蒼天の雲(長編版)

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二部 古河 参

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 広大な関東平野に、再び戦乱の火の手が上がったのは、それから六年後の享禄三(一五三〇)年のことである。氏綱は、「もうそろそろ良い頃…」と見たのであろう。

「…お千代殿が、とうとう戦にお出やったそうな」

古河と関宿周辺は、それでも不思議に静かだった。左衛門憲秀が律儀に送ってくる手蹟を、何度も読み返しながら志保は嘆息する。

 古河へ嫁す折の別れ際、彼がつぶらな瞳を見張って涙を一杯にためていたその表情を、志保はどうしても忘れられぬのである。

「元服を済ませてな、新九郎氏康と名乗りやったと」

 千代丸と名乗っていた、あの気弱な弟も十六歳にはなっているはずである。元服、初陣に相応しい年齢ではあるが、

(無事、お勤めを果たせられたのかの…)

 やはり気がかりには違いないのである。そしてもう一方の手紙をはらりと開いて目を通していた志保は、

「こちらのお手蹟にはの、小沢のお城から、扇谷朝興様の軍へ攻め喚いて、見事に手勢を追うたと、お書きじゃ」

 言って、くすりと笑った。

「そちらは、千代丸君様直々の手蹟でござりまするか」

「そうじゃ」

 傍らに控えている侍女へ、ぼつぼつと語りかけながら、志保は肩に擦り寄ってきた梅千代王の頭を撫でた。

「こなた様の叔父御の手蹟じゃ。申してはナンじゃが、まだまだ下手糞であらせられるの」

 クスクス笑いながら手紙を巻き終える。

「…膳部谷戸にて糧食、志水小太郎、中島隼人なんど引きつれ、多摩河川敷にて朝興勢を打ち払いし候…」

 少年らしい伸びやかな筆でしたためられた姉への「報告」には記されてはいないが、初陣を勝利で飾った新九郎殿は、悦びのあまり「勝った、勝った!」と叫びながら金程から細山へ上る坂を駆け上ったそうな。それゆえにこの坂を、のちに「勝坂」としたと史書に記録されている。

 時に、六月十二日のこと。田植えを終えて百姓どもがホッと一息つき、梅雨に差しかかろうという頃合だった。

 これが、後に連戦連勝、戦えば必ず勝つ「相模の虎」が初めて世に知られるようになった、小沢原の戦いである。

「勝った、勝った、を繰り返すは良いのじゃがの」

 志保は二通の手紙を大事に巻き終えて箱へしまい、傍らの侍女へ渡しながら呟くように言った。

「こちらも繰言じゃが、公方家ももうそろそろ、動かれまいてもよさそうなもの…」

「はい、残念にござりまする」

「猶父上様…簗田殿もおっしゃっておざったのじゃがな」

 この戦いの少し前、未だに解決せぬ古河と小弓との「兄弟喧嘩」に、

「なんであれば北条から何かの手を打ちましょうかと、猶父上様へ僭越ながら志保は申し上げた。このままじゃと、下総や南総の民が気の毒じゃと思うてな」

 志保の言葉に、その侍女も深く頷いた。

 呆れたことに、小弓公方側の里見・真理谷氏は未だに家督争いを続けているらしい。戦いそのものは小規模で、やはり小競り合いのようなものであったが、そのたびに家が壊され、畑は荒らされるなど、何がしかの被害を蒙る地下の者たちのことを思うと、志保の胸は痛むのである。上の乱れは、すぐに下に通じるのだ。

 だが、簗田高助もまた、嘆息して言うことには、

「我らもなあ…関東の頂点に立つお家が、この時こそ大喝などでも良いから動かねばと思うておるのじゃ。でないと、このままでは公方の権威はより『ジリ貧』になろうとなあ。じゃが、古河も関宿も、あれ以来静かなものでな」

 志保が嫁してから、妙な静けさが続いているので、高基が動かぬというのである。

「さらには、管領家の一方である山内上杉へご自身のお子を遣わしてあるのじゃからというので、高基様にはすっかりご安心…山内憲房が扇谷とまた手を組んだところで何様じゃとたびたび漏らさるる。なんといってものう、志保殿」

 と、そこで声を落として扇で口元を隠し、志保へ体を傾けて、

「こなたのお家が強すぎるのも反って悪かったのかもしれぬとなあ、最近ではそう思う時がござるのじゃ…いやなに、これは冗談じゃが」

 つまり、志保の実家であるところの北条が、公方の後ろにはついている。公方は古河にあり、北条は海の向こうにあるので、その間の反乱分子など、両家が挟撃すればいつなりと打ち滅ぼせる…と、高基が思い込んでいるというのだ。

 実際、北条は強い。先だっての戦いでは小沢城へ退いたが、それはあくまで甲斐武田氏の力を図りかねたからで、

「決して扇谷など恐れて退いたのではないし、引き際も鮮やかなこと…」

 と、むしろ高基は上機嫌で高助に漏らしたそうな。だからこそ、古河公方が落ち目になりつつあるこの時期に大枚と娘までをも捧げ、忠誠を誓った北条へ高基は好意を寄せ、北条が自分に反抗する豪族を攻めて土地を切り取るのを、

「いずれ我らに返ってくるものであるから…」

 と、不問にしているというのである。

 ひょっとすると、公方の権威が落ち目になったその理由すら、高基には分からなかったかもしれぬし、気づいたたれかが耳に入れたところで理解できなかったに違いない。

 なぜ、古河とその付近で戦が起きぬようになったのか。

 その本当の理由を高基が知れば、驚愕するよりもまず怒ったろう。この頃、すでに公方家に武力を期待する豪族はどこにもいなかった。公方家に期待するものがあるとすれば、それは関東公方家を担げば、その背後にある京足利将軍家の威光をも利用できるというにすぎない。扇谷朝興が小弓公方側についてその正当性を主張しているのも、公方を担いでさえいれば、大義名分がつねに己の側に立つからである。人というのは、やはりいつの時代でも、幾分なりと正当性があると己が納得できる側に付きたがるものなのだ。

 もはや関東公方家は、「ともに戦うに値しない…」とすら、関東の豪族ほぼ全てに思われていたため、戦の局外に置かれていた、ゆえに、小競り合い程度では古河へはたれも仲裁を求めぬし、攻め寄せても来ぬ…ということになる。

「ゆえにな、公方家がもしも出て行ったところで、彼らは耳を貸すまい。志保殿の申す『成り上がり精神』と共に説いてみたのだがの。幾分か新しい物の見方をなさっておわすと思われた高基様も、やはり意識は雲の上のお方。下河辺荘の周りは戦が起きておらぬのだから、良いではないかで済まされてしもう」

(所詮はおなごの戯言…)

 志保が早雲より受け継いだ「成り上がり精神」を、高助は試みに説いてみたというが、何よりも猶父であるところの高助自身が所詮は戯言だと思っているのがありありと分かる。それで高基へ対したところで、説得力などありはしないし、いわんやその継嗣である晴氏をやである。

(空しいですなあ、おじじ様…私の申すところは、やはり私がおなごであるがゆえか、半分も受け入れてはもらえておりませぬ。左衛門の申したことは正しかったのかも知れませぬなあ)

「継母上様! 雨が止みまいた。お拾いに出かけましょう!」

 仏壇へ向かって手を合わせていた志保は、お拾いに誘いに来た幸千代王丸へ微笑みかけながら向き直り、心の中でそっとため息をついていた。梅千代王も、この優しく聡明な異母兄を好いているらしい。

 と、両側から急きたてられて苦笑しながら立ち上がり、志保は今日も下河辺荘一帯を散策しに出かけるのだ。

(ですがおじじ様)

 両側からすがりつく大小の手をそっと握り返しながら、志保は雲の切れ間の眩しい空を仰ぐ。

(志保が古河へ参ったのは、争いを少なくするためにござりまするゆえ、これからもお見守り下さりませ)

「幸千代王様も、もうそろそろ元服なさってもよい頃合にござりまするなあ」

「はい!」

 話しかけると、継子は目を輝かせて頷く。

「戦の無い世に…否、それが出来ずとも、少なくなるように、お父上様を助けてくだされや。お父上様やお祖父様を総領に、他の豪族どもがまとまってそれぞれの領地を治めるようになあ」

 いつものごとく言い聞かせながら、

(嫁して十年、ようよう変えられたのは、公方家のお子たちやわずかな豪族の意識のみ…)

 志保はそれがどれほど難しいかを今更のように思うのである。夫であるはずの晴氏とも、思い出したように夜の交渉は続いているものの、

(前途多難であるの…)

 赤子を死産してより、懐妊の兆しすらない。房事の後にそれとなく、共にお拾いを申し出てみるものの、晴氏は苦い顔をして彼女を一瞥するのみで、たまに彼女の髪へ戯れで指を絡めることがあっても、すぐに閨を去る。

 それでも、曲がりなりにも晴氏が志保の元を訪れるようになったのは、やはり八重の死が彼の心にもわずかではあるが影響を与えたせいなのかも知れぬ。志保にあまり構いつけていないと、八重へ手をつけて結果的に死なせたことを、

「こなたによって、どのように北条に知らせられるか分からぬゆえ」

 抱くのである、と意気高に繰り返しながらも、志保の顔からすぐに視線を逸らせるのだ。

(もしも八重が生きておったなら)

 きっとまたそのことについて、晴氏への怒りを露にしているだろう。だが志保のほうは、八重を死なせたことで彼を今も憎んでいるというわけではない。

(良心の咎めは感じておわす…)

 肌を重ねる間しか、といっていいほどに夫との接触はないが、その短い逢瀬の間に、それだけは感じ取れる。「嫌っている」と憚らず言って来たせいもあって、北条のものへは今更素直に謝罪の言葉を言えぬし、それをどう態度に表せばいいのか分からぬらしい。

 一時は確かに、己の実の姉とも妹とも思う「股肱の臣」をよいように慰んだ挙句、孕ませて死なせたということで彼を恨んだ志保であったが、

(公方家の跡継ぎじゃからと、己が望むところを己から言いだす前に、周りの人間が察して、叶えて呉れたがゆえ)

 それがようやく分かり始めて、志保は晴氏を憎めなくなったのだ。何より、志保が許さねば死んだ八重も悲しもう。

 だが、恨みは無くなったとはいえ、志保にはどうしても「晴氏に思われていないから寂しい」とは思えない。晴氏と肌を重ねることに嫌悪感も覚えぬし、少しずつ距離は近づいていくような気もするにはするが、その割にかつて三浦義意へ感じたような燃えるような想いも夫に対して未だに持てぬ。

(政略結婚のゆえかのう?)

 今日も己の気持ちに首をかしげながら彼女は苦笑し、日課の散策を続けるのだ。



 志保は「おなごゆえに」と、成り上がり精神を受け入れてもらえぬのを嘆いているが、彼女が女であってもなくとも結果は同じであったろう。そもそも、早雲入道の領国経営の仕方が、新しすぎた。

「公方家は、足元にある物事だけに注意がいって、他のことにはあまり頓着なさらぬ」

 高助は、そう結んで嘆いたのだが、それはどうやら小弓公方側でも同じらしい。小沢原の戦いで初陣の新九郎によって散々に打ち負かされ、そのまま小弓城へ逃げ帰った扇谷朝興が、

「里見・真理谷の家督争いをまとめてくだされ。でなければ、我らの戦力は半分に目減りしたままにござる」

 と訴えるのを、

「余を裏切って、北条へ救いを求めておるような奴ばらを、何ゆえこちらから言い出して、拾い上げてやらねばならぬ。それにのう」

 古河高基の弟である小弓義明は馬鹿にしたようにじろりと見やって、

「己の実力不足を、兵力の少なさのせいにするではないわ」

 鼻の先で笑われて、朝興はすごすごと引き下がるしかなかったのだが、内心、小弓公方へどのような感情を抱いたか、想像するに如くはない。

 それでも、公方の血を引く義明を担いでおかねば、やはり「関東管領」など名乗れたものではない。関東管領は、関東公方を上に頂いてこその「管領」なのだ。

 古河公方へ弓引いて、新たに小弓公方を担いだのは扇谷朝興自身である。今更のめのめと古河へ帰参を言い立てられるわけもなく、かといって扇谷朝興にも、他豪族の家督争いに介入できるだけの徳はなし…否、徳がないということを、彼自身は気づいていなかったかもしれないが…ともかく扇谷朝興は、生きている間、北条と事を構えれば必ず敗けた。

 味方に引き入れたはずの山内憲房も、朝興が川越を訪れた翌年、大永五年に五十九歳で亡くなっている。享禄四年にまだまだ幼い彼の実子が数え年九歳ほどで山内上杉の過信によって憲政を名乗らされたため、古河高基の次男で山内上杉を継いでいた憲寛は古河へ追い戻されたそうな。

 それによって、当然ながら古河高基は激怒した。そしてそれは、彼の北条びいきに拍車をかける結果になって、

「北条殿に、小弓公方の始末を全て任せる…」

 というところまで、話は享禄四年中にあれよあれよと一気に進展した。

 ともすれば、大らかさと呑気さが顔を出す高基の、これは意外に早い決断である。

「真理谷信隆、里見義尭へ助太刀するというならそれもよし。古河公方もまた、全力で北条を支援するであろう」

 そういった「信書」が、北条の元へ正式に届いたのが、年号が変わって天文二(一五三三)年。この頃には幸千代王を名乗っていた晴氏の嫡子も元服し、京足利十三代将軍義藤の一字をもらって藤氏と名乗っている。

 そして高基が、彼にしては思い切った判断をした、そのことが祟ったのか床に臥しがちになったのもその頃からである。

 ひょっとしたら、決断した後で彼は酷く後悔したのかもしれない。今まで直接的な手を打てなかったのも、何と言っても相手が実の弟だという気持ちが、止めを刺すというところまで決断させなかったからだとも言える。ともかく、こうして古河高基が公方として北条を支持すると明言してから、関東平野は再び一気に緊張した。

 僭称公方、小弓義明「討伐」の先手を命ぜられ、その準備が整ったからと、高基の見舞いを兼ねた挨拶の使者が北条から来たのが、それから二年後のこと。

「おお、これは、もしやお千代殿ではないかや」

 堅苦しい挨拶の儀式が終わったからと、これもいつものこととて北条館へ案内されてやってきた北条の者達の先頭に進み出て、彼女に頭を下げた青年を見た時、志保は歓声を上げていた。

「お懐かしや…ご立派になられまいたの」

「はい、姉上。お久しぶりにござりまする。姉上は少しもお変わりのう、お美しくあらせられる」

「これは…世辞も上手うなられたもの。あの、何かと申せばベソをかいておられたお千代殿がなあ」

「いや、世辞などではござりませぬし、いつまでもベソをかいてはおれませぬ」

 姉の言葉に、「お千代殿」新九郎は頭を掻く。

「お聞き及びでござりましょうが、今は新九郎氏康と名乗うておりまする」

「おお、左様にござりました。お千代殿ではなかったのう。新九郎殿じゃ…おじじ様や父上と同じ名をお継ぎやったか」

「はい。長氏、氏綱と続く我がお家の名を辱めぬよう…そう思うて」

「北条氏、長く綱がり康かれ、と、引っ掛けられまいたかの」

「ははは、それはなあ…よい! 左様、そう思われてもようござる」

 志保の冗談に、新九郎だけではなく、その場にいた者達が声を上げて笑った。

「こたびは、父氏綱の名代として、これ、こちらの為昌も伴うて参りました。覚えておいででござりましょうや? 姉上が、こちらへ嫁される朝、継母上のお膝へ抱かれていた、これがあの折の赤子…貴女様の異母弟にて、今や氏時叔父の後を継ぎ、玉縄の城主になりまいてござる」

「おお、おお、あの赤子がのう…これはお父上そっくりでいらせられる」

 志保が目を細めながら言うと、氏康は、異母弟の、まだ少年である為昌と顔を見合わせて照れくさそうに笑った。もはや姉との別れで涙した、あの気の弱い少年の面影はほとんどない。

「どれ…ご両人、もそっと近う。もっとよく、お顔を見せてたも」

 言われて、新九郎氏康は「人払いを」と命じ、心得て近侍の者が出て行くと、異母弟とともに姉へ膝でにじり寄った。

「…おじじ様にも、よう似ておいやる…」

(肉親とは、まこと暖かく良いものじゃの…何年隔てられようとも、昨日出会ったばかりのように話が続けられる)

 両者の頬をそれぞれ白い手のひらで包んで、志保は思わず落涙した。

「姉上様」

「おお、いや、これはしたり。見苦しいところをお目にかけまいた。あまりにも懐かしゅうて」

 慌てて志保は右の袖でそれを拭う。それを見ながら、

「…父上は、いつも遠くへ嫁がれた姉上の事を案じておられまする」

 氏康が、ぽつりと言った。

「姉上だけに、力押しだけでは到底勝てぬ難しい戦を押し付けた、済まぬことをした…亡くなりまいた左衛門頼秀が我等にも申したのと同じことを、折に触れて繰り返し何度も申されて…じゃが、姉上はきちんと、姉上の戦を少しずつ勝利に導いておいでじゃ」

「…なんと、こなた様の目にはそう映る…それはまことにござりましょうや?」

「まことにござりまする。我らがこちらへ参りますと、古河次期公方の奥方が弟御よと、我らが領地の民が我らに向けるのと同じ目で、下河辺の民は我らを見まいた。姉上が嫁されてから下河辺からは戦がのうなった、古河晴氏様の代には、きっともっと下河辺は良うなろうと…民は晴氏様に大いに期待を抱いておりまする。そのことを挨拶の中で手前が申し上げますると、晴氏様も苦虫を噛み潰した表情ながら、実は満更でも無いご様子…これは、何におきまいても姉上のお手柄かと」

「…」

「あ、姉上? あ、あ、これは」

「済まぬの…目に見えぬ戦であっただけに」

 弟の言葉に、志保ははらはらと涙を零した。姉を泣かせてしまったと焦る新九郎と為昌へ、涙を拭いて再び笑いかけながら、

「嬉しゅうて泣いておるのじゃ。心配めさるな」

(我が成り上がり精神、少しは通ったかもしれぬ)

 しかし、そう思うとなおさら嬉し涙があふれ出る。

 そして、北条の者が「やはり頼りになる…」と見て、安心したのであろうか。新九郎氏康が姉の無事を確かめて、安堵しながら父氏綱の待つ小田原へ帰ったその直後、古河高基の容態は急変したのだ。



「お舅様、お召しにより、お側に」

「おお、志保殿か」

 志保がその枕元に呼ばれたのは、高基が亡くなる一日前である。

(太り肉でおわしたものを…)

 この時にはもう、高基は痩せ細り、蜻蛉のような呼吸を繰り返すのみとなっていた。志保を祖父のもとへ連れてきた藤氏に手を取られ、彼の枕の左へ座ると、真向かいには晴氏がムッツリと口を結んだまま、黙って胡坐をかいている。

「梅千代王も、おるかの」

「はい、こちらに控えておざりまする。梅千代様、ささ、おじじ様のお手を取って差し上げなされませ」

 志保が促すと、少年に成長した梅千代王は、素直に高基の布団へ手を差し入れ、祖父の細くなった手を握った。

「志保殿」

「はい」

「月日が経つのは、まこと早いものよのう…梅千代も、もう元服する年になるか」

 孫の一人に手を取られながら、高基はしみじみと息を吐く。人払いを命じてから、「家族」だけになると、疲れた目を天井へ向けたまま、

「…お許しあれ、志保殿」

「はい? あの、なんと仰せられました?」

 しばらくして彼が発した言葉に、志保だけでなく晴氏と二人の孫も驚いた。

「お許しあれ、と申した」

 すると高基はほろ苦い微笑を浮かべ、己の息子と嫁を当分に見やってから、

「こなたは、我が倅には出来すぎた嫁じゃ。おなごにしておくのがつくづく惜しい」

「あの、それは…」

「余も、こうなってみるまで気づかなんだ。こなたが、奥だけでもと行っていた北条の『成り上がり精神』の遂行…倹約の心は、いつの間にか華美に流れていた表の、余が家臣どもの面目も改めたわ。武士とは本来質素倹約を旨とするもの、腰に差すものは民を守るためのものであるとなあ」

「…」

「何よりも民から、『北条の御方様がいる公方家』にお仕えしておるのじゃからと、進んで頭を下げられては、幾分なりと恥を知るものであれば姿勢を正さざるを得まいて。それはのう」

 そこで、高基は初めて志保に出会ったときと同じ顔でニヤリと笑い、晴氏を見る。

「この晴氏も同じ…口では北条を認めまいと頑張っておるようじゃが、親の余の目は誤魔化せぬ。…公方家と下河辺は、こなたが嫁入ってからガラリと変わった。父を追った我が身が、今度はいつ晴氏に追われるかと怯えることもなく…こやつめはのう、余が倒れてからはそれとのう、余が好物を枕元へ届けてくれたりもしておったのじゃ。それもわざわざ、近侍の者には己が届けたと言うなと申して…近侍の者はその命令を守っておったつもりであるようじゃが、たれが呉れやったのか、分からぬとでも思うたのかのう」

「まあ…」

(そういえば、梅千代殿が三つほどの頃であったかの)

 そこで志保もまた思い出したのだ。

 詳しい季節は覚えていないが、梅千代王丸が幼い頃、熱を出して乳母と交代で眠りについていた折、

(いかぬ、眠ってしもうた)

 夜半でも志保か乳母がついていないとぐずるため、彼の布団の傍らに横になり、小さな体をそっと叩いて安心させていたのだが、疲れてつい、そのまま眠ってしまったらしい。

 慌てて起き上がろうとして、志保はふと、着せ掛けられた丈の長い小袖に気づいた。

(誰がかけてくれやったのか…)

 しかもそれは、どうやら今しがたらしい。部屋の中には、滅多に間近では嗅がぬが、その当時の夫が好んで使っていた香の匂いが漂っていた…。

(あれは、やはり晴氏様が…)

 志保が微笑って夫を見ると、いい年をしていながら、晴氏は首筋まで真っ赤にしてそっぽを向く。

「…肉親で争うのは、弟を殺した兄頼朝殿…初代源家の血を引く故じゃと、我等はさんざ、痛罵されてきた。だが、いよいよという時になって、我が倅も、孫も争うことなく余のもとに集うてくれた。志保殿、こなたのおかげじゃ。感謝しておる」

「いえ、私はそのような…勿体無い」

「繰言ではあるが、もしももっと早うに志保殿の申すことに、真摯に耳を傾けておったらと…民と共に生きる事を…民と肩を組み、酒をたしなむことも出来たかも知れぬの。義明とも、このように喧嘩することなど無かったかもしれぬ。国同士まで巻き込むような大げさな喧嘩…まさにこれは兄弟喧嘩であったからのう。よって、余は決断した。これ以上、我等の身勝手な兄弟喧嘩で、民を苦しめてはならぬ。それには志保殿、こなたのお家に頼むのが一番じゃと」

「お舅様」

「そう思うて決断したら、一気に力が抜けたわ。高助の申すとおりに、最初から北条に全て任せておれば、これほどまでに犠牲を出すことも無かったであろうなあ…関東公方足利高基、一世一代の決断じゃ。公方など、わが身には到底負いきれる荷物ではなかったとようよう悟ったわ。その負えぬ荷をこなたのお家と簗田へ任せて軽うして、まさに肩の荷を下ろしたような気分じゃ、ははは」

 傍目には、与えられた地位を大らかに楽しんでいたように見えた古河高基であるが、実際に軍を動かしているのは関東管領であり、兵士たちは公方直々の命令を聞こうともしない。ただ祭り上げられているだけで、実は何の力もない己自身を、密かに嘲笑っていたのかも知れぬ。

「肉親がこのように集うておれば、関東管領家も二つに分かれて争うことも無かった…晴氏」

「はい。ここに」

 高基は、骨ばかりになった左手で息子のそれを取り、梅千代王の手を離した右手で改めて志保の手を取り、それらを己の手の下で組み合わさせた。

「志保殿を大事にのう…藤氏も、梅千代王も、父や母の言うことをよう聞いて、良い子での。内をがっちり固めてあれば、外の嵐にも強い道理じゃ」

「ご教示、我等しかと承っておりまする」

 父の顔を見つめながら、しっかりと頷く晴氏を眺めて、

(まこと、このお方も変わられた。否、もともと、このようにお優しい方であったのじゃ)

 志保は思った。何となくそう思えるようになったのは八重の死以後であるが、やはり彼女の死が晴氏の素直さを引き出したのだと、志保は今この時、ようよう確信したのである。

「これで…のう、これで安心じゃ。余もご先祖に顔向けできる」

 そしてかすかに笑って、高基は満足そうに目を閉じた。

 こうして、公方家の名誉と権威を回復させたいと願いながら、ついに果たせぬまま、古河三代高基も帰らぬ人となったのである。享年五十歳。

 時に天文四(一五三五)年十一月五日のことである。締め切っているはずの襖の隙間から、冷たい風が忍び入るのが感じられて、早、古河には冬の気配が濃く漂いはじめていた。


 
 古河高基が死んで、その後を晴氏が継いだ。代替わりでいよいよ緊張は高まるかに見えた関東だが、小弓公方側には動きが見られなかった。というのも、一応は主戦力であった扇谷上杉当主、朝興もまた、病に憑かれて褥に臥していたからである。

 この時点で、扇谷上杉のものであった岩付城、江戸城も北条側に落ちていて、太田資高などは氏綱の一女をもらいうけて娘婿にさえなっている。頼りになるはずのもう一方の管領家、山内上杉の跡継ぎであった憲政も、上野平井城に収まってはいるが、政治上の事を相談できるほどには成長していない。加えて、

「自分は氏綱に一勝も出来なかった…」

 ということが、彼の精神に負担をかけたのかもしれない。

 北条側も北条側で、朝興が倒れたこの時こそ、と思った者も多かったには違いないが、動けぬ理由があったのである。姻戚関係にあったはずの隣国駿河領主を、早雲の甥で今川中興の名君と言われた氏親の次男である義元が継いでから、同盟関係にあった両家間の事情が怪しくなってきた。

 今川義元は、言うまでもなく、後に織田信長によって桶狭間で首を取られることになる人物である。彼は、先だって氏綱が関東へ攻め入った折、扇谷朝興の懇請によって氏綱に敵対した、甲斐武田信虎の娘を嫁に迎えた。このことが、

「早雲入道の血をわけていながら…」

 と、北条家の者の神経を逆なですることになり(氏親は早雲の妹の子)、氏綱自ら、駿河河東郡吉原へ出兵していたのである。

 これが天文六年二月二十六日のこと。いわゆる「河東の乱」で、この時氏綱は、文字通り今川領であった富士川以東の河東郡を手中にし、意気揚々と小田原へ引き上げている。この時もまた、「敵の中に味方を作る…」作戦を実行し、北条側に寝返った豪族の一つ、堀越氏(堀越公方とは別)の室に、己の娘の一人である崎姫を入れた。結果的に、この乱は氏綱が亡くなる天文十年の後、天文十四年まで続くのだが…。

 この報せを病床で受け取って、扇谷朝興は少なからぬ打撃を受けた。己にあまり力の無い事を認めたくは無いが、認めざるを得ぬがゆえに、北条が己以外の敵と戦ってその戦力を大幅に消耗させることを期待するという、傍から見てもなんとも武士からぬ儚い希望にすがっていた彼は、その二ヵ月後の四月二十七日、死に臨んで息子であり、まだ十二歳でしかなかった朝定を居城である川越城の枕辺に呼び、

「父に代わって北条を倒せ」

 と、苦しい息の下から繰り返し言って聞かせたそうな。これも享年五十歳であった。

 それを古河公方側の間者よりいち早く伝えられて、

「今こそ…」

 北条家の者が奮い立ったのは言うまでも無い。扇谷、山内両上杉の当主は双方若年、「これにつけこまぬ手は無い…」と、今川義元と戦ったその半年も経たぬ天文六年七月、氏綱はまさにその川越城を落としてしまったのだからすさまじい。息子の朝定は家臣に守られながら松山城へ敗走、以後、その城を居城とすることになる。

 こうした一連の動きには全て古河公方からの「勅許」を得ており、

「古河公方に対するものを討つ」

 と言い言いしながら、氏綱は戦に赴いたという。

 ともかくもこの川越城が、これより北条家の関東切り取りの際の拠点となった。これによって、古河公方との連絡も取りやすくなったのだが、

「山内、扇谷双方の当主は若年ゆえ、北条のものもここいらで許してやってはくれぬかのう」

 驚くことに、古河晴氏から和睦が言い出されたのもその年内なのである。

「貴方の叔父御(古河公方から山内上杉に養子に入った高基次男、憲寛)を追い出した家ですぞ」

 その言葉に驚いたのは、むしろ穏健派であった簗田高助であった。だが、藤氏と梅千代王が共に中庭で剣術の稽古をしているのを志保と共にその縁で眺め、目を細めていた晴氏は、

「両上杉は、長らく関東管領として我が家を助けてくれていた。双方、誤解はあったが、ここで余がさらりと恨みを流して両家を受け入れたなら、きっとまた助けてくれよう」

 と、首を振って言うのである。

「北条の者には、余の声に合わせて奥(志保)が言い添えれば、きっと聞き入れてくれよう。それだけの耳を北条は持っておる」

「はあ、それは…左様にござりましょうが」

 これが今までの「若殿」であろうかと、しばらく目を丸くしていた高助は、

「いえ、はい、では早速に、両者をお館へ呼びまいて、和睦の儀を」

 晴氏が頷くと、これも心底納得した、嬉しげな表情で廊下を渡っていく。

 こうして、いつの頃からか「宿敵」となってしまった北条と、両上杉の和睦の儀式が、古河晴氏の仲立ちで形ばかりに行われたのが四ヵ月後の十一月。この時に、

「晴氏様ですら、一度は公方家に背いたご両家をお許しあった。それゆえ、北条家もそのお心に背きがたく、応じたわけでござるが」

 古河城で共に饗応の膳に預かりながら、ぎらりと目を光らせて第一声を放ったのは、北条新九郎氏康である。

「扇谷朝定殿、いまだ若年につき、川越城は我等がお預かり仕る。いずれご立派に成長なされた暁には、喜んで返上申し上げよう」

 一気にその場の空気が険悪になり、両上杉の主だった家臣が思わず立ち上がった。

「…まあ静まられよ」

 それらへ、上座にいた晴氏が声をかける。しぶしぶ座った上杉家の重臣たちへ、

「我が室に入っておる北条が姫の弟御が申すことゆえ、嘘は無かろう。ここはこの晴氏に免じ、両者連携して公方家を助けてくれぬかの」

 仮にも関東公方にそう言われては、両上杉も引き下がらざるを得ぬ。こうして翌年の天文七年には、晴氏の要請により、奇しくも長年の宿敵同士が協力して小弓公方討伐に向かうことになるのだが…。

「姉上」

「おお、これは新九郎殿」

 その氏康が、強張った顔で北条館を訪ねてきたのは夜中に近い時刻だった。案内してきた侍女が襖を閉めるのを待って、

「もうお休みあったかと思うておりましたが、なんぞ御用かや」

「姉上こそ…いや、お休みであればこのまま失礼させて頂こうと考えておったのじゃが」

 姉も、今日の首尾が気になってかどうかは分からぬが、眠れなかったらしい…そう思いながら氏康は文机に向かう彼女の白い手を見る。

「本日のこと、晴氏様からお聞き及びかもしれませぬが、この氏康」

「…はい。聞きましょう」

 志保も、父氏綱への手紙へ走らせていた手を止め、襟を正して弟に向き直った。

「こたびの和睦に、心から服したわけではござらぬこと、姉上だけには口上で伝えておこうと。扇谷朝定殿が『ご立派に』成長なされぬ時は、そのまま北条が預かる…一度目は許したが、二度目はない」

「そのようなこと」

 百も承知である、と、苦笑しながら白い片手を顔の前で振った姉を遮って、氏康は続ける。

「いや、姉上にはお分かりであろうが、念のため…そして氏康が何ゆえ服せぬか、そのわけをお聞きあれ」

「ただの『叛骨』ではない、他に理由があるのじゃ、と、そう仰せかや」

「御意ッ!」

 志保が思わず頬を引き締めたほどに、弟の言葉は押し殺してはいるが鋭かった。

「姉上、我等が何も知らぬとお思いか。この氏康、そのことで姉上がどれほど辛い思いをなされて参ったのかと、そう思うだに胸が潰れる」

「…はて何のことやら」

「父上には告げてはおりませぬ。どうか姉上、この弟だけにはトボけず真実を…梅千代王と名づけられし晴氏様のご次男、我等の甥ながら甥ではない…違いませぬか」

「…」

「姉上ご出産と同じくして八重が亡くなっておる…八重は、我等にとっても姉同然。その姉が突然、何故死んだ。先だっては我等が若年じゃからと口を硬くつぐんで『血の道の病におざる』としか答えなかった北条の小者、怪しいと思うて刀にかけて問い詰めまいたら一切を白状しまいた。姉上!」

 いつしか志保の両手は、わが身を抱き締めながら真っ白になっている。それへにじり寄って、新九郎氏康は姉の肩を両手で強く掴み、揺さぶった。

「氏康と共に、小田原へお戻りくだされ。貴女様の血を継ぐものはここにはおらぬし、公方の奥方という地位に恋々としがみつくようなお方ではないこと、氏康は重々承知しておる。何よりも、貴女と八重をこのような目に会わせた張本人が、のうのうと関東の公方という地位にあるなどと…そのようなことが許されてなるものか。少なくとも、天国におざるおじじ様なら決して許されはしますまい。目の前の一人を幸せに出来ぬものが、万人を幸せにせねばならぬ地位にあって、それを果たせるわけがない」

「…新九郎殿」

「はい」

「私はなあ、そのおじじ様と約束しましたのじゃ。公方様を頭に頂いて、争いの少ない坂東平野にしてみせると。その約束は未だ半分も果たせておらぬが、ようよう見通しがついてきたところじゃ。こなた様は、お小さい折の姉との約束を見事果たされたが、この姉は未だ…約束は、守らねばならぬ。のう?」

 志保は、そこで手を指きりの形に小指を立てて弟の目の前で軽く振りながら、やっと微笑った。

「しかし、姉上」

「晴氏様もな、八重のこと、今は深く悔いておざる。そもそもはこの上なくお優しいお方…それを他へどう表せばよいのか分からず、意地を張っておられただけのこと。なあ、新九郎殿」

「…はい」

「人は何度でも変わることが出来るのじゃ。今の晴氏様をご覧になれば、おじじ様なら、きっとお許しくださろう…私のことなら心配なさらずとも良い。それよりもこなたは、今川から迎えたはとこ(氏親の娘、義元の妹。この時氏康の室に入っていた)殿を悲しませぬよう、お大事にさっしゃれ」

「…分からぬ」

 すると、氏康はすっくと立ち上がり、襖へ手をかけながら姉を振り返った。

「我等にはやはり分かりませぬ。我が姉に…北条の誇る一の姫へ晴氏様がした仕打ち、我が胸だけに収めてはおきまするが、晴氏様に我等が心服致すこと、もはやござらぬ。失敬」

「お千代殿っ」

 姉の叫びにもはや答えは無く、襖はぴしゃりと閉まる。追いかけることはせず、志保は吐息を一つついてから、再び文机へ向かった。

(無理もない…お若いゆえ)

 己を今でも慕ってくれているその気持ちはありがたいのだが、あの事件を経て晴氏と彼女がようやく夫婦らしくなったということと、わずかながら積み上げてきた目に見えぬものがあるということを、そのまま若い氏康にも理解しろと言うのは無理な話かもしれぬ。

(まあ、ようよう…時が経てば新九郎殿にもお分かり頂けよう)

 志保が苦笑しながら書き上げた父への手紙を、小田原へ引き上げていく北条のものへ託した天文六年もじきに明け、晴氏からの勅命を受けた北条軍は、いよいよ小弓公方討伐へ向かった。下総(千葉県)の国府台城一帯で繰り広げられたこの戦を、第一次国府台合戦と呼ぶ。

 この戦は、北条の「成り上がり精神」に基づく意見が容れられて、農閑期に差し掛かった天文七年十月七日、北条軍が無事に海を渡ったと同時に火蓋が切って落とされた。

「さて、我等も備えねば」

 その報せを上機嫌で受け取ったちょうどその頃、古河晴氏は、嫡子藤氏と共に、かねて用意させていた鎧を身につけていた。
「公方御自ら出られずとも」という意見もあるにはあったが、

「余は公家ではのうて、武士の棟梁の連枝ゆえ」

 それを聞いて、彼は言って笑ったそうな。

 今こそ父の遺言通り、小弓公方を北条と挟撃して滅する、と、主が張り切っているため、それは下々に至るまで伝播して、

「おお、奥、参ったか、ささ、これへ、これへ。この傍らへちょと立ってみよ」

「あの、これは一体?」

 秋の半ばだというのに熱気渦巻く城内を、表へ呼び出された志保は、晴氏の隣にある新しい鎧を見て目を丸くした。

 藤氏も、すでに己の鎧を着こんでいる。継母と父を当分に見やりながら、その顔にはいたずらっぽい表情が浮かんでは消え、浮かんでは消えしており、

「もしや、梅千代様のものではありませぬなあ?」

 もう一人の子のものにしては、中途半端に大きいし、赤く塗られてあるので少しく派手である。志保が首をかしげると、

「申したであろう。梅千代王は我が城の守備に付かせる」

 晴氏は耐え得ぬもののようにニヤニヤと笑った。

「これはの、こなたのために誂えた」

「あの、私の? そ、それはまた」

「そのように、豆鉄砲を食ろうたような目を致すな」

 妻の慌てふためく様子に、ついに晴氏は吹き出した。

「二十年ほど前のこなたの活躍、つぶさに聞き知っておる。ありゃ、済まぬ済まぬ。もう笑わぬゆえ」

 彼女の顔が、余程おかしかったらしい。藤氏と共にひとしきり笑って、志保が気を悪くしたように頬を少し膨らませると、やっと夫は笑いを納め、

「こたびもまた、家々を焼け出されたり、傷ついたりした民の救護の任に当たって欲しい。これは公方より、一人の武将としてのこなたへの命令じゃ。…よもや、老いたゆえ出来ぬとは申すまいな?」

「はい…はい! 誓って承りまする」

「…戦の合間にのう」

 志保が平伏すると、晴氏は彼女が今までに見たことの無いような、優しい目をして彼女を見つめた。

「こなたの父御に会わっしゃるがよい…妻をその父御に、嫁入ってから一度も会わせもせなんだ甲斐性のない夫御よと、そう申されるのも癪ゆえ。報告の任務も兼ねて与える」

「…晴氏様」

「さて、我等もいよいよ出陣じゃ! 関東の長たる公方家が、北条に遅れを取っては後々の名折れ!」

 妻の感謝の眼差しに、晴氏はまた照れ隠しのように叫んで、廊下へ出て行く。その後を藤氏や千葉氏、簗田高助などの郎党らが続いてゆき、やがて城外からは天を突くような喚きが聞こえてくる。

 さて、こうした北条、古河公方側の動きに対して、小弓側はどうであったろうか。

 海に面した小弓城で、これらの大軍にあたるのは得策ではない…との真理谷信応の言葉を容れて、合戦の始まる一日前、小弓義明は里見義尭と共に国府台城へ入っていた。

 この里見義尭、一時は北条の支援を受けていた。家督争いをしていた従兄の義豊を天文二年に殺害し、この時点では里見家を継いでいる。だが、これも反覆極まりない関東の情勢が、彼をしてすぐに北条を裏切らせた。そして今は、小弓公方の元にいるというわけだ。

 真理谷信応も、出自の低い母から生まれた庶兄、信隆が家督を継いだことに不満を持っている。それゆえに、小弓側に味方したのだが、

(北条側の兵力は二万、我等が一万…戦は兵の数ではないと言われるが、ちと厳しいの)

 城の一室で開かれた軍議の間、

「北条がこちらへ参るには、江戸川を渡らざるを得ませぬ。ゆえに、彼奴らめが川を渡りきらぬうちに、攻撃を仕掛けるのがよいかと」

 隣で得意げに話している里見義尭をちらりと見やって彼は思った。

 義尭の提案は、至極最もである。だが、

「北条など、何するものぞ。足利一門へ本気で弓を引ける輩などいまい。それへは余が自ら当たる。公方ともあろうものは、こせこせと致さぬもの。彼奴らめが川を渡りきって後、堂々と相手をしてやればよいのじゃ。足利の武勇をもってすれば、北条などひとひしぎであろう」

 やはりそこは公方の血筋で、世間と言うものを知らない。加えて、小弓義明は言い出すと聞かない性質を持っている。思わず二人は顔を見合わせて苦笑した。

「承知。公方様御自ら敵に当たられることは、兵どもの士気を高めることにもなりましょうて」

 真理谷信応が苦笑の吐息と共に言うと、その後を続けて、

「ではその間に手前、北条に裏をかかれぬように間道を確保致す」

 里見義尭もいささか情熱を失ったように言い添える。

(…はて、もしやこやつ)

 真理谷信応が、ひょっとすると里見義尭は裏切るかも知れぬと思ったのはこの時である。だが、その後すぐに戦準備へかかるようにと義明が言ったので、そのまま過ごしてしまったのだ。

 何せい、里見義尭はすでに家督を継ぐという目的を果たしてしまっている。そうなると人間、たれしも負けると分かっている方にはつきたくなくなるというものだ。

 こうして、結束を固めている北条側と、いささか足元がぐらついている小弓側が争い始めたのだから、結果は推して知るべしである。

 優位に持ち込める作戦をわざわざ放棄して、北条軍が川を渡りきってから、国府台城の北、相模台で「堂々と」これを迎え討った小弓義明は、最初のうちこそ優勢であったものの、結局数の上で勝る北条軍に押され始めた。

 そして、「挟撃に備える」として市川側へ引っ込み、戦線を遠巻きにしていた里見義尭は、

(やはり勝てぬ)

と見て、北条側へ寝返ってしまったのだ。

「裏切り者めっ!」

 劣勢と見た真理谷信応に担ぎ込まれるようにして国府台城へ引き上げたものの、それから入ってくる報せと言えば息子や味方であった者どもの戦死の報せばかりで、いい加減に味方の不甲斐なさへ精神が切れそうになっていた小弓義明は、里見義尭の寝返りを聞いて逆上してしまった。

 味方の制止を振り切り、もはや城門まで迫っている北条勢に向かって、自ら兵の先頭に立ったのは良いが、混戦のさなかで北条側の名も無い兵士が放った流れ矢に当たって、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。

 この中で、志保は焼けくすぶっている家の消火活動や、焼け出されて行くところを失った民、孤児の救護に汗を流していた。

 公方家の現在の奥方が北条から嫁いだ姫であり、それが「気さくなお方」「お優しいお方」であるとの評判は、下河辺だけではなくてこの国府台周辺にも広がっている。それが、噂どおり分け隔てなく救護に当たっているのだから、

「さすがは」

 と、無学な民にも思われるのも当然だった。だが、それが「公方の奥方」としてではなく、

「北条から参られたお方ゆえに」

 そのような活動が出来るのだ、と、彼らに取られてしまった。

「古河公方が救護を命令なさったと言うが」

 …雲の上にいて、今まで民の暮らしを一顧だにしなかった公方家が、思いつくことではない。これは、「北条殿」で育ったお方ならではのことだ、と、むしろもともと評判の良かった北条側の人気を、さらに高める結果になったのは何とも皮肉なことだ。

 無論、当の志保や晴氏はそのことに気づかない。

 そうして、志保がてきぱきと救護の指示を出している最中に、氏綱が訪ねてきたのは、小弓義明があっけない最後をとげ、真理谷信応がその居城である真理谷城へ逃げた後のこと。

「…どこのおなごかと思えば、やはりこなたじゃ」

 うっふ、などと苦笑しながら、陣幕をさらりと払っていきなり登場した氏綱は、

「母になったと申すから、落ち着いて城を守ってござるかと思えば」

「お父上様!」

「周りのお歴々、わが娘をお守りくださり、ありがとうござりまする」

 髪の毛に白いものが増えた。目の周りにも皺が目立つ。父は久しぶりに娘の側へ立ちながら、公方家の郎党に向かって深々と頭を下げた。

「倅の氏康は、ただ今真理谷信応を追撃中にて失礼致す。お歴々も、さぞやこれに振り回されたことと存ずる。申し訳ない」

「まあ、お父上様」

 途端に、どっと周囲から笑い声が沸いた。そこへ、

「晴氏様、藤氏様、お出ましにござる。北条殿がこちらへお運びと聞かれまいて、直々にご挨拶をと」

「おお、それはもったいないこと」

 注進の者へにこやかに返しながら、しかし氏綱は、これがもう十年ほど前であったら、公方側がこのように丁寧に応じたろうかと改めてわが娘を顧みた。

「これは、御舅殿でいらせらるるか。婿とは言いながら、お初にお目にかかる無礼を許されよ。余が古河四代、晴氏にござる」

「北条氏綱にござりまする。こちらこそ、公方を我が婿と呼べまするのは、何にも勝る光栄にござりまする」

 藤氏を伴って姿を現した娘婿を一瞥して、

(当初の報告とはまるきり変わったものよ)

 志保には言わなかったが、嫁入り前、かなり尊大な質であると聞いていた晴氏が、何とも慇懃に舅である己へ挨拶するのを見て、氏綱は改めて驚いた。

「我が要請に応じて此度のご出兵、まことに嬉しく思う。して、首尾は如何」

「はい、小弓義明は我が兵の矢にかかりまいて死亡。真理谷城へ逃走した信応をば、我が倅の氏康が追うておりまする。聞けば小さな城…口幅ったいことながら、氏康にはちと物足りぬほどかと」

「それは重畳」

 鷹揚に頷いて、晴氏は氏綱の隣にいる志保を見、にこりと笑った。

「舅殿の御娘が、こうして民の面倒を見てくれておるので、我等は安心して戦へ集中できるというもの。感状の第一はお舅殿と我が奥じゃなあと思うておる」

 こう話す晴氏の表情には、一辺の曇りも無い。周りの君臣と声を合わせて笑い合うわが娘をも同時に見ながら、

(これならば、安心…)

 氏綱は、胸をなでおろしていた。

 救護活動には終わりは無い。志保と指揮を替わろうと言い、晴氏は郎党らに続けて救護の任に当たるよう号令してから、自らも陣幕を出て行った。さりげなく親子二人にしてくれた夫の心遣いに感謝しながら、

「父上様。どこぞ、お悪いのではござりませぬか?」

 志保が尋ねると、氏綱は、

「久々に会えたというのに、不吉な事を申すな」

「はい、申し訳ござりませぬ。ですが…」

「この戦いが終わったらの、我等は氏康に家督を譲ろうと思うておる」

「まあ…まだまだお若いものを」

「いや、我等ももはや五十の坂を越えた。若くないとは言えぬ。我が父のようにはいかぬものよ、はっはっは」

「おじじ様は、頑健に過ぎられましたもの」

 そこで、親子は声を合わせて笑った。その声に合わせる様に、陣幕の裾がはためいて風が吹きすぎてゆく。

「もしも、こなたに再び会えたなら、言っておかねばならぬことがあった」

「はい、承りまする」

 志保が真面目な顔をして父へ向き直ると、氏綱もまた、すっと真面目な顔をして、

「こなたが古河へ貸して二十年近く…長い間済まなかった、ようやってくれた。父は、こなたに感謝しておる…今宵、会えて、こう言えて、まことに良かった」

「お父上様」

「ははは、我等らしくないのう。二度は申さぬぞ。ほれ、こなたの夫御がお呼びじゃ」

「は、はい」

 聞くと、確かに晴氏が彼女を呼んでいる声がする。その方へ駆けていきながら、

「父上様は、如何なされまする」

 志保が振り返ると、

「今少し、ここで星を眺めておるゆえ、構うな。こちらは、伊豆と違って空が澄んでおるのう。しばらくしたら、勝手に北条の陣へ戻る。それゆえ、父のことは気になさるな」

「はい、それではこれにて失礼いたしまする」

 後ろ髪を惹かれるような思いで、志保は陣幕を出た。どこか寂しげに笑った父の姿が、とても小さく見えた。



こうして、志保が関わった「第一次」国府台合戦は、真理谷信応がついに城を出て、里見義尭の元へとりなしを求めて駆け込んだため、北条、古河側の圧勝となった。

 一兵も動かさなかった里見義尭は、そのまま空白となった小弓側の領土をそっくり己の領土へ書き換えてそれらの主に納まり、真理谷家は信応の庶兄である信隆が継ぎ、そして北条は、簗田高助の居城である関宿付近まで勢力を伸ばす、となって、関東の情勢は一応、安定したかのように見えたのだが…。

「…奥」

「晴氏様」

 それから三年後、北条からの急な使者を返した部屋を、沈痛な面持ちで訪ねてきた夫の膝へ縋って、志保は泣き崩れた。

「弔問の使者は遣わした。あまり悲しむな。体を損なう」

「…はい」

 東は公方家の紛争、西は親類であったはずの今川家との戦いで、老いた精神を磨り減らしてしまったのかもしれない。北条氏綱は七月十九日、梅雨明けと共に五十五歳でこの世を去った。

(お父上、おじじ様の偉業を引き継がれ、新九郎殿へお引渡し…まこと、お疲れ様でござりました。もしも高基様やおじじ様にお会いしたなら、存分に語り合うて下され)

 ひとしきり泣いた後、小さな仏壇へ夫と共に両手を合わせ、志保はそう祈ったのである。氏綱の後は当然のごとく氏康が継ぎ、関東はまた新たな局面を迎えようとしていた。

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