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真夜と孝介
66 品山部屋の食卓
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この日の朝、真夜は光に相談のテキストメッセージを送っていた。最近、コウの様子がおかしい。女遊びをしてるとか何とか言ってるが、本当は私以外の「女」がいるのではないか。女将さんや品山さんに、そのあたりで何か思い当たることはないか——。
そのような相談をされた品山夫妻の返答は、
「それに関しては、電話でなく私たちの家で話しましょう」
だった。「私たちの家」とは、即ち品山部屋である。
真夜は孝介が「友達と飲みに行く」という口実で出かける少し前、「欲しい服を見つけたから買いに行く」と家を出た。そしてその足で電車に乗り、品山部屋を目指したのだった。
相撲部屋には初めて赴くが、品山親方も光も彼らの「息子たち」も真夜を歓迎した。大きな身体の力士たちが、これもまた大きな鍋を用意して真夜の来訪を待っていたらしい。
鍋の周りには座布団が5枚。品山夫妻、前頭金枝山、同じく前頭相模灘、そして真夜。この日の夕食はこの5人で鍋を囲んだ。金枝山と相模灘以外の力士は、この輪に混ざれないという。
「あの人たちはなぜご飯を食べないんですか?」
真夜がそう質問すると、
「幕下以下の力士は、我々が終わったあとに食べます。それまでは給仕です」
品山親方がそう答えた。
「なるほど、階級社会ですわね……。それはそうと、え~と、金枝山さん?」
突然そう話を振られた金枝山は「はい?」と返しながら、相撲ファンの間でもよく知られる「いい笑顔」を向けた。
「この前の場所、優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「とても素晴らしい相撲で、興奮しました。特に12日目の取組、立ち合いからそのまま電車道で寄り切った相撲は見事でした」
金枝山は「ははは」と笑いながら照れ臭そうに頭を抱え、
「いえ、あれは自分でもびっくりするくらいの内容でして……。自分、ああいう相撲は滅多に取らないんですよ」
と、話す。
「正直、自分には身分不相応な勝ちっぱなしだったんじゃないかなと……」
「このまま横綱まで目指すのでしょう?」
「いやいや、さすがにそこまでは……」
するとそこへ品山親方が、
「今場所は横綱が不調で、3大関もパッとしませんでした。途中休場していたのもいましたからね。そうでなければ、この男の優勝は夢みたいなものですよ」
と、説明した。
「あら、それでも上を目指して頑張っているのでしょう? ウチのコウは、そろそろ世代交代が近いと言ってました。それが本当なら、金枝山さんが横綱になる可能性も——」
「横綱は別世界ですよ」
品山親方は真夜に微笑を向け、
「横綱という地位は、我々が“なれる、なれない”と論じられるものではないんです。……綱取りには成績の他に“心・技・体”が求められるとは、よく言われることです。そして横綱は……まあ、私自身がそうでしたから嫌というほど身に染みているのですが、どんなに負けても降格しないんですよ」
「でも、大関は負けが込んだら関脇に落とされるんじゃ……」
「そのあたりが、横綱が別世界の地位である所以と言いますか。横綱はどんなに負けても絶対に降格しません。ですが……いや、だからこそ負けてはいけない」
「え?」
「ややこしい話になってしまいますね。負けても揺るぎない地位にいるからこそ、負けてはいけない。しかも横綱は勝ち方も問われます。立ち合いで突っ込んできた相手を回避する、いわゆる“変化”は天地がひっくり返ってもできません。もちろん、それをやって勝っても反則というわけではありません。しかし、やはりできないんですよ」
品山親方は小皿に入れた鍋つゆを一口飲み、続ける。
「横綱はその地位と一心同体、と言えばいいですか。もはや身体に貼り付いて取れないものと表現してもいいでしょう。ですから“横綱が負ける”というのは、力士個人の負けではなく地位の負けなんですね。それだけの地位へ行く、というのは白星や優勝の数を超越した何かを発揮しなければならないわけです」
さらに品山親方は、
「横綱は孤独な世界ですよ」
と、再び微笑を浮かべた。
やはりこの人物は、我々の世界の魔王デルガドよりもさらに上を行くと真夜は感じた。「魔王はその地位と一心同体」などという言葉は、デルガドの口からは絶対に出てこないだろう。このあたり、まるで格が違う。
そんな人物に、真夜は食事が終わったら相談をするのだ。ここのところ挙動が不審な夫について——。
*****
「やっぱり真夜さんも女なんだね。松っつぁんに真夜さん以外の人がいるっていうことに、勘で気づいたんだから」
品山部屋2階の事務室。ソファーの上で長年知る由のなかった真実に打ちのめされる真夜に対し、光が優しく言葉をかけた。
「松っつぁんの元婚約者……大塚弘子さんって言うんだけど、梅咲事件のあとはずっとお父さんの面倒を見ていたそうなの。それが、つい最近お父さんが亡くなってやっと自由な時間もできたらしくて——」
「それでコウと密会をするようになった、と」
「密会じゃなくて、あの時はよく話し合って別れたわけじゃないから区切りをつけるために私たちが再会させた、とでも言うのかな? 実際、松っつぁんに弘子さんの連絡先教えたのはウチのタケちゃんなんだよ」
すると品山親方が、
「まさかあいつの今の嫁さんが、昔の騒動についてまったく知らないとは思ってもみませんでした。海外にいた方なら、相撲のことなど知らないのは当然です。そのことに気づいていれば、私もあいつに昔の許嫁の連絡先など教えなかったのですが」
と、頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。奥さんの怒りはごもっともです」
真夜は謝罪する品山親方の心情を、よく理解することができた。日本という国では大相撲は人気競技どころか国技にすらなっている。故に、角界で発生した事件や不祥事についても全国民に共有される。真夜が今の今まで知らなかった梅咲事件は、日本国民の間では常識事項だった。
だから品山夫妻は誤解してしまった。マツの今の嫁は日本人だから、梅咲事件のことも知っている。それを承知でマツと所帯を持ったのだ……と。
「……品山さん。なぜウチのコウは、私に昔のことを隠していたのでしょうか?」
真夜にそう問われた品山親方は、
「それはあいつが意気地のない男だから、と言うしかありません」
と、断じた。
そのような相談をされた品山夫妻の返答は、
「それに関しては、電話でなく私たちの家で話しましょう」
だった。「私たちの家」とは、即ち品山部屋である。
真夜は孝介が「友達と飲みに行く」という口実で出かける少し前、「欲しい服を見つけたから買いに行く」と家を出た。そしてその足で電車に乗り、品山部屋を目指したのだった。
相撲部屋には初めて赴くが、品山親方も光も彼らの「息子たち」も真夜を歓迎した。大きな身体の力士たちが、これもまた大きな鍋を用意して真夜の来訪を待っていたらしい。
鍋の周りには座布団が5枚。品山夫妻、前頭金枝山、同じく前頭相模灘、そして真夜。この日の夕食はこの5人で鍋を囲んだ。金枝山と相模灘以外の力士は、この輪に混ざれないという。
「あの人たちはなぜご飯を食べないんですか?」
真夜がそう質問すると、
「幕下以下の力士は、我々が終わったあとに食べます。それまでは給仕です」
品山親方がそう答えた。
「なるほど、階級社会ですわね……。それはそうと、え~と、金枝山さん?」
突然そう話を振られた金枝山は「はい?」と返しながら、相撲ファンの間でもよく知られる「いい笑顔」を向けた。
「この前の場所、優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「とても素晴らしい相撲で、興奮しました。特に12日目の取組、立ち合いからそのまま電車道で寄り切った相撲は見事でした」
金枝山は「ははは」と笑いながら照れ臭そうに頭を抱え、
「いえ、あれは自分でもびっくりするくらいの内容でして……。自分、ああいう相撲は滅多に取らないんですよ」
と、話す。
「正直、自分には身分不相応な勝ちっぱなしだったんじゃないかなと……」
「このまま横綱まで目指すのでしょう?」
「いやいや、さすがにそこまでは……」
するとそこへ品山親方が、
「今場所は横綱が不調で、3大関もパッとしませんでした。途中休場していたのもいましたからね。そうでなければ、この男の優勝は夢みたいなものですよ」
と、説明した。
「あら、それでも上を目指して頑張っているのでしょう? ウチのコウは、そろそろ世代交代が近いと言ってました。それが本当なら、金枝山さんが横綱になる可能性も——」
「横綱は別世界ですよ」
品山親方は真夜に微笑を向け、
「横綱という地位は、我々が“なれる、なれない”と論じられるものではないんです。……綱取りには成績の他に“心・技・体”が求められるとは、よく言われることです。そして横綱は……まあ、私自身がそうでしたから嫌というほど身に染みているのですが、どんなに負けても降格しないんですよ」
「でも、大関は負けが込んだら関脇に落とされるんじゃ……」
「そのあたりが、横綱が別世界の地位である所以と言いますか。横綱はどんなに負けても絶対に降格しません。ですが……いや、だからこそ負けてはいけない」
「え?」
「ややこしい話になってしまいますね。負けても揺るぎない地位にいるからこそ、負けてはいけない。しかも横綱は勝ち方も問われます。立ち合いで突っ込んできた相手を回避する、いわゆる“変化”は天地がひっくり返ってもできません。もちろん、それをやって勝っても反則というわけではありません。しかし、やはりできないんですよ」
品山親方は小皿に入れた鍋つゆを一口飲み、続ける。
「横綱はその地位と一心同体、と言えばいいですか。もはや身体に貼り付いて取れないものと表現してもいいでしょう。ですから“横綱が負ける”というのは、力士個人の負けではなく地位の負けなんですね。それだけの地位へ行く、というのは白星や優勝の数を超越した何かを発揮しなければならないわけです」
さらに品山親方は、
「横綱は孤独な世界ですよ」
と、再び微笑を浮かべた。
やはりこの人物は、我々の世界の魔王デルガドよりもさらに上を行くと真夜は感じた。「魔王はその地位と一心同体」などという言葉は、デルガドの口からは絶対に出てこないだろう。このあたり、まるで格が違う。
そんな人物に、真夜は食事が終わったら相談をするのだ。ここのところ挙動が不審な夫について——。
*****
「やっぱり真夜さんも女なんだね。松っつぁんに真夜さん以外の人がいるっていうことに、勘で気づいたんだから」
品山部屋2階の事務室。ソファーの上で長年知る由のなかった真実に打ちのめされる真夜に対し、光が優しく言葉をかけた。
「松っつぁんの元婚約者……大塚弘子さんって言うんだけど、梅咲事件のあとはずっとお父さんの面倒を見ていたそうなの。それが、つい最近お父さんが亡くなってやっと自由な時間もできたらしくて——」
「それでコウと密会をするようになった、と」
「密会じゃなくて、あの時はよく話し合って別れたわけじゃないから区切りをつけるために私たちが再会させた、とでも言うのかな? 実際、松っつぁんに弘子さんの連絡先教えたのはウチのタケちゃんなんだよ」
すると品山親方が、
「まさかあいつの今の嫁さんが、昔の騒動についてまったく知らないとは思ってもみませんでした。海外にいた方なら、相撲のことなど知らないのは当然です。そのことに気づいていれば、私もあいつに昔の許嫁の連絡先など教えなかったのですが」
と、頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。奥さんの怒りはごもっともです」
真夜は謝罪する品山親方の心情を、よく理解することができた。日本という国では大相撲は人気競技どころか国技にすらなっている。故に、角界で発生した事件や不祥事についても全国民に共有される。真夜が今の今まで知らなかった梅咲事件は、日本国民の間では常識事項だった。
だから品山夫妻は誤解してしまった。マツの今の嫁は日本人だから、梅咲事件のことも知っている。それを承知でマツと所帯を持ったのだ……と。
「……品山さん。なぜウチのコウは、私に昔のことを隠していたのでしょうか?」
真夜にそう問われた品山親方は、
「それはあいつが意気地のない男だから、と言うしかありません」
と、断じた。
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