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再会の叙
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「川村君が、下宿先で首吊り自殺したんだって。だから、塚口先生が大至急、私達の間に報せて回すようにって」
(…川村)
とるものもとりあえず、JRのS駅からT県行きの特急列車に飛び乗った石崎の頭に、訃報を報せた中谷かおりの声と『親友』の顔が交互に浮かぶ。
勤め先の税関へは、すぐに電話して有給を取ったものの、
(良く考えれば、俺が行ったところで何か出来るわけでもないな…)
苦笑しながら、石崎は列車の座席にぐったりと背を沈めた。
川村幸信。石崎の「大の親友」だった。大学の研究室の中でも、なんとなく二人で同期の連中のまとめ役のようなことをやり、教授からの信頼も厚かった。
卒業後、川村はそのままT大農学部の大学院へ進み、自分はK税関へ就職したが、
(全然そんな風に見えなかったのにな)
研究の上での行き詰まりや、何かプライベートで悩んでいるという風にも見えなかった。生来が能天気で明るくて『お調子者』で…
(俺より女にモテた)
その彼が首をつったとは、とても信じられない。
何よりも、二十三歳という若さなのだ。もう『正式な喪服』がいるようになるなんて、と、苦笑したところで、列車のアナウンスがT駅に着いたことを告げた。
短く刈った髪をなんとなしに掻きながら、石崎が網棚に載せていた自分の荷物を下ろすと、
(あれ、あいつ…来たのか)
窓の外に、同期だった「あいつ」の姿を見つけて彼は再び苦笑した。
どうやら同じ列車だったらしい。石崎には気づいた風も無く、ボストンバッグを肩から提げてとっとと改札のある階段へと向かっていく。
長かった髪の毛は、どうやら短く切ったらしい。
(あいつの態度で、俺が興奮しないでいられるかどうかがキモだな)
気を取り直すように大きく息をつき、同じように荷物を肩から下げて、石崎もまたホームへ降り立った。
初春のT県は、彼が卒業した時と同じ、柔らかい日差しに包まれている。
T大の研究室に入っていくと、8人いた同期の仲間たちはすでに4人が揃っていて、
「純一郎ちゃん」
中央の大きな机の一端に座っていた中谷が彼を認め、声をかけてきた。
中谷の話では、
「とりあえず、私たち同期の人間で、集まれる人間はすぐに研究室に集まるって言ってたけど」
とのことらしいが、
「あいつは?」
かつて徹夜で酒盛りをしたこともあるその机の周りには、石崎が少し苦手意識を持っていた「あいつ」…柳川晶の姿は無かった。
「大学院生研究室の部屋へ行って、川村君の机にお花をあげてから、また出て行ったよ」
中谷もまた、少し顔をしかめた石崎の顔を見て苦笑する。
石崎の認識では、中谷も、そしてその側で椅子に座っている「眼鏡の太田」や「キャプテン森川」も、「コロちゃん伊原」も、全て等しく「友達」であり、卒業してからも何かと連絡を取っていたのだが、
「あきらんもね、悪い子じゃないよ、純ちゃん」
柳川のニックネームを口にして、中谷はとりなすように言った。
「まあ、な」
柳川とだけは、連絡を取らなかった。取る気になれなかった、といった方が正しい。
「どこへ行った?」
「さあ」
そして石崎の問いに答えられるものも、大学在学当時と同じように、いない。
中谷が少し肩をすくめて首を振るのを、
「世話の焼けるやつ」
むしろ腹正しい思いで見ながら、石崎は乱暴に自分の荷物をその机の一方へ置き、
「探してくる」
言い捨てて、研究室を出て行ったのである。
(行き先は大抵決まってる)
なんだかんだで、大学の同じ時間を過ごした「仲間」である。柳川が好みそうな場所も中谷に聞いて知っていたし、石崎自身もその場所に彼女がいたのをたびたび目撃していた。だもので、
「柳川!」
鳥取砂丘に吹き付ける風は、今日も強い。切り立った断崖のように見えるが、その実砂が堆積して出来た「崖」の先に、ぽつねんと座っている人影を見つけて、石崎は声をかけた。
シーズンオフでもあるので、人はまばらである。風の音で聞こえないのか、
「柳川! おい、柳川!」
石崎が砂紋を踏みながら近づいていって、何度か声をかけたところでやっと彼女は振り向いた。
「ああ、石崎君」
「ああ、じゃない」
彼を認めて、口元にわずかな笑みを浮かべる。思えば、彼女はいつもこうだった。石崎が露骨に顔をしかめても、柳川はどこかとぼけたような表情を崩さない。
「久しぶり。元気そうやな」
「…お前、こんなとこで何してる」
そして相変わらず人を食ったような「関西弁」は健在らしい。もっとも、彼女は関西生まれ関西育ち、それを他のイントネーションに改めろといわれても無理な話だろうが。
「ん…まあ…独りになりたかっただけや」
「独りにって、お前」
石崎の責めるような口調も、相変わらず彼女には通じない。ちらりと背後の彼を見上げただけで、柳川はすぐにその視線を砂の崖の下に広がる海へ落とした。忌々しい気分で石崎もそちらへ目をやると、
(…花)
白く泡立つ波の間に、色とりどりの花が見える。ふと柳川の手へ目をやると、赤いリボンが隠すように握られていて、
(ああ、こいつは)
こういうヤツだったのだと、改めて石崎は苦笑した。
柳川晶。彼が今まで生きてきた中で、唯一理解不能な人間。協調性はまるっきりない、というわけではないらしい。中谷や伊原に言われれば、きちんと研究室の共同作業には出てきたし、農学専門英語ゼミへの出席も欠かさなかった。だが、いつだって彼女の目は研究室の仲間でも、やっていた研究内容でもなく、どこか遠くを見ていたようで…。
「お前な」
軽く舌打ちして、石崎は忌々しさと一緒に彼女の隣へどっかりと腰を下ろし、あぐらをかく。
「皆、研究室にいるんだぞ。塚口先生だってもうすぐ来る。なのになんでいつだってお前だけ、独りでいようとするんだ」
すると彼女はまた、かすかに笑って言うのだ。
「…湿っぽいのは嫌いや。大学にも警察、来てるやろ。警察なんかに根掘り葉掘り聞かれるのはもっと嫌や」
「…」
「皆と一緒に何かするってのも苦手や。それはアンタかて知ってたやろ?
…今回かて、川村君が死んだからて、皆と一緒になって泣く、て…ウソみたいになるって思たからな」
「なんで、何がウソになるんだよ」
「んー…なんとなく」
「なんだよそれ。訳が分からないこと言うな」
ここで彼女に怒ると『負け』だと分かっていながら、どうしても石崎の声は大きくなる。
(理解不能…理解不能)
頭の中で、またそんな声が響く。
「とにかく、お前も研究室の一員だったんだから、戻れ。俺は行く。警察に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だって、それはお前のわがままだ」
濃紺のGパンについた砂を払いながら、石崎は立ち上がった。
「ん…分かってるけどなぁ。うん、分かってるけど」
すると、彼女も同じように、明るい水色のGパンを払って立ち上がる。
「実家にも警察が押しかけてきて、散々聞かれた」
「ああ…まあ、そりゃ当然だろ。一応はお前も、川村と付き合いはあったんだし」
「一緒に情報交換しようや、って言うてた、川村君」
「そうか」
素っ気無く言って足早に歩き出すと、柳川はそれを気にした風もなく、マイペースに、しかし彼の足の速さに合わせて付いてくる。
「今朝、川村君から私のパソコンにメールが来てた」
なんとなく、並んで歩くのが嫌でより速くなっていた石崎の足が、そこでざくっと音を立てて砂を踏んだ。
「…なんだって?」
「日付は三月十一日午前六時五八分。…見るか?」
「寄越せ」
「ん」
石崎が言うと、柳川はかすかに笑って頷き、Gパンの尻ポケットから四つに折りたたんだ紙切れを差し出す。ひったくるようにそれを受け取り、広げて、
「…何だこれ」
「ベンゼン環やろ。そやけど私も見たことのない化学式や」
わざわざプリンターから打ち出したらしい。石崎の横から伸びた柳川の白い指が、炭素記号の並んだ化学反応式を示す。
「警察には?」
「こっちから言うまでもなかった。O県警の人らがウチに来て、ヒトのパソコン、隅から隅まで全部ひっくり返して見て行きよった。しまいめにはパソコンごと取られてしもて。後で返すて言うてたけど、警察の『後』って、何年後やら。そう思たから」
そこで柳川は石崎の手から紙切れをひょいと取り上げ、
「これだけは、警察の人間の目を盗んで打ち出しといた」
ニヤリと笑って言ったのである。
「川村君は、自殺とちゃう。石崎君、アンタかて信じてへんやろ?」
「なんでそう思うんだよ」
「はは」
彼が思わず突っかかるように言うと、柳川は白い歯を見せて少し笑い、
「私がここへ帰ってきたんは」
再び紙切れを4つにたたんで無造作に自分の尻ポケットへ入れ、石崎に先んじて大学へ向かって歩き出した。
「それを確かめるためと、まあ…『逃げる』ためやな」
「え?」
「なんでもない。研究室、戻るんやろ?」
言い捨てて、くるりと彼女は背中を向ける。背中の真ん中辺りまで伸びていた彼女の茶色い髪は、襟足まで見えるほどに短く切られていて、
(『逃げる』ため…何があったんだろう)
それを見ながら一瞬、彼はそう思い、けれど、
(俺には関係ない)
どうせそう考えて『やった』ところで、柳川からはそれこそ砂の粒ほどでも関心が向けられるわけでもないと思いなおして、石崎も研究室へ戻っていったのである。
「はい…私が発見、しました…」
石崎と柳川が研究室へ戻ってくると、そこにはすでにT県警がいて、
「どういう状況だったのか、もう一度詳しく教えてくれませんか」
研究室の椅子に座ったままの二人の後輩を、やはり二人の刑事らしき人物が左右に立って詰問していた。
入り口でたたらを踏んだ石崎と柳川へ、
「純ちゃん、あきらん」
中谷がそっと声をかけ、目配せをしてとある部屋を示す。他の仲間たちは、どうやら下を挟んで向かい側にある院生専用研究室へ「退避」しているらしい。
「…いつから『ああ』なんだ?」
「純ちゃんが帰ってくる少し前からだよ」
石崎がそちらへ向かって歩き出しながらそっと尋ねると、中谷も声を潜めて囁き返した。
「同じことばかり何度も何度も…かわいそうだよね、吉元さんも」
「そうだな…」
吉元美紀。彼らの一学年下で、死んだ川本の恋人でもあった。川村の好みらしい、色白で肩まで延びた黒い髪の、いわゆる「女の子らしい女の子」…。
今回も、電話はしたが中々出てこない川本を心配した助手、塚口武雄に頼まれて下宿先へ行ったところを、
「…首つってたのを発見したのが、川村君の恋人だなんて」
「ああ」
彼女が一番に、「自殺」していた彼を発見したというところらしい。
中谷が、少しそばかすの浮いた頬で俯く。つられるようにしてがっしりした腕を組んでため息をつきかけて、
「おい、柳川」
彼は、てっきり側にいるものと思い込んでいた「研究室の問題児」がまだ入り口の扉に張り付いているのを発見し、呆れて声をかけた。
「何してるんだ、不謹慎だぞ」
そっと近づいていって二の腕を取ろうとすると、彼女はすっと目を細めて彼を見、「来るな」と言った風に左手を上げた。
それに気おされるようにたたらを踏んで、
(まただ)
石崎は苦笑した。
こうなると、柳川はこちらの言うことなど聞きもしない。無視もしないかわりに返事もせず、従ってこちらのいうことがちゃんと彼女の頭の中に届いているのかいないのか、
「お前なあ」
しばらくして、そちら側の部屋の空気が動く気配がした。ようやく警察は吉元を解放する気になったらしい。それと同時にやっと柳川も納得した様子で石崎と中谷のほうへ向かってきて、
「お前、吉元の気持ちとか考えないわけ?」
「…考えてるからこうしてるんやって」
早速食って掛かった彼へ、柳川はしれっとした顔で言い返すのだ。
「ま、色んなことが分かった。最近の刑事さんって、わりにおしゃべりなんやなあ」
小さなチェックの入った、どうやら今年の予定表らしいメモ帳備え付けの鉛筆を、その背表紙のところへ引っ掛けながら院生室へ入ろうとする彼女を引き止めて、
「…何が分かったって言うんだ」
「とにかく入らせてえな。入ったら言うから」
詰問する石崎へ、柳川は苦笑したのである。
「…死亡推定時刻、三月十一日午前六時半。死因は縊死。要するに首吊り自殺…」
そして彼女が院生室へ入ると何となく、柳川が報告する形になる。コロちゃん伊原や、メガネの太田、キャプテン森川が、いとも無造作に「発表」していく柳川の言葉に一様に顔を険しくするのを意識しているのかいないのか、
「…遺書はなし。ただし最近は修士としての研究が進まないこと、つまり研究結果のデータが上手く取れなかったことを大変に苦にしており、塚口助手から『このデータだと修士の資格を与えることが出来ない』と言われたことによる就職内定の取り消しも、彼の『自殺』の直接の死因となったと見られる。以上」
淡々と柳川は続けて、そこで「メモ」を閉じた。
「『自殺』ってことになりそうやね、どうやらね」
「お前っ!」
(…あ…?)
そこで言い終えて席に着いた柳川へ、「お前は自殺じゃないと言っていただろう」と言いかけた石崎は、何かを訴えるような柳川の目に気づいて口をつぐむ。
「私たち出来ることは、本当に何も無いんだ…本当に川村君、死んじゃったんだね」
中谷が寂しそうにため息をつく。それは他の面々も同じで、何とも言えない顔をして腕を組んだり、ため息を着いたりしている。
「…そういうわけやから、私はこれで」
すると、その沈痛な空気の流れる院生室にいたたまれなくなったのかどうかは知らないが、柳川が素っ気無くそういって立ち上がった。
(またか)
そのまま出て行く彼女を、しかし今回は止めることもなく、
「俺もちょっと席を外すよ。悪いな」
石崎もまた仲間たちに言い置いて、柳川へ続いてその部屋を出た。
てっきりそのまま研究棟を出るのかと思っていた柳川は、意外なことに向かい側の研究生待機室へ入っていく。そこの大きな机の側の椅子には、まだ吉元が呆然と座ったまま、窓の外を見ていて、
「よっちゃん?」
柳川が近づいて吉元のあだ名で呼ぶと、びくりと肩を波打たせて振り向いた。
「…柳川さん…」
柳川の姿を認めると、この色白の後輩は柳川へ抱きついて泣きじゃくり始める。
(…こいつは、後輩には慕われてたんだよな)
その光景を見て、石崎はまた苦笑した。
「…聞きたいことがあるんや。立ち入ったことやけれども、正直に答えて欲しい」
「…はい」
吉元が座った椅子の前にしゃがんで、俯いた彼女の顔を見上げるようにしながら、柳川は、
「…よっちゃんは、永山君がカレやったから、一緒にウチの研究室に入ったんやよな?」
吉元が「以前付き合っていた」恋人の名前を持ち出したのである。
たちまち顔を凍りつかせる吉元に、柳川は続けて、
「永山君が、川村君とアンタを恨んでたってことはないよな? ウチの大学の研究室は、入ったら途中変更効かんから。永山君がアンタと分かれて、自分の目の前で川村君と付き合い始めたってこと、永山君はどう思ってたんかな」
「永山君は…関係ありませんっ! 彼は卒業したら会社に就職しましたから…それに私と永山君は、ちゃんと話し合って別れて」
「うん。それやったらええ」
聞きながら、よほど二人の間に割って入って柳川を怒鳴りつけようと思った石崎だったが、
「死ぬ前に、アンタに川村君が送ったものとか何か無かったか?」
「…それもありません…」
「そうか…悔しかったよな。恋人やのに何も相談してくれへんまま、勝手に逝ってしもたもんな、川村君は」
「はい…はいっ!」
再び泣きじゃくり始めた吉元の髪へそっと手を伸ばして、「よしよし」といった風に
撫でている柳川を見て、辛うじて思いとどまった。
(…ということは、川村があの化学式を送ったのは柳川だけ…)
警察が出した午前六時半という死亡推定時刻と、柳川へ送られてきた川村からのメールの午前六時五十八分という時刻のずれもさることながら、
(なんで俺や他の…中谷とかじゃなくて、柳川に)
今更ながらそのことに思い当たって石崎は愕然としたのである。
(…あ)
話を終えたらしい柳川は泣きじゃくる吉元の肩を軽く二回叩いてそのまま立ち上がり、こちらとすれ違おうとする。それを思わず避けながら、石崎は何故か焦っていた。
(俺が立ち聞きしていたのに、こいつは気を悪くしないのか?)
そして柳川は、同期の連中がいる院生室にはやはり戻ろうとせず、そのまま近くの入り口から外へ出て行く。
なんとなく、その後について歩きながら、
(ひょっとして俺が逆だったら)
もしも彼女が立ち聞きしていたら、やはり激怒したかもしれないと、石崎は思って苦笑していた。
…やはりどうやら、柳川の思考回路は自分たちとは少し違うらしい。
というよりも、そもそも石崎が聞いていようが聞いていまいが、彼女には「どうでもいいこと」なのだろう。
(それにしても、どこへ行くんだろう)
どこからかいい匂いが漂ってくるのは、大学のキャンパスの中で梅が咲いているせいかもしれない。そのキャンパスを素通りして、大学正門を出、何のためらいもなく左へ曲がった彼女の後姿を見ながら、
(川村の下宿先か?)
ようやくそれに思い当たって石崎は足を速め、柳川の隣に並んだ。試験も終わって、実質上の春休みに入っているせいか、大学の前の通りに学生の姿は少ない。その道を柳川と並んでしばらく黙って歩いていた石崎は、
「…なんで俺がお前についていくのか、聞かないのか?」
やがて右手前に川村の下宿先…少しこぎれいなワンルームマンションを見て、たまりかねて声をかけた。すると、光加減で茶色く見える切れ長の目で、柳川は彼を振り仰いで、
「…聞いて欲しかったん?」
(こいつ…!)
その言い方に、思わずまた頭に血が上りかけた石崎だったが、柳川のきょとんとした、心底驚いているような目を見て、
(本当に、こいつに悪気はないんだ)
たちまち上りかけた血が引いていくのが自分でも分かった。彼女は本当に驚いて尋ねているのだ。思わず返す言葉を失った石崎へ、
「私に、ジブンの行動を制限する権利はないやろ? ジブンが私について来たいんやったら、そないしたらええやん? 何か他に用事があるんやったら、そっちへ行ったらええ。何も私、石崎君について来てくれ、言うてへんよ?」
「…分かった」
(参った。俺の負けだ)
言葉だけを聞いていれば、「ムカつく」ことこの上ない台詞ばかりだ。だが、彼女のとぼけたような顔を見ていれば、それが底意地の悪さから発せられた言葉ではなくて、心底そう思っているからのものだということが良く分かる。
だもので、
「分かった。俺はお前に付いて来たかったんだ。川村の下宿に行くんなら、俺も付き合う」
両手を挙げて「降参」の意を示しながら、石崎は苦笑していた。
「そう? ならどうぞ」
すると柳川はかすかに笑って前を向く。
(こういう奴だったんだ。新発見だな)
再び、今度は彼女の歩調に合わせて歩きながら、今更ながら彼は驚いていた。
考えてみれば、柳川とだけは在学中、同じ研究室にいながら五分も話をしなかった。こうして曲がりなりにも彼女とまともに話をしたのは、これが初めてだったのだ。
そして、
『あきらんはね、悪い子じゃないよ?』
中谷の言葉が石崎の脳裏によみがえった。
(つまり、徹底的に他人に干渉しないけれど、自分が干渉されるのはどうでもいい。コイツの中では色んなことがちゃんと『取捨選択』されてるんだ)
冷たい、というのとはまた違うのだと、彼は彼なりに柳川を少しだけ見直したような気分になる。
「あ。刑事さん来てんなあ、やっぱり」
赤い屋根の二階建てワンルームの前で、柳川はぴたりと足を止めた。
「…ここで『研究室の仲間でした』なんて言うて入っていっても、現場は見せてくれへんかな。
彼に貸したものがあるんですーとか言うて」
「あのなあ」
「そやかて、あんな、明日の新聞にも載るようなことだけ聞かされても、結局のところ、
ホンマのことは私らには何も分からんのやで? 新聞に載ってもOKやから刑事さんかて、
よっちゃんと他の研究室の子らが聞いても、差し支えのないことだけしゃべらはったんやから」
「お前、詳しいな」
「そら、サスペンスとか読むし、見るもん」
そこで「くくっ」などと、まるで猫が笑うような表情で瞼を閉じて少し顎を引きながら柳川は笑い、
「こういう場合、刑事さんは大抵、頭から『自殺』いうセンで調べはるからなぁ。…イケるか」
と呟いたかと思うと次の瞬間、石崎が止める間もなく、貼り渡してある黄色いテープをひょいとくぐって向こう側へ行ってしまった。
(おいおい)
石崎が苦笑しながら、それでも柳川の後についていくと、
「君たち、一体何だね」
案の定、開けっ放しの部屋の入り口の前では一人ではあるが刑事が見張っていて、ぺこりと頭を下げた柳川を見て目を剥いた。
「川村君と研究室が一緒だった学生です。彼を偲びたいので、部屋を見る許可をもらえませんか」
「あのねえ」
柳川が言うと、まるででこぼこのジャガイモを連想させる顔のその刑事は、さらにどんぐりのような大きな目を剥いて、
「遺族もまだ来てないの。一通り部屋の調査は済んだけれども、他人を先に入れたら遺族の方々が気を悪くするだろうが」
「荒らさないように見ます。少しだけ、お願いします!」
しかし横柄な態度のその刑事に負けずに柳川は食い下がって、
「私、私も実は川村君が好きだったんです」
(…あのな)
なんと石崎も「びっくり」の驚くべき台詞を吐いたのである。
「ですからお願いです…どうか、お願いですから…」
そして、両手に顔を当てて泣き声さえ立ててみせる。するとその刑事も満更情の無い人間でもないらしく、逆に慌てて、
「あ、泣かないでよ、弱ったなあ」
救いを求めるように石崎を見て、頭を掻いたりしていたが、石崎もただ肩をすくめるばかりなので、
「じゃあ、少しだけ。少しだけだから。ほら、泣かないで」
「…ありがとうございます…」
ジャガイモのような顔に似つかわしい、岩の板のような体をずらして、柳川を中へ通したのである。
「…五分だけだからね」
「はい!」
苦虫を噛み潰したようなその刑事へ明るく返事を返して、柳川は靴を脱ぎ、フローリングの床へ上がった。石崎も呆れてため息を着きながら続いて上がると、
「…」
先ほどの「嘘泣き」は一転、すっと切れ長の目を細めた厳しい表情で、柳川はロフトの柱からぶらさがっているロープを見つめた。
(これか…このロープで、川村は)
川村が下宿していたワンルームマンションは、いわゆる「ロフトつき」で、中二階建て風になっている。ロフトの上をベッドにしていたらしく、柵から覗く白い布団が石崎の目に痛ましく映る。なるほど、この高さなら、183センチと高身長だった川村の足も届かず、「無事に」首をつることが出来たろう。石崎が感傷を抱きながら、何度か訪問したことのある川村の部屋を見回している隣で、柳川はすっと身をかがめてそのロープの真下を見つめ、
「…濡れて、乾いた後か…」
呟いたりなどしている。
サスペンスドラマでもよく見る、縊死にありがちな失禁のことを言っているらしいと苦笑しながら、それでも石崎が黙って見ていると、
「パソコン、は…押収されへんかった、と」
言いながら、柳川は部屋の隅にあった机の上のパソコンの電源を勝手に入れた。
「おい」
「これ」
思わず止めようとした石崎の目の前へ、あの化学式の紙をつきつけて、
「どこから発信されたんか、確かめたい。もしもここからと違うかったんやったら…」
柳川はそれきり口をつぐんだ。
「違うんだったら?」
「ん…」
聞き返す石崎にはもはや答えず、彼女はメールフォルダを開く。
「…ない」
その中には受信、送信、削除済み、などというコンテンツがあり、それらをざっと見て、柳川は少し首をかしげて呟いた。
そしてそのままパソコンの電源を切り、部屋を横切って玄関へ向かったと思うと、
「すみませんでした…気が済みましたから」
と、靴を履きながら件の刑事へ向かって殊勝気に頭を下げたのである。その彼女の後に、慌てて石崎も続いた。
「それじゃ、失礼します。ありがとうございました」
もう一度ぺこりと頭を下げる柳川へ、「うむ」という風に頷いた刑事は、
「あ、待ちなさい君」
去ろうとする二人を呼び止めて、
「あー、私、こういう者でね。何かあったら、尋ねてきて」
と、名刺を一枚ずつ渡したのである。彼らが思わずその顔を見つめなおすと、その刑事は照れたようにごつい手で後頭部をガリガリと掻き、
「まあ…実は私ね、川村君だかの死に不審を抱いておるんだわ。もしも何か変わったことがあったら、タレこんでくれんかな」
照れたように言った。
鳥取県に吹く風は強い。特に春先はともすれば大学のほうにまで、海岸にある砂が吹き上げられたりもする。
その中で、
「…」
大学へと戻りながら、柳川はスケジュール表を見て難しい顔をして歩き続けた。
「おい、危ないぞ」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
前を見て歩かないものだから、時折電柱にぶつかりそうになったりする。それを石崎が慌てて彼女の二の腕を掴んで引き寄せることで、辛うじて防いだりもしながら、
「今度は、農学部学生課」
「おい、柳川」
ふと顔を上げてスケジュール表を閉じ、ため息とともに言った柳川へ、石崎は呆れて話しかけた。
「そもそもお前、なんで川村が自殺じゃないって思うんだ」
「んー? ああ、『なんとなく』…」
「…」
「じゃ、理由にはならへんよな、分かってる」
渋面を作った石崎へ柳川は苦笑して、
「川村君の性格」
短く答えて歩き続けた。
(川村の、性格?)
確かに、自殺するようなタマではない、と、彼女は言ったし、石崎もそう思っていないこともない。
「もっと詳しく言え。なんで性格が自殺するのとしないのとに関係があるんだ」
「…ん。後で」
しかし、柳川に食い下がっても帰ってくる答えは相変わらずつかみどころのないそれである。諦めて苦笑し、石崎は懐かしい構内を見回しながら、柳川と並んで農学部へ戻っていった。
農学部の建物は緑の木立に包まれて、大学正門から一番遠い場所にある。研究室へ戻るのかと思うとそうではないらしい。先ほどの呟き通り、
「すみません。卒業生の柳川ですが」
農学部の正面玄関から入って行ったかと思うと、学生課窓口へつかつかと近寄り、
「作物機能制御学の川村君の成績表なんかがあったら渡してくれませんか。先生に言い付かったんです、遺族の方へお渡しするようにって。あ、出来ましたら入試の時の成績から、今までのを全部」
(…まただ)
柳川が、すらっと言った「ありもしないこと」を、窓口の女性は信じたらしい。もはや呆れるのを通り越して感心しながら、石崎は柳川の行動を見守っていた。
真剣な顔をして川村の成績表が入った茶色い封筒を受け取って、柳川は女性へぺこりと頭を下げ、学生課を出て行く。
今度こそ研究室に戻るのかと思えば、その途中にある「農学部大講義室」の扉を開き、柳川はその中へ入っていった。
普段は、受講生の多い講義に使われるこの部屋も、今は誰もいなくてしんと静まり返っている。
(懐かしいな)
石崎がぐるりと教室の中を見回していると、幾度となく講義を受けたこの教室の教壇の前へ、柳川は無造作に腰を下ろした。何をするのかと見ていると、彼女は今しがた受け取ったばかりの封筒の封を器用にぺろりと剥がしたのである。
「…おいっ!!」
「やっぱりな」
遺族へ渡すのではなかったのかと、咎めた響きを含んだ石崎の叫びは、
「石崎君も見る?」
「…」
柳川が、その鼻先へ川村の成績表らしき紙を突きつけることで止められてしまった。
これはさすがにいい気分はしない。ムッとしながらも石崎は「親友」の成績表へ目を通して、
「…これが何か問題あるのか?」
呟き、柳川の座っている机の上へ、二本の指で押し返すように置いた。
大学の成績は、「優、良、可、不可」という四段階に通常分類されている。その中で川村の成績は、「確かに酷いけど、問題になるほどのもんじゃないだろう」ほとんど全てが「可」ばかりである。それも不可をくらって追試を受けて、やっとのことでもらえた「可」、といったものだったのだが、石崎の言うとおり、これだけなら特に問題になるほどの成績でもない。
「大学入試の時と、院入試の時の成績も見てみたら?」
柳川が言うので、しぶしぶそれへも目を通した石崎は、思わず眉をしかめていた。
(これでよくウチの大学、通ったな。院も)
T大学は、国立とはいえやはり田舎の大学である。偏差値は良くも無ければ悪くも無い。
いうなれば「そこそこの」程度なのだが、しかしそこに記してある川村の成績は、いずれも酷いものだった。
「ウチの大学も、そこまで酷ないやろ? 大体、おかしいと思てたんや」
石崎の手からそっと成績表を取って茶封筒へ戻しながら、柳川は立ち上がった。
「なんで川村君がそんな成績で入れたんか、そんで、留年もせんと「無事に」院まで現役で行けたんか。ドイツ語の講義かて一緒に受けてたんやから、川村君の大体の学力のレベルは分かるしな。酷いもんやったで? 発音も何もかも滅茶苦茶やった」
「…ああ」
柳川の容赦のない言い方に苦笑しながら、石崎の脳裏にかつて川村が彼へ発した言葉の数々が浮かび上がる。
『石崎、講義の代返頼む』『石崎、ノート貸してくれ』『カンペ作るから協力してくれ』…。
(調子のいい奴だった。女にモテて、レポートだってそんな女に手伝ってもらって…けど、何だか憎めない奴で)
「石崎君? 私、研究室に戻るよ?」
「あ? ああ」
しかし、彼の「パートナー」は、感傷に耽ってはいないらしい。言い捨てて講義室の扉を開き、そのまま廊下を右へ折れて階段へ向かう。
(川村の性格、か)
その後をついて階段を上がりながら、柳川が言ったその意味が何となくわかりかけてきたような気がして、
「川村がああいう性格だから、自殺はしないって思ったのか、お前」
「…それもある」
先に階段を上がる彼女へ話しかけると、一瞬、石崎が思わずどきりとしたほどに、振り返った柳川は悲しい目をした。
(…川村)
とるものもとりあえず、JRのS駅からT県行きの特急列車に飛び乗った石崎の頭に、訃報を報せた中谷かおりの声と『親友』の顔が交互に浮かぶ。
勤め先の税関へは、すぐに電話して有給を取ったものの、
(良く考えれば、俺が行ったところで何か出来るわけでもないな…)
苦笑しながら、石崎は列車の座席にぐったりと背を沈めた。
川村幸信。石崎の「大の親友」だった。大学の研究室の中でも、なんとなく二人で同期の連中のまとめ役のようなことをやり、教授からの信頼も厚かった。
卒業後、川村はそのままT大農学部の大学院へ進み、自分はK税関へ就職したが、
(全然そんな風に見えなかったのにな)
研究の上での行き詰まりや、何かプライベートで悩んでいるという風にも見えなかった。生来が能天気で明るくて『お調子者』で…
(俺より女にモテた)
その彼が首をつったとは、とても信じられない。
何よりも、二十三歳という若さなのだ。もう『正式な喪服』がいるようになるなんて、と、苦笑したところで、列車のアナウンスがT駅に着いたことを告げた。
短く刈った髪をなんとなしに掻きながら、石崎が網棚に載せていた自分の荷物を下ろすと、
(あれ、あいつ…来たのか)
窓の外に、同期だった「あいつ」の姿を見つけて彼は再び苦笑した。
どうやら同じ列車だったらしい。石崎には気づいた風も無く、ボストンバッグを肩から提げてとっとと改札のある階段へと向かっていく。
長かった髪の毛は、どうやら短く切ったらしい。
(あいつの態度で、俺が興奮しないでいられるかどうかがキモだな)
気を取り直すように大きく息をつき、同じように荷物を肩から下げて、石崎もまたホームへ降り立った。
初春のT県は、彼が卒業した時と同じ、柔らかい日差しに包まれている。
T大の研究室に入っていくと、8人いた同期の仲間たちはすでに4人が揃っていて、
「純一郎ちゃん」
中央の大きな机の一端に座っていた中谷が彼を認め、声をかけてきた。
中谷の話では、
「とりあえず、私たち同期の人間で、集まれる人間はすぐに研究室に集まるって言ってたけど」
とのことらしいが、
「あいつは?」
かつて徹夜で酒盛りをしたこともあるその机の周りには、石崎が少し苦手意識を持っていた「あいつ」…柳川晶の姿は無かった。
「大学院生研究室の部屋へ行って、川村君の机にお花をあげてから、また出て行ったよ」
中谷もまた、少し顔をしかめた石崎の顔を見て苦笑する。
石崎の認識では、中谷も、そしてその側で椅子に座っている「眼鏡の太田」や「キャプテン森川」も、「コロちゃん伊原」も、全て等しく「友達」であり、卒業してからも何かと連絡を取っていたのだが、
「あきらんもね、悪い子じゃないよ、純ちゃん」
柳川のニックネームを口にして、中谷はとりなすように言った。
「まあ、な」
柳川とだけは、連絡を取らなかった。取る気になれなかった、といった方が正しい。
「どこへ行った?」
「さあ」
そして石崎の問いに答えられるものも、大学在学当時と同じように、いない。
中谷が少し肩をすくめて首を振るのを、
「世話の焼けるやつ」
むしろ腹正しい思いで見ながら、石崎は乱暴に自分の荷物をその机の一方へ置き、
「探してくる」
言い捨てて、研究室を出て行ったのである。
(行き先は大抵決まってる)
なんだかんだで、大学の同じ時間を過ごした「仲間」である。柳川が好みそうな場所も中谷に聞いて知っていたし、石崎自身もその場所に彼女がいたのをたびたび目撃していた。だもので、
「柳川!」
鳥取砂丘に吹き付ける風は、今日も強い。切り立った断崖のように見えるが、その実砂が堆積して出来た「崖」の先に、ぽつねんと座っている人影を見つけて、石崎は声をかけた。
シーズンオフでもあるので、人はまばらである。風の音で聞こえないのか、
「柳川! おい、柳川!」
石崎が砂紋を踏みながら近づいていって、何度か声をかけたところでやっと彼女は振り向いた。
「ああ、石崎君」
「ああ、じゃない」
彼を認めて、口元にわずかな笑みを浮かべる。思えば、彼女はいつもこうだった。石崎が露骨に顔をしかめても、柳川はどこかとぼけたような表情を崩さない。
「久しぶり。元気そうやな」
「…お前、こんなとこで何してる」
そして相変わらず人を食ったような「関西弁」は健在らしい。もっとも、彼女は関西生まれ関西育ち、それを他のイントネーションに改めろといわれても無理な話だろうが。
「ん…まあ…独りになりたかっただけや」
「独りにって、お前」
石崎の責めるような口調も、相変わらず彼女には通じない。ちらりと背後の彼を見上げただけで、柳川はすぐにその視線を砂の崖の下に広がる海へ落とした。忌々しい気分で石崎もそちらへ目をやると、
(…花)
白く泡立つ波の間に、色とりどりの花が見える。ふと柳川の手へ目をやると、赤いリボンが隠すように握られていて、
(ああ、こいつは)
こういうヤツだったのだと、改めて石崎は苦笑した。
柳川晶。彼が今まで生きてきた中で、唯一理解不能な人間。協調性はまるっきりない、というわけではないらしい。中谷や伊原に言われれば、きちんと研究室の共同作業には出てきたし、農学専門英語ゼミへの出席も欠かさなかった。だが、いつだって彼女の目は研究室の仲間でも、やっていた研究内容でもなく、どこか遠くを見ていたようで…。
「お前な」
軽く舌打ちして、石崎は忌々しさと一緒に彼女の隣へどっかりと腰を下ろし、あぐらをかく。
「皆、研究室にいるんだぞ。塚口先生だってもうすぐ来る。なのになんでいつだってお前だけ、独りでいようとするんだ」
すると彼女はまた、かすかに笑って言うのだ。
「…湿っぽいのは嫌いや。大学にも警察、来てるやろ。警察なんかに根掘り葉掘り聞かれるのはもっと嫌や」
「…」
「皆と一緒に何かするってのも苦手や。それはアンタかて知ってたやろ?
…今回かて、川村君が死んだからて、皆と一緒になって泣く、て…ウソみたいになるって思たからな」
「なんで、何がウソになるんだよ」
「んー…なんとなく」
「なんだよそれ。訳が分からないこと言うな」
ここで彼女に怒ると『負け』だと分かっていながら、どうしても石崎の声は大きくなる。
(理解不能…理解不能)
頭の中で、またそんな声が響く。
「とにかく、お前も研究室の一員だったんだから、戻れ。俺は行く。警察に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だって、それはお前のわがままだ」
濃紺のGパンについた砂を払いながら、石崎は立ち上がった。
「ん…分かってるけどなぁ。うん、分かってるけど」
すると、彼女も同じように、明るい水色のGパンを払って立ち上がる。
「実家にも警察が押しかけてきて、散々聞かれた」
「ああ…まあ、そりゃ当然だろ。一応はお前も、川村と付き合いはあったんだし」
「一緒に情報交換しようや、って言うてた、川村君」
「そうか」
素っ気無く言って足早に歩き出すと、柳川はそれを気にした風もなく、マイペースに、しかし彼の足の速さに合わせて付いてくる。
「今朝、川村君から私のパソコンにメールが来てた」
なんとなく、並んで歩くのが嫌でより速くなっていた石崎の足が、そこでざくっと音を立てて砂を踏んだ。
「…なんだって?」
「日付は三月十一日午前六時五八分。…見るか?」
「寄越せ」
「ん」
石崎が言うと、柳川はかすかに笑って頷き、Gパンの尻ポケットから四つに折りたたんだ紙切れを差し出す。ひったくるようにそれを受け取り、広げて、
「…何だこれ」
「ベンゼン環やろ。そやけど私も見たことのない化学式や」
わざわざプリンターから打ち出したらしい。石崎の横から伸びた柳川の白い指が、炭素記号の並んだ化学反応式を示す。
「警察には?」
「こっちから言うまでもなかった。O県警の人らがウチに来て、ヒトのパソコン、隅から隅まで全部ひっくり返して見て行きよった。しまいめにはパソコンごと取られてしもて。後で返すて言うてたけど、警察の『後』って、何年後やら。そう思たから」
そこで柳川は石崎の手から紙切れをひょいと取り上げ、
「これだけは、警察の人間の目を盗んで打ち出しといた」
ニヤリと笑って言ったのである。
「川村君は、自殺とちゃう。石崎君、アンタかて信じてへんやろ?」
「なんでそう思うんだよ」
「はは」
彼が思わず突っかかるように言うと、柳川は白い歯を見せて少し笑い、
「私がここへ帰ってきたんは」
再び紙切れを4つにたたんで無造作に自分の尻ポケットへ入れ、石崎に先んじて大学へ向かって歩き出した。
「それを確かめるためと、まあ…『逃げる』ためやな」
「え?」
「なんでもない。研究室、戻るんやろ?」
言い捨てて、くるりと彼女は背中を向ける。背中の真ん中辺りまで伸びていた彼女の茶色い髪は、襟足まで見えるほどに短く切られていて、
(『逃げる』ため…何があったんだろう)
それを見ながら一瞬、彼はそう思い、けれど、
(俺には関係ない)
どうせそう考えて『やった』ところで、柳川からはそれこそ砂の粒ほどでも関心が向けられるわけでもないと思いなおして、石崎も研究室へ戻っていったのである。
「はい…私が発見、しました…」
石崎と柳川が研究室へ戻ってくると、そこにはすでにT県警がいて、
「どういう状況だったのか、もう一度詳しく教えてくれませんか」
研究室の椅子に座ったままの二人の後輩を、やはり二人の刑事らしき人物が左右に立って詰問していた。
入り口でたたらを踏んだ石崎と柳川へ、
「純ちゃん、あきらん」
中谷がそっと声をかけ、目配せをしてとある部屋を示す。他の仲間たちは、どうやら下を挟んで向かい側にある院生専用研究室へ「退避」しているらしい。
「…いつから『ああ』なんだ?」
「純ちゃんが帰ってくる少し前からだよ」
石崎がそちらへ向かって歩き出しながらそっと尋ねると、中谷も声を潜めて囁き返した。
「同じことばかり何度も何度も…かわいそうだよね、吉元さんも」
「そうだな…」
吉元美紀。彼らの一学年下で、死んだ川本の恋人でもあった。川村の好みらしい、色白で肩まで延びた黒い髪の、いわゆる「女の子らしい女の子」…。
今回も、電話はしたが中々出てこない川本を心配した助手、塚口武雄に頼まれて下宿先へ行ったところを、
「…首つってたのを発見したのが、川村君の恋人だなんて」
「ああ」
彼女が一番に、「自殺」していた彼を発見したというところらしい。
中谷が、少しそばかすの浮いた頬で俯く。つられるようにしてがっしりした腕を組んでため息をつきかけて、
「おい、柳川」
彼は、てっきり側にいるものと思い込んでいた「研究室の問題児」がまだ入り口の扉に張り付いているのを発見し、呆れて声をかけた。
「何してるんだ、不謹慎だぞ」
そっと近づいていって二の腕を取ろうとすると、彼女はすっと目を細めて彼を見、「来るな」と言った風に左手を上げた。
それに気おされるようにたたらを踏んで、
(まただ)
石崎は苦笑した。
こうなると、柳川はこちらの言うことなど聞きもしない。無視もしないかわりに返事もせず、従ってこちらのいうことがちゃんと彼女の頭の中に届いているのかいないのか、
「お前なあ」
しばらくして、そちら側の部屋の空気が動く気配がした。ようやく警察は吉元を解放する気になったらしい。それと同時にやっと柳川も納得した様子で石崎と中谷のほうへ向かってきて、
「お前、吉元の気持ちとか考えないわけ?」
「…考えてるからこうしてるんやって」
早速食って掛かった彼へ、柳川はしれっとした顔で言い返すのだ。
「ま、色んなことが分かった。最近の刑事さんって、わりにおしゃべりなんやなあ」
小さなチェックの入った、どうやら今年の予定表らしいメモ帳備え付けの鉛筆を、その背表紙のところへ引っ掛けながら院生室へ入ろうとする彼女を引き止めて、
「…何が分かったって言うんだ」
「とにかく入らせてえな。入ったら言うから」
詰問する石崎へ、柳川は苦笑したのである。
「…死亡推定時刻、三月十一日午前六時半。死因は縊死。要するに首吊り自殺…」
そして彼女が院生室へ入ると何となく、柳川が報告する形になる。コロちゃん伊原や、メガネの太田、キャプテン森川が、いとも無造作に「発表」していく柳川の言葉に一様に顔を険しくするのを意識しているのかいないのか、
「…遺書はなし。ただし最近は修士としての研究が進まないこと、つまり研究結果のデータが上手く取れなかったことを大変に苦にしており、塚口助手から『このデータだと修士の資格を与えることが出来ない』と言われたことによる就職内定の取り消しも、彼の『自殺』の直接の死因となったと見られる。以上」
淡々と柳川は続けて、そこで「メモ」を閉じた。
「『自殺』ってことになりそうやね、どうやらね」
「お前っ!」
(…あ…?)
そこで言い終えて席に着いた柳川へ、「お前は自殺じゃないと言っていただろう」と言いかけた石崎は、何かを訴えるような柳川の目に気づいて口をつぐむ。
「私たち出来ることは、本当に何も無いんだ…本当に川村君、死んじゃったんだね」
中谷が寂しそうにため息をつく。それは他の面々も同じで、何とも言えない顔をして腕を組んだり、ため息を着いたりしている。
「…そういうわけやから、私はこれで」
すると、その沈痛な空気の流れる院生室にいたたまれなくなったのかどうかは知らないが、柳川が素っ気無くそういって立ち上がった。
(またか)
そのまま出て行く彼女を、しかし今回は止めることもなく、
「俺もちょっと席を外すよ。悪いな」
石崎もまた仲間たちに言い置いて、柳川へ続いてその部屋を出た。
てっきりそのまま研究棟を出るのかと思っていた柳川は、意外なことに向かい側の研究生待機室へ入っていく。そこの大きな机の側の椅子には、まだ吉元が呆然と座ったまま、窓の外を見ていて、
「よっちゃん?」
柳川が近づいて吉元のあだ名で呼ぶと、びくりと肩を波打たせて振り向いた。
「…柳川さん…」
柳川の姿を認めると、この色白の後輩は柳川へ抱きついて泣きじゃくり始める。
(…こいつは、後輩には慕われてたんだよな)
その光景を見て、石崎はまた苦笑した。
「…聞きたいことがあるんや。立ち入ったことやけれども、正直に答えて欲しい」
「…はい」
吉元が座った椅子の前にしゃがんで、俯いた彼女の顔を見上げるようにしながら、柳川は、
「…よっちゃんは、永山君がカレやったから、一緒にウチの研究室に入ったんやよな?」
吉元が「以前付き合っていた」恋人の名前を持ち出したのである。
たちまち顔を凍りつかせる吉元に、柳川は続けて、
「永山君が、川村君とアンタを恨んでたってことはないよな? ウチの大学の研究室は、入ったら途中変更効かんから。永山君がアンタと分かれて、自分の目の前で川村君と付き合い始めたってこと、永山君はどう思ってたんかな」
「永山君は…関係ありませんっ! 彼は卒業したら会社に就職しましたから…それに私と永山君は、ちゃんと話し合って別れて」
「うん。それやったらええ」
聞きながら、よほど二人の間に割って入って柳川を怒鳴りつけようと思った石崎だったが、
「死ぬ前に、アンタに川村君が送ったものとか何か無かったか?」
「…それもありません…」
「そうか…悔しかったよな。恋人やのに何も相談してくれへんまま、勝手に逝ってしもたもんな、川村君は」
「はい…はいっ!」
再び泣きじゃくり始めた吉元の髪へそっと手を伸ばして、「よしよし」といった風に
撫でている柳川を見て、辛うじて思いとどまった。
(…ということは、川村があの化学式を送ったのは柳川だけ…)
警察が出した午前六時半という死亡推定時刻と、柳川へ送られてきた川村からのメールの午前六時五十八分という時刻のずれもさることながら、
(なんで俺や他の…中谷とかじゃなくて、柳川に)
今更ながらそのことに思い当たって石崎は愕然としたのである。
(…あ)
話を終えたらしい柳川は泣きじゃくる吉元の肩を軽く二回叩いてそのまま立ち上がり、こちらとすれ違おうとする。それを思わず避けながら、石崎は何故か焦っていた。
(俺が立ち聞きしていたのに、こいつは気を悪くしないのか?)
そして柳川は、同期の連中がいる院生室にはやはり戻ろうとせず、そのまま近くの入り口から外へ出て行く。
なんとなく、その後について歩きながら、
(ひょっとして俺が逆だったら)
もしも彼女が立ち聞きしていたら、やはり激怒したかもしれないと、石崎は思って苦笑していた。
…やはりどうやら、柳川の思考回路は自分たちとは少し違うらしい。
というよりも、そもそも石崎が聞いていようが聞いていまいが、彼女には「どうでもいいこと」なのだろう。
(それにしても、どこへ行くんだろう)
どこからかいい匂いが漂ってくるのは、大学のキャンパスの中で梅が咲いているせいかもしれない。そのキャンパスを素通りして、大学正門を出、何のためらいもなく左へ曲がった彼女の後姿を見ながら、
(川村の下宿先か?)
ようやくそれに思い当たって石崎は足を速め、柳川の隣に並んだ。試験も終わって、実質上の春休みに入っているせいか、大学の前の通りに学生の姿は少ない。その道を柳川と並んでしばらく黙って歩いていた石崎は、
「…なんで俺がお前についていくのか、聞かないのか?」
やがて右手前に川村の下宿先…少しこぎれいなワンルームマンションを見て、たまりかねて声をかけた。すると、光加減で茶色く見える切れ長の目で、柳川は彼を振り仰いで、
「…聞いて欲しかったん?」
(こいつ…!)
その言い方に、思わずまた頭に血が上りかけた石崎だったが、柳川のきょとんとした、心底驚いているような目を見て、
(本当に、こいつに悪気はないんだ)
たちまち上りかけた血が引いていくのが自分でも分かった。彼女は本当に驚いて尋ねているのだ。思わず返す言葉を失った石崎へ、
「私に、ジブンの行動を制限する権利はないやろ? ジブンが私について来たいんやったら、そないしたらええやん? 何か他に用事があるんやったら、そっちへ行ったらええ。何も私、石崎君について来てくれ、言うてへんよ?」
「…分かった」
(参った。俺の負けだ)
言葉だけを聞いていれば、「ムカつく」ことこの上ない台詞ばかりだ。だが、彼女のとぼけたような顔を見ていれば、それが底意地の悪さから発せられた言葉ではなくて、心底そう思っているからのものだということが良く分かる。
だもので、
「分かった。俺はお前に付いて来たかったんだ。川村の下宿に行くんなら、俺も付き合う」
両手を挙げて「降参」の意を示しながら、石崎は苦笑していた。
「そう? ならどうぞ」
すると柳川はかすかに笑って前を向く。
(こういう奴だったんだ。新発見だな)
再び、今度は彼女の歩調に合わせて歩きながら、今更ながら彼は驚いていた。
考えてみれば、柳川とだけは在学中、同じ研究室にいながら五分も話をしなかった。こうして曲がりなりにも彼女とまともに話をしたのは、これが初めてだったのだ。
そして、
『あきらんはね、悪い子じゃないよ?』
中谷の言葉が石崎の脳裏によみがえった。
(つまり、徹底的に他人に干渉しないけれど、自分が干渉されるのはどうでもいい。コイツの中では色んなことがちゃんと『取捨選択』されてるんだ)
冷たい、というのとはまた違うのだと、彼は彼なりに柳川を少しだけ見直したような気分になる。
「あ。刑事さん来てんなあ、やっぱり」
赤い屋根の二階建てワンルームの前で、柳川はぴたりと足を止めた。
「…ここで『研究室の仲間でした』なんて言うて入っていっても、現場は見せてくれへんかな。
彼に貸したものがあるんですーとか言うて」
「あのなあ」
「そやかて、あんな、明日の新聞にも載るようなことだけ聞かされても、結局のところ、
ホンマのことは私らには何も分からんのやで? 新聞に載ってもOKやから刑事さんかて、
よっちゃんと他の研究室の子らが聞いても、差し支えのないことだけしゃべらはったんやから」
「お前、詳しいな」
「そら、サスペンスとか読むし、見るもん」
そこで「くくっ」などと、まるで猫が笑うような表情で瞼を閉じて少し顎を引きながら柳川は笑い、
「こういう場合、刑事さんは大抵、頭から『自殺』いうセンで調べはるからなぁ。…イケるか」
と呟いたかと思うと次の瞬間、石崎が止める間もなく、貼り渡してある黄色いテープをひょいとくぐって向こう側へ行ってしまった。
(おいおい)
石崎が苦笑しながら、それでも柳川の後についていくと、
「君たち、一体何だね」
案の定、開けっ放しの部屋の入り口の前では一人ではあるが刑事が見張っていて、ぺこりと頭を下げた柳川を見て目を剥いた。
「川村君と研究室が一緒だった学生です。彼を偲びたいので、部屋を見る許可をもらえませんか」
「あのねえ」
柳川が言うと、まるででこぼこのジャガイモを連想させる顔のその刑事は、さらにどんぐりのような大きな目を剥いて、
「遺族もまだ来てないの。一通り部屋の調査は済んだけれども、他人を先に入れたら遺族の方々が気を悪くするだろうが」
「荒らさないように見ます。少しだけ、お願いします!」
しかし横柄な態度のその刑事に負けずに柳川は食い下がって、
「私、私も実は川村君が好きだったんです」
(…あのな)
なんと石崎も「びっくり」の驚くべき台詞を吐いたのである。
「ですからお願いです…どうか、お願いですから…」
そして、両手に顔を当てて泣き声さえ立ててみせる。するとその刑事も満更情の無い人間でもないらしく、逆に慌てて、
「あ、泣かないでよ、弱ったなあ」
救いを求めるように石崎を見て、頭を掻いたりしていたが、石崎もただ肩をすくめるばかりなので、
「じゃあ、少しだけ。少しだけだから。ほら、泣かないで」
「…ありがとうございます…」
ジャガイモのような顔に似つかわしい、岩の板のような体をずらして、柳川を中へ通したのである。
「…五分だけだからね」
「はい!」
苦虫を噛み潰したようなその刑事へ明るく返事を返して、柳川は靴を脱ぎ、フローリングの床へ上がった。石崎も呆れてため息を着きながら続いて上がると、
「…」
先ほどの「嘘泣き」は一転、すっと切れ長の目を細めた厳しい表情で、柳川はロフトの柱からぶらさがっているロープを見つめた。
(これか…このロープで、川村は)
川村が下宿していたワンルームマンションは、いわゆる「ロフトつき」で、中二階建て風になっている。ロフトの上をベッドにしていたらしく、柵から覗く白い布団が石崎の目に痛ましく映る。なるほど、この高さなら、183センチと高身長だった川村の足も届かず、「無事に」首をつることが出来たろう。石崎が感傷を抱きながら、何度か訪問したことのある川村の部屋を見回している隣で、柳川はすっと身をかがめてそのロープの真下を見つめ、
「…濡れて、乾いた後か…」
呟いたりなどしている。
サスペンスドラマでもよく見る、縊死にありがちな失禁のことを言っているらしいと苦笑しながら、それでも石崎が黙って見ていると、
「パソコン、は…押収されへんかった、と」
言いながら、柳川は部屋の隅にあった机の上のパソコンの電源を勝手に入れた。
「おい」
「これ」
思わず止めようとした石崎の目の前へ、あの化学式の紙をつきつけて、
「どこから発信されたんか、確かめたい。もしもここからと違うかったんやったら…」
柳川はそれきり口をつぐんだ。
「違うんだったら?」
「ん…」
聞き返す石崎にはもはや答えず、彼女はメールフォルダを開く。
「…ない」
その中には受信、送信、削除済み、などというコンテンツがあり、それらをざっと見て、柳川は少し首をかしげて呟いた。
そしてそのままパソコンの電源を切り、部屋を横切って玄関へ向かったと思うと、
「すみませんでした…気が済みましたから」
と、靴を履きながら件の刑事へ向かって殊勝気に頭を下げたのである。その彼女の後に、慌てて石崎も続いた。
「それじゃ、失礼します。ありがとうございました」
もう一度ぺこりと頭を下げる柳川へ、「うむ」という風に頷いた刑事は、
「あ、待ちなさい君」
去ろうとする二人を呼び止めて、
「あー、私、こういう者でね。何かあったら、尋ねてきて」
と、名刺を一枚ずつ渡したのである。彼らが思わずその顔を見つめなおすと、その刑事は照れたようにごつい手で後頭部をガリガリと掻き、
「まあ…実は私ね、川村君だかの死に不審を抱いておるんだわ。もしも何か変わったことがあったら、タレこんでくれんかな」
照れたように言った。
鳥取県に吹く風は強い。特に春先はともすれば大学のほうにまで、海岸にある砂が吹き上げられたりもする。
その中で、
「…」
大学へと戻りながら、柳川はスケジュール表を見て難しい顔をして歩き続けた。
「おい、危ないぞ」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
前を見て歩かないものだから、時折電柱にぶつかりそうになったりする。それを石崎が慌てて彼女の二の腕を掴んで引き寄せることで、辛うじて防いだりもしながら、
「今度は、農学部学生課」
「おい、柳川」
ふと顔を上げてスケジュール表を閉じ、ため息とともに言った柳川へ、石崎は呆れて話しかけた。
「そもそもお前、なんで川村が自殺じゃないって思うんだ」
「んー? ああ、『なんとなく』…」
「…」
「じゃ、理由にはならへんよな、分かってる」
渋面を作った石崎へ柳川は苦笑して、
「川村君の性格」
短く答えて歩き続けた。
(川村の、性格?)
確かに、自殺するようなタマではない、と、彼女は言ったし、石崎もそう思っていないこともない。
「もっと詳しく言え。なんで性格が自殺するのとしないのとに関係があるんだ」
「…ん。後で」
しかし、柳川に食い下がっても帰ってくる答えは相変わらずつかみどころのないそれである。諦めて苦笑し、石崎は懐かしい構内を見回しながら、柳川と並んで農学部へ戻っていった。
農学部の建物は緑の木立に包まれて、大学正門から一番遠い場所にある。研究室へ戻るのかと思うとそうではないらしい。先ほどの呟き通り、
「すみません。卒業生の柳川ですが」
農学部の正面玄関から入って行ったかと思うと、学生課窓口へつかつかと近寄り、
「作物機能制御学の川村君の成績表なんかがあったら渡してくれませんか。先生に言い付かったんです、遺族の方へお渡しするようにって。あ、出来ましたら入試の時の成績から、今までのを全部」
(…まただ)
柳川が、すらっと言った「ありもしないこと」を、窓口の女性は信じたらしい。もはや呆れるのを通り越して感心しながら、石崎は柳川の行動を見守っていた。
真剣な顔をして川村の成績表が入った茶色い封筒を受け取って、柳川は女性へぺこりと頭を下げ、学生課を出て行く。
今度こそ研究室に戻るのかと思えば、その途中にある「農学部大講義室」の扉を開き、柳川はその中へ入っていった。
普段は、受講生の多い講義に使われるこの部屋も、今は誰もいなくてしんと静まり返っている。
(懐かしいな)
石崎がぐるりと教室の中を見回していると、幾度となく講義を受けたこの教室の教壇の前へ、柳川は無造作に腰を下ろした。何をするのかと見ていると、彼女は今しがた受け取ったばかりの封筒の封を器用にぺろりと剥がしたのである。
「…おいっ!!」
「やっぱりな」
遺族へ渡すのではなかったのかと、咎めた響きを含んだ石崎の叫びは、
「石崎君も見る?」
「…」
柳川が、その鼻先へ川村の成績表らしき紙を突きつけることで止められてしまった。
これはさすがにいい気分はしない。ムッとしながらも石崎は「親友」の成績表へ目を通して、
「…これが何か問題あるのか?」
呟き、柳川の座っている机の上へ、二本の指で押し返すように置いた。
大学の成績は、「優、良、可、不可」という四段階に通常分類されている。その中で川村の成績は、「確かに酷いけど、問題になるほどのもんじゃないだろう」ほとんど全てが「可」ばかりである。それも不可をくらって追試を受けて、やっとのことでもらえた「可」、といったものだったのだが、石崎の言うとおり、これだけなら特に問題になるほどの成績でもない。
「大学入試の時と、院入試の時の成績も見てみたら?」
柳川が言うので、しぶしぶそれへも目を通した石崎は、思わず眉をしかめていた。
(これでよくウチの大学、通ったな。院も)
T大学は、国立とはいえやはり田舎の大学である。偏差値は良くも無ければ悪くも無い。
いうなれば「そこそこの」程度なのだが、しかしそこに記してある川村の成績は、いずれも酷いものだった。
「ウチの大学も、そこまで酷ないやろ? 大体、おかしいと思てたんや」
石崎の手からそっと成績表を取って茶封筒へ戻しながら、柳川は立ち上がった。
「なんで川村君がそんな成績で入れたんか、そんで、留年もせんと「無事に」院まで現役で行けたんか。ドイツ語の講義かて一緒に受けてたんやから、川村君の大体の学力のレベルは分かるしな。酷いもんやったで? 発音も何もかも滅茶苦茶やった」
「…ああ」
柳川の容赦のない言い方に苦笑しながら、石崎の脳裏にかつて川村が彼へ発した言葉の数々が浮かび上がる。
『石崎、講義の代返頼む』『石崎、ノート貸してくれ』『カンペ作るから協力してくれ』…。
(調子のいい奴だった。女にモテて、レポートだってそんな女に手伝ってもらって…けど、何だか憎めない奴で)
「石崎君? 私、研究室に戻るよ?」
「あ? ああ」
しかし、彼の「パートナー」は、感傷に耽ってはいないらしい。言い捨てて講義室の扉を開き、そのまま廊下を右へ折れて階段へ向かう。
(川村の性格、か)
その後をついて階段を上がりながら、柳川が言ったその意味が何となくわかりかけてきたような気がして、
「川村がああいう性格だから、自殺はしないって思ったのか、お前」
「…それもある」
先に階段を上がる彼女へ話しかけると、一瞬、石崎が思わずどきりとしたほどに、振り返った柳川は悲しい目をした。
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