オオカミ部長のお気に入り

日向そら

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1巻

1-1

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   一


「ご利用ありがとうございました」

 窓口で丁寧に頭を下げ、戻したタイミングで銀行のロゴの入った手元の番号機を確認する。
 表示された数字はゼロ。ロビーを見回してもお客様の姿はなく、銀行の案内役として出入り口につくコンシェルジュも暇そうに欠伸あくびを嚙み殺していた。
 ちらりと見上げた時計の針は、三時五分前。ほっとして、ようやく私――宮下みやした和奏わかなは、肩の力を抜いた。一応誰に聞いても知っている大手銀行に運良く新卒で就職し、希望が通り地元の支店に配属されてはや四年の二十六歳。既に仕事には慣れたけれど、そろそろ転勤になるかもという微妙な年数なので、異動時期の四月を前に、一月のこの時期はちょっと落ち着かない日々を過ごしている。
 ……り固まった肩をほぐすために伸びをしたいけれど、まだお客様が来るかもしれないから、もう少し我慢。
 忙しい給料日前でも締日しめび前でもないので、お客様の出入りもそこそこの平和な一日だった。
 金曜日の今日は終業時間が近付くにつれ、なんとなく浮き足立ってくる。窓口を閉めるべく手元の書類に不備がないかを確かめていると、ロビーが急にざわめき出した。

「あら、珍しい」

 何だろう、と首を傾げるよりも先に、隣の窓口にいた松岡まつおかさんがそう呟いた。
 彼女の視線を辿ってロビー入り口を見ると、長身の男の人が立っていた。

「オオカミ部長だ」

 どこからか漏れたささやき声に、私はざわめきの理由を知り納得する。
 ちょっと好みが分かれそうな近寄りがたい雰囲気はともかくとして、その目鼻の彫りは深く、文句なしに整っている。少し大きくて厚い唇が、男っぽい色気をかもし出していてセクシー……なんて誰かが飲み会の席で熱弁を振るっていたっけ。確かにイケメンだし、横を通ったら振り返ってしまいそうな存在感がある。
 とにかくそんな彼が颯爽さっそうとカウンターの向こうを横切っていった。シトラス系にちょっとスパイシーしさを混ぜたような、いかにも『できる男』という感じの香水の香りが一瞬だけ残る。長めのグレーのコートの裾をひるがえして歩く姿は、高級ブランドの広告みたいにさまになっていた。
 待っていたらしい支店長に挨拶をして、そのまま話し始めた彼を、ちらちらと盗み見ている女子社員は多い。
 そばにいる窓口サービス部部長――略して窓サ部長もコートを着ているので、これから外に出るのだろう。
 オオカミ部長と呼ばれた彼の名前はもちろん、月に吠えるあの狼ではない。フルネームは『大神蓮おおがみれん』といって、この支店の法人営業部の部長だ。そう。本当は『オオカミ』じゃなく『オオガミ』なのである。
 なのにどうして彼が『オオカミ』と呼ばれるのかというと、話は彼がこの支店に異動してきたときまでさかのぼる――
 やり手と名高いうちの支店長が、本社時代にヘッドハンティングしたらしい彼は、この支店に赴任する前から顔が良くて仕事もできると評判だった。しかも支店長と仲が良く、休みの日なんかも一緒に飲みに行ったりゴルフをしたりする関係――つまり上の覚えもよろしく将来有望。そのうち独身でかつ恋人もいないということがわかり、一部のアグレッシブな女子社員が、彼の恋人の座を射止めるべく、一斉に照準を合わせたのである。
 この支店に異動してきた後には連日のプレゼント攻撃にデートのお誘い、その他諸々。用もないのに法人営業部があるフロアを数人の女子社員がうろちょろするようになってしまった。そんなあまりのモテっぷりに、若手の男性営業の不満が溜まり、やがて業務にまで支障をきたすようになり……とうとうキレた大神部長本人が『そんな暇があるなら仕事しろ!』と、荒っぽく彼女達を一喝したらしい。その迫力に一瞬にして、女子社員どころか社員全員がフロアから消えたとか消えていないとか……
 ライオンならぬ、狼ににらまれたねずみのような心地だった――とのちに、その場にいた社員が呟いたことで、それ以来若手社員達は彼のことを敬愛と畏怖を込めて『オオカミ部長』と呼び始めたのである。彼の肉食獣っぽいワイルドな雰囲気も相まって、今や上役の人までそう呼んでいるそうだ。
 フロア中の注目を浴びながら、大神部長が支店長、窓サ部長とともに再び私の前を横切る。私が座っているせいもあるけれど、顔を見ようとしただけで首が痛くなるほど背が高い。
 ……ほんと、まさしく天上人って感じ。
 しくも所属する部署のフロアも遥か上。法人営業部は七階にあって、一階の窓口で働く私は立ち入ったことすらないのだ。

「また大きな契約取ってきたらしいよ」
「さすがぁ。今年も本社から報奨金出るかな」

 そんな女の子達のおしゃべりをBGMに、私はチェックし終えた書類をトンと机の上で揃える。
 よし、今日も不備はなし、と。

「相変わらず宮下さんは色恋沙汰に興味ないのねぇ。オオカミ部長よ、あんなにカッコイイのに!ちょっとくらい、ときめいたりしないの?」

 いつのまにか顔を覗き込まれていて、その近さにびっくりする。松岡さんは「あら失礼」と顔の位置を戻し、椅子を引いた。

「もう、びっくりさせないでくださいよ。……大神部長ですよね? 普通にかっこいいと思いますよ? だけど世界が違いすぎて恐れ多い感じです」

 そう私が返事をすると、松岡さんは呆れたように溜息をついた。

「猫と引きもってばっかりいないで、たまには宮下さんも合コンとか行きなさいよ」

 松岡さんは私の胸ポケットに差さっている猫のボールペンを指さして、訳知り顔にそう言う。
 同じ課長の下についている彼女は、私が新人だった時、教育係だった人だ。何かと馬が合って、部署が違う時も時々連絡を取り合っていた。彼女がこの部署に異動してきた時は頼もしく思ったものだけど、付き合いが長い分、遠慮がない。すでに二児の母で幸せな家庭を築いている彼女いわく、干物を通り越して世捨て人になっている私が心配らしい。
 ……余計なお世話だけど、反論すると長くなるのも、長年の付き合いからわかっているので、私はいつもと同じ言葉を返した。

「恋愛とか面倒ですし。モコとカイと遊ぶのが、唯一の楽しみなんですから、全否定しないでくださいよ。あ、写真見ます?」

 書類を置いて前のめりになった私に、松岡さんは嫌そうに身体を引いた。

「いい、いい! タイムラインで流れてくるので十分。お腹いっぱいだから」
「えー載せていないのも、いっぱいあるんですよー」

 こういうところが猫馬鹿と言われる由縁ゆえんなのだろう。だけど隙あらば、ウチの子自慢をしたくなるのは猫飼いあるあるだ。
 松岡さんはお手上げとばかりに肩をすくめてみせる。ちなみに言い訳じゃないけれど、タイムラインにはそれほど流していない。あくまで厳選した写真だけである。

「二番窓口集計終わりましたー!」

 そんな言い合いをしているのにもかかわらず、松岡さんは手際よく書類をまとめて後ろに報告する。
 ……無駄口叩いててもこの速さだもん。さすが勤続二十年の大先輩。見習わなくては。
 でもまぁ、うまいこと恋愛話をうやむやにできたのは幸いだった。松岡さんは、ことあるごとに話を恋愛方向に持っていこうとするので要注意だ。一度そちらにかじを切られると話が長い。
 そもそも大神部長の赴任当初ならともかく、今きゃあきゃあ騒いでいる若い子達は、本気で大神部長とどうにかなりたいわけじゃないだろう。その証拠に怒鳴られて以来、みんな一定の距離を保って彼と接しているし、騒ぎ方だってテレビの向こうの芸能人に向けるものと同じだ。
 さっき颯爽さっそうと歩いていった大神部長の怜悧れいりな横顔を思い返す。
 確かにイケメンだし仕事もできるし独身だし、騒ぎたくなる気持ちはわかる。ついでに言うと、声も高すぎず低すぎない、よく通るイイ声なので、わたし的ポイントも高い。
 でも現実問題として、あんな色んな意味ですごい人が恋人だったら、絶対気が抜けなくて疲れると思うんだよね。かっこいいけれど、雰囲気も背の高さも威圧感があるし……付き合う相手にも同じスペックを求めてきそう。それに何より、一緒にいてちっともいやされないし。
 土日に愛猫とごろごろしているのが至福の時間だと思っている私としては、そこのところは譲れないポイントだ。
 いや、うん。そんなことを考える前に、釣り合わなさすぎてあちらからお断りだろう。そもそも百五十センチしかない身長をヒールでどうにか誤魔化している私と並んだら、親子にしか見えないかもしれない。
 ……そういえば、足が痛い。
 新しくしたばかりのヒールの高い靴からちょっとかかとを浮かせて、心の中で溜息をつく。
 そして頭を切り替えて、オートキャッシャー――お客様から預かったお金を入れておく機器から現金を取り出して数え始めた。こういう作業は面倒だけど無心になれるからいい。表示されている数字と合わせ、よし、と確認する。

「三番窓口、合いましたー!」
「あら……随分元気ね」

 若干気合のこもりすぎた声に、ちょうど後ろにいた課長が足を止めて苦笑する。
 慌てて謝る私の頭からは、大神部長のことなどすっかり抜けていた。
 ――だけど世の中というものは、案外意外なところで繋がっているらしい。
 そんな言葉がぴったり当てまってしまう出来事が、その二日後に待ち受けているなんて、この時の私はもちろん想像もしていなかったのである。


「ただいまー!」

 仕事を終えて、愛する猫が待つ我が家に帰る。
 私が住んでいるのは、勤務先の銀行から二駅離れた、五年先には取り壊しが決まっているくらいボロい団地の一階だ。だけどあなどることなかれ、そのおかげでペット飼育可能物件で、かつファミリー向けの間取りなのでそこそこ広い。家賃も安く、その分貯金して、五年後にはそれを頭金にちょっと田舎に中古の一軒家を買う予定なのだ。伊達だてに銀行勤めはしていない、おそらくローンの審査も通るだろう。

「モコー! カイ! ただいま!」

 手早く玄関の鍵を開けて廊下を通り、同じ言葉を繰り返しながらリビングの扉を開ける。ぱっと視線を落とすと、入り口で二匹がお行儀よく並んで私を見上げていた。
 このお迎えこそ、猫飼い至福の一時である。
 ミルクティーみたいな優しい毛色をした茶トラのモコは、一声鳴いて私のふくらはぎに身体を擦りつけた。これがモコのお出迎えで、毎回頬ずりしたくなるほど嬉しくなる。ちなににサビ猫のカイは私を綺麗に無視して、リビングの扉をするりと抜け、廊下に出ていってしまった。

「カイーちょっとくらいねぎらってよー」

 つれないカイに、しかめ面を作ってそう文句を言ってみるものの、返事をするようにゆっくり左右に揺れた尻尾に、ついへにゃっと頬がゆるむ。
 今日はちょっと暑いから、きっと洗面所に行くのだろう。
 あの狭い手洗い場にぴったりと収まってまどろむのが、ここ最近の彼のブームなのである。
 にゃあぁ、と膝に手を伸ばしてよじ登ろうとするモコを抱き上げ、お腹に顔を埋めてその柔らかさを堪能する。

「あー……いやされる」
『今日もお疲れねぇ』

 そんな返事をするように、また短くモコが鳴いた。
 ……気まぐれでも人懐っこくても、猫は可愛いのである。
 とまぁそんな感じで、愛猫のモコとカイ、一人と二匹暮らし。
 お年頃だけど彼氏はいないし、作る気もない。――なんて言っちゃうと、ただの負け惜しみに聞こえるだろうけれど、前の彼氏との別れ方が最悪だったせいで、今でも恋愛事はただただ面倒としか思えないのだ。
 思い起こせば前の彼氏は服装から言葉遣い、仕草に至るまで自分の好みを私に押しつけ、その傲慢ごうまんぶりは相当なものだった。

『ただでさえ小さくて色気ないのに、そんな子供っぽいもん持つなよ』

 デートの途中で寄った雑貨屋さんで、当時お迎えしたばかりだったモコそっくりの猫の形をしたポーチを手に取った途端、当時の彼氏は嫌そうに鼻を鳴らしてそう言い放った。
 もちろんイラッとしなかったわけじゃない。けれど初めての彼氏だったこともあり、趣味を押しつけるのはよくない、とポーチを棚に戻してその場は我慢した。いくら猫ブームといったって嫌いな人がいるのは理解していたからだ。
 それ以来私は涙ぐましい努力をし、猫グッズは鞄に入る小物だけで我慢し、猫が苦手そうな彼氏に気を遣い、デートは外か彼氏の家で会うようにした。
 だけどある日、飲み会終わりに私の家の方が近いからと、急にやってきて、『なぁ。この部屋、獣くさくないか? 俺が来る時くらいどっかやれないの』とのたまった彼氏に――私は盛大にキレた。
 むしろお前が出ていきやがれ、と。
 おそらく少し前から彼氏と二匹がのった天秤は、拮抗きっこうしていた。そしてその一言で、完全に二匹の方に傾いてしまったのである。

『猫馬鹿とかキモイんだよ! お前なんか誰にも相手にされねえから! こっちから別れてやる。いいか、俺が振ったんだからな!』

 彼氏の子供っぽいマウンティングに、怒りからくる火事場のなんとやらで、荷物と共に彼氏を蹴り出し、その後私は散々我慢していた猫グッズをネットで買い漁った。
 戦利品に囲まれた時の爽快感といったら、今までどうして我慢できていたのだろうと首をひねるほどだった。あの清々すがすがしさは今も忘れられない。
 二年間、しかも初めて付き合った彼氏だった。寂しくなかったとは言わないけれど、その穴は猫達が埋めてくれた。
 結論。猫さえいれば彼氏はいらない。
 そして今現在も、何かと神経の使う仕事で気力体力ともにごっそり奪われる日々をいやしてくれるのは、この二匹なのである。あの日の私の選択は正しかったと、自分で自分を褒めたい。
 仕事着のまま、二匹のご飯の減り具合をチェックして、トイレの砂を交換する。それから、手早くシャワーを浴びた。
 そして膝にモコを抱っこしながら作り置きのカレーを温め直し、キッチンから和室へと持ち込む。
 食卓は、冬は炬燵こたつにもなる、おしゃれとはほど遠い昔ながらの座卓だ。元々猫のためだけに買ったのだけれど、案外暖房効率が良くて私も気に入っている。そんな座卓の天板の端っこに置いていたスマホが震えてメッセージ着信を告げた。

「うーん? 麻子あさこだ。何だろう」

 一人暮らしならではの行儀の悪さで、スプーン片手にメッセージ画面をタップする。
 麻子というのは小学校からの幼馴染おさななじみで気の置けない猫仲間だ。数年前から『ノアール』という猫カフェを経営している。実はモコとカイも、麻子から譲ってもらった猫だ。
 ここなら飼ってくれるだろうと思うのか、お店の前に飼えなくなった猫を捨てる人が時々いるらしい。まさしくモコとカイもそんな猫だった。当然ながら猫カフェといっても無限に飼えるわけではないし、性格によってはお店の猫スタッフとして働けない子も多い。
 元々は一匹だけ飼うつもりで、一番最初に寄ってきてくれたモコを引き取ったんだけど、一向に人に懐く様子を見せないカイの里親がなかなか見つからないと聞いて、思い切って二匹お迎えしたのだ。
 麻子のメッセージアプリのアイコンは、ノアールで一番人気のミルクちゃん。愛想はあまりないけれど、その名のとおり真っ白で、オッドアイがとても綺麗な美人さんだ。ホーム画像はお店の外観の写真で固定されているけれど、宣伝も兼ねているのか麻子のアイコンはころころ変わる。

明後日あさって予定がなかったら、十八時からヘルプお願いできないかな?』

 その下には土下座している、コミカルな猫のスタンプが三つも並んでいた。
 モコとカイの世話をするにあたって色々相談に乗ってもらっているし、二匹のフードやおやつを業者さんに頼むついでに卸値おろしねで購入させてもらっている恩もあるので、お店が大変そうな時はお手伝いに行っているのだ。
 それになんて言ったって猫カフェである。色んな猫がいて、とても楽しい。
 猫好きのお客さんとの会話も面白いし、私としては一石二鳥なので毎回ボランティアでいいって言うんだけど、次の日には時給分きっちりの金額が口座に振り込まれている。かたくなに断ると気軽に頼めなくなるかな、と思って結局受け取っているうちに、ちょっとしたお小遣い稼ぎになってしまった。

「サービス業はどこも大変だねー」

 おそらく、スタッフの確保ができなかったのだろう。
 人手不足はウチの銀行でも顕著に表れていて、以前は五人以上いた派遣さんも、今は二人しかいない。人は減っていくのに、営業目標の数字は何故か増えるという矛盾。なので月末はみんなピリピリしているのだ。
 十八時ならラストまで入っても二時間だから、それほど負担じゃない。特に予定はないし、麻子の店に行くのも久しぶりだ。
『いいよー』と返事を送ると、感謝の絵文字が踊って返ってきた。そのキャラクターも猫である。ブレないなぁ、と私はくすりと笑ってスマホを座卓に置いたのだった。


     †


 日曜日の朝。寒いけれど、家のベランダから見た空は高く、よく晴れている。
 細々とした家事や洗濯をして、毛だらけの毛布とモコとカイのベッドも外に干しておく。
 意外なことに猫を飼ってから、私の部屋は見違えて綺麗になった。
 前は洗濯した服を取り込んでカーテンレールに吊るしたままだったり、畳んでもソファの上に放置したりと明らかに荒れていた。正直、掃除機だって週に二回かければいい方だった。
 それが今や部屋に取り込んだ洗濯物は、さっさと畳んできちんと箪笥たんすにしまう。なぜなら、そうしないとカイとモコが、せっかく畳んだ洗濯物にじゃれて遊んでしまうからだ。
 二匹の誤飲が怖いので掃除機もマメにかけるようになったし、絨毯じゅうたんもすぐ毛だらけになってしまうので、気が付けばコロコロしている。
 むしろぐうたらな人こそ猫を飼った方がいい。母からも、あんたは猫を飼ってよかったわね、なんて言われるくらいなのだから。

「じゃあ、モコ、カイ。お出かけしてくるね。お土産みやげ買ってくるから」

 足にまとわりつくモコを抱き上げて頬ずりし、その近くにいたカイは撫でるだけに留める。
 カイは基本的にクールで、あまり触られるのが好きじゃないのだ。男の子は人懐っこくて、女の子の方が懐きにくいなんて聞いたことがあるけれど、ウチは正反対らしい。ついでに、サビ猫は基本的に愛嬌があって人懐っこい子が多いと言われている。つまり色んな猫がいるということだろう。

「お土産みやげはカイが喜ぶものだからねー」

 ちっともこっちを向いてくれないのが寂しくて、思わせぶりなことを言ってみるけれど、カイは『あっそ』とでも言うように、素っ気なくベッドの方に歩いていった。
 麻子のお店で猫メニューとして出している高級サラミは、カイのお気に入りだ。モコはチューブ状のあのお馴染なじみのやつが大好きだけど、カイは缶詰の高級感が好きらしい。たまに料理に使うツナ缶を開ける音にすら、普段のクールさが嘘みたいにすごい勢いで飛んでくるのだ。
 ……その後のがっかり顔が絶妙に可愛くて、いつもにやにやしてしまう。ただ、それをやるとものすごく機嫌が悪くなるので、本人的にはだまされたと怒っているのかもしれない。

「いってきますー!」

 私は再び二匹に向かってそう言うと、リビングの扉を閉めて玄関へ向かった。二匹が間違って外に出たりしないように、ドアの開け閉めは各部屋でこまめにするようにしている。
 麻子の店は電車に乗って、銀行とは反対の二駅向こうだ。にぎやかな繁華街から少し離れた場所にあり、一見いちげんさんよりも常連さんが多いお店だった。
 黒猫のイラストと『猫カフェ・ノアール』と描かれた看板が掲げられているビルの二階。
 猫カフェとしては看板も外装もシンプルで落ち着いていて、一見普通の喫茶店に見える。壁側にある本棚には、麻子のお母さんが趣味で集めたという推理小説がぎっしりと並んでおり、猫と遊びに来たつもりが、つい小説を読みふけってしまうお客さんも多い。
 ほんの少しかびっぽい匂いが、いい感じに猫もお客さんも落ち着かせてくれる、居心地の良い空間になっているのだ。私もお客さんとしてなら、何時間だっていたいくらい。
 私は階段を上がり、お店の入り口のガラス戸を開ける。続いて、猫が出ないように二重扉にしてある奥の扉を開けると、からん、とドアベルの音が鳴った。
 受付さんは初めて見る女の子だった。きっと新しいアルバイトの子なのだろう。だけど私がヘルプに入ることは聞いていたらしい。お互いに軽く会釈えしゃくをして、私は店の奥にある厨房ちゅうぼうに向かった。
 このカフェのメニューは全て、調理師免許を持っている麻子の手作りだ。だから店が開いている時間、麻子はたいてい厨房ちゅうぼうにいる。
 厨房ちゅうぼう暖簾のれんくぐって顔を出し、忙しそうに動いている細身の背中に声をかけた。
 麻子がぱっと振り返る。
 高い位置で一つ結びにしていた麻子の髪が、猫の尻尾みたいに大きく揺れた。

「和奏! 休みの日にごめんねー! すっごい助かる!」

 エプロンで手を拭きながら、入り口の方へ駆け寄ってくる。めいっぱい眉尻を下げた麻子に、首を振った。

「いいって。だけど代わりに例の缶詰、また卸売おろしうり価格で売ってほしいなぁ」

 カイのためにちょっと図々しいおねだりをすると、麻子は噴き出すように笑って快諾してくれた。

「カイはアレ好きだもんね。モコの分はどうする?」
「そっちもあれば嬉しいかも。でも家にまだあるから一箱でいいよ」

 そんなやりとりをしながら、厨房ちゅうぼうの小窓から店内を見渡す。
 猫スペースに二人、飲食スペースには二組のグループが入っていた。この時間にしては、客足は多い方だろう。
 この猫カフェはフードメニューが豊富なので、料理目当てで来る人も多い。温かい料理も多いから、猫がお皿をひっくり返して火傷やけどなどしないように、あえて飲食スペースと猫スペースを透明なアクリル板で仕切り、猫が行き来できないようにしてあるのだ。
 その時、からん、と来客を告げる鐘が鳴り、制服姿の女子高生が三人、おしゃべりしながら入ってきた。
 受付にいた女の子が「いらっしゃいませ」と挨拶した後、たどたどしくこのカフェのルールを説明していく。
 麻子いわく先週入ったばかりの新人のスタッフらしい。今はまだ大変そうだけど、同じことの繰り返しなので、週一のシフトでも半年も経てば一連の文言を暗唱できる子も多い。頑張れ~! と心の中でエールを送り、私は再び麻子に向き直った。

「私、給仕に入る? それとも猫スペース?」
「猫スペース! 給仕はもうすぐ来るから大丈夫なの。ちょっと汚れてるから、悪いんだけど掃除してもらえる?」
「了解」

 私はこくりと頷いて、厨房ちゅうぼうの手前にあるスタッフルームの扉を一応ノックしてから中に入る。
 もう何度もバイトをしているので、すでに勝手知ったる間取りである。
 臨時スタッフ用のロッカーからツナギを取り出す。制服である薄ピンクのツナギはなかなか派手だけど、一説では猫が好きな色らしい。
 デフォルメされた猫の絵とお店のロゴが入っているポケットは大きくて……アラサーが着てもいいのかと迷うほどに可愛いので、これだけはいまだに慣れない。
 着替えて髪をまとめようとして、ゴムを忘れたことに気付く。
 給仕じゃないからいいか、と思いながら最後におかしなところはないかと、入り口の鏡に全身を映してみた。
 ツナギの上はほぼすっぴんという、あまりに色気のない姿を改めて見つめ、思わず苦笑する。化粧品の匂いが嫌いな猫もいるので、ここに手伝いに来る時はすっぴんかつ、それを誤魔化すための伊達だて眼鏡だ。
 ……これ、同じ銀行の人が見ても、私だってわからないだろうなぁ。
 銀行では化粧は身嗜みだしなみの一つだし、あまりに童顔だとお客様の中には真面目に話を聞いてくれない人もいるので、化粧は濃い目を意識している。靴も、フロア内では常に高いヒールだ。
 そのせいか、以前すっぴん伊達だて眼鏡姿で偶然街で同僚とすれ違った時も素通りされたことがあった。声をかけると一瞬ぽかんとした顔をしてから「その声、もしかして宮下さん⁉」と、ものすごく驚かれたのだ。
 麻子は若く見られていいじゃない、なんて言うけれど、童顔の上にチビなので、ぺたんこ靴ですっぴんだと普通に学生に間違われてしまう。居酒屋さんでも年齢を確認されるくらいなのだ。……そのたびに笑われるので、外で呑む時はしっかりお化粧をすることにしている。

『お前。ホントすっぴんだと子供みたいだよな』

 ふと耳の奥でよみがえった前の彼氏の声に、ぎくりとする。
 ……後から考えれば、あいつはタイトスカートに高いヒールを履く、完全武装した『外向きの私』だけが好きだったのだ。外だけならともかく家の中でまで、そのきっちりした感じを期待されていて、モコとカイと遊ぶために着ていた動きやすい格好で出迎えると、途端に機嫌が悪くなった。自分は量販店のスウェット姿で寛いでいたにもかかわらず、だ!
 もう、なんで私、あんなに我慢してたのかな~……
 もはや相手がどうこうではなく、ひたすら我慢していた当時の自分自身が腹立たしい。
 鬱憤うっぷんが声に出そうになって、慌てて口を押さえてから、ふっと我に返った。
 ……いやいや、なんで今更思い出したりするかな! ホントあんな馬鹿、思い出す時間すらもったいない!
 首を振って憎たらしいその顔を打ち消した。
 勢いをつけすぎて頭がクラクラしつつも、ロッカーの横の棚から、除菌スプレーと紙ふきん、その他諸々のお掃除グッズが入ったかごを取り出して確認する。
 猫スペースの基本的なお仕事は、粗相した場所のお掃除、猫用おやつの注文を受けること、そしてお客さんが猫と上手にスキンシップがとれるようにお手伝いすることだ。後はお客さんが無理に抱っこしたり追いかけたりしていたら、やんわりと注意することも含まれていて結構忙しい。

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