「飛び立つ」と同時に轟音を立てて両側から海水が迫るのが見える。
空に黒雲が広がり、その雲は稲妻を呼ぶ。大粒の雨が風と共に容赦なく叩きつける嵐の中を、倭建とその生き残りの兵士達を乗せた『龍』は、火山から飛んでくる焼けた岩をかわしながら飛び、天に向かって吠えた。
すると、
「…光が…!」
龍が飛んでいる上空の黒雲が途切れる。いつしか夜明けになっていたらしい。そこからは慈愛に満ちた太陽の光が差し込み、相変わらず噴火し続けている火山と、
「あれが、『神』か!?」
倭建が恐怖と共に叫んで見つめる巨大な妖狐が、その火山島を慈しむように二つの尾で守っているのを照らしたのである。
「…手下だ」
「手下?」
下のほうから聞き覚えのある声がする。それが那陀の声だと気付いて、倭建がその角を両手で捕らえながら尋ねると、
「私も『それ』を追っていると言ったろう。ようやく捕らえたと思ったのだが、やはり雑魚だ」
龍は悔しそうな声で答え、
「しっかり捕まっておれ。これから島の神をまず退治する…島を砕いてしまったほうが早い」
「う、うむ。そうか」
倭建がごくりと唾を飲み込みながら頷くのを見ると、龍は再び飛んでくる火山弾をかわしながら、
「なるだけお前の国の民の生活には差し障りのないようにする。だってやっぱりお前は」
龍はそこでふと、優しい気配を放ち、
「お前の父と、お前の国の民を愛しているのだろう?」
言って、倭建が答える前に火山に向かって再び吠えた。
それに向けて、龍が開いた口からまばゆい光が発せられる。その光に照らされて、二つの尾を持つ妖狐は苦しそうに身体をくねらせ、耳障りな叫びを発した。それは丸い輪を幾重にも描いて、
(しまった、避け切れぬ!)
那陀の背を掠めたかと思うと、怪我をしていたかの兵士が咄嗟に倭建をかばう。
同時に人間一人分の重みが背中から消えて、
「弟彦っ!」
「…捕まっていろ!」
悲痛な叫びを聞きながら、那陀はわざとそう言い、
「この国の日の神よ、力を貸せ!」
叫んで、再び口からまばゆい光を放った。同時に雲の切れ間から太陽の強い光が差し込む。
ようやく怯んだ妖狐を見て、那陀は再び叫ぶ。
「タケル、腰の剣をかざせ!」
「…承知っ!」
彼の叔母で、祭祀をしているという倭姫からもらったのだという神剣、草薙。
哀しみを振り切るように力強い声でそれに答えて、倭建は那陀の背の上に立ち上がり、その剣を抜き放つと同時に島へ向かって大きく振りかぶる。
…瞬間、その島の周りだけの時間が止まったような静寂が訪れた。
「…結界だ。こうすれば他の地を津波や地震が襲うこともない」
「ああ」
その島と妖狐の周りを、優しい光の壁が取り囲む。その中でゆっくりと、その島と妖狐が海の中へ
崩れ落ちていくのが見えて、だが、
「危ない!」
那陀は叫んで身を翻した。
最後の噴火、とでも形容すべきだろうか。火山はありったけの力で噴火を起こし、三つの岩を飛ばしてくる。
それは晴れた空へ大きな弧を描いて、北西、東、西の方角へそれぞれ落ちていった。
「…この地で出来るのはここまでだ。あの岩に乗って、手下はその身を分けて逃げた。
またそれがそれぞれに力をつけると厄介だ。追わねば」
かつて『出発した』砂浜へ戻ってきて生き残った兵士と倭建を降ろし、人の形に戻った那陀は唇をゆがめながら笑って告げる。
だが、それに黙って頷いた倭建の目は那陀を見ていない。
「…大丈夫か」
「そう、だな」
重ねて声をかけると、かつてその島があったと思しき場所を見つめたまま、倭建は答える。
その大きく澄んだ群青色の瞳から涙が一筋零れ落ちるのを見て、那陀は慌てて目をそらし、
「先の泉で、少し水を浴びてくる」
告げて、この地へ初めて来た時に所在を確認していた近くの泉へ向かった。
砂浜から少し離れると、そこはもううっそうと茂った原生林である。焦げてしまった服を脱いで泉へ浸かり、那陀は少し顔をしかめた。
攻撃をかわしていたはずが、やはり己の体にもあちこちにかすり傷や火傷の跡がある。
(男でもない、女でもない…)
そして身体を見下ろすと、そこには相変わらず変えることの出来ぬ現実があって、
「…っ!」
人の気配に振り向くと、倭建がかすかな笑みを浮かべて立っている。思わず両手で己の体を抱き締めた那陀に、
「お前と二人で話がしたかった」
彼は静かな声で語りかけた。それから目をそらし、背を向けて、
「…さぞや怒っているのだろうな」
那陀は呟くように言う。
「すまなかった。私の状況判断が甘かった」
言いながら、彼より少し離れた岸辺へ上がっていく。
「何故謝る」
「何故、といって」
彼から背を向けたままであるのに、逆にそう問い返しさえする倭建に、那陀は限り無く戸惑い、泉の岸辺へ目を落とす。
生き残りの兵士達にも無傷な者はいない。皆がそれぞれ背に火傷を負うなど、なんらかの傷を負っていて、
「…お前の大事な存在を、私は二つも失わせたろう。やはり私が独りで行くべきだった」
それを思い返しつつ、再び俯いて言った那陀の声は震えている。かつて己の『妖狐』討伐につき合わせた人間の同様な哀しみを何度も見、そのたびに無言の非難を受けてきた。
だから今度こそはこのような思いをするまいと決めていて、人には関わるまいと思っていたはずなのに、
(…そんなことはやっぱり、出来ない)
やはり独りでは無理なのだと、那陀の視界がぼやけた。地面にぽつりと滴が落ちた時、
「…お前が気にすることはない。いくさに出るのだ。あの者たちもきっと、覚悟の上だった」
思いもかけない非情な言葉に、那陀はハッと顔を上げる。
「…東へ行く。あの岩が落ちた場所を探さなければ。災いをもたらすのだろう」
「あ、ああ」
「なら、行かねば」
頷く那陀へ、倭建はこちらの心がずきりと痛むほど優しい笑みを向け、
「出来ればあの能力は、使いたくなかったのだろう。違うか?」
「…あ」
どうやら那陀が龍に変化したことを言っているらしいと気付いて、那陀の視界は再びぼやけた。
「龍神よ。私が生きてある限り、側にいてくれ。私のことが気に食わないのでなければ、先だってと同じように私を助けてくれ、な?」
倭建は剣を扱うごつごつした利き手で、那陀の短い髪の毛を乱暴に撫でる。
「私は、神などではない。龍に化身することは出来るが…『半分』だけだ。見ろ」
赤くなって彼の手を払いのけ、
「だから、こんな風に中途半端なのだ…」
言葉を途切れさせて唇を噛み締め、彼の前に生まれたままの姿を晒した那陀を、
「ほう?」
倭建は首をかしげながら、上から下までつくづくと見て、
「だが、人間でもないのだろう? だったら、それはそれでいいではないか」
まるで長年の親しい友にするように華奢な肩へ己の腕を回し、ようやく元気を取り戻したように笑った。
「お前は私を助けてくれた。妖しの者であろうがなんであろうが、私の目の前にあるお前がお前であれば、私は構わん」
「このように…二つの性を持っていてもか。雄でも雌でもない…私は化け物だ」
自分で言って、余計に声を震えさせた那陀へ、
「だから、それでもいいと言ってる。中途半端者というなら私も同じだ。しかしお前が化け物か。それは驚いたな」
倭建はむしろ面白そうな声で言った。
「また美しい化け物もあったものだ。ところでもういいだろう。お前があの妖狐を追う目的を聞かせてくれ」
それが真実から発せられているのだと分かって、
「お前こそ変わった人間だ」
呆気に取られていた那陀は、零れた涙を指先で拭いながら、思わず笑っていた。
「ははは、私も人間ではない。神の子孫だよ。確かにそれにしては毛色が変わっていると、自分でも思っているが」
「…違いない」
話しているうちにいつしか肌は乾いていた。打ち捨てていた己の服を身につけながら、再び那陀が笑うと、
「いい顔で笑う」
側に転がっている潅木に腰掛けながら、倭建は那陀の顔を見て言う。
「馬鹿を言うな」
「馬鹿ではないさ。本当のことだ。お前はいい表情をしている」
頬を赤くする那陀へ、己の隣へ座るように顎で示しながら、
「私は、そうやって人々が笑っている顔を見るのが好きだ。だから、今回も放っておけなかった。
父の帝に言われただけではない」
(父、か)
その言葉を口にするたび、倭建は寂しい顔をする。ひょっとすると彼も、愛されたい肉親に心から愛されてはいないのだろうか。
「…お前はどうして神の『退治』に出てきた?」
「そうだな。先に私から話をするのが筋か」
那陀が問うと、倭建は少しだけ笑った。昼間であるというのに、木立が茂っているせいで彼の顔に差すのはほんのわずかな光のみである。その光を広げた手のひらに受け、慈しむように見つめて、
「私は、兄を殺した」
倭建は目を細めて話し始めたのである。
to be continued…
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