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最終章

ケルコ・ポルタ……開いていた扉

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 五月二十九日の真夜中、メフメトによる突撃の狼煙(のろし)が上がる。……と同時に進軍楽器が激しく鳴り響き、オスマン兵士がテオドシウスの壁に向かって突進した。
 スルタンはこの日、自分の天幕に近いロマノス門を集中攻撃させた。壁を登る軍団、援護攻撃する者たち、そしてその後に攻め入るイェニチェリ軍の三つに分団した連携攻撃である。聖ソフィアまで続く大通りにつながっているカリシウス門の被害も大きかったが、それよりも峡谷で土地が低くなっているロマノス門のほうが、連日の攻撃によってもっと崩壊寸前だったからだ。
 最初にオスマンの不正規軍が壁を登るために突撃してくるのは、以前と変わらぬ作戦だった。しかし、今度はさらに強力な援護攻撃がある。不正規軍が梯子をかけて壁を登るあいだ、後方部隊が弓と砲撃でビザンティンを攻撃して、城壁上の「攻め」から味方の突撃隊を守るのだ。

「梯子を燃やせ! 石を投げろ!」
 対するユスティニアーニ将軍の指示に適確に動くギリシャ兵たちは、前より増加された攻撃を受けながらも、オスマンの梯子を燃やし敵兵を焼きにかかる。今まで属国の兵士たちを恐怖で縛り付けてこき使ってきた敵将メフメトが、兵士たちに相互協力させる戦法に変えて挑んできた。それはビザンティンには少なからぬ衝撃だったが、ユスティニアーニは、敵が根気よく兵士に壁を登らせ続ける目的はこちらを疲れさせることだと予想する。外壁はともかく、内城壁は多少壊れてはいるが、未(いま)だオスマンの前に大きな障害としてそびえ立っている。登って簡単に超えられる代物(しろもの)ではないのだ。しかもビザンティンには都合のいいことに、崩れた外壁が瓦礫となって梯子を立てかけるのを妨害していた。
 たとえ無駄と分かっていても、メフメトは捨て石の彼らに繰り返し攻めさせる。しかしユスティニアーニの兵士たちは、壁の上から少ない数で、大勢のオスマン兵を押し返すことに成功していた。最初の不正規軍が梯子から落ち、殺され、役目を終えると次の不正規軍がまた梯子を手に壁を登り出す。兵士の叫び声、怒号の飛び交う喧噪の中、何度もこの波状攻撃が繰り返された。
「まずい、優勢だった東ローマ帝国軍も、しだいに疲れを見せ始めた」
 それももっともなことだった。オスマン軍が三日間にわたって神に祈り身体を休めていた間、ビザンティン軍は壁を修復するため休み無しに働いていたのだから。

「メフメト陛下……」
 いつもなら、もうすぐ指示が降ってくるだろう視線を、この時のスルタンはしていた。
 アナトリア軍を率いるイザク・パシャは、待機する。しかしメフメトの口はまだ開かれない。皇帝は次に控えるイェニチェリに命令を下す瞬間を見極めたいのだ。なのに城壁はことのほか強固で、その機会は待てども訪れない。苛立ちを押しやり、集中力を高めるべく、メフメト二世はごく暫(しば)し瞼を閉じて、視界に入ってくる全ての物と音を消し去った。そして……目を開ける。……と、彼にはカリシウス門とロマノス門の中程に、壁が応急処置で塞いであるところが浮かび上がって見えてきた。
「イザク! 二つの門の間だ!」
 三千の軍団は、まるで一人の巨人になったかのごとく統率されて動いた。壁を塞いでいた瓦礫を取り除き、梯子をかけ射出機(カタパルト)を担いで登る。この部分は城壁の上部がウルバン砲で破壊されていた。それはつまり、その臨時の処置として渡してある橋を取り除いてしまえば、そこだけは東ローマ帝国軍が上から攻撃することができない場所になるという意味だ。
 オスマンは今この時、無敵の壁を超えようとしていた。

「早く、聖ソフィアへ!」
 女や子供や年老いた人びとは、すでに大聖堂へ避難している。レオナルドらも、呼びに来たゲオルキオス司教に促されて聖堂へ向かう。
「ミノット伯爵夫人は?」
 遠慮して母のことを聞けないでいるエルネストの代わりにレオナルドが尋ねた。
「伯爵夫人は、ミケーレやイネスと共に既に避難されています、猊下」
 大聖堂の中では、床を埋め尽くす人びとが跪いて神に祈りを捧げていた。エルネストの家族の姿を認めると、レオナルドは彼に念を押す。
「絶対に母と弟たちのそばを離れるな」
「はいっ、猊下」
 小姓はヘイゼルの瞳を潤ませて固く頷き返し家族のそばに歩み寄る。レオナルドは隣に控えていたトマに、賛美歌を演奏するよう頼んだ。やすらかな音色だけが心のよりどころなのだ。
「天使ミカエルよ、どうか我らを救いたまえ」
 そして人びとは十字架に、聖ミカエルのモザイク画に、全身全霊で祈りを唱え始める。

 今回の一斉攻撃はテオドシウスの壁だけではない。金角湾の入口に近いボスポラス海峡側も、バルトグル将軍によって攻められている。北からの攻撃は、噴煙が風を巻き上げ、コンスタンティノポリス中に黒い空気を立ち込めさせた。放たれた砲弾や矢は壁を越えて街に侵入し、飛び交う炎は夜が明けかかった街のまわりを覆いつくした。
 ブラケルナエ宮殿を狙う砲づつが浮き橋の上に設置される。
 宮殿側の壁を守るミノット大使は、いままでにない緊張に身を固めた。もちろんウルバン砲とは比べ物にならないほど小さな、発射の衝撃で橋を壊さない程度の口径だ。しかしこれまで不可能だった場所から皇宮の塔が狙われている。これがどれほど敵に多大な効果をもたらしているか知っているからこそ、ミノットの震えは止まらない。何しろ一重しかない金角湾側の壁はこの国の弱点ではあっても、テオドシウス城壁の外からでは狙えない角度――という綿密な計算に基づいて、皇宮が建設されていたからだ。それをいまだかつて歴代の敵が考えたこともない着想で、襲撃にうってつけの地点をメフメトは創り出した。
 耳をつんざくような砲撃音に思わず身を伏せた大使は、土埃がおさまった後の城壁を見て凍りつく。目の前の粉砕された壁には、人が三人通れる幅の穴が開いている。大砲の反動による揺れが収まると同時に、オスマンは浮橋を超えて続々と侵入を始めた。

 一方イザク・パシャは、メフメトの見つけた壁の穴から数えきれないほどの兵を侵入させた。だが城壁の内側に入った彼らは、皇帝コンスタンティヌス自ら指揮する守備隊に包囲され、あっけなく全滅してしまう。
 いや、確かに全滅したと思われていた。そう信じたビザンティン軍も立ち去ったしばらく後、倒れていた一人のオスマン兵がよろよろと立ち上がり、城壁に添って歩き出した。
「っ……」
 その男はテオドシウスの壁に添って北へ進んだ。カリシウス門から北の方角……。
 この深手を負ったオスマン兵士がなぜ坂を登って行ったのか、その理由を知る人間はいない。おそらくはブラケルナエ宮殿を目指していたのではないだろうか。歩くのもおぼつかない様子で、壁際を転がるように……、そして宮殿のすぐ手前にあるケルコ・ポルタ門まで来ると、閂(かんぬき)に手をかけて最後の力を振り絞り身体を支えた――そこで、ついに力尽き、彼は地面に崩れ落ちる。

 「それ」を見つけたのは、イザク・パシャだった。
 さっきメフメトが兵を潜り込ませた穴は、コンスタンティヌス十一世によってすぐに塞がれてしまった。既に三千の部下を失い怒りに満ちていたイザクは、何とか敵地に乗り込もうと、いまこの瞬間、壁の外側を必死で探っている。
 ケルコ・ポルタに松明を近づける……その時だ。炎がフッと風で揺れたのは……。壁を這う蔦の枝で、目立たなかった門の扉だ。
「空気が中から溢れてくる……まさか!」
 決死の覚悟で力任せに押してみる。すると音を軋ませて、小さな門は開き始めたのだ。閂がかかっていない……。ありえないことが、目の前で起こったのだ! イザクは大声をあげた。
「扉が……、門が開いているぞ!」
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