26 / 77
水の底には誰がいる?
26 言問橋の記憶
しおりを挟む
夫妻は言問橋の歩道を浅草側から渡る。
正面の東京スカイツリーを眺めつつ、ゆっくり足を踏み締めるように歩く。隅田川から吹く風が、2人の肌を優しく撫でた。その心地良さに、真夜は溜め息をつく。
「気持ちいいわね、ここ」
そのように言葉を漏らした真夜は、
「ねえコウ、ちょっと待ってて。ここで川を観察してみるわ。河童が出てくるかもしれないし」
と、ショルダーバッグからオペラグラスを取り出した。倍率は10倍。4日前に家電量販店で買ったばかりのものだ。もちろん、遠距離から偵察する目的である。
しかし孝介は、
「真夜、そういうことは橋を渡り切ってからやらねぇか?」
と、告げる。
「どうして?」
「いや、まあ、何だ……。俺はここに来ると、どうしても気が気じゃなくなるんだ」
孝介は頭を掻きながら、
「母方のひい祖父さんと大叔母の最期の場所だからな」
「え?」
「戦争の時、このあたりはアメリカ軍の空襲で焼き払われたんだ。言問橋にも逃げてきた連中が集まってパニックになっちまって、そこへ焼夷弾が降ってきて……ということがあったんだ」
「空襲って、ドラゴン……いえ、飛行機からの攻撃のことね?」
「ああ、焼夷弾が雨のように落ちてきたって祖母さんが言ってたな。ひい祖父さんと大叔母は生きたまま焼かれて炭になっちまったらしい。祖母さんは別の方向へ逃げたから助かったんだがな……」
孝介は重苦しい溜め息をついた。
太平洋戦争のことは、真夜もこの世界の常識として知っている。そして今でもこの戦争が、日本人の心の傷になっているということも。だが、孝介の親族が戦争の犠牲になっていることは今初めて知った。
「真夜、お前この橋を渡る最中に親柱を見ただろ?」
「親柱? ……ああ、妙に黒ずんでいたあの柱ね」
「何で黒ずんでるか分かるか?」
「……いいえ」
「人間の肉と脂が焼夷弾の火で焦げついたから、ああいう色になったんだ」
「えっ……!」
真夜は絶句してしまう。そして先ほど通り過ぎた親柱の方向に視線をやる。生きたままの人間を焼き殺した跡が、今でも残されているの!?
「な、なぜ……?」
「ん?」
「なぜ柱を新しくしないの? そんな恐ろしい痕跡は——」
「撤去するわけにはいかねぇよ」
孝介はそう返し、
「思い返したくねぇ記憶は、忘れちゃならねぇ記憶だったりもする。俺は己の一族がここで無念の最期を遂げたことを絶対に忘れねぇし、子供ができたら必ず語り継ぐ。それが人間の進歩ってやつだ。そういうことをしなくなったら最後、もう一度この橋は焼かれるぞ」
と、静かながら力強く語った。
「……それに、隅田川の河童も空襲を見ていたはずだ。きっと、いや、間違いなくここの河童は人間を馬鹿な動物だと思ったはずだぜ」
「そう……なの?」
「そりゃそうだろ。読み書きと数学のできる大人が、赤ん坊も年寄りも容赦なく焼き殺す戦争を始めやがったんだ。河童はそんなくだらねぇことはしねぇさ。川の中を悠々と泳いで、たまに人間を驚かすために水面から顔出すのが関の山だ」
そう言葉を連ねる孝介は、平静を保ちながらも憤慨しているようだった。少なくとも、真夜はそう感じた。
私はコウと10年付き合っているから、彼の性格はよく知っている。屈強な肉体を持った戦士だけど、人を痛めつけることは大嫌いなのよね。ましてや殺すことなんて——。
真夜は孝介の太い腕を取り、優しく抱き寄せた。同時に、
「だから憎めないのよ、コウのこと」
と、孝介に聞こえない音量でそう告げた。
その時だ。
真夜は視界の端、隅田川の水面に黒い影があることに気づいた。しかもその影から、人のような顔が露出したではないか。
緑色の皮膚を持った人……いや、人型の生物である。
「コウ、あれ……!」
真夜は指を差した。孝介はその方向に目をやる。すぐに彼も、異形の存在に気づいたらしい。
「あれは……何だ!?」
そう言いながら孝介は、言問橋の欄干から身を乗り出した。
直後、顔は夫妻の視線から逃げるように水中へ潜り、影もそのまま消えていった。そして何事もなかったかのように、該当の位置の水面は普段の揺れ方に戻った。
「ねえ、コウ! あなたもはっきり見たでしょ?」
「あ、ああ……」
「間違いないわ。あれは河童よ! 私たち、ついに河童を発見したのよ!」
飛び上がりながら孝介にそう告げる真夜。そして、
「もう一度、もう一度よ! せめてあともう一度、河童の姿をこの目にはっきり焼きつけるわよ! さあ、コウも本腰入れて見張りなさい!」
と、孝介の広い背中を両手で押した。しかし、
「……いや、もう出てこねぇよ」
孝介はそう返す。
「そんなことないわよ。この川の水深って、大したものじゃないんでしょ? まだ遠くには行ってないはずよ。さあ!」
「そういう話じゃねぇさ。あの河童は……恐らく俺と同じことを思い耽ってたのさ」
「え?」
「この橋の過去を思い返していたのさ。だから少しの間だけ顔を出したんだ。……そういうことにしてやれよ、真夜」
孝介は真夜の身体を半ば強引に抱き寄せ、
「そろそろ行くぜ。俺ぁ腹減っちまった。橋の向こうに着いたら、どこか適当な店で食わねぇか? 今日は隅田川の河童に乾杯してやろうぜ」
と、真夜の耳元で告げた。
正面の東京スカイツリーを眺めつつ、ゆっくり足を踏み締めるように歩く。隅田川から吹く風が、2人の肌を優しく撫でた。その心地良さに、真夜は溜め息をつく。
「気持ちいいわね、ここ」
そのように言葉を漏らした真夜は、
「ねえコウ、ちょっと待ってて。ここで川を観察してみるわ。河童が出てくるかもしれないし」
と、ショルダーバッグからオペラグラスを取り出した。倍率は10倍。4日前に家電量販店で買ったばかりのものだ。もちろん、遠距離から偵察する目的である。
しかし孝介は、
「真夜、そういうことは橋を渡り切ってからやらねぇか?」
と、告げる。
「どうして?」
「いや、まあ、何だ……。俺はここに来ると、どうしても気が気じゃなくなるんだ」
孝介は頭を掻きながら、
「母方のひい祖父さんと大叔母の最期の場所だからな」
「え?」
「戦争の時、このあたりはアメリカ軍の空襲で焼き払われたんだ。言問橋にも逃げてきた連中が集まってパニックになっちまって、そこへ焼夷弾が降ってきて……ということがあったんだ」
「空襲って、ドラゴン……いえ、飛行機からの攻撃のことね?」
「ああ、焼夷弾が雨のように落ちてきたって祖母さんが言ってたな。ひい祖父さんと大叔母は生きたまま焼かれて炭になっちまったらしい。祖母さんは別の方向へ逃げたから助かったんだがな……」
孝介は重苦しい溜め息をついた。
太平洋戦争のことは、真夜もこの世界の常識として知っている。そして今でもこの戦争が、日本人の心の傷になっているということも。だが、孝介の親族が戦争の犠牲になっていることは今初めて知った。
「真夜、お前この橋を渡る最中に親柱を見ただろ?」
「親柱? ……ああ、妙に黒ずんでいたあの柱ね」
「何で黒ずんでるか分かるか?」
「……いいえ」
「人間の肉と脂が焼夷弾の火で焦げついたから、ああいう色になったんだ」
「えっ……!」
真夜は絶句してしまう。そして先ほど通り過ぎた親柱の方向に視線をやる。生きたままの人間を焼き殺した跡が、今でも残されているの!?
「な、なぜ……?」
「ん?」
「なぜ柱を新しくしないの? そんな恐ろしい痕跡は——」
「撤去するわけにはいかねぇよ」
孝介はそう返し、
「思い返したくねぇ記憶は、忘れちゃならねぇ記憶だったりもする。俺は己の一族がここで無念の最期を遂げたことを絶対に忘れねぇし、子供ができたら必ず語り継ぐ。それが人間の進歩ってやつだ。そういうことをしなくなったら最後、もう一度この橋は焼かれるぞ」
と、静かながら力強く語った。
「……それに、隅田川の河童も空襲を見ていたはずだ。きっと、いや、間違いなくここの河童は人間を馬鹿な動物だと思ったはずだぜ」
「そう……なの?」
「そりゃそうだろ。読み書きと数学のできる大人が、赤ん坊も年寄りも容赦なく焼き殺す戦争を始めやがったんだ。河童はそんなくだらねぇことはしねぇさ。川の中を悠々と泳いで、たまに人間を驚かすために水面から顔出すのが関の山だ」
そう言葉を連ねる孝介は、平静を保ちながらも憤慨しているようだった。少なくとも、真夜はそう感じた。
私はコウと10年付き合っているから、彼の性格はよく知っている。屈強な肉体を持った戦士だけど、人を痛めつけることは大嫌いなのよね。ましてや殺すことなんて——。
真夜は孝介の太い腕を取り、優しく抱き寄せた。同時に、
「だから憎めないのよ、コウのこと」
と、孝介に聞こえない音量でそう告げた。
その時だ。
真夜は視界の端、隅田川の水面に黒い影があることに気づいた。しかもその影から、人のような顔が露出したではないか。
緑色の皮膚を持った人……いや、人型の生物である。
「コウ、あれ……!」
真夜は指を差した。孝介はその方向に目をやる。すぐに彼も、異形の存在に気づいたらしい。
「あれは……何だ!?」
そう言いながら孝介は、言問橋の欄干から身を乗り出した。
直後、顔は夫妻の視線から逃げるように水中へ潜り、影もそのまま消えていった。そして何事もなかったかのように、該当の位置の水面は普段の揺れ方に戻った。
「ねえ、コウ! あなたもはっきり見たでしょ?」
「あ、ああ……」
「間違いないわ。あれは河童よ! 私たち、ついに河童を発見したのよ!」
飛び上がりながら孝介にそう告げる真夜。そして、
「もう一度、もう一度よ! せめてあともう一度、河童の姿をこの目にはっきり焼きつけるわよ! さあ、コウも本腰入れて見張りなさい!」
と、孝介の広い背中を両手で押した。しかし、
「……いや、もう出てこねぇよ」
孝介はそう返す。
「そんなことないわよ。この川の水深って、大したものじゃないんでしょ? まだ遠くには行ってないはずよ。さあ!」
「そういう話じゃねぇさ。あの河童は……恐らく俺と同じことを思い耽ってたのさ」
「え?」
「この橋の過去を思い返していたのさ。だから少しの間だけ顔を出したんだ。……そういうことにしてやれよ、真夜」
孝介は真夜の身体を半ば強引に抱き寄せ、
「そろそろ行くぜ。俺ぁ腹減っちまった。橋の向こうに着いたら、どこか適当な店で食わねぇか? 今日は隅田川の河童に乾杯してやろうぜ」
と、真夜の耳元で告げた。
0
あなたにおすすめの小説
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
誰でもイイけど、お前は無いわw
猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。
同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。
見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、
「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」
と言われてしまう。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる