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第2章

エルネストの決意

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「諦めているわけではないだろうが……」
 住まいの聖ステファノ教会に戻ると、レオナルドは椅子に崩れ込んで足を組んだ。
「皇帝の名前が、そうさせるのかもしれぬな」
「え!?」
「昔……、西暦三三〇年に、コンスタンティヌスという名の大帝が東ローマ帝国に新しい都を開き、そして街をコンスタンティノポリスと名付けた……。つまりこの国を築いた威風堂々たる皇帝と同じ名を持つ、偉大なる皇帝の『誇り』が、是が非でも街を他人に渡すまいとしているんだろう」
 その自己主張が、ただのエゴイズムにならねばいいが……。千年前とは時代が違う。君主と民の関係は随分変わってしまったし、国の勢力もかつての強さを無くした。変わらないのは皇帝の、この街に対する愛情の強さくらいかもしれない。
 悶々とした思いを吹っ切るようにレオナルドは立ち上がる。これ以上自分の力の及ばない問題を突き詰めるより、隣の部屋へ少年小姓を捜しに行って、聖ソフィアの宝物庫にでも出かけたほうがいい。和平交渉が終わったとは、まだとても言い切れる段階ではないが、ヴァティカンへ帰る日がいつ来るとも限らないのだ。それまでに、イシドロス枢機卿が間違えて持ってきてしまったサヴォイア家の聖剣を取り戻す必要があった。今その剣は、聖ソフィア大聖堂の宝物庫にある。

 十二月の曇り空の中、レオナルドとエルネストは金角湾沿いの道を歩いていた。ずっと忙しかった教皇勅使にとって、金角湾側の城壁をゆっくり見る機会はこれが初めてだった。この一重の壁も、その上は二人くらい人間が並んで歩けるほどの幅があった。湾を挟んで丘の上のガラタの塔の三角屋根が見える。雲の厚さが今朝より軽くなっていた。空全体はうっすらと覆われてはいても、金角湾は雲の隙間を映して、波間に時折灰色の光の断片を輝かせている。
「枢機卿は、熱心な読書家でいらっしゃいますね」
 少し前を歩いていたエルネストが振り向く。
「ギリシャの文献に触れる、貴重な機会だからな」
 ギリシャ正教会の書庫から、レオナルドのために書物を借りてきているのはこの少年だった。当然彼らがどの位の時間で一冊読み終えるのかも、把握している。
「ユージェニオ王太子もです。お二人とも本当に、読むのが早くていらっしゃる」
 あいつも……だと?
 レオナルドとエルネストが城壁を降りて内側の道に戻った時、たった今降りてきた場所を、仮面をつけて黒いマントを羽織った少年が、駆け抜けて行く。つば広の帽子をかぶり、上体を前に傾けて走る。一度両手を大きく広げ、すぐまた腕を交差させマントを堅く閉じた。腕を広げた時、彼が腰に剣を差しているのが目に入る。
 後ろから五人の少年が大きな声を出して彼を追いかけてくると、追いついた所で剣を抜いた。
 仮面の少年は立ち止まる。城壁の幅のせいで、二人ずつしかかかって来られない。マントをひるがえし身を低くして、先頭の二人をふた振りでなぎ倒した。続く三人目の振り下ろした太刀に、少年の帽子と仮面は吹き飛ばされてしまう。が、剣を打ち合わせる鋭い金属音と共にすぐに打ち返して、これもあっけなく倒した。
 風に舞う帽子。仮面を無くした顔はまだ幼い。後ろからかかってきた少年たちの方が背も高く、幾分年上のようだった。残る最後の二人もしばらく健闘していたが、マントで風を切った彼が曇り空から覗いた太陽を背にして立った時、圧倒的に有利になった。
「うわぁ!」
 追っ手は剣をたたき落とされ、完全に勝負ありといったところだ。少年は剣を鞘に納め、眼下の湾を覗き込む。飛ばされた帽子と仮面の行方を追っているのだろう。
「ミケーレ!」
 エルネストに呼ばれ、彼は驚いてこっちを向いた。
「二人目を倒した後に、隙があった。脇も少し甘かったぞ」
 ミケーレと呼ばれた少年は、エルネストの言葉にはにかんだような顔をしたが、後ろに枢機卿の姿を認め礼をとると、慌てて走り去る。
「弟です。この頃は街中がオスマンを意識して、あんなことばかりで……。以前は子供の他愛ない遊びだったのですが、もっと年長の青年たちまで戦いに備えて剣の練習をして……、おそらく生き延びるためでしょうが」
 コンスタンティノポリス全体が、差し迫った雰囲気を感じているから、本来なら純真な子供たちのおもちゃの剣による剣術ごっこが、もう微笑ましいものに映らなくなってしまったのだ。
「剣の心得があるようだな」
「ミケーレですか?」
「いや、お前のことだ。完璧な指導だった」
「はい少し……、ですが、剣術なんてこの身にはあまり意味がありません。私の望みは生涯神にお仕えすることですから」
「無駄だとは限らぬぞ。聖職者でも時には、神のために剣を振るわねばならぬこともある。たとえば、枢機卿の服がどうして赤い色をしているか知っているか?」
「それは? ……いいえ存じません」
「それは……教会に攻め入る敵を殺して返り血を浴びた時、目立たないためだ」
「えっ……!?」
「ふっ、冗談だ。本当は、キリスト教のためならいつでも死ぬ覚悟があるという理由で、緋色をしている……」
 しばし固まっていたエルネストは、少し表情を崩した。
 金角湾にはカモメが、飛び交っていた。城壁の向かい側はヴェネツィア風の煉瓦造りの商館で、憂いを帯びた街並みの中でもここだけは賑わっている。
「もう多くの人が避難して人口が減ったので、今年はカモメの数も減っているように感じます」
 鳥でさえ命が惜しいのだ。
「お前は……、生き延びぬのか?」
 彼は答えず唇をかんだ。
「この街に留まれば、いずれはオスマンに殺されるか、それとも奴隷にされるだけだ。さっきの子供たちも、ミケーレ以外は皆ギリシャ人だった。イタリア人のお前には帰る国がある。我々がローマに戻る時に、一緒に船に乗るつもりはないか?」
「父を置いてですか?」
 小姓の父親がヴェネツィア共和国から派遣された大使であることを、忘れたわけではない。ミノット大使は、ヴェネツィア人らしい意志の強そうな伯爵だった。おそらく最後の最後まで、この街を離れるわけにはいかないに違いない。戦争が終わらない限りは……、そしてこの戦が終わるということが何を意味するのか。
「母と弟たちだけでも、守りたくはないか? 父上もきっとそれを望んでおられると思うが……」
 じっと聞いていたエルネストは、うら寂しい顔をする。
 今はまだ時折儚い美しさを見せるだけだが、もっと輝きを帯びてくるのはあと五年ほど先だろう。その頃になれば、彼を見て胸をときめかせる娘たちも少なくないはずだ。
 しかし敵に掴まってしまったら……。
 あの時アドリアーノポリスの宮殿でメフメトの傍に控えていたのは、エルネストより年上だが、まだ少年の小姓だった。オスマンの男色家たちは、ユージェニオなんかよりもこの年代に欲情をそそられる。ここにいたら同性愛の餌食にされてしまうか、それを拒んで殺されるかの悲惨な未来しかないのだ。
「父が大使だからという理由だけではありません。祖父が二人とも元老院の議員をしています。しかも母方の祖父は元将軍でした。ですから、ヴェネツィア貴族の中でも、騎士道精神を重んじる最たる家柄なのです」
 そう――誇り高き彼の家族は、たとえ自分が生まれた国ではなくとも、この帝国が滅びるのを、見捨てて逃げ出すわけにはいかないのだ。
「本当は……、母を守ることだけが……望みです。だから弟に家督を譲ってこの道を選びました。幼い妹も、いつか母を支えてくれる娘に育つでしょう。貴族の家を継いだ伯父は、戦に赴いたあとヴェネツィアの地を踏むことは二度とありませんでした。私は……私は生き延びて、必ず母を守ると神に約束したのです!」
 十一歳にして過酷な立場に立たされたエルネストだが、その目に光ったのは悲しみだけでなく、希望のきらめきをも含んでいるように見えた。
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