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3巻
3-1
しおりを挟む第一話 後悔と始まり
「うっ……ここは……?」
「アルくん!」
額にひんやりとした物が載せられているのを感じながら、俺――アルラインはゆっくりと目を開けた。
どうやら皇城の部屋で寝ていたらしい。
目と鼻の先には愛しい婚約者――シルティスクの姿が。額に載せられているのは彼女の左手のようだ。
「シル」
「大丈夫? どこか痛くない? 身体はおかしくない?」
矢継ぎ早に聞いてくるシルの様子に首を傾げる。そのまなじりにある光るものを見た瞬間、俺は思わず手を伸ばしていた。
「なんで泣いてるの?」
人差し指で涙を拭き取ると、シルが顔を歪めた。
「だって、もう目を覚まさないかと思ったんだものっ……!」
俺は目を見開く。なぜそんなことを思うんだ。ただ寝ていただけじゃ……
「うっ!」
キーンという突然の耳鳴りに頭を抱える。同時に、全ての記憶がよみがえってきた。
ここはスフェルダム帝国。俺が生まれたリルベルト王国の隣に位置し、かつ敵国でもある。いや、敵国だった。
今はもう友人が皇帝になったから、今後は友好な関係を結べるはずだが。
俺がここに来たのは、前皇帝が王国を相手に起こそうとしていた戦争を阻止するべく、前皇帝を打倒しようと動いていたレジスタンスに手を貸すためだった。
俺は自分が副会長を務める王立魔法学園の生徒会のみんなとともに留学の名目でこの地を訪れ、反乱を起こすレジスタンスの旗頭、ディアダール・ウォー・スフェルダムに協力して彼を皇帝にした。
そこまではよかったのだ。
ここに来た目的はレジスタンスの手助けをして、前皇帝を引きずり落とすことだったのだから。
だが、予想外のことが二つ起きた。
一つ目は親友であり、今回の留学にも一緒に来ていたリョウが前皇帝の庶子であったこと。
リョウは前皇帝が自分と自分の母親を捨てたと思い込み、その恨みから、反乱が成功した直後、前皇帝を殺してしまった。すでに反乱が成功し、皇帝でなくなった者であったとしても、他国の皇族を殺した罪は重い。リョウはこの国で処罰を受けることになり、俺たちと一緒にリルベルト王国に戻れなくなってしまった。
俺にできることは何もない。
リョウにも情状酌量の余地があることは、ディアダールもわかっているだろう。死罪は逃れられるだろうが、どうなることか……
二つ目は、外神の存在。
反乱が勝利で幕を閉じ、ディアダールが即位した直後、外神は俺の前に現れた。
転生したばかりの頃に俺を特訓してくれた精霊神ムママトにも警告されたが、あの何もない空間で戦った時に感じたあいつの力は凄まじかった。魔法も、スキルも剥奪された空間。奴の独壇場。奴のために作られた舞台。
俺は何もできなかった。契約精霊であるルミエとマレフィが奴に奪われたと知っても、何も……
そこで記憶が途切れている。
「アルくん?」
心配そうに覗き込んでくるシルをよそに、俺は思わず顔を覆った。
「ルミエ、マレフィ……」
何度心の中で呼びかけても反応はない。契約しているのだから通じなければおかしいのに、いつまでも彼女らの声は聞こえない。
「俺はどうしたら……」
思わず漏れる声。俺は素が出てしまったことにも気付かず、ただうなだれる。すると、俺をじっと見つめていたシルがすくっと立ち上がった。
「シル?」
どうしたのだろうか?
首を傾げていると、シルは俺の目をまっすぐ見て口を開いた。
「アルライン・フィル・マーク!」
「は、はい!」
鋭い口調で唐突にフルネームを呼ばれて思わず体を起こす。
「いつまで落ち込んでいるつもりですか?」
「っ!?」
普段の優しいシルとは似ても似つかない厳しい口調、鋭く細められた目。小柄な体から発せられる威圧感に俺は息を呑んだ。
「何があったのかは知りませんが、倒れたあなたを心配していた私のことは、私たちのことは何も考えてくれないのですか?」
「ご、ごめん……」
気圧されて謝ると、シルが俺を思いっきり睨む。
「ごめんで済むなら騎士団なんていりません」
「じゃ、じゃあどうしろと……」
なんかキャラ変わってない? 俺が倒れている間に何があったんだ……?
戸惑っていると、シルの目に涙が浮かぶ。
「えっ、ちょっ、シル!?」
俺が慌てるのをよそに、シルは嗚咽とともに言葉を吐き出す。
「気が付いたら皇城の屋根で高熱出して倒れていて! 三日間も意識戻らないし! 本当に死んでしまうかと思ったんだから!」
「ま、待って、三日!? 僕そんなに倒れていたの!?」
「そうよ!」
呆然とする。ショックで倒れたのだろうが、まさかそこまでとは……ってそういえば。
「僕が倒れているところ、よくわかったね?」
皇城の屋根の上なんて普通予測できないはずだ。しかも皇城の高さ的に普通の索敵魔法は届かない。
俺の問いを受けて、少し落ち着いたシルはさっきまで座っていた椅子に座り直すと頷く。
「どこからか声が聞こえてきたの」
「声?」
「えぇ、『彼が危ない』って。『空に近いところにいる』って」
俺はまじまじと彼女を見つめてしまう。
「信じられないかもしれないけど、彼女の声のおかげであなたを見つけられたのよ」
シルがそう言うなら本当なのだろう。ここは魔法の存在する異世界。見えざる者の声が聞こえてきても不思議じゃない。そこで、あることに気付く。
「彼女? 女性だったの?」
「えぇ、消えそうな小さな声だったけど、女性の声だったわ。『彼を頼むわ』って言ってから聞こえなくなってしまったけれど……」
わざわざ俺を助けてくれる女性の声、か……
心当たりがないわけじゃない。精霊や神様ならそんな方法をとる可能性もある。
だが、今の情報だけでは誰かまではわからないな。
「それとね、アルくん」
頭を悩ませていると、シルはさらに言葉を継ぐ。
「どうしたの?」
躊躇うようなシルの様子を見て首を傾げる。シルは一瞬の後、ゆっくりと口を開いた。
「私……光属性の魔法が使えなくなったみたいなの」
「っ!? どういうこと!?」
思わず叫ぶ。
魔法が使えなくなった? しかも、シルの適性属性であった光属性が?
そんな現象は聞いたこともない……
シルは泣きそうな表情を浮かべている。
「私にもどういうことかわからないの……その女性の言葉が聞こえた直後、自分の中から何かが消えたような気はしたのだけど、それだけ。アルくんを見つけて治癒魔法を使おうとしたらその時にはすでに使えなかったわ。魔力は感じ取れるのだけど、何かが足りないの……」
呆然とする。魔力があるにもかかわらず魔法が使えないだなんて、そんなことがありえるのだろうか。
しかもシルの実力は並外れている。学園での成績は俺の次。今まで使えていた魔法が使えなくなる可能性はゼロに等しい。それなのに、なぜ。
「風属性は使えるんだよね?」
「えぇ。風の魔法は今まで通り使えるわ」
シルの瞳が不安で揺れる。
光属性だけ、か……
意味のわからない現象に頭が混乱する。
どうすればいい?
どうすれば元のように魔法が使えるようになる?
どうすれば、シルの瞳から不安を拭い去れるんだ?
頭の中で疑問がぐるぐると回り続ける。
答えの出ない疑問に苛立ちが募る。
今すぐシルの不安を消してあげたいのに。それができない自分の無力さが歯がゆい。
「シル」
俺はそっと彼女の両手を握った。
それだけしかできないから。
俺を映すラベンダー色の瞳は今にも泣き出しそうだ。
「アルくん……?」
「僕が絶対解決方法を探し出す。だから、そんなに心配しないで。絶対にもう一度、使えるようになるから」
まっすぐに見つめて言う。
この狂おしいほどの想いが伝わることを願って。
「うん……」
シルは俺の言葉に泣きそうな顔のまま頷いた。
彼女が悩んでいる様子なんて見たくない。
気が付けば俺はシルを抱きしめていた。
「アルくん……?」
「……僕のこと、信じられない?」
「そんなわけっ……」
俺の言葉を聞いて、思わずといったようにシルが声を上げた。信頼されている事実にほっとする。
「ただ……どうしても、考えずにはいられないの。このままだったらどうしようって」
シルが俺にギュッと抱きついてくる。その華奢な体は微かに震えていた。
彼女を安心させたい。
「ねえ、シル」
「なに……?」
「僕、君に隠していたことがあるんだ」
俺の言葉にシルがびくっと体をこわばらせる。
――隠し続けるのは限界のようだった。
「安心させたい」という思いとともに無意識に零れた言葉で自覚する。
本当はずっと隠すつもりだった。前世の記憶を持っていて、その前世はこことは違う世界で、神様から加護をもらっただなんて誰にも信じてもらえないだろうから。
でも、今自分の秘密を話すことでシルの不安な気持ちを少しでも消せるなら。彼女が少しでも希望を持てるなら。俺の秘密を話すことくらいなんてことない。
そう思っていると、シルがそっと俺から離れた。
「それは……アルくんが俺って言うことと関係ある?」
「えっ……?」
俺の目をまっすぐ見た彼女は、言葉とは裏腹にほとんど確信しているようだった。
戸惑っている俺を見てシルが苦笑する。
「さっき、俺って言ってたわ。それに、それだけじゃないの」
シルによれば他にもあるという。
「前から、アルくんはどこか違った。規格外の力もそうだし、何より、出会った時から子供っぽくなかった」
「……」
シルの言葉に俺は何も言えない。自分が普通の子供じゃなかった自覚はある。
ステータスこそ偽っていたものの、それでも王都動乱の時や今回の帝国反乱で手を抜くことはしなかった。
神の代行者と言ってしまっているし、俺があまりに大きすぎる力を持っていることは否定のできない事実。この体に引っ張られて子供っぽい言動をしてしまうこともあったが、前世で生きてきた時間を含めれば十分大人なのだ。当たり前だが、子供らしいわけがない。
シルが微かに笑みを浮かべる。
「神様の代行者って聞いて納得したけれど、それだってアルくんが隠していることの一部でしかないでしょう?」
「それは……」
「アルくんはいつも一人で問題を解決しようとする。すごく頼もしいけど、寂しいの。私はそんなに頼りないかな?」
「そんなこと……」
言葉に詰まる。
俺にとってシルは「守る対象」だった。それは確かに彼女のことを「頼りない」と思っていたことにならないだろうか。
シルが寂しげに微笑む。
「そうよね、アルくんにとって私は守るべき存在。実際に私はアルくんに比べるとかなり弱いものね……でもね。私だって寄り添うことは、支えることはできるわ」
力強いラベンダーの瞳が俺を捕まえて離さない。
「だから、もっと私を頼ってほしいの。今のままじゃ、傍にいるのに、近くにいるのに、遠く感じて寂しいわ」
はっとさせられる。
俺は知らず知らずのうちに、彼女を弱いと決めつけて、守らなければいけないと勝手に考えていた。でもそれ以上に、俺は自分で壁を作って俺が全部やらないと、って思い込んでいたのだ。
そんなことないのに。彼女はこんなにも強いのに。
「ごめん」
その言葉は自然と俺の口から滑り出た。シルが微笑む。
「大丈夫。ただ、これからは隠し事はしないでほしいわ。私にも一緒に背負わせて」
「ありがとう」
自分が幼稚だったことに気付かされる。彼女は俺なんかよりずっと強くて、守られているばかりの存在なんかじゃなかったのだ。
思わず泣きそうになるのをこらえる。ここで泣いたらいよいよ男として、婚約者として立つ瀬がなくなる。ただでさえ情けない姿を見せてしまったのだ。これ以上、格好悪いところを見せるわけにはいかない。
俺は一つ深呼吸をして、シルを見た。
「僕の話、聞いてくれる?」
「もちろん!」
俺は全てを話した。
前世の記憶を持っていること。そこはこの世界と違う世界だったこと。創造神セラフィに転生させてもらったこと。たくさんの神々から加護をもらっていること。それによって神子という扱いを受けていること。外神の存在。契約している二人の精霊を奪われてしまったこと。
何もかも、全てを話した。話すことがありすぎて時間はかかったが、なんとか話し終わった時、シルは呆然とした表情を浮かべていた。
「……思った以上のことで、なんて言ったらいいかわからないわ」
「ごめん」
「謝ることじゃないのだけど。これは……」
口ごもっている。シルは俺が話したことをなんとか理解しようと、頭を必死に回転させているようだった。
しばらく沈黙が続いた。やがて、シルは顔を上げると意を決したように聞いてきた。
「アルくんは私のこと、好き?」
「っ!? もちろん! シルとずっと一緒にいたいなって思うよ」
まさかの質問に驚きながらも即答すると、シルはほっとしたように表情を和らげた。
「……それならいいわ」
「え?」
首を傾げる。何がいいのだろうか?
「あなたが前世の記憶を持っていようと、本当の年齢が違おうと、神子であろうと、私はアルくんのことが好きだから。アルくんが今ここにいてくれることが嬉しい」
「シル……」
声に詰まる。そこまで想っていてくれたことが嬉しくて、なんと言えばいいかわからない。
シルの手が俺の頬に触れた。
「アルくんはアルくんだから。この世でたった一人の愛しい人。そんなアルくんが私の傍にいてくれるなら、きっと私の魔法も元に戻るって信じられる」
――あぁ、好きだな。
明るい笑みを浮かべるシルを見て心の奥底から好きが溢れ出す。
ずっと受け入れてもらえるか心配だった。なのに、こんなにも簡単に受け入れてくれて。しかも、俺がシルの魔法が戻ると安心させるために秘密を話したことに気付いて、こうやって信頼していると伝えてくれて。
もったいないくらい良い人に巡り合えたことを改めて実感するとともに、自分は一人じゃないんだ、という安心感に包み込まれる。
「ありがとう。僕も愛してるよ。これまでも、これからも、ずっと。だから……」
そっとシルを抱きしめる。
――俺とともに生きて。
シルが俺の体をぎゅっと抱きしめ返してくれる。
心配することはたくさんある。
それでも、シルと一緒なら乗り越えられる。そう思った。
†
「アルラインくん、起き上がって大丈夫? まだ休んでいた方が……」
翌日。意識を失っている時間を含めると数日ぶりに部屋から出た俺は、足早に庭園に向かう途中でミリアに会った。ミリアは生徒会書記であり、この世界で初めてできた友達のうちの一人である。もう一人は言わずともわかるだろう、リョウだ。
昨日、あのままシルと話していると、シルが下りてこないことを心配したミリアが部屋に来て、またちょっとした騒ぎに。そのままもう一人の生徒会メンバーのフレグ――フレグラント・フィル・レバーテールによって隅々まで診察された。
魔法で体に異常がないことは確認済みだったが、それでも念のためと言って聞かなかったのだ。
その後もベッドから出してもらえず、俺はまだ彼女の安否を確かめられていなかった。
だから、今日こそはと朝早く起きて静かに部屋を出たのだが、どうやらミリアの方が早く起きていたらしい。
「大丈夫だよ。もうたくさん休んだからね。むしろ休みすぎちゃったくらい」
「でも、アルラインくんはいつも頑張ってるよ。ちょっとくらい休んだって……」
「これ以上休んでるわけにはいかないよ。早く解決しないといけないこともあるからね」
俺の言葉にミリアが諦めたようにため息を吐く。
「そっか……無理だけはしないでね」
「もちろん。ありがとう、ミリア」
心配させるとわかっている。それでも、これから起こることを考えればすぐに動かないといけない。
精霊の力――ルミエとマレフィの力を手に入れた外神が、これからどのように行動するかはわからない。それでも。
『またすぐ会えるだろう。その時まで死なないことを祈っているよ』
外神のあの言葉は俺に対する宣戦布告だろう。
これから自分がすることに俺が耐えられるか、という。
世界には大きな混乱が起こるはずだ。外神が直接動かなくても関係ない。光と闇の精霊が外神に捕らえられた以上、世界に大きな変化が起きるのは当たり前のことだった。
今だって心なしか空が暗い気がする。光の上級精霊であるルミエがいなくなったからだろうか。
もし、そうであるならば、闇の上級精霊であるマレフィもいなくなったこの世界は光と闇、どちらからも見放されたことになるのかもしれない。
嫌な予感が胸をざわつかせる。だからこそ、早く彼女の無事を確かめなければ。
だが。
「これは……」
目的の庭園に着いた途端、俺は考えていたことをすっかり忘れて目の前の光景に目を奪われた。
以前は枯れていた噴水にはなみなみと水が湛えられている。陽の光に照らされて水のカーテンには虹がかかっていた。
加えて、植物たちも元気になっていた。葉は瑞々しく潤い、あちらこちらで色とりどりの花が咲いている。
彼女に会うために右目に宿った魔力を見る瞳――魔眼を開眼させていたが、視界のあちこちに水色の光が煌めき、水の精霊たちが遊んでいる様子が見えた。
唐突に別世界に入った感覚に思わず立ち尽くす。
『アル、いらっしゃい』
声をかけられて振り返ると、木の上で微笑む神秘的な存在が。
『アクア!』
俺が会いたかった相手――水の上級精霊アクア。数日前まで外神に力を奪われていた彼女の元気そうな姿にほっとして、力が抜ける。
張りつめていた緊張が解け、俺は息を吐いた。
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