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水の底には誰がいる?
33 赤味噌の思い出
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今夜は名古屋市内のホテルで1泊する。しかし夕食はホテルではなく、外で済ますことにした。名古屋に来て外食を一切しないというのは、非常にもったいない。
松島夫妻が暖簾をくぐったJR名古屋駅近くの居酒屋は、赤味噌料理を出していた。
この赤味噌というものは、孝介にとっては思い入れのある食材だと真夜は聞いている。彼が大相撲の力士だった頃、年に1回のペースで名古屋に行き、地元の後援者から大量の赤味噌をもらっていたらしい。
「そのタニマチは俺が新弟子だった頃からいろいろ目をかけてくれたんだ。とにかく赤味噌料理を食え、赤味噌は人間の脳をプラス思考にしてくれる……ってな」
そう語りながら孝介は、インゲンとイカの赤味噌和えを口に運ぶ。
「この料理にそんな効能が?」
「ああ、何でも科学的に実証されてるらしい。……実はな、俺も名古屋場所で準優勝したことがあるんだ。あの時は、確かにやたらとプラス思考だったな」
「へぇ……」
真夜は大ジョッキを傾けながら、
「私、コウが相撲とやらをやってた頃の話は詳しく聞いてないわ。この機会だから、詳しく話して」
と、要求した。それに対して孝介は「はっ!」と笑い飛ばし、
「そんなカビの生えた昔話なんざ、面白かぁねぇや。俺は若い頃、無駄に有り余っていた体力を生かして大相撲である程度の番付まで上がって、ある日突然相撲やることに満腹しちまった。髷を落としたあとはコネをつたってアメリカに行って日系コミュニティーが運営する邦字メディアの記者になって物書きの修業をして帰国してお前と知り合って今に至る。それだけだ」
「随分ザックリした半生ね」
「事実なんだから仕方ねぇや」
孝介はそう語るが、実際はそんなに単純ではないことくらいは真夜も察している。
彼が相撲を辞めたあと、アメリカへ行って日系人向けのメディアと契約してライターをやっていた……という部分は信じよう。が、問題はそれ以前だ。真夜は現役時代の大松樹の写真や映像を見たことがある。今よりもさらに筋肉に満ち満ちた身体で、他のどの力士よりも俊敏な動きで自分より大きな相手を投げ飛ばしていた。
真夜が気になるのは、そんな大松樹がどうやら肉体的な衰えを見せないまま引退したらしい……という点だ。
孝介には告げていないが、真夜はネットで「大松樹」と検索したことがある。
彼の所属する「部屋」とやらで、何か一悶着あったということだけはどうにか理解した。それ以上詳しいことは、相撲の知識がないからよく分からなかったが——。
*****
東京都江東区、荒川を見据える場所に位置する品山部屋は、ちょうど夕飯時である。
鍋を囲むのは元横綱皐月富士の品山親方と前頭の金枝山、同じく前頭の相模灘である。あとの力士は幕下以下で、彼らは給仕と雑用に回っている。
今日のちゃんこは、品山部屋ちゃんこ長の武菱が作った赤味噌鍋だ。
「はい、どうぞ! 今夜は赤味噌好きの親方のために、精一杯のラブラブハートを込めて作りましたよ」
武菱のその軽口に、
「馬鹿野郎、そんなのは嫁のだけで十分だ!」
品山はそう返し、笑った。
「相変わらず恐妻家なんだから」という武菱の余計なつぶやきに「うっせぇ!」と突っ込みながらも、品山はお玉を使って鍋をかき混ぜる。豊富な野菜と牛肉、そして肉団子まで投入された見事な出来栄えの鍋である。さすがはこの道20年のちゃんこ長が作る料理である。武菱の鍋は、今やテレビ番組にも取り上げられるほどだ。
その上で今夜の鍋は赤味噌である。品山が世界で最も好む食材だ。それを赤ワインと共に勢いよくかっ食らう。
ふと品山は、かつての付け人を思い出した。
部屋は違うが同じ一門だったその付け人は見事に出世し、自分と共に鍋を囲む関取になった。あいつも赤味噌鍋を世界最高の美味のように食らっていた男で、あの年の名古屋場所では休場した俺の代わりに千秋楽まで白星を挙げていた。最後の最後で土がつき、優勝は成らなかったが——。
今度、久々に会ってみるか。
マツのかつての婚約者が、今どうしてるかということも話しておくべきだからな。
<水の底には誰がいる?・終>
松島夫妻が暖簾をくぐったJR名古屋駅近くの居酒屋は、赤味噌料理を出していた。
この赤味噌というものは、孝介にとっては思い入れのある食材だと真夜は聞いている。彼が大相撲の力士だった頃、年に1回のペースで名古屋に行き、地元の後援者から大量の赤味噌をもらっていたらしい。
「そのタニマチは俺が新弟子だった頃からいろいろ目をかけてくれたんだ。とにかく赤味噌料理を食え、赤味噌は人間の脳をプラス思考にしてくれる……ってな」
そう語りながら孝介は、インゲンとイカの赤味噌和えを口に運ぶ。
「この料理にそんな効能が?」
「ああ、何でも科学的に実証されてるらしい。……実はな、俺も名古屋場所で準優勝したことがあるんだ。あの時は、確かにやたらとプラス思考だったな」
「へぇ……」
真夜は大ジョッキを傾けながら、
「私、コウが相撲とやらをやってた頃の話は詳しく聞いてないわ。この機会だから、詳しく話して」
と、要求した。それに対して孝介は「はっ!」と笑い飛ばし、
「そんなカビの生えた昔話なんざ、面白かぁねぇや。俺は若い頃、無駄に有り余っていた体力を生かして大相撲である程度の番付まで上がって、ある日突然相撲やることに満腹しちまった。髷を落としたあとはコネをつたってアメリカに行って日系コミュニティーが運営する邦字メディアの記者になって物書きの修業をして帰国してお前と知り合って今に至る。それだけだ」
「随分ザックリした半生ね」
「事実なんだから仕方ねぇや」
孝介はそう語るが、実際はそんなに単純ではないことくらいは真夜も察している。
彼が相撲を辞めたあと、アメリカへ行って日系人向けのメディアと契約してライターをやっていた……という部分は信じよう。が、問題はそれ以前だ。真夜は現役時代の大松樹の写真や映像を見たことがある。今よりもさらに筋肉に満ち満ちた身体で、他のどの力士よりも俊敏な動きで自分より大きな相手を投げ飛ばしていた。
真夜が気になるのは、そんな大松樹がどうやら肉体的な衰えを見せないまま引退したらしい……という点だ。
孝介には告げていないが、真夜はネットで「大松樹」と検索したことがある。
彼の所属する「部屋」とやらで、何か一悶着あったということだけはどうにか理解した。それ以上詳しいことは、相撲の知識がないからよく分からなかったが——。
*****
東京都江東区、荒川を見据える場所に位置する品山部屋は、ちょうど夕飯時である。
鍋を囲むのは元横綱皐月富士の品山親方と前頭の金枝山、同じく前頭の相模灘である。あとの力士は幕下以下で、彼らは給仕と雑用に回っている。
今日のちゃんこは、品山部屋ちゃんこ長の武菱が作った赤味噌鍋だ。
「はい、どうぞ! 今夜は赤味噌好きの親方のために、精一杯のラブラブハートを込めて作りましたよ」
武菱のその軽口に、
「馬鹿野郎、そんなのは嫁のだけで十分だ!」
品山はそう返し、笑った。
「相変わらず恐妻家なんだから」という武菱の余計なつぶやきに「うっせぇ!」と突っ込みながらも、品山はお玉を使って鍋をかき混ぜる。豊富な野菜と牛肉、そして肉団子まで投入された見事な出来栄えの鍋である。さすがはこの道20年のちゃんこ長が作る料理である。武菱の鍋は、今やテレビ番組にも取り上げられるほどだ。
その上で今夜の鍋は赤味噌である。品山が世界で最も好む食材だ。それを赤ワインと共に勢いよくかっ食らう。
ふと品山は、かつての付け人を思い出した。
部屋は違うが同じ一門だったその付け人は見事に出世し、自分と共に鍋を囲む関取になった。あいつも赤味噌鍋を世界最高の美味のように食らっていた男で、あの年の名古屋場所では休場した俺の代わりに千秋楽まで白星を挙げていた。最後の最後で土がつき、優勝は成らなかったが——。
今度、久々に会ってみるか。
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<水の底には誰がいる?・終>
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