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第1章

ジェノヴァからの使者

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 一九五二年、ヴァティカンの謁見の間には、ジェノヴァ共和国からの使者ドーリア伯爵が、ユリウス・シルウェステル六世の拝謁を賜っていた。
 何百人もの客が収容できるヴァティカンで最も広い室内だが、教皇と伯爵の他にはレオナルド・ディ・サヴォイア他、数人の枢機卿がいるだけだった。曇り空のおかげで窓からの光も薄暗い。
 持参した依頼の文書を教皇が読み終えるのを待って、ドーリア伯爵は口を開いた。
「その書簡にある通り、我が共和国は、コンスタンティノポリスのジェノヴァ居住区行政長官アンジェロ・ロメリーノに、こたびの戦に中立の立場を表明させる所存でございます。ですが東ローマ帝国のガラタには、何代も前からジェノヴァ人が暮らしておりまして……、同じ国民として本土イタリアのジェノヴァは、ガラタの住民を見捨てることはできませぬ」
 ユリウス・シルウェステルは眉間にしわを寄せる。
「もっと援助が欲しいと言いたいのは理解した」
 その答えに伯爵の顔つきが引き締まった。
「存じておると思うが、西欧からコンスタンティノポリスへの援軍が、今まで全くなかったというわけではない。先の教皇エウゲニウスも十字軍を送っておるが」
 八年前、ハンガリー王やトランシルヴァニアのフニャディ・ヤーノシュら東欧中心の十字軍ではあるが、その軍を呼びかけたのはこのヴァティカンであり、西欧からも多数の兵が参戦している。だが残念ながら、オスマンのムラト二世に大敗という結末に終わった。
 もともと権力の弱かった前教皇は、この遠征失敗で彼の勢力を弱める決定打となってしまった。引き継いでから必死で築き上げてきた教皇の権力と信用を、叔父は失うわけにはいかないだろうとレオナルドは思った。ユリウス・シルウェステルの答えは慎重にならざるを得ないはずだ。
「ですが聖下もご存知のように、メフメトは不気味な塔を築いております。しかもコンスタンティノポリスの領地に建てるとは許しがたい限り。あの場所は、ジェノヴァ人の居住区から数キロしか離れていないのです。ロメリーノが強く願い出た心情もどうかお許しくだされば……」
 今オスマンと東ローマ帝国との間には、かつてない緊張が張りつめている。戦争はすでに「対策討議」の時期を過ぎ、「準備」の段階に入っていたからだ。
「イシドロスが、ジェノヴァから戦艦を買ったであろう?」
 イシドロス枢機卿は東ローマ帝国がいよいよ深刻な時期にさしかかり、コンスタンティノポリスへ帰国の途についていた。
「はい、仰せの通り我が国は、枢機卿から帆船の注文を承りました。聖下の軍資金のおかげで最新鋭の軍艦を調達いただき、しかもギリシャのジェノヴァ領で傭兵を雇われる予定だとか……」
「さよう、ジェノヴァ領の島には、名を馳せた傭兵も少なくない。コンスタンティノポリス近くで調達したほうが、即戦力となる兵士を集められよう。ヴェネツィアからも軍艦二隻と三〇〇の兵を出させる」
「はい、誠に心強い限りでございます。実は我が国では傭兵を準備する一方で、それとは逆の、オスマンとの外交も考慮いたしております」
「ふむ」
「つきましては……」
 伯爵はそこで言葉を切り、跪いたまま教皇を見上げた。
 彼の言いたいことは想像に難くない。ジェノヴァの立ち位置を支える何かが欲しい――のだ。
「ガラタ駐在のロメリーノから、メフメト二世との和平交渉にしかるべき人物を東ローマ帝国に送って欲しいとの依頼が届いております。どうやらコンスタンティヌス十一世は、イスラム教徒に頭を下げるつもりは無さそうな様子。ですからおそらく、我がジェノヴァが間に入ってことをおさめねばならぬかと……」
 ――和平交渉――交渉人を立てて話し合いでオスマンとの戦いを避けられるなら、もちろんそれに超したことはない。
 だいたいあの皇帝ときたら……、武力であの街を奪い取ろうとするのはひとえにメフメトのわがままなのだ。しかしコンスタンティノポリスには、今それを受けて立つだけの抗力が無い。もし戦争に負ければ、東ローマ帝国再興の可能性は絶たれてしまう。
「和平交渉……」
 教皇はそれがいかに重要な、そして難しい役目であるか、知りすぎるほどにわかっている口調だった。
 だが、いったい誰を!?
 誰でもいいというわけではない。この役目を全うできるだけの力を持った人物が選ばれるべきだ。交渉に当たっては、メフメト本人に直接会わなくてはならない。
「もし失敗すれば、交渉人の命さえも危うい」
 そうメフメト二世は、すでに何度かキリスト教徒の使者を目の前で斬り殺したと聞いている。それほどまでに危険な皇帝だった。
「しかし……」
 しかし反対に、もし仲介に成功したとすれば、交渉人はそれ以後ヴァティカンで限りない力を持つこととなるだろう。
 その時、静まり返った部屋の床に軽い金属音が転がった。
 同時にコホンと乾いた咳声が、広い謁見の間に響き渡る。反教皇派たちの中でもリーダー格の年老いたパルマ枢機卿が放った、何かの合図のような咳だ。
 転がったのは……金貨だ!
 とっさにレオナルドは懐を探った。が、賭け金はちゃんとそこに入っている。
 落としたのは誰だ?
 いっせいに注目を集める金の硬貨。だが、一人として動く者はいない。
 部屋の入り口で蒼ざめた顔をしているヴィドー枢機卿とレオナルドの目があった。
 まさか! あの人も金貨を……!? ありうる。賭けはまだ終わっていないのだし、自分があの時見せたから、ヴィドー枢機卿も用意していたかもしれない。
 そこまで考えた時、レオナルドの足元に一筋の青い光が差しこんできた。見上げると、ステンドグラスに描かれた聖ミカエルの姿が、――雲間からこぼれた日差しを受ける天軍の総帥ミカエルが窓にあった。
「おお! 聖なる子に、鉄の杖を届けよ」
 ミカエルの言葉を唱えたのは、パルマ枢機卿だ。その響きはいかにも、大天使を代弁して「コンスタンティヌスの元へ行け」と告げているかのようだった。
「わ、私が……」
「聖下! 私がコンスタンティノポリスへ参ります!」
 口を切りかけたヴィドー枢機卿の声を打ち消すように、はっきりとレオナルドはそう言って一歩前に進み出た。
 教皇は驚きの目を向けてくる。
 陽の光が力を帯びる。足を踏み出したせいで、聖ミカエルの影がレオナルドと重なっている。
「オスマンとの外交官として……、余はサヴォイア枢機卿を送ることをここに決定する」
「せ、聖下! なぜサヴォイア枢機卿が……!?」
「はからずも……」
 教皇は絶対的な口調で続けた。
「はからずも彼は、メフメト二世と同い年である」
「おお……」
 ドーリア伯爵の表情にも驚愕が走る。
「教皇さまの親族ならば、何の不足もございませぬ。メフメトさえも畏敬を示す、ありがたきお言葉」
「ただし、いくつか条件を申し置く。船は戦闘用のガレー船ではなく、通常の帆船を用いること。軍旗は掲げぬ。兵士も最低限の護衛以外は同行させぬこと。そして……」
 ユリウス・シルウェステルは教皇座から立ち上がる。
「教皇特使の補佐として、千年前まではローマ帝国の首都であったラヴェンナの王太子を同行させるように」
「ラヴェンナ……?」
「さよう。そこにもメフメトとさして年の変わらぬ王太子がおろう。皇帝コンスタンティヌスの代理として、多少なりともビザンティンに関係のある者をオスマンに使わすのは、それなりの意味を持つ」
「はあ……いかにも、仰せの通りで」
 教皇杖の打ち下ろされる音が、部屋の隅まで空気を震え上がらせる。
 かしずくドーリア伯爵の目の前を、ユリウス・シルウェステルは白い絹のパヌエラを波打たせながら去って行った。交渉人が若いのだから、補佐役にはもっと熟年者が選ばれるものとばかり思っていたジェノヴァの使者は、それをいつまでも呆然と見送り続けた。

(それだけではない。余があの王子を援助者に選んだのは……)
 礼拝堂へと足を運びながら、ユリウス・シルウェステルには昨日の午後から、もうひとつ頭を悩ませていることがあった。
(イシドロスめが……)
 イシドロス枢機卿には、資金だけでなく価値ある財宝も持たせたが、その中にはラヴェンナのダヴィード王から寄付された宝石の飾りのついた刀剣も含まれていた。それなのに、偶然の間違いかそれともわざとか……、イシドロスはその剣によく似たサヴォイア家の家宝のほうを持って行ってしまったのだ。
 あれを取り戻さねばならぬ。その役目を託すのは――レオナルドでなくては……。
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