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第3章

戦略会議

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 数日間に渡って連日攻撃が続いた。
 とりあえず内城壁までは敵砲が飛んでこなかったが、外側の低い壁は穴だらけの無惨な姿になりつつある。
 その晩ブラケルナエ宮殿で行われた戦略会議の席で、皇帝コンスタンティヌスは厳かに言った。
「どうやらあの大筒は、狙った方向へ正確に弾が飛んでいないように見えるのじゃが……」
「おお、やはり陛下もそのようにお考えでしたか」
 フランゼスの同意に、参加者は頷いた。ウルバン砲の最大の弱点は、照準が定まらないことだ。当初からそれに気づいていたに違いない皇帝なのだが、今さら将軍たちの反応を確かめるような総司令官の真意を、レオナルドは測りかねていた。 
「発射後の砲身は制御不可能なほどぶれているし、砲兵が叱り飛ばされているのを見ても、メフメトはそうとう不満がある様子……。陛下の仰るとおりでしょうな」
 宰相ノタラスがさらに裏付ける。時には皇帝に同意しないこともあるノタラスが言うからこそ、最初の陛下の発言に重みが加えられた。
 もっともこちらの城壁は、六キロに渡り延々と続いているのだから、敵の狙い通りではないにしても一応どこかには当たる。よって敵の武器の正確さは、まだ誰にもわからない。
「あれほど思いもよらぬ方向に弾が飛ぶのなら、我が軍の城壁から敵に向けて打ったほうが、オスマンを逃げ惑わせるのに使えたのかもしれぬとは、何たる皮肉……。昨年ウルバンが大砲の話を持ちかけた時に、余は足蹴にすべきではなかったようだ」
 コンスタンティヌス十一世が、臣下に自分の失態をこぼしている……?。まったくもって、この人らしくない発言だ。
 レオナルドにはそれがむしろ、謝罪にも聞こえた。結果的にウルバン砲をメフメトに取られてしまったことに対する苛立ちは、ここにいる誰もが多少胸に抱いている。だからビザンティン軍の結束を壊さないように、自責の念を表明して皆の不満を少しでも減らそうという思いではないのだろうか。
「ですが陛下、あの男が訪ねてきた時はどんな大砲が出来上がるのかまだ想像もつかなかったのですから、その判断の是非は誰にも責めることはできませぬ。もしあの大砲をこちらで採用していたら、まちがいなく敵の間者がスルタンの耳に入れ、あやつをさらに好戦的にさせただけですぞ。私としては、オスマンを刺激するようなものを作らせず、あくまで戦いを避けようとなさったご決断は正しかったと信じております」
「フランゼス閣下……」
 皇帝に強く肩入れした口調で忠誠を示すフランゼス大臣……。トレヴィザンが口を開いた。
「その通り、事実こちらの失態ではありません。常識を覆(くつがえ)したのはメフメトのほうなのだから」
「まさしく、大砲というものは、本来城壁から打つための武器として設置されるべきもの……」
 ユスティニアーニにも異議はない。皇帝は両将軍に頷いた。
「だから移動式の場合には、いくらなんでも 大きさに限度が生じます。あんな正確さに欠ける巨砲など、ただの脅しなのでは?」
 そんな意見も聞こえ始める。
 メフメトが仕掛けてきたこの戦(いくさ)より以前に、これほど強力な砲筒など世界中に存在しなかった。よって欧州のどこにも、あんな大砲に対抗できる城壁が無いのだ。しかも今、その常識を超えたウルバン砲に対抗しているテオドシウスの壁は、ヨーロッパ中で最も強固な壁だった。
「恐れながら陛下……」
 レオナルドはコンスタンティヌス十一世を見つめた。
「陛下もご存知のように、敵は下級兵に城壁の外の堀を埋める作業をさせております」
「それはつまり?」
「おお猊下は、敵が一斉攻撃を仕掛けてくるための準備をしている……と?」
「はい、ですから城壁の守備隊は体力を無駄に消耗させぬよう、常に万端に整えていなければなりません。全員で夜中に壁の修復をすれば、昼間の戦力が衰えてしまいます。三つか四つの組に分けて、交代制にすべきではないかと……」
「余もまったくもって同意だ、猊下。ではフランゼス、早々に全体を四つの組みに分けてくれまいか?」
「はい、さっそく……」
 この日の打ち合わせには、いつもより重い空気がひしひしと立ちこめていた。もちろん砲撃という問題だけでも既に頭が痛いのだが、それに加えて、ちょうどオスマン海軍が近づいて来ているという知らせを受けたばかりだったせいだ。
「必要以上に恐れるのも、ビザンティンの覇気が消沈してしまうやもしれませぬ。今まで海軍を持ったことのないオスマンは海戦の経験など皆無……、しかも小型船しか持っておらぬというではありませんか」
 ユスティニアーニ将軍は自信に満ちた口調で、この場の雰囲気を鼓舞しようと努めている。
 ジェノヴァから東ローマ帝国に出陣してきた船には、一五〇〇トン級の大型帆船というヴェネツィアでさえ所有していない艦隊がある。この豪傑将軍は、それを心から誇りに思っているのだ。
「むろん閣下の言われるとおり、敵はにわか仕立ての艦隊です。とはいえ兵の数だけはこちらの十倍以上あるということも、心に留めておくべきですぞ。士気をくじくほど杞憂する必要はないが、覚えておく程度には……」
 相手の兵士と船の数を危惧するトレヴィザン将軍は、慎重さを強調する。彼はユスティニアーニより軍歴が一〇年長く、しかも海戦の将を務めてきた人だから説得力もあった。
 やはり新設されたばかりの海軍は、その戦いぶりを見てみなければ何とも言えぬというべきか……。すべては向こうが海戦について、どこまで詳しく知っているかによるだろう。
「ところで、敵がいずれ壁を登ってくるのを迎え撃つのに『ギリシャ火』を使われるおつもりでしょうか、陛下?」
 武器に詳しいレオナルドが、聖職者らしくないと一見感じた者もいなくはない。けれど歴史的に見ても、枢機卿や教皇が剣を持って戦ったことはそれこそ星の数ほどあったのを思い出すと、誰もが納得した。
 「ギリシャ火」は「消えない炎」とも呼ばれ、西暦六七二年に開発された、東ローマ帝国の秘密兵器である。松脂、硫黄、ナフサ、酸化カルシウムなどの混合物で、水の上でも消えずに燃え続けたので、陸上のみならず海戦でも大いに活躍した焼夷兵器だった。その秘密は天使によって、偉大かつ神聖な初代皇帝コンスタンティヌス一世にもたらされたと言い伝えられている。しかし時の経過と共に混合物の機密性が失われ、最近ではそれほど頼りにされなくなっていた。
「もちろん用意はしておるが、猊下は昨今ではもうあれを秘密兵器とは呼べなくなっているのはご存知か? 近隣のキリスト教徒の国を従えておるスルタンのことだから、すでに所持しておるやもしれぬな、おそらく」
「はい、往年の戦でギリシャ以外の国が模造したことは、ヴァティカンまで聞こえております。しかし我が軍の防御は城壁の上ですから、高低差を利用すれば、こちらの方が断然有利なはず……。海戦に置いてもまた然(しか)り。オスマンの船の大きさはジェノヴァ船どころか、ヴェネツィアのガレー船にも及びません。敵の最大の船が一〇〇〇トン以下ということは、我が軍の中型ガレー船に等しい大きさ……、ですからここにも高低差は利用できます」
 我が軍の兵器庫には薬品がたくさん保管してあった。それにコンスタンティノポリスはまだ完全に周囲を包囲されたわけではなく、中型船ぐらいならマルモラ海を通って、足りなくなった食糧や武器をこっそりギリシャから仕入れることも不可能ではない。
 その夜ブラケルナエ宮殿から聖ステファノへ帰る途中、レオナルドはユージェニオに「恐れながら」と呼び止められた。
「並みいる将軍たちの中でも、非常に秀でた参謀でした、猊下」
 伝えずにはいられないというような語気だ。好戦的な枢機卿だという嫌味ではでは決して無いと、王太子は頭を下げた。ラヴェンナ王太子から、かつて臣下だった者への賛辞……。未来の希望のない環境で育てられた少年が、今や叔父である教皇の手で高みに引き上げられた。
 現在の戦時下において、ユリウス・シルウェステルに与えられた力を正義のために使っていること――大事なのはその点なのだ。レオナルドはただ、任務を遂行しているだけだ。
「ふっ、おかしなものだな。何も持たなかった人間が、いったん権威ある座に着いて味をしめると、もう二度と失いたくなくなる。それを無くすことなど、想像しただけで恐ろしい。だが、手に入れた地位を守りさらに欲望を持つことに、私は恥じ入るつもりはないが……」
 そう答えるレオナルドの口調も、めずらしく肩の力の抜けた自然な声音だった。
「むろんです、猊下。無欲の人間というのは、往々にして生きる気力のない者……」
 星降る夜のコンスタンティノポリスは、なぜだかイタリアよりもずっと空が大きく、深く暗い群青色に感じられた。
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