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sweet night & sweet knight(甘い夜と甘い騎士) 1

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 ラチアが王都で王女と会ってから三日後。

「ね、ラチア」
「なんだ」

 いつものように作業小屋で仕事をしているラチアに、ラヴィが昼食を運んできた。

 パンとチーズとミルク。
 たったそれだけの質素な昼食を小さなテーブルに置いてラヴィはラチアの仕事ぶりを眺めながら話しかけた。

「そういえばね。ボク、ラチアをずっとラチアって呼んでたけど、呼び方変えてもいい?」
「は? どう変えるって言うんだ」
ご主人様マスター

 ゴッ!

 靴底を打っていた木槌がブレてラチアは思いっきり人差し指を打った。

「――っつぅ!」

 靴職人になりたてのころはよく味わっていた痛みだが久しぶりにの痛みであっても懐かしいとは思えなかった。
 ただただ痛い。
 涙目になりながらジンジンと痛む指を押さえて唸った。

「……だ、誰だオマエにそんな変な入れ知恵したのは? パイラか?」
「ううん、登記所でだよ。箱みたいな四角い帽子を被った人間がね――」

 どうやら登記所でラチアが事務手続きをしている間に別の職員がラヴィに《奴隷の心得》をレクチャーしていたらしい。
 その職員は主人に対する呼び方の他にも細々と何かを教えていたらしいのだけれど肝心のラヴィが「忘れちゃった」と悪びれる様子もなく言う。

「呼び方なんて気にするな。俺はオマエを奴隷だとは思ってないし奴隷扱いするつもりもない。オマエが人間の中で暮らすのを望んだから俺は便宜上の形式を整えただけだ」

「うん。それは分かってる」
「分かってるならそれでいい。今まで通り《ラチア》でかまわないからな」

 ようやく指の感覚が戻ってきてラチアは再び木槌を握って作業を再開した。

「でも、ボクがラチアのことをマスターって呼びたいんだ」

 ゴッ!

「――っつぉ!」

 今度は中指を打った。

「な、なんでだ?」
「だって、姫様はラチアのこと《我が騎士マインナイト》って呼んでたよね」
「昔の事だ。……今はもうその呼び方で呼ばれる資格は俺には無い」

「うん、それは聞いていた。ラチアが姫様と別れるとき『もうその名で呼ばれる資格がありません。これからはラチアとお呼び下さい』って話をしてたよね」
「ちっ、どこまで聞いていたんだ。長いだけあって無駄に耳がいいな」

 ラチアは苦虫をまとめて五、六匹噛みつぶしたような渋面になった。

「姫様だけじゃなく、パイラだって《先輩》って呼んでラチアって言わないよね」
「まぁ、実際アイツにとって俺は先輩だからな」

「ラチアのことを、姫様は《我が騎士マインナイト》。パイラは《先輩》。靴屋のおじさんだって《小僧っ子キッド》って呼んでた。でも、ボクだけの特別なラチアの呼び方ってないんだよ?」
「そんなことで張り合ってどうする」

「だって、だって! なんかね、ラチアが姫様に『これからはラチアとお呼び下さい』って言ってたのを聞いてて、名前で呼ぶのはなんだか距離があるように感じたんだよ」
「……」

「だからボクも、ボクだけの呼び方でラチアを呼びたいんだ」
「それが《マスター》か……なんか色々と間違っている気がするんだが」

「ダメ?」

 ラヴィがまるでご飯をねだる子犬のようにラチアを上目遣いでぢぃ~と見つめる。
 ラチアが「うっ……」呻いて目を逸らした。

 すると、ラヴィはラチアが目を逸らしたところに回り込んでまた上目遣いでぢぃ~。
 ラチアが視線を逸らすたびにラヴィは何度も回り込んでぢぃ~……。

「……わかった。好きにしろ」

 これを七度続けられてラチアがついに折れた。

「やった! ありがとうラチ……じゃなかった。マスター!」

 本当に嬉しそうな顔で微笑むラヴィを見て『本当に変わった奴だな』と思いながらラチアもつられて苦笑いをした。




 仕事が終わり、質素な夕食の後、暖炉の前にクッションを置いてラチアはラヴィにシンデレラの本を読み聞かせていた。

「今日はここまでにしておこう」

 ラヴィが三度目の欠伸をしたのを見てラチアは本を閉じた。

「ん……? ボク、まだ頑張れるよマスター……」

「眠さが顔に出てるぞ。最初からあまり無理をしないほうがいい。明日もちゃんと読んでやるから、もう寝ろ」
「ん……わかった……」

 ラヴィは「んしょ……」とラチアの膝から下りると、不思議そうな顔で振り返った。

「あれ? マスターはまだ寝ないの?」
「俺はもう少し飲んでから寝る」

 ラチアは空になったゴブレットを持ち上げて見せた。

「そう? あまり飲み過ぎないようにね。じゃ、ボク、先に寝るよ~……ふぁ~……」

 大きな欠伸をしながら隣室に行ったラヴィはラチアのベッドの横に置いた木箱にもそもそと潜り込むと、すぐに健やかな寝息をたてはじめた。

『なんだか育児をしているような気分だな』

 ラチアは部屋の隅に置いてある酒樽のコルクを抜いてゴブレットに酒を注ぎながら思った。

 窓の隙間から何気なく外の様子を見ると空の端には冬の星座が顔を出していた。
 あと一、二ヶ月もすればここから見える風景は真っ白な雪景色に変わるだろう。

 酒樽の横には小さなバスケットが置かれていて、そこには山盛りのクルミが入っていた。
 ラチアが靴を作っている昼の間にラヴィが近くの森で拾い集めてきた収穫物だ。

『アイツ、けっこう頑張り屋だな……』

 少し酔いの回った顔に笑みを浮かべながら暖炉の前に戻ろうとしたラチアはふと燃料の薪が少なくなっていることに気がついた。

 家の外に出て外気の寒さに身を縮こまらせながら薪割り台の側に積んである薪の山から一束抱え上げたとき――。

「ん?」

 里の方から蹄の音が近づいてくるのを聞いてラチアは目を細めて丘の下に目を向けた。

『こんな時間に誰だ? 急患か?』

 ラチアはここで暮らし始めた頃からの習慣でついそう思ってしまった。

 三年前。

 全てを失ってこの里に流れ着いたとき、ラチアはここで医者として生計を立てようとした。
 学校で応急治療法を学んでいたし、戦場での経験もあったからすぐに始められる仕事だったからだ。

 里の者は医者としてのラチアを歓迎した。
 普通はどこの里でも新顔は歓迎されないのだが、この里にはそれまで医者がいなかったのがラチアにとって幸運だった。

 けれど、なぜこの里に今まで医者がいなかったのかをラチアすぐに思い知らされることになった。

 里は絶対的に人口が少ない。
 滅多に患者の出ないこの里で医療だけを仕事として暮らしていくのは無理があったのだ。

 ラチアは生きてゆくために早く別の仕事を探さなければならなくなった。

 軍事に付随する職能以外は何も持ち合わせていないラチアは真っ先に猟師になって生計を立てようと思いついたのだが、自由に見える森の中には猟師たちのナワバリが存在し、自分で食べる分以上の狩猟を行うことは地元の猟師たちに認めて貰えなかった。

 次にラチアは農夫になろうと思ったが、たくさんの人手を必要とするほど広い農地を持つ家は多くの奴隷を保有していて、賃金の支払いが発生する人間を雇うことはないらしい。

 冒険者になろうとも思ったが、富豪が奴隷アニオン狩りのために抱えている私兵団の団員たちが空いた時間にサイドビジネスとして近隣の住民から寄せられる陳情や依頼を割安価格で受けているので、フリーの冒険者にまで仕事は回ってこない。

 生きてゆくすべが見つけられずに項垂れて悩んでいたラチアは、履いている靴の先がパッカリと開いているのに気付いてさらに侘びしい気持ちになった。

 新しい靴を買う金なんて……と思いながら何気なく靴の先をパカパカと開閉させていたとき、ラチアは突然「そうだ!」と声を上げた。

 ラチアは里の住民に猟師になることは認めて貰えなかったけれど自分で食べる分の狩猟なら許されている。
 食用に狩猟する獣の数なんてそう多くはない。
 肉を取った後に残る毛皮を売ってもたいした額にはならないし、それを元に服を作っても一ヶ月で三、四着作れればいいほうだ。

 けれど同じ毛皮の量でも靴ならたくさん作れる。
 靴底などの他の材料もほとんど山の中で調達できるものばかりで必要な量も少ない。
 これなら里の住民だって承認してくれることだろう。

 ラチアにはこのタイミングで靴がダメになったのが天啓に思えた。

「靴職人になろう!」

 意を決したラチアはその日の内に王都に出て腕の良い靴職人の噂を聞き回り、中央通りで店を開いている店主のところへ強引に弟子入りした。
 人情味はあるけれどひどく口の悪い師匠に「へたくそ」だの「才能がない」だのと、さんざん罵られながらも他に生きてゆく術を見つけられなかったラチアは歯を食いしばって修練を重ね、なんとか靴作りの基本だけは習得した。

 独立したばかりの頃はまだ慣れていない仕事なので多くは作れず、一足あたりの買い取り単価も安かったで食うや食わずの生活が続いた。
 靴職人としての収入が安定し医療報酬の収入を上回るようになったのはつい最近のことで、ラチアはようやく「俺は靴職人だ」と胸を張って言えるようになったのだ。

 そんな事情で不意な来客があると今でも反射的に患者かと思うラチアだが、どうやら今夜の来客は患者ではないらしい。

 近づいて来る馬車の影は平たい農作業用のものではなく高さのある乗用の箱形馬車だった。
 里で暮らす者はそんな非生産的な馬車なんて所有していない。

『いったい誰が? なんの用で?』

 近づいて来る馬車を訝しげな顔で見ていたラチアは馬車の装飾を認識して目を剥いた。

「ま、まさか!?」

 持っていた薪の束が手から零れ落ちて足元でカラカラと乾いた音をたてて散らばった。

 ラチアの前で馬車は静かに止まりカッチリとした上等の礼服に身を包んだ御者が馬車の下にスロープを置く。
 馬車の後ろについてきた女性衛士が素早く馬から降りて馬車の扉を開けた。

 馬車からゆっくりと降りてくる人物を見上げながらラチアは呻くように言った。

「ど、どうして姫が?」
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