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第1章

メフメトの戦略

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 ――Gallia est omnis divisa in partes tres.――ガリアは全体が三つの地域に分かれている。皇帝カエサルによって書かれた「ガリア戦記」の冒頭をなすこのラテン語のくだりは、世界史上もっとも有名な書き出しだと言われている。
 その昔、現在トルコ共和国と呼ばれる地域で、オスマン帝国はアラビアやヨーロッパをじわじわと侵食しつつあった。オスマンの皇帝(スルタン)たちが、東ローマ帝国と戦いながらアナトリア(小アジア)地域から国を拡大していた頃、一四三二年メフメトは皇帝ムラト二世の三男として生まれた。幼い時期から西欧に興味を持ち、ラテン語で書かれた「ガリア戦記」や「アレクサンドロス東征記」を愛読する王子だった。異教徒の英雄たちの著書に夢中になる息子を、父が警戒していたのは言うまでもない。皇帝だけでなく大臣(パシャ)たちも、その危険な行為を不穏に感じていた。
 そう――大人たちはおそらくわかっていた。それは英雄に対するただの憧れではなく、彼らの戦略や政治を研究しているのが真の理由だと……、そして少年メフメトの内に潜む果てしなく恐ろしい野望を、この時すでに予感していたのである。
 メフメトが五歳の時、皇太子だった長兄が謎の死を遂げた。六年後、今度は次兄が突如として暗殺されるという事件が起こった。そのため皇帝ムラト二世は、メフメトを皇太子として首都の宮廷に迎える。
 戦いで都を離れることも多い父は、まだ十一歳の少年に摂政の位を負わせた。ムラトは臣下である宰相ハリル・パシャを息子の補佐役に据えて、メフメトに彼を先生(ラーラ)と呼ばせる。実権を握っていたのは、皇太子ではなくハリル・パシャのほうだった。政治の才覚のあるハリルは、補佐役とはいえ堂々と反対意見を述べ、皇太子の発言を制御することもしばしばあったという。それほどまでに皇帝の厚い信頼を得た宰相であった。
 翌年ムラトはわずか十二歳の息子メフメトに皇帝の位を譲り引退してしまうが、この一度目の即位は長く続かなかった。メフメトが十四歳の時、密かにコンスタンティノポリスの攻略を胸に抱く息子に危険を感じ、父は帝位を取り上げてしまったからだ。
「父上、なぜ西欧を征服することがいけないのですか?」
  父ムラトは、弱気な皇帝などではない。一度はコンスタンティノポリスの城壁を、囲んだことはあった。だがそれは、両国とも皇帝の兄弟が互いに領土を争って戦争を繰り返していた時代だ。それを治め、ようやく和平に持ち込んだばかりだというのに……。今再び東ローマ帝国と争い始めたりすれば、オスマン内部での分裂を蒸し返すことになりかねない。父の決定により、メフメトは首都から追放され、権力の無い日々を屈辱と共に過ごした。誇りの高いメフメトにとって、これは耐え難い五年間だった。
 転機が訪れたのは一四五一年二月、父が食事中にいきなり倒れ、意識を取り戻すこと無く原因不明のまま死亡してしまった時だった。
「皇帝が、崩御されました」
 宰相ハリル・パシャは、ムラト二世の死を、それが公表される前にこっそりとメフメトにだけ告げる。その瞬間メフメトは、自分の行く手を塞いでいた壁が崩れ落ち、希望の光が差し込んだのを感じた。
「余を信ずる者のみ、余に続くがよい!」
 知らせを聞くや否やそう臣下に凛々しく言い放つと、黒い駿馬に飛び乗り首都アドリアーノポリスを目指した。そして他の誰にも野望を抱く時間すら与えず、オスマン帝国皇帝の座をその手中に収めた。もちろん皇位継承順位第一位の座にいたのは彼だが、欲望のためなら肉親を殺すことも恐れない連中に囲まれた国ならばこその采配だった。
 これが十九歳の若き皇帝、メフメト二世誕生の経緯である。
 それは偶然だが、オスマン帝国から遥か西のイタリア半島で、同じく十九歳の青年が教皇に連れられてローマに赴き、枢機卿となった年でもあった。


「おお! メフメトさま……」
 サガノス・パシャが工事を指揮する手を止めて、ふいに姿を見せた君主にひれ伏した。
「ハリルの塔は、城壁の中にいちだんと高いツインネを築いておったが」
「はっ、しかし我が塔の指標は砲撃の確実さと……」
 サガノスの南塔はハリルの十階建てに比べて八階建ての高さしかない。だが砲撃用の大砲が海峡に向けて突きだしており、その不気味さでは優っていたかもしれない。
「……それに加えて、まもなく完成予定にあることにございます」
 そう、皇帝が三人の大臣たちに競わせているのは、高さではなく完成の速さなのだと強調する若い大臣サガノスの言葉に、メフメトは目を細めてニヤリと笑った。
「……そうだな。一番遅れをとった者には何を報いてやろうか……」
 薄気味の悪さではこの要塞の何倍にも及ぶ皇帝メフメト二世の微笑み……。ただし目の前の若いサガノス・パシャは皇帝のお気に入りだから、完成が最後になってもおそらく首をはねられるのだけはまぬがれただろう。
 四月以来、メフメトはコンスタンティノポリスの北一〇キロの位置、ボスポラス海峡添いに要塞の建築を始めた。彼は何千という工夫(こうふ)を雇い、三人の大臣(パシャ)にそれぞれ競わせて三つの塔を作らせ、それらの塔を繋げた巨大な城壁を築いているところだ。
 それは皇帝コンスタンティヌスに許可も得ず、東ローマ帝国の土地を奪って建てられたものである。
 競争のかいあって早くも八月末には完成するだろう。確か建設前の名目は、敵にも味方にも何の反目すら抱かせぬよう「黒海に出没する海賊を取り締まるため」というもっともらしい理由を掲げていた――はずなのだが……。真の目的は、コンスタンティノポリスに向かうヨーロッパの船をここから……。
「まあそれは、出来上がってからの楽しみだ」
 メフメトはちらりと設計図に目をやった。そこに書いてあった文字に、ますます笑いが止まらなかった。
「喉を切る者(Bogazkesen)か」
 れを聞いていた設計者のほうが固まった。彼は「Bogaz」を、海峡という意味で記したのだ。なのにこの皇帝は……。確かにもう一つ「喉」という意味もあることを皇帝に思い出させられ、恐怖が走る。
 それは海岸線に沿って塔のそそり立つ、全長二五〇メートルの石造りの巨大な要塞だった。切り立った崖にそびえる黒々とした影は完成後、メフメトによって「ルメリ・ヒサール」と名付けられた。皮肉にも「ローマの城」という意味のトルコ語だった。やがて黒海方面からボスポラス海峡を通過し金角湾に入港するキリスト教徒たちの船を容赦なく攻撃する堡塁となるのである。
 そればかりかルメリ・ヒサールの落成後、何を思ったかメフメト二世は、首都アドリアーノポリスに帰る道を逸れた。
「陛下、どちらへ?」
「少し回り道をする」
 結局彼は、帰る前にコンスタンティノポリスの城壁の外三キロの地点に天幕を張って、軍と共にしばらく留まった。それはまるで、コンスタンティヌス十一世に視線を投げ掛けるような挑戦だった。
 やがて三日もするとメフメトは自分の城へ引き上げて行ったが、この出来事はコンスタンティヌス十一世に、もはやオスマンの魔の手から逃れるわけにはいかないと覚悟させるに充分な打撃を与えた。
 近頃テオドシウス城壁外の遠く離れたところにある小さな集落は、時おりメフメトから襲撃を受け始めている。被害の知らせがブラケルナエ宮殿まで届く頃には敵兵も引き上げてしまっているので、コンスタンティヌス十一世は、二度と繰り返さぬよう苦言を突きつけることしかできなかったのだが、果てはその使者までスルタンに首を切られる始末だった。彼が血気盛んな皇帝だったら、それを宣戦布告だと受け取ってオスマンに攻め入ったかもしれない。いや、たとえ温厚なコンスタンティヌスでも、敵に対抗できるだけの兵がいたら、戦いに応じることを真剣に考えていたに違いなかった。
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