上 下
27 / 54
第2章

ヴァティカンからの手紙

しおりを挟む
 三月、メフメトは首都アドリアーノポリスにある宮殿の塔から、城門の外に張られた天幕を見下ろしていた。彼がセルビアから呼び寄せた、ミハイロヴィッチの隊、一五〇〇の騎兵と三〇〇〇の歩兵の野営テントだ。一か月以上も前に招集しておきながら、メフメトは彼らをずっと門外に待たせたままにしてあった。まるで目的は、セルビア軍を苛立たせることであるかのように……。その間もウルバンの大砲は何台も追加製作され、今では合計四台が怒号を上げて、市民だけでなくセルビアの兵士たちまで脅かしている。
 最近のスルタンの頭の中は、大砲のことばかりだ。初めてあの爆音を聞いた日、放たれた石の固まりが地中深くめり込んだのを見た時の、満足げな頷きと冷たい笑み……。
 砲身は全長八メートル、そして砲弾の重さは五〇〇キログラムもある。射程距離一・六キロという威力も既存の大砲を遥かに上回る最強の新兵器だが、いかんせん命中率は低く、かなり調整する必要があった。それ以外にも問題はつきない。一発発射すると熱がこもるせいで次の装填まで三時間も待たねばならないため、ウルバンはもっと準備時間を短縮するよう言われていた。そして、さらに何台もの大砲を作成するようにとも命じられる。
「ミハイロヴィッチが、陛下に謁見を求めております」
 側近のナディームは、部屋の入口で恭しく控えた。
「時が熟すまで、待てと伝えよ」
 スルタンの返事は氷のように冷たい。はるばるセルビアからメフメトが命じて呼び寄せたにもかかわらず、宮殿の門の中にも入れずに待たせている。こういう手法で自分の力を見せつけながら、来(きた)るべき日に備えて兵士を調教しているのだ。この上なく冷徹な態度は、兵士に気さくに接して厚い信頼を得ていた父、ムラト二世のやり方と全く違っていただけに、パシャたちですら戸惑いを隠せなかった。


 その頃東ローマ帝国では、トレヴィザンがコンスタンティヌス十一世の皇宮を訪れていた。
 ガブリエレ・トレヴィザン将軍は北イタリアの出身らしく背の高い軍人だった。落ち着いたブロンドで、四十歳になったばかりの髪にも髭にも白いものさえ混じっていない。甲冑を身に着ければ双肩に頼もしい強さがみなぎるのだが、彼はユスティニアーニのように戦闘態勢に入ってもいないのに鎧を身に着けることを好まない性格だった。けれどいまは赤い軍服を、かっちりと着こなしている。
「陛下……」
 皇帝の前に跪いた将軍は、ヴェネツィアン・ロッソと呼ばれる真紅の国旗、羽の生えたライオンの刺繍された軍旗を差し出した。旗に刺し込まれたのは、ヴェネツィアの守り神「聖マルコの獅子」である。
「これを、ブラケルナエ宮殿の塔の上に……、東ローマ帝国の国旗の隣りに掲げていただけますでしょうか」
「おお……!」
 大臣のフランゼスは、こんなにも喜びに満ちあふれた皇帝の顔を久しぶりに見た。
「それでは、ヴェネツィア共和国は……」
「我が国の意志は今後この帝国と共にあることを、ここに宣誓致します。どうか、いかようにも陛下のご随意に……」
 ガブリエレ・トレヴィザンは深々と頭を下げた。昨日のヴェネツィア人たちの集まりで、兵士も商人も全員の士気が高まり、攻防戦参加が決定した。その意思はこうして厳かに東ローマ帝国に伝えられたのである。


 ヴァティカンから一通の書簡がレオナルドに届いたのは、街が閉ざされる前だった。
 
「親愛なる レオナルド・ディ・サヴォイア枢機卿、

 此度(こたび)の教皇勅使、ヴァティカン一統(いっとう)より、多大な感謝の意を献呈いたします。
 過日、赦しの秘跡に聖ピエトロ大聖堂を訪れし令嬢について、私、枢機卿ヴィドー、および司教オルランドの調査により、フィレンツェのコジモ・ディ・メディチ大公の養女テレーザ嬢と判明されましたことを、ここにご報告申し上げます。
 嬢は一四四五年、童女の頃ヴェネツィア共和国南部のアドリア海にて水難に遭われし折、メディチ大公に保護されましたが、記憶を喪失されし故、大公の養女とする運びとなりました。その後フィレンツェのアルノ川左岸にあるピッティ宮殿を住まいとし、今日に至ると存じ上げます。
 私共の見識では、金色の髪と青緑色の瞳を備えた、希有なまでに雅なる令嬢にあられます。
 猊下がご帰還の際には、何時でもヴァティカンへ来訪できる意向が整いましてございます。
 以上、取り急ぎお知らせ申し上げます。
 東方にても、神の祝福が豊かでありますように。

聖ピエトロ大聖堂 枢機卿、ヴィドー
          司教、オルランド」

 交差した鍵と三重冠の紋章のそばに、検閲済みであることを示す教皇の署名が入ったその書簡は、今まで彼が読んだ中で最も心を動かされた手紙だった。
しおりを挟む

処理中です...