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第2章

テオドシウスの壁

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 コンスタンティヌス皇帝は白馬に乗り、真紅のマントをなびかせて三人の前をゆっくりと馬を歩ませていた。その場所とは、海に囲まれた東ローマ帝国の唯一陸地に面した西側、テオドシウスの壁の上だ。さっそうとした彼は、歴代の大帝と言われた皇帝たちを思い起こさせる風格に溢れ、その人が壮大な平原を背に、高い城壁の上で佇む姿は、まさに堂々たる景色と同じ威光を放っている。
「おお」
 眼下に広がる眺望に圧倒され、レオナルドたちはしばらく声を無くしていた。この国を取り囲むのは、限りない数の四角い切り石を積み上げてコンスタンティノポリス全域を囲んだ壁だった。さすがにこの帝国が最高峰の勢力を誇っていた時代――西暦四一三年に、テオドシウス二世によって作られただけのことはある見事な眺めだ。
 今皇帝に案内されている西側を守る壁は、ここへ来る途中マルモラ海で船の上から見上げた、南側の一重のものとは違って「地中海最大の無敵の壁」と呼ばれる三重(さんじゅう)の城壁だった。その上を歩くために、三人にもそれぞれ馬が与えられた。皇帝の後に続き三人は、内城壁の上をブラケルナエ皇宮近くの金角湾側からマルモラ海に向かって、ゆっくり移動した。
 幅が五メートル以上あるので、馬が三頭並んでも充分に通れる。
「歩いても目を見張る高さだが、馬の背からの眺めはよりいっそうの圧巻だな」
 言葉にし難い思いが湧き上がる。
「下の回廊からの高さは、一二メートル程なのに……」
 皇帝は振り向いて笑みを浮かべた。
「これを高くないと感じる者もいるかもしれぬ。だがその回廊は、この内壁と外壁の間に畝として造られた通路だから、地表からの実際の高さは二十メートルに近いのだ」
「恐れながら、もっとずっと高く感じます、陛下。視界に内城壁、外城壁、三つ目の壁、さらに堀の水へと続く広大な景色がすべて入ってくるからでしょうか」
 答えながら若者たちは、それぞれため息をついた。
 遥か二〇メートル西斜め下に見下ろす外城壁まででさえ充分に思える。なのにその城壁で囲まれた外側一五メートルの所にもう一つ防護の壁がある。そして尚外側には幅広い堀が敷かれていた。敵が近寄ることができるのは、この堀の外までだ。つまり今いるこの内城壁の上から、視界を占めるほとんどは、三層になった防御の壁なのだ。その先を見やると、目が霞むほど果てしなく平原が広がっていた。
 テオドシウス……ただの壁ではない。内側の城壁には四〇メートルごとに高い塔が築かれ、外壁にもそれと互い違いになるように、塔が設置されている。
「千年もの間、誰にも攻め落とされることなく、力強く座してまいった」
 そう解いている皇帝の言葉に、一つの概念が呼び起こされる。はからずもアジアとヨーロッパを結ぶ位置にあることだけでなく、不屈の砦と言われるこの壁に囲まれている街だからこそ、敵のスルタンはあんなにも手に入れたがっているのではないだろうか。
 レオナルドが下を覗き込むと、蔦の絡まる壁のところどころに窓が開いており、そこにひさしのような縁(ふち)がついていた。
「あそこに突き出ているのは、何でしょうか?」
 それが窓の上部に突き出していれば雨よけのひさしなのだが、下側に出ているのが解せない。
「窓から熱い油を流して、壁の下の敵を焼き払うのだ。もっとも最後に使われたのは三十年も前になろうか……」
 皇帝は西の空を見やる。
 この長さ六キロのテオドシウスの壁は、六つの門を挟んでマルモラ海まで延々と続いている。ほぼ三角形のコンスタンティノポリスは、三辺の壁で囲まれていた。
「南のマルモラ海側の壁は、たとえ一重でも海の速い流れと強い風に守られ九キロに渡って張り巡らされている。いまだかつて南から攻められたことはない」
「はい、波のせいで軍艦が流されるので、海から大砲による攻撃も不可能だとうかがっております」
 北の金角湾側に続くのは、一重の壁が約六キロ……。
 金角湾の向かいは、味方のジェノヴァ領のガラタ地区だ。そのためオスマンが直接攻めてくることはできない。
「つまり、敵がくるとしたら、この三重の壁のある西の陸地側から……、その可能性が一番高いというわけじゃ」
 皇帝に倣(なら)い、レオナルドは壁の上で静かに馬を振り向かせた。草原の広がる壁の外とは対照的に、ここから眺める起伏に富んだ市内はずっと東――聖ソフィアの近くにある円形競技場のあたりまで一望できる。その向こうに広い湾が輝いていた。
 突然の強い気流が、皇帝の紅いマントに風をはらませる。北海から激しく吹いてくる風……、壁の頂上から外側に向かって……。できれば戦の時も、メフメトに吹き下ろしてくれと願うように、皇帝は天を仰いだ。
 これが千年以上もこの帝国を守ってきた、世界最強の砦……。皇帝がこの帝国で何よりも誇りに思っているもの……。城壁としては完璧だ。だが……、
「確かに、一分の隙もない城壁ですが……」
 国を守るのには壁だけでは充分ではないことを、皇帝はもちろんわかっているだろう。
「この壁を守るには人数が少々足りないように思われますが。それに、ここより少人数にしても、マルモラ海側と金角湾側にも守備隊を置かねばなりません。合計二十一キロの周囲を防御する人手に必要な数はどれほど少なく見積もっても……」
 レオナルドはそこで隣を見た。
「たぶん二万……」
 言いかけるフィリベルトを遮るように、枢機卿と王太子はほぼ同時に言葉を発する。
「……三万人用意しなくてはなりません」
「うむ、実際には三万五千ほどはなんとか……」
 皇帝の返事には必死で耐えている気力を感じたが、避けられない質問がある。
「それは、兵士の数ですか?」
「いや、戦闘に参加可能な市民を含めた数じゃ」
 兵士のみだと七千にすら満たないとのことだった。
 ユージェニオが前に進み出る。
「どうかもう一度、お考えを改めていただくわけにはまいりませんでしょうか? 敵の兵士の数は一〇倍以上……いえ、いまだに東欧中に招集をかけてメフメトは続々と兵を集めております。おそらく二十倍にもなっているはず。今この美しい街を取られてしまえば、二度と取り戻すことはかないません。ここはたとえいったん敵に都を譲り渡してでも帝国を存続させて、いつかまた奪い返すことも可能でございましょう。西欧の国ぐにが戦(いくさ)の最中で、応援の兵を充分に送れないことは、誠に申し訳なく存じておりますが」
 ユージェニオの穏やかな声も心に届かぬように、コンスタンティヌスは遥か西方を仰ぎ見た。
 これが限界だった。彼は西欧の援助を受けるのさえも心苦しいと思っているのだから、もしこの街を守り切れたとしても、その後で西欧に負うものが大き過ぎるのはどうしても嫌なのだ。西ヨーロッパの兵をこれ以上受け入れたら、東西教会の統一は免(まぬが)れまい。もしこの外交使節の使命がかなって戦争が起こらずにすめば、西と統一させずにギリシャ正教を存続できる可能性はまだ残っているだろう。
 皇帝がこの街を守るために自尊心をぎりぎりまで譲ってレオナルドらを受け入れた一方で、宰相ノタラスの主張はもっと遠慮がなかった。「ヴァティカンの聖職者たちが自由にこの街を行き交うのを目にするくらいなら、オスマンのターバンが行き来するのを見るほうがましにございます」という宰相の言葉は、たぶん、政治上やむを得ず東西ヨーロッパが合同して立ち向かうことに形式上賛成しているコンスタンティヌス十一世の本音でもあるのだろうか。
「うむ」
 考え込んだままそれ以上は答えず、テオドシウス城壁の上で哀しそうな目をする皇帝。自分たちの任務が簡単ではないことを改めて思い知らされるレオナルドだった。できれば……こんなに徳の高い人でなく、兄の前皇帝のようにもう少し俗物だったら、任務がやりやすかったような気がした。
「とにかく、壁の壊れている部分は修理させる」
 テオドシウスの壁は、外側に長い長い影を落としている。皇帝の願いはただひたすら、その影が敵将メフメトの前にも立ちふさがること――それに賭けているのだ。
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