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第2章

リュートを弾く少年

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 再び歩き始めようとしたところで、ヴェネツィア商館の隣にある煉瓦造りの小さな店がレオナルドの目に止まった。骨董品や雑貨を扱う店先で、さっき城壁で遊んでいた少年剣士達に混じって、帽子を拾ってきたミケーレの姿も見える。子供達は買ったばかりの糖蜜飴を口に含み、敵も味方も一緒に仲良くふざけ合っている。
 少し距離を置いて、十四、五歳だろうか、一人だけ年かさの少年が骨董品の棚を恨めしそうに眺め佇んでいた。彼がひときわ目立って印象的な理由は、背の高さよりも貧しい身なりのせいだ。その視線の先を追えば、丸みを帯びたフォルムの弦楽器が棚に飾られていた。
「リュートか、昔イタリアでよく弾いていた」
「猊下、お試しになられますか?」
 店主に勧められるまま、懐かしさのあまりレオナルドは弦に指を滑らせた。
「おお、これは!」
 通り抜ける風がかき鳴らしていったのかと思うくらい、驚くほど滑らかな音……。しかも表面には、職人芸を思わせる凝ったバラの模様が刻まれている高価な品。気がついたら指が賛美歌「キリ・テ・カナワ」の一節を奏でていた。
 たちまち子供たちや、商館から出てきた人びとに注目を浴びてしまう。
 小さな子供に混じって、よりいっそう張り付くような形相で痛いほど見つめてくるのは、古着を纏った背の高い少年だ。
 レオナルドは振り返って店主に尋ねた。
「いくらだ?」
「これはご覧のようにヴェネツィアの一級職人の手によりますんでちょっと値が張りますが、いつもご贔屓いただいてる猊下には特別に、えぇ……ドラクマ銀貨一枚ってところで」
 答えつつ店主は、悲壮な顔つきの少年をわけありげにちらりと見た。
 レオナルドは銀貨を払い、リュートを受け取る。子供の一人が「売れたよ、トマ」と彼に告げた。名を呼ばれた少年は、ぼろぼろの帽子を目深に下ろし顔を隠してしまった。
「よかったら、弾いてみてくれないか」
「猊下、トマをご存知なのですか?」
 エルネストに尋ねられレオナルドはかぶりを振る。
「いや、だがこのリュートに特別な思い入れがあるのだろう?」
 目の前にリュートが差し出されてあっけにとられるばかりだったが、この少年に楽器の心得があることは、レオナルドの演奏を聴いている時の指の動きで明白だった。
 トマは、目の前の物が夢ではなく実際に存在することを悟ったのか、そぉっと抱きかかえる。いかにも楽器が、この世で一番愛しき物でもあるかのように……。
 指が弦に吸い寄せられ軽快な民族音楽を奏で始めると、すぐに彼は恍惚の世界に陥っていった。
 その手からこぼれ出る魔術に操られた柔らかな音に惹きつけられ、ヴェネツィア商館の大きな建物からぞくぞく人がやってきてトマを取り巻いた。
「やはり彼の物だった……か」
「はい猊下、正確には病死したトマの父親の楽器です。並々ならぬ腕前のリュート弾きでした。ですからたぶん、治療のための薬代として売らざるを得なかったのだと……」
「それは……大変だったろう。父親が亡くなって、他の家族は?」
「残念ながら、誰も……」
 エルネストの説明によると近頃トマは聖ステファノのミサに訪れる機会も減ってしまったので、司祭が援助の手立てを思案中なのだとのこと。
 曲が終わり大拍手が湧き起こると、彼は我に帰ってレオナルドにリュートを差し出した。
「ふむ、それをしばらく預かっていてくれないか」
「え?」
「あぁそうだ、素晴らしい音色をフィリベルトたちにも聞かせてやろう。今からステファノ教会に来れるか?」
「え? は、はいっ!」
 初めて見せたトマの笑顔は、雲間から日が差し込んできたようにみるみる広がっていった。彼の奏でる音は……、一体なんなのだろう、この不思議な力は……。答えをすぐに導き出せるようなものでもなさそうだが、心を酔わせるような響きを持っていた。
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