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巨人族の足跡
11 「相互理解」はこの世界の嗜み
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先ほどは不覚にも、子供に睡眠魔術をかけられてしまった……と頭を抱える真夜。
あのあと、孝介が図書館へ迎えに来てくれた。いや、「来てくれた」というのは所詮道具に過ぎない孝介に対して丁寧過ぎる表現だ。高貴な闇の地の魔操師に奉仕できるだけでも、孝介はありがたいと思わなければならない。
「ヨダレ垂らしながら気持ち良さそうに寝てたぜ、お前」
NAロードスターの助手席に座った真夜に、孝介はそう告げた。途端、真夜は顔を赤くしてこう反論する。
「なっ! なっ! 何言ってるの!? ヨダレだなんて、私がそんなもの垂らすわけないでしょう!」
「怒るな怒るな。ヨダレ垂らしながら寝るってぇのは人間の生理現象だ」
そう言いながら孝介はギアを入れ、ロードスターを発進させた。
ソフトトップを開放したロードスターは、心地良い夏の風に煽られながら車道を進む。しかし、どういうわけか自宅の方向とはまるで違う道を走っている。不審に思った真夜は、
「コウ、どこ行くの?」
と、質問した。
「実はな、山木田のボスが今から家に来いって」
「山木田……さんの家?」
「お前がデイラボッチに興味を持ってるって言ったら、それじゃあ今からでも私の家に来なさい、お茶菓子くらい用意するから……ってな。どうやらボスはお前のことを気に入っちまったらしいぜ。あの子ともっとたくさん話したい、だなんて言ってたな」
「……ねえ、コウ」
真夜はやや不審な表情で、
「どうしてコウはあの人のことを“ボス”って呼ぶの?」
と、質問した。
「え? そりゃあ、あんな女傑は他にいねぇからな。ボスが若い頃に始めた『イベリアのムスリム』っていう小説があるんだが……15年かけて完結させた、とんでもなく長い代物でな。古代から中世にかけてのイベリア半島にあったイスラム王朝について書いた内容だ」
「イスラムって、イスラム教の?」
「ああ、そうだ。今のスペインやポルトガルがある地域は、昔はイスラム教の王国が支配していたんだ。その様子を、ボスは日本語の文学作品にしたんだ。8世紀のウマイヤ朝から、15世紀のナスル朝までの歴史をな」
イスラム教のことは、真夜も知っている。この世界最大の宗教勢力で、神のためなら命をも捨てて戦う集団だ。厳しい戒律を守っていて、酒と豚肉の摂取は厳禁。1日に何度も礼拝しなければならないという。「神は唯一絶対の存在」という教義に忠実で、それを否定する行為は許さない——。
これだけ聞くと、イスラム教徒は狂信的な集団に思える。が、
「イスラム教徒が実は科学的で異教徒に寛容、ということを日本人に教えたのはボスだ」
と、孝介は話した。
「ボスがあの本を書く前は、イスラム教は変な風習を守る過激な連中……というステレオタイプが日本にもあった。それを打ち破ったのがボスの書いた『イベリアのムスリム』ってわけだ。あれだけエキゾチックにイスラム教のことを書ける奴は、他にいねぇや。おかげでアルハンブラ宮殿目当てにスペイン観光する女子大生が相次いで、向こうの観光当局から表彰されたんだ」
「イスラム教が異教徒に寛容? ……何だかちぐはぐね。だって、唯一絶対の神を否定することは許さないんでしょ?」
「その神様が、他人を傷つけることを禁止している。だからテロリストになる連中こそがイスラム教の教義を捻じ曲げてる……と、俺のヨルダン人の知り合いも言ってたな。実際に、イスラム教ってのは科学や数学にも大貢献したんだ。建築、航海術、文学、交易……イスラム教はいろいろな形でいろいろな分野の発展を促した。それは“イスラムの寛容”の賜物だ、というのがボスの主張だ。もっとも、その“寛容”ってのはあくまでも同じ時代のキリスト教と比較した場合であって、ボス曰くイスラムの海賊が地中海沿岸のキリスト教の集落を襲ったり、住民を奴隷にしたりもしてたらしいがな。それでも教会ぐるみで天文学者を焼き殺したり、中央組織の内部が動脈硬化を起こしたりしないだけ同じ時代のキリスト教よりマシだった、ともボスは言ってる」
そう説明する孝介の言葉を、真夜は完全には理解し切れていない。
どうもこの世界は矛盾に満ちている。
自分たちの教義の否定を許さない人々が異教徒に対して寛容だったり、宗教集団なのに科学の発展に寄与していたり。このようなことを文章の工夫なく報告書に書いたら、ヒルダは頭でもおかしくなったのかとデルガドに言われてしまうだろう。少なくとも彼女の出身世界の構図は、もっと単純明快だ。光か闇か、勝者か敗者か、正統か異端か、科学か信仰か。
だが、そのような二分論で割り切れない異世界の現象や光景が、だんだんと面白く感じているのも事実だ。
「真夜、お前の育った国にはイスラム教徒はいなかったのか?」
「いないわね」
「なら、今度モスクにでも行ってみるか」
「モスク? ……ああ、イスラム教の礼拝所のこと? 私たちはイスラム教徒じゃないけど」
「そんなのは気にせんでいい。向こうは大歓迎だ。他国の文化や宗教を学ぶのも、ひとつの嗜みってもんだ」
孝介はギアを上げながら、
「この世界はいろいろな糸が粗雑に絡み合ってるような具合だからな。“自分と違う存在”を接するのは、生きる上で大事なことだ。俺はそのことに、相撲取りを辞めてからようやく気づいた」
と、まるで真夜の正体を見越してるかのような物言いで告げた。
あのあと、孝介が図書館へ迎えに来てくれた。いや、「来てくれた」というのは所詮道具に過ぎない孝介に対して丁寧過ぎる表現だ。高貴な闇の地の魔操師に奉仕できるだけでも、孝介はありがたいと思わなければならない。
「ヨダレ垂らしながら気持ち良さそうに寝てたぜ、お前」
NAロードスターの助手席に座った真夜に、孝介はそう告げた。途端、真夜は顔を赤くしてこう反論する。
「なっ! なっ! 何言ってるの!? ヨダレだなんて、私がそんなもの垂らすわけないでしょう!」
「怒るな怒るな。ヨダレ垂らしながら寝るってぇのは人間の生理現象だ」
そう言いながら孝介はギアを入れ、ロードスターを発進させた。
ソフトトップを開放したロードスターは、心地良い夏の風に煽られながら車道を進む。しかし、どういうわけか自宅の方向とはまるで違う道を走っている。不審に思った真夜は、
「コウ、どこ行くの?」
と、質問した。
「実はな、山木田のボスが今から家に来いって」
「山木田……さんの家?」
「お前がデイラボッチに興味を持ってるって言ったら、それじゃあ今からでも私の家に来なさい、お茶菓子くらい用意するから……ってな。どうやらボスはお前のことを気に入っちまったらしいぜ。あの子ともっとたくさん話したい、だなんて言ってたな」
「……ねえ、コウ」
真夜はやや不審な表情で、
「どうしてコウはあの人のことを“ボス”って呼ぶの?」
と、質問した。
「え? そりゃあ、あんな女傑は他にいねぇからな。ボスが若い頃に始めた『イベリアのムスリム』っていう小説があるんだが……15年かけて完結させた、とんでもなく長い代物でな。古代から中世にかけてのイベリア半島にあったイスラム王朝について書いた内容だ」
「イスラムって、イスラム教の?」
「ああ、そうだ。今のスペインやポルトガルがある地域は、昔はイスラム教の王国が支配していたんだ。その様子を、ボスは日本語の文学作品にしたんだ。8世紀のウマイヤ朝から、15世紀のナスル朝までの歴史をな」
イスラム教のことは、真夜も知っている。この世界最大の宗教勢力で、神のためなら命をも捨てて戦う集団だ。厳しい戒律を守っていて、酒と豚肉の摂取は厳禁。1日に何度も礼拝しなければならないという。「神は唯一絶対の存在」という教義に忠実で、それを否定する行為は許さない——。
これだけ聞くと、イスラム教徒は狂信的な集団に思える。が、
「イスラム教徒が実は科学的で異教徒に寛容、ということを日本人に教えたのはボスだ」
と、孝介は話した。
「ボスがあの本を書く前は、イスラム教は変な風習を守る過激な連中……というステレオタイプが日本にもあった。それを打ち破ったのがボスの書いた『イベリアのムスリム』ってわけだ。あれだけエキゾチックにイスラム教のことを書ける奴は、他にいねぇや。おかげでアルハンブラ宮殿目当てにスペイン観光する女子大生が相次いで、向こうの観光当局から表彰されたんだ」
「イスラム教が異教徒に寛容? ……何だかちぐはぐね。だって、唯一絶対の神を否定することは許さないんでしょ?」
「その神様が、他人を傷つけることを禁止している。だからテロリストになる連中こそがイスラム教の教義を捻じ曲げてる……と、俺のヨルダン人の知り合いも言ってたな。実際に、イスラム教ってのは科学や数学にも大貢献したんだ。建築、航海術、文学、交易……イスラム教はいろいろな形でいろいろな分野の発展を促した。それは“イスラムの寛容”の賜物だ、というのがボスの主張だ。もっとも、その“寛容”ってのはあくまでも同じ時代のキリスト教と比較した場合であって、ボス曰くイスラムの海賊が地中海沿岸のキリスト教の集落を襲ったり、住民を奴隷にしたりもしてたらしいがな。それでも教会ぐるみで天文学者を焼き殺したり、中央組織の内部が動脈硬化を起こしたりしないだけ同じ時代のキリスト教よりマシだった、ともボスは言ってる」
そう説明する孝介の言葉を、真夜は完全には理解し切れていない。
どうもこの世界は矛盾に満ちている。
自分たちの教義の否定を許さない人々が異教徒に対して寛容だったり、宗教集団なのに科学の発展に寄与していたり。このようなことを文章の工夫なく報告書に書いたら、ヒルダは頭でもおかしくなったのかとデルガドに言われてしまうだろう。少なくとも彼女の出身世界の構図は、もっと単純明快だ。光か闇か、勝者か敗者か、正統か異端か、科学か信仰か。
だが、そのような二分論で割り切れない異世界の現象や光景が、だんだんと面白く感じているのも事実だ。
「真夜、お前の育った国にはイスラム教徒はいなかったのか?」
「いないわね」
「なら、今度モスクにでも行ってみるか」
「モスク? ……ああ、イスラム教の礼拝所のこと? 私たちはイスラム教徒じゃないけど」
「そんなのは気にせんでいい。向こうは大歓迎だ。他国の文化や宗教を学ぶのも、ひとつの嗜みってもんだ」
孝介はギアを上げながら、
「この世界はいろいろな糸が粗雑に絡み合ってるような具合だからな。“自分と違う存在”を接するのは、生きる上で大事なことだ。俺はそのことに、相撲取りを辞めてからようやく気づいた」
と、まるで真夜の正体を見越してるかのような物言いで告げた。
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