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第2章

ヴェネツィアのカルネヴァーレと幼女(プリンセス) 1

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 ――一四四三年、ヴェネツィア――
「まるで今にも、こっちに向かって走ってくるみたい」
 サン・マルコ寺院入り口の上にある馬の彫刻を見た王女は、喜びに目を輝かせた。
 寺院正面のエントランスには、ヨハネの黙示録に登場する四頭の馬の象「クアドリガ」が飾られている。妹のクラウディアが、バジリカ天井の黄金にきらめく見事なモザイク画よりも外の銅像に興味を示すとは、ユージェニオには意外だったが、よく考えてみれば彼女は乗馬も大好きだった。何に夢中になっていようと、この上なく愛らしい、いずれ美しい女性に成長するに違いない九歳の王女だ。
 二月のとある寒い夜、ヴェネツィアの街は、イタリア半島各国から幻想的な謝肉祭(カルネヴァーレ)に訪れた人びとで賑わう。「アドリア海の女王」の愛称で有名なこの街のカルネヴァーレは、ヨーロッパ中に知られる祭りだ。貴族ばかりでなく王族たちも仮面をつけ、身分を隠して宴を楽しむ。春を迎える直前、水に浮かぶ都市ヴェネツィアは、豪華な衣装を身にまとった人で溢れ、幻想の世界に変わるのだ。
ヴェネツィアには馬車は乗り入れられない。
 石畳の細い道や入り組んだ運河、そして数えきれないほどの小さな橋が馬車の通行を不可能にしていた。まるで街全体が迷宮(ラビリンス)のようだ。交通手段はゴンドラか大人数用の船だけで、それを降りたら貴族ですら歩くのみだ。まだ子供の王太子と王女にはこうして市井に溶け込むのが楽しくてならなかった。
 貴族たちは仮面舞踏会の集まりに向かい、大衆は酒場でグラスを傾ける。大人が遅くまで出かける今夜だけは、子供も仮面を付け、思い切り飾りたてて夜更けまで外出を許される特別な晩だった。
 出かける前クラウディアとユージェニオたちは、滞在先の館、カ・ドーロ(Ca d'Oro)で夕食をとった。ヴェネツィアの建物は、どこも奥行きがない分、縦方向に伸びている。つまり二階三階と、住居は上にあがっていく。だからこの貴族の館の三階で食事をとっていても、すぐ下の運河を通る大型船で音楽が奏でられ宴が催されている音は、風に乗ってここまで登って来た。その音を耳にして両親がテラスの外に目をやった隙に、クラウディアがワインの入ったグラスにそっと口をつけようとする。……と隣の席のユージェニオは、誰にも気づかれないように黙ってそれを取り上げた。
 その後一行は仮装のマスケーラを身につけ、護衛に付き添われて街に出た。
 彼らを眺める人びとは、護衛が何人もついているので高貴な身分の一行だとはわかるだろうが、王族だとは誰にも知られないで過ごす――そんな特別な時間が、王女をときめかせる。それはたぶん、お祭りの高揚した雰囲気によるものだけではない。
 国王一家はグラン・カナルに沿ってサン・マルコ広場に向かう。
 王と王妃は広場に立ち並ぶ円柱の向こうにある大きな舞踏室に招待されていた。子供たちは護衛と一緒にその広場の一角のサン・マルコ寺院を訪れた。
 そのモザイク画や宝飾で描かれた「パラ・ドーロ」に目を奪われつつも、寺院二階のバルコニーに出たクラウディアは四頭の馬「クアドリガ」に心を揺さぶられたようだ。
「もう二世紀半前になる……一二〇四年、コンスタンティノポリスを攻略した第四回十字軍が戦利品として持ってきてしまったものだよ」
 妹に説明しながらユージェニオは、複雑な気持ちで眺めている。「してしまった」と言ったのは、この十字軍がキリスト教徒でありながら同じキリスト教徒の国を襲うという悲劇を遂行したからだ。経緯はともあれ、今にも古代ローマのシャリオットを引いて走り出しそうな、見事な彫刻だった。
「ねえ、護衛を撒(ま)いて、二人だけで街に行きたいの」
 クラウディアがユージェニオにささやいたのは、寺院の外に出てきた時だ。たくさんの明かりで照らされたサン・マルコ広場に立ち並ぶ白い円柱を縫うように、幼い弟と妹は護衛らと遊びに興じている。
 とにかくラヴェンナの宮廷にいたら、逃げ出すなどかなうはずのないことだ。王太子と王女はいつも高い城壁の中で警護につきそわれている。けれど今ならば、国王一家がお忍びで訪れているヴェネツィアでなら、冒険がかなうかもしれない。
「こっち来て」
 クラウディアは兄が返事する前に、彼の手を引いて広場の端へ歩き始めた。まだ足取りはゆっくりで、走り出す気配はみじんもなかった。こういうことは徐々に、そしてここぞと狙った瞬間に大胆に実行しなければならないのだ。
 グランカナルの河岸に沿って二本の大きな円柱が立っている。
「……ぁん」
 その間を通り抜けようとした妹を、ユージェニオは引き止めた。
「どうして?」
「この円柱の間には、昔から度々処刑台が設置されたんだ。だから地元の人は、絶対にそこを通り抜けない」
「……そ、そうなの?」
 読書家の兄は、何でも知っている。クラウディアはいつでも自分を守ってくれる彼を頼もしく思って腕に手を絡ませた。
 二人は高い柱を見上げ、いまだその間に処刑台が存在するかのように避け、建物と円柱の間の通路沿いをそろそろと進む。
 今ユージェニオとクラウディアの目の前に広がるのは港だ。
 このサン・マルコ広場がグラン・カナルに面する一角は、大きな船も停泊できる。だから昔からヴェネツィアが他国と戦争をする際に、兵士を募るのはいつもこの広場だった。
 二人が立っている場所は、依然として護衛たちの監視下である。この時点では少し距離があるが、彼らはまだ追いかけてきてはいない。なにしろ目前に横たわるのは運河で、その先には行けないからだ。
 その時を彼女は待っていた。兄の手を引いていきなり角を曲がり、クラウディアは、デュカーレ宮殿のバラ色の壁を囲む回廊の柱の陰に兄を引き込んだ。
 夜の闇が濃くなって、限りない数の蝋燭の明かりがグラン・カナル運河に映し出され水面で揺れている。ゴンドラが、散りばめられた光の粒を噛み砕きながら行き交う様子を、二人は息を潜めて見ていた。
 昼間は深い青色に輝くアドリア海――クラウディアの瞳と同じ色をしたその水面は、今はまるで宝石が沈んでいるかのごとき豪華さだ。
 水上の街は、迷路のように複雑だ。たとえばこの角を曲がったところにも橋がある。だからもうすぐ護衛が慌てて追いかけてくるはずだ。王太子と王女が二人だけでそれを渡ってしまわないようにと……。
「思った通りだわ」
 真顔になって追ってきた護衛と侍女たちを、柱の陰でやり過ごす。
「今よ」
 この瞬間を待っていたクラウディアは、兄の手を引いて反対方向へ向かった。
 いまだに躊躇しているユージェニオにはお構いなしに、彼女はどんどん進んで行く。そしてさっき出てきたばかりのサン・マルコ寺院の中に入ると、入り口右手の急な階段を上がり、二階のバルコニーに出た。
 走り出さんとする「クアドリガ像」の向こうには、サン・マルコ広場が横たわっていた。ほぼ真下――寺院と時計台の間には、数人の護衛の姿が見える。なぜならこの角は広場への入り口という重要地点だからだ。二人がいなくなって慌てだした様子の彼らを見下ろしながら、王女は身をかがめてバルコニーの角を通り過ぎた。
 幸い二階を見上げた兵士はいなかった。
「まったく、いい度胸だな」
 ユージェニオは妹を見た。
 ――そんな謀(はかりごと)に思い及ぶなんて、想像もつかないほど麗しい容貌をしているのに……。
 広場へ通じる脇道に出たところで階段を降り、逆方向に向かう。最初の橋を渡って運河を超え、角をいくつか曲がったところで、いきなり出てきた黒猫の仮装をした男にぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
 街中カルネヴァーレの仮装をした人で溢れていた。だからこの人は、追っ手ではないはずだ。けれど黒猫はニヤりと笑って手招きをする。二人は後ずさりながら逃げ始めた。
 しばらく歩き続けどこにいるのかわからなくなってきた頃、ふいにまばゆい照明に照らし出された店の立ち並ぶ広場が、目の前に開けた。
「わあ、見て!」
 その中の一軒は、砂糖菓子を売る店だった。クラウディアは目を輝かせてショーウィンドウに見入る。色とりどりのガラス細工のような繊細な菓子が、器に盛られ並んでいた。壁は角度をつけた縁取りが特徴的なヴェネツィアン・グラスの鏡が何枚も貼られ、そこに映った砂糖菓子(カラメラ)は、宝石みたいにきらめいていた。
「口に入れたら、いったいどんな味が広がるのかしら?」
 そんなことを想像し、王女は目を細めた。ラヴェンナの王宮にも砂糖菓子(カラメラ)はあるのだが、この店のものはヴェネツィアン・グラスを模した特殊な色合いで、手作りの一粒一粒に表情があり、ひとつとして同じものはない。
「お金なら持ってるよ」
 もの問いたげに見上げてくる彼女に頷いて、ユージェニオは答える。
 そっと入り口の扉を押す。カランカランというドアに取り付けられたカウベルの音と同時に、中から甘い香りが溢れてきた。
 店は二階まであって思ったよりずっと広かった。吹き抜けの天井のすぐ下の階上部分では、ヴェネツィアン・グラスの装飾品の売り場だ。
 彼女が足を進めるごとに合わせ鏡の中に幾重にも映り込んだカラメラは、万華鏡(カレイドスコープ)の世界にいるようだった。ルビー、エメラルド、イエロー・ダイヤモンド……。それぞれの色に分かれてガラスの器に並んでいる。ひとつひとつ注意深く見つめていたクラウディアがやがて立ち止まったのは、アドリアの涙と書かれた深い青緑色の砂糖菓子の前だった。自分の瞳と同じ色の飴で、確かにそれはヴェネツィアの愛称「アドリアの女王」の涙のように、ひときわ豪華に輝いていた。よく見ると球状の中心にさらに濃い青色が泳いでいる。彼女は様ざまな色の砂糖菓子を選んだ。
 支払いをしようとカウンターに進んだクラウディアは、床に細かいタイルで描かれたモザイク模様を見つめた。
 王太子が差し出した金貨に店主の男から返ってきた反応は、左右にかぶりを振る仕草だった。
「申し訳ありません、そのような単位の取り扱いが……」
 店主は釣り銭が無いと言った。
「それじゃ、お釣りはいりませんから」
「いえ、そういうわけには……」
 正直者で名の通っている店主は、釣り銭を返せないのなら金貨を受け取るわけにはいかないと頑なに答える。
 ユージェニオの顔に陰りが帯びた。お金を受け取ってもらえない。ということは、かわいそうだが妹にはカラメラを諦めてもらうことになりそうだ。
 その時だ。
「……ったく、市井のことを知らない奴は」
 突然上から降ってきた声に振り向く。とそこには、背は高いが自分たちとそんなに変わらない少年がいた。
 仮面をつけている。だが、どこかで見かけた人物……。
 黒いマントに身を包んだ彼は少しだけ年上みたいだった。黙って数枚の銅貨をカウンターに置くと、マントを翻しドアを押して店の外に出て行った。
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