上 下
3 / 54
第1章

若き皇帝メフメト二世

しおりを挟む
 青年皇帝メフメト二世は、お忍びでガラタの塔から「その街」を見下ろしていた。
 それは奇遇にもレオナルドが鐘楼塔からローマを眺めていたのと重なる時期のことだ。
 幼い日、コンスタンティノポリスの絵画を初めて目にした時のことは、今でも鮮明に覚えている。
 父帝ムラトの寵姫の一人、元セルビアの王女マーラの部屋には、西欧のめずらしい物が溢れかえっていた。メフメトに王子教育をほどこしてくれた継母でもある彼女の影響で、幼い少年メフメトはヨーロッパ文化に夢中になっていった。眩いばかりの色彩豊かなコンスタンティノポリスの絵に、一瞬にして心を奪われた。
 それ以来、メフメトは幾たびこの塔に登ったことだろう。もともと灯台として建てられた九階建ての塔は、ペラの丘に高々とそびえている。ここから金角湾(きんかくわん)を挟んで眺める東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスは、何度見ても繰り返し新たに彼の心を揺さぶってくる。とめどなく魅惑的で、抗えなくする不思議な力を帯びて横たわっていた。
 それに対峙するように、ボスポラス海峡を挟んで左手対岸に我がオスマンの領土――アジアの遠く霞みゆくほど広大な大陸が迫るように位置し、その反対方向、コンスタンティノポリスの陸地側――テオドシウスの三重の城壁の向こうには、ヨーロッパ大陸が西方へと遥か彼方まで続くのだ。塔からの眺めは、まさにメフメトの欲する街を、掌中に見下ろすことができる場所だった。
 城壁の中でとりわけ若き皇帝の目を引く建物がある。それはボスポラス海峡寄りの丘に美しい半球形の円蓋を頭上にたたえる、聖ソフィア大聖堂の姿だ。
「あの丸屋根(ドーム)を、必ずや手に入れん!」
 その熱望はますます高まるばかりだ。たとえどのような女にも、いや男色女色両方で知られたメフメトにとっては、女に限らなかったかもしれないが、この街ほど熱い思いを傾けた妻や愛人はいなかった。「異教徒カトリックの最高峰でありこの上なく美しい聖ソフィアを、独り占めしたい」その野心は、例えば敵の寵妃を奪うなどという小さなことより、何十倍も何百倍も占有欲の満たされる行為なのだ。
 その時皇帝の隣で、細く透き通った少年の声が、イスラム教の開祖ムハンマドの言葉を口にした。
「アッラーの神は、汝にこの大地を継がせることを約束なされた」
 メフメトがガラタの塔に同行した美しいオスマンの少年小姓、トゥルサンの柔らかな唇からこぼれたのは、風景に対する称賛と、尊敬する主人の夢の実現を予言するかのような教祖ムハンマドの言葉である。
「ふむ……だがその前に、大きな課題が控えているのがわかるか?」
「はい、文字通りの障壁です。三角形のこの街は、周囲を三辺とも地中海一頑強な城壁に囲まれていますゆえ」
「おそらくヨーロッパ一と心得ておけ」
「はい、陛下」
 中でも特に西の陸地側を守るテオドシウス城壁は、三重構造の不屈の壁だった。
「未だかつてここから攻め入ろうとした敵は数知れぬが、テオドシウスの壁は侵入を許したことが一度たりとも無い」
「でも南のマルモラ海に面する壁は一重ですね」
「残念ながらあの海は、波も高く風も強い。しかも戦艦のような大きな船が着ける港は皆無……」
 要するに沖からの攻撃は潮に流されて不可能、上陸もままならぬとあって、このマルモラ海から攻めて来た敵も史上誰もいない。
「では残る北の一辺、この金角湾側から攻め入ろうとすればどうなる?」
「対岸をガラタに守られていますから、湾に敵艦が入り込んだ途端に城壁から雨のように砲撃されるかと……」
 満足のいく答えだったかどうか、トゥルサンは隣りを仰ぎ見る。どうやら彼の言った通りのことを主人も考えているようだった。
 敵の守りは硬い。
 メフメトは、夕日を受けて黄金のごとく光を揺らしている湾の水面に目を細める。かつてこの港は、実際に金銀宝石を積んだ商船が行き来していた。入り口から優雅な曲線を描いて角笛型に細くなる形状――それら全てが金角湾の名の由来だ。
 ビザンティンに世界中の金が集まったというのは昔の話だが本当のことだ。今でもイタリアの都市国家と取引をしていた。特にジェノヴァとヴェネツィアそれぞれの共和国は居住区まで与えられ、東ローマ帝国と軍事や商業協定を結んでいる。コンスタンティノポリスの城壁の中の金角湾沿いのラテン地区に住むヴェネツィア人、そして彼らとは距離を置いて、湾を挟んだ反対側のガラタに住居を構えるジェノヴァ人……。それらが分かれているのには理由がある。両国は何百年も前から、地中海を中心とする軍事や経済力を巡って戦いを続けてきたライバルだからだ。
 彼らのようにお互い同じ言語を話し同じ宗教の信者であっても敵対することは珍しくないのだから、東ローマ帝国のギリシャ人と西ヨーロッパとの繋がりはもっと複雑だった。互いに受け入れて協力してはいても、東西では信ずる宗教さえも――元は同じところから派生したとはいえ――今では明らかに異なっている。ギリシャ正教はその名に示す通り、カトリックから分かれたのではなく自らが正教(オーソドックス)だと信ずる者たちの集まりだ。
 新皇帝メフメト二世には、眼下の景色から敵の弱みが手に取るようにはっきりと見えるのだった。
「むろん海軍歴の浅い我らだが、陸軍は敵どもの比ではない」
「はい、膨大な数の兵士ですから。オスマンだけでなく隣接する東欧の弱小国からも、陛下が命ずれば兵力を提供するでしょう」
 むしろ兵士を差し出さねばならないというほうがふさわしい。セルビアやブルガリアのキリスト教徒をオスマン軍に強制参加させることは、それだけで敵の皇帝コンスタンティヌスに打撃を与えるに違いない。
「他の策がわかるか?」
「はい、こちらに利点は色々ありますが、ここはジェノヴァ人の住む敵地ゆえ……」
「そうだな、口に出すのは控えておこう。では、まもなく皇宮を訪ねてくる者がいる、とだけ教えておく」
 トゥルサンはメフメトの仄めかした意味を考えた。兵力の他にどんな戦略があるかと問われたのだから、つまり訪ねてくる人物は傭兵ではないということだ。
 ガラタの塔を降りようとするメフメトを彼は追いかける。その時スルタンに気づいた一人のオスマン人が、床にひれ伏してイスラム式の礼をとった。
「こ、これは陛下」
「ふっ、空気の読めない輩よ。余が何のために、歩兵に扮しておるというのだ」
 つぶやいたメフメトは、同伴していた大柄の黒人護衛兵に向けて、そのかしずく男を始末するよう顎で示す。そしてただの兵士の制服に身を隠した皇帝は、トゥルサンが後ろを振り返らないように、彼の細い肩に腕を回して一緒に塔を降り始めた。
 メフメトの軍服の硬い袖がトゥルサンの敏感な白い肌に触れ、張りつめた感覚が思わず彼の背中に駆け抜けそうになった。美しき少年は、うっすらと唇を開いてスルタンを見上げる。その純真そうに澄み切った瞳は、後ろで何が起こっているのかは、おおよそ検討がついてはいたのだが。なぜならトゥルサンには、メフメトの心がいつも読めていたから。おそらく黒人の護衛兵士が太刀を振り下ろしているはずの背後は、振り返らなくとも……。
しおりを挟む

処理中です...