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最終章

教皇の獲物(ジビエ)

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 メフメト二世は一四五三年のコンスタンティノポリス攻略後、このイスタンブルを拠点にアジアとヨーロッパの交易を取り仕切り始め、政治経済にしばらく集中する。やがて西欧征服を再開した。三年後のバルカン半島ベオグラード包囲で苦杯をなめるも、一四五八年にペロポネソス半島に残る東ローマ帝国皇家を蹴散らし、半島の三分の一をも制圧した。地中海の東域にあったジェノヴァ、ヴェネツィア両共和国の領土は、こうしてことごとくスルタンの支配下に置かれていった。
 対してローマ教皇庁はオスマンの領地拡大を止めるため、東ローマ帝国皇室に縁のあるモレアスのディミトリオスを支援するが、この戦いもメフメトに破られてしまう。
 一四六一年、黒海沿岸の国がオスマンによって陥落した後、メフメトは海にまで進出して行く。征服王メフメトの名はとどまるところを知らず、世界に響き渡った。
 コンスタンティノポリスを手中に納めてから四半世紀以上過ぎても、彼は次の獲物を探し続けていた。ついにメフメトの勢力はイタリアにまで及ぶ。一四八〇年、イタリア半島南端の街オトランドを占領し、半島ばかりか西ヨーロッパ全土をも、その恐怖の底に突き落とした。ところが、……である。
 一四八一年五月三日、メフメト二世は西欧遠征中に突然、四十九歳で謎の死を遂げることになった。

 その知らせをレオナルドにもたらしたのは、すっかり大人になったエルネストだった。
「そうか、ついに……」
「はい、ヴァティカンの外で騒ぎだす前に、聖下にお知らせしたくて」

 数日後ローマでは、敵の皇帝が亡くなり、危険の遠のいたことを喜んでまるで祭りのような騒ぎだった。
 ローマ市内のヴィラ・サヴォイアには、先刻ユリウス・シルウェステル七世が帰宅したところだ。花火まで打ち上げられた騒ぎは、もちろんクラウディアも耳にしていた。
「聖下……、お聞きしたいことがあったのです」
 麗しい声に迎えられた教皇は、彼女を両腕で抱きしめる。
「……ぁ」
 ローマ教皇の接客は相手の両肩を軽く抱いて左右の頬に口づける慣習であり、中世では教皇の客と言えば主に男性だ。しかしこの私邸で出迎えるクラウディアに限って、それは唇に落とされた。
 昔と変わらない輝かしい金色の髪。気品のあるしぐさも……、初めて会った頃から、クラウディアは誰よりも優雅だ。時にはあどけなくさえ見える微笑みは、ヴァティカンの若き枢機卿と、メディチ家当主に嫁いだ娘の二人の子供の母だとは思えない若々しさがみなぎっている。養父コジモが、少し高慢に映るかもしれないと心配していたクラウディアの叡智は、他の男にはともかくレオナルド・ディ・サヴォイアにとっては、彼女の美点の一つに思える。
 メディチ家がフィレンツェで使っている手法を用いて、クラウディアの家とここは結ばれている。建物の二階に通路を作り、秘密裏に移動するという歴史的な手段だ。コジモはこれと同じ連絡路を作らせて、ローマのヴィラ・サヴォイアと三ブロック先にあるヴィラ・メディチを誰にも知られずに繋いだ。普段はメディチ家のヴィラで暮らすクラウディアが、週末にユリウス・シルウェステル七世を訪ねるところを人に目撃されないためだ。だからヴァティカンではクラウディアの息子の枢機卿を、教皇の子供だと考える人間は誰ひとり、存在しなかった。例外として、ヴィドー枢機卿と、エルネスト・ディ・ミノット枢機卿は、教皇の縁者だとおぼろげな予感を抱いていたかもしれないが。
 十五世紀の世論は聖職者の潔癖さを強く求める風潮にはなく、レオナルド・ディ・サヴォイアのためだけにならそこまで苦労して秘密を守る必要もなかったのだが、すべてはクラウディアの名聞を重んじて、彼女の夫は戦死した貴族だと公表されている。もちろんそんな人物など存在しなかったのだが、サヴォイア家とメディチ家にかかれば、人を一人捏造するくらいわけもないことだった。

「……して、余に聞きたいこととは?」
 唇を離してすぐに話し始められる彼とは違って、クラウディアはしばし息を整える時間が必要だった。
「……オ、オスマンの皇帝が、亡くなったとうかがいました」
「ああ、そのようだな」
「毒殺されたという噂があるのを、ご存知ですか?」
 ユリウス・シルウェステル七世は、「もうそこまで知っているのなら、仕方が無い」と苦笑を浮かべ、クラウディアの肩に腕を回した。
「かつて……、メフメト二世の父ムラト二世も、メフメトの兄たちも毒殺されたというのを存じておるか?」
 ささやかれた言葉に、彼女は今まで見たこともない大きな衝撃を受けた。
「それは……本当なのですか!?」
 レオナルドは頷く。
「その理由はなぜだと思う?」
「わ、わたくしには、異教徒が神の罰を受けたように思えます」
 その答えは、純真無垢な信者そのものに聞こえる。けれど自分の返事を推敲したクラウディアの瞳は、不意に悪戯っぽく輝き顔には微笑みすら浮かべるのだった。まったくこの王女は幼い頃から聡明で、それは今も変わっていない。
「そう、その通りだ。オスマンという異教徒は、キリストの罰を受けた……」
 応じるレオナルドの声は、氷のように落ち着いている。
「ローマ教皇は神の代理であり、余はローマ教皇である。つまり余は、神の役目を果たすのが仕事なのだ」
 教皇の言葉を、クラウディアはいぶかしがっていた。
「ローマ教皇は、信者に罪の告白をすべきではなかったが……」
 やがてクラウディアは静かに口を開く。
「それは……、悪魔を退治する神は魔力よりも強い力を持つということなのですね」
 その後でレオナルドがつぶやいた一言……、それはクラウディアの耳に届けようとして発せられたというより、天に向けて放たれたものだった。
「スルタンも、ローマを攻めようとさえしなければ、神の罰を受けずに済んだものを……」

 ヴィラ・サヴォイアの最上階で、一人の老人が静かな日々を過ごしていることを、知る者は少ない。二十七年前、ジェノヴァの帆船に乗ってローマに着いた時から、彼の髭にはすでに白いものが混じり始めていた。大した怪我ではなかったが、このひとが立ち直れるかどうか確信はなかった。あの頃の光をなくした瞳を鑑みるに、彼がここまで健やかに生き抜いたのが、彫像から蘇ったようにすら感じる。
「どうやら陛下の戦略通りに、ことが運んだようですね」
 教皇がキリストの血(赤ワイン)で満たしたグラスを老人は受け取る。その手つきは、七十代にしては非常にしっかりとしたもので、強固な意志の持ち主だということがうかがえる。
「ふふふ、そのように余に華を持たせる気遣いは、必要あるまいて。誰の発案かぐらい、忘れるほどの歳ではないぞ」
 失礼いたしました、とユリウス・シルウェステル七世は自分のグラスを手に取った。
 ローマの夜空は、際限なく打ち上げられる花火で賑わっていた。それを見つめる皇帝の瞳には、おそらく天軍の凱旋にうつっているのだろう。
「総帥ミカエルが陛下を振り向きましたか?」
 通りからこぼれてくる音楽も、彼らにはどうにも聖ミカエルと共に戦った天使たちの奏でる勝利のトランペットに聞こえてならない。
「長かった。本当に、長い道のりだった」
 皇帝は夜空に向けてグラスを掲げた。
「彼らの罪を赦し、牧者となりて、命の水の泉に導きたまえ……」
 教皇が弔いの言葉をつぶやく。
 宴にはいつの日も、ジビエの彩(いろどり)が欠かせない。


【完】



参考資料
「人類の星の時間」シュテファン・ツヴァイク
「メフメト2世 トルコの征服王」アンドレ・クロー
「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生
「オスマン帝国とイスラム世界」鈴木薫
「ガリア戦記」ユリウス・カエサル
「ダークヒストリー 図説ローマ教皇史」樺山紘一
「図説ローマ教皇」鈴木宣明
“History's Turning Points - AD 1453 Siege of Constantinople”
「女教皇ヨハンナ」ドナ・W・クロス
“The Autumun of the Middle Ages” Johan Huizinga
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