春を待つ

安達夷三郎

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第一章、花冷え

二話

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静かな夜だった。
外では、風が障子を微かに揺らす音だけがしている。
畳の上に座り込み、裁縫箱と布のハギレを並べる。
電球には黒い布が掛けられ、ぼんやりとした橙色の光だけが部屋を照らしていた。
針を持ち、息を詰めて縫い始める。
ちく、ちく、と布を縫うたびに、糸が擦れる音が小さく響いた。
少し歪んだ縫い目。
それでも、ひと針ひと針に、祈るような気持ちを込めた。
(春馬が、生きて帰って来れますように)
こんなことを口に言えば、非国民だと言われてしまうかもしれない。でも、やっぱり死んでほしくなかった。
裁縫は、得意な方ではなかった。女学校の成績表では家庭科はいつも最低評価の『丁』だった。
「……いたっ」
指先に小さな痛み。針が刺さって、赤い血が滲む。
慌てて口に含み、また針を持ち直した。
何度も失敗して、ほどいて、また縫い直す。
形は不格好だけど、これだけは綺麗に縫いたかった。
やがて、布が一つの小さな袋の形を成した。
中に入れるのは、神社で貰ったお札と、自信作の虎の絵。
『虎は千里行って千里帰る』という故事にちなんで、必ず戻って来るという願いが込められている。
千人針とかで虎の刺繍をする理由がこれだ。
袋の口を紐で結び、手のひらに乗せて眺めた。
(やっぱり、嫌がられるかな?)
恋仲でもない、ただの幼馴染にお守りを渡されたら、やっぱり嫌がられるだろうか?
春馬は優しいから、「ありがとう!」って言いそうだけど……。
その時、
......――――――ン......。
遠くから唸るような音が聞こえてきた。私は裁縫箱を片付ける手を止めて、音の正体を確かめようとする。
......ウ――――――ン......。
今度はさっきよりも近くなったようで、はっきりと聞こえた。
空襲警報だ。
慌てて電気を消し、防空頭巾を被って外に出る。
「空襲だー!」
「山の麓の防空壕に逃げろ!」
「高台に......それか川だ!とにかく逃げろ!」
「隣町の流れ弾らしいぞ!」
外に出ると、隣町の方の空は真っ赤だった。
「千代!早く行くよ!!」
母の声に振り向くと、もう近所の人たちが外に飛び出していた。
子供を抱えた女の人、布団を引きずる老人、みんなが山の方へと走っていく。
お守りを握りしめ、慌てて地下足袋じかたびで外に逃げた。
風が強く、遠くの空が赤く染まっている。
「あぁ……明日は我が身」
誰かが呟いた声が、風に消えた。
防空壕まではゴロゴロと舗装されていない坂を上る。息が苦しい。
積もっていた雪に滑って転びそうになった時、母が振り返って腕をぐっと掴んだ。
「千代、早く!!」
返事をするより先に、耳を裂くような爆音が地面を揺らす。
見上げれば、黒い影が幾つも、低く唸りながら飛んでいった。
照明弾しょうめいだんが落ち、闇夜が昼のように明るくなった。
空が、赤い。遠くの方の黒煙こくえんが風に流されてくる。
壕の中に入ると、すし詰め状態。押して押され、子供が泣いている。
「目と耳を塞げー!!口は開けろ!」
見張りをしていた人がそう叫んで壕の扉を閉じたと同時に、ひゅるひゅるという音がした。そして、次の瞬間。
ド―――ン!
爆音がした。
(近くに落ちたんだ......!!)
防空壕の中は、湿った土と汗の匂いでむせ返る。
息をするたびに、熱い埃が喉に張り付く。
誰かの震える肩が、自分の腕に触れている。
再び、ドォン……と地面を突き上げるような衝撃。
天井の土がぱらぱらと落ちる。
子供が悲鳴を上げた。
「大丈夫だ、大丈夫だ……!」と、大人の男の人が必死に宥める声。
私は怖くないように目をぎゅっと閉じ、両手で耳を塞いだ。
外の爆音が遠ざかっていく。
けれど誰も、まだ口を開かない。
息をする音さえ、はばかられるような沈黙。
頭を強く抱えながら、暗闇の中でただ祈った。
(もう落ちませんように……もう終わって……)
やがて、壕の外の風の音だけが戻ってきた。
誰かがそっと扉を開ける。
冷たい夜気が、湿った壕の中に流れ込んだ。
外に出ると、焦げた匂いが鼻を突いた。
遠くの山の向こうが、赤黒く染まっている。
風に乗って、焼け焦げた紙片がひらひらと舞う。
「こんな田舎町に爆弾を落とすなんて、余程東京の方は被害を受けているんだね」
母がぽつりと呟いた。

「黙祷」
教頭先生の声が響く。
全員が頭を垂れた。昨日の空襲で、同じ組の生徒の叔父が亡くなったのだという。
沈黙の中、私は祈りながら、ふとポケットの中に忍ばせた小さなお守りを握った。
縫い目の歪んだ、あの袋。
春馬はまだ無事だろうか。
(次会った時に、渡そう……)
「――顔を上げなさい」
先生の声で我に返る。
そのまま朝礼は続き、校庭では訓練用の竹槍が並べられていた。
「今日は防空訓練の後、二年生は奉仕作業を行います。町の焼け跡の片付けです」
ざわ……と生徒たちの間に小さな動揺が走る。
けれど、誰も口に出さない。
黙って並び替え、竹槍を手に取る。
午前中いっぱい、訓練が続いた。
「もっと腰を落として!」
「突け、引け、突け!」
声が、乾いた地面に反射して響く。
私も息を切らしながら、木で作られた人形に向かって竹槍を突いた。
(本当に、私達も米兵と戦う日が来るのかな?)
魚屋のおじさんの噂で、そろそろ女学生も徴兵されると聞いたことがあった。
そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。
午後、奉仕作業のために町へ向かう。
焦げた木の柱、黒くなった瓦。
道の端に、誰かの靴が片方だけ落ちていた。
逃げ遅れて、皮膚がただれた人の死体が転がっている。顔は分からない。国民服を着ていたことから、男の人ということは判別できた。
「……ここまで燃えたんだね」
ツユの声が、マスク越しに呟く。
私は頷きながら、瓦礫を払った。
指先に小さなガラスの破片が刺さり、痛みが走る。
鼻をつく焦げ臭さの中に、どこか鉄のような匂いが混じっている。
家々の間を抜ける度、焼け焦げた柱が不気味に立ち尽くしていた。
空の上を飛行機が飛ぶ。
「偵察機かな?」
「いや、特攻だよ。偵察機ならあんな規則正しく並ばない。きっと、練習機だろうね」
文はそこで言葉を切り、言った。
「まるで、神様ね」
「ありがとうございました」
日の丸の国旗を振れれば良かった。でも、今は持っていなかった。
特攻に向かう彼らは、怖くないのだろうか?御国の為に、天皇陛下の為に死ぬのは、馬鹿馬鹿しくないのだろうか。
でも、仕方ない。なんてひと言で片付けられてしまう。
我慢は美徳。
戦った末での死も美徳。
『欲しがりません、勝つまでは』
太平洋戦争一周年記念の企画として国民決意の標語が募集された時に三十二万人の中から入選したものだ。で、この標語は十一歳の少女が作ったとされていたけど、実は父親が考えたものだったらしい。
そんなこと誰も知らないから、少女がそんな思いをしてまで戦争に備えるのは素晴らしい!と称され、あれよあれよ歌になり、ポスターになり、広く知られるようになったんだって。
「早く、日本が勝って終わると良いね」
「日本は勝つよ!だって、日清も日露も勝ったんだもん!」
「そう……だね」
焼け跡の作業を終わらせて駅に行くと、沢山の人だかりが出来ていた。みんな手に持っているのは日の丸の国旗と旭日旗。
人だかりの真ん中には、『祝出征、恵比寿盛長もりなが』と書かれたタスキを掛け、軍服に身を包んだ一人の若い男性。
見送りに行くと、焼いたスルメの足を一本貰えるので、小学生などの子供達はそれ目当てで来る子も多かった。
「それじゃあ、元気に征ってきます」
ビシッと敬礼し、列車に乗る男性。どうやら、南の方に召集されたらしい。
殺すのは、敵か、自分の気持ちか、果たしてどちらだろうか。
素直に喜んで良いのか分からない。
もし自分があの男性と同じ立場だったら逃げていただろうか?それとも、戦地に向かうのだろうか?
......戦地に征く人の『御国の為』という気持ちも理解できる。
このまま何もせずに日本が負ければ、戦勝国の支配下に置かれる。何もかも奪われ、兵士や男性は殺されるか奴隷のような扱いを受けることになる。女性や子供は、何をされるか分かったもんじゃない。それならば、自分の命を投げ打ってでも、一人でも多くの敵を殺して、愛する人を守る方が良い。誰だって、少しでも危険を取り除けるというのなら、戦地に向かうだろう。
例えそれで、戦死してしまったとしても。
隣組の組長さんが旗を振っていた少年に話しかける。
「坊や、元気よく『天皇陛下、万歳ばんざい!』の音頭をとってくれねぇか」
その子の母親は少年に向かってニコリと笑ったので、少年はみんなの前に出て、威勢良く「天皇陛下、万歳!」と繰り返した。
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