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第5章 ニューヨーク
主演女優に花束を
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ドラマの撮影が開始された。
とある水曜日、はるばるカリフォルニアから、副社長のナイジェル・エインズワースが出張してきたのは、今回のプロジェクトの進行状況をジェレミーの父ギルバート・ルイス氏に伝えるためだった。
ジェレミーは自分より十二歳も年上の副社長を毅然とした態度で迎える。ドラマを撮影しているスタジオに向かうリムジンの中でリサを彼に紹介し、そのあと父の様子をたずねる。
「相変わらず元気? 最近のエグゼクティブ・チェアマン(会長)は」
仕事中ジェレミーは、自分の父のことを役職名で呼ぶ。
「ああ、いつも通りエネルギッシュな人だ。新しいアイデアには、個性的なエンジニアたちでさえ驚かされている」
ジェレミーの父は十年前にIT企業を合併する際、仕事のかたわら大学院に通い、サイエンスの修士号を取得した。ビジネス・スクールでの修士号は既に持っている父が、何十年かぶりに学生に戻った理由……、それは合併により新しく部下になったエンジニア系管理職たちを、指導するためだった。
つまりサイエンス畑の人びとは、文系の人間の指示に従いたくないというプライドを持っているから、いわゆる理系の学歴を取得したのだ。
スタンフォードで若者に交じって受けた授業が脳の活性化に繋がったのか、もともと革新派のギルバートは歳をとっても思考が柔軟で、ますます新しいことを積極的に取り入れる方針を仕事でも貫いているらしい。
「おもしろそうな企画だって羨ましがってたよ。我々西海岸勢は東海岸ほどヨーロッパに近くない」
そう、ヨーロッパの文化はカリフォルニアよりニューヨークに先にやって来る。
例えばニューヨークとパリの距離は、アメリカ東西海岸の主要都市間の約1.4倍もある。それに対して飛行時間のほうは、異なる大陸間を飛ぶのに米国内を横切るのよりほんの1時間余計にかかるだけなのだ。
コレット・ルールー・デロワも、既に彼女が名を馳せていたパリを離れ、1916年に未だ世界大戦に参加していないアメリカでブランドを確立したのだが、その活躍はニューヨークが舞台となった。
それはユベール・ラングロワ氏がロサンゼルスやサンフランシスコより、ニューヨークを頻繁に訪れることにも象徴されているように、欧州の芸術はアメリカ大陸の玄関口にあるこの魅力にあふれた都市を訪れると、そこで満足してしまうのか西海岸まで旅を継続しないことがあるのだ。
本社(ヘッド・クォーター)がニューヨークである以上、ギルバート・ルイス会長の君臨するカリフォルニアのビジネスが、たとえここの三十倍の社員と五十倍の敷地面積を抱えていようとも、名目上は支社である。けれど季節の移り変わりの厳しいニューヨークより湿度が低く、からりと晴れた青空の広がる地中海性気候の西海岸は、過ごしやすいせいかフレンドリーな人材が多い。
その開放的な文化には、時どき独特な天才も誕生する。いわゆるガレージで企業が起業されたアップル、グーグルなどがカリフォルニアで生まれたのは、人びとが親しみやすく友好的な気質の影響が強いのかもしれない。
多いとは言っても、彼らのような抜きん出た才能を持つ人間は、そう頻繁に現れるわけではない。けれど、よく似た感じの頭の切れるエンジニアやビジネスマンの数は、少なくないのである。ITに携わっている人びとは、ジョブズ氏らをロールモデルとしているから、なおさら誰もが「何気ない雰囲気なのに実は秘めたる才能を持つ人」というベクトルに向かって進んでいく。
「あの人の興味は、プロジェクトじゃなくて、むしろNBCそのものだろう?」
「ああ、お父上は、テレビ局の株を所有するのがご希望らしいからね」
ナイジェルはそう言いながらメガネのフレームを中指で押し上げ、シャープな表情をリサに向けた。
「NBCが株を増資したことなんかは、ハーバードの教授は話してくれるのかな?」
副社長は、シリコンバレーのルイス・エンタープライズには、こんな可愛い女の子でなく、もっと独特な雰囲気の学生しか実習に来ないのに……と考えながら彼女に聞いた。
「……あ、はい。クラスに投資銀行で経験を積んでから入学してきた人がいて、そのことを話してました」
「そうなんだ。だから増資後の利益しだいで、果たして今回のプロジェクトの支払いを、期日までに滞りなくしてくれるかどうか、少し不安なところもある」
リサにそう答えながらジェレミーは、学生時代を思い出していた。
多くの授業はディスカッション形式で進められ、生徒たちが意見を戦わせる。ハーバード・ビジネス・スクールは大学を卒業したばかりの学生よりも、一度社会人を経験してから新たな学位を取りに来る者たちの割合の方が多かった。
中でも飛び級を重ねて当時まだ二十一歳の大学院生だったジェレミーにとって、彼らはとても大人びて見えたものだ。クラスでは生意気な子供扱いされたり、可愛がられたり、またジェレミーの意見に畏敬を示されたり、なにかにつけて挑戦されてきたのが懐かしい。
「ルイス・エンタープライズとしては、それでも番組のスポンサーを続けるのか?」
ナイジェルがジェレミーに聞いた。
「ああ、続ける。うちは別に資金繰りに困ってないし、メイン番組のスポンサーというのは宣伝効果が大きいからね」
「だったら……」
言いかけてすぐに口をつぐんでしまうリサに、ジェレミーは続きを促した。
「……もしルイス・エンタープライズ側に余裕があるんだったら、テレビ局からの今回の支払いは、お金でなく株で受け取るというのはいかがですか?」
「グッド・アイディアだな。相手を猶予するように見せかけて、実は追い込んでいく手口がなかなかいい」
どうやらナイジェルは、リサがお気に召したらしい。
◇ ◇ ◇
三人がスタジオに着くと、ちょうどオートクチュールのアトリエシーンを撮影しているところだった。
今日は本番テイクなので、コレット役のシェリルをはじめ大勢の俳優が来ていた。
ガレット・デ・ロワの衣装を貸し出しているためジャン=ピエールもスタッフの中で、モデルの着付けを直している。このドラマのメイク担当者にも、彼はいろいろ指示していた。
ディレクターの「テイク」のかけ声で、いっせいに緊張が走る。
コレットがファッションショーの準備のため、モデルたちに着せたドレスを手直ししている場面が始まった。
「こっちに回って見せて」
シェリルに言われて、ポーズをとっていたモデル役がくるりとターンした。
ハサミを手に近づいたシェリルは、衣装をモデルの身体に合わせるため、彼女の身につけていたドレスの背中部分をつまみ、布に切り込みを入れる。
非常に切れ味の良いハサミで布を裁っていく音が、静かなスタジオに響く。
着ていたモデルは平静を保つように努力していたが、張りつめた表情が隠せない。シェリルは背中部分をつまんだまま、クチュリエにダーツを取るように指示を下した。
「カット!」
ディレクターの合図で、カメラが止まる。
女優の顔から通常モードに戻ったシェリルは、ジャン=ピエールを振り返って話しかけていたが、ルイス・エンタープライズの社長を目に留めると、すぐに微笑みながらジェレミーのところへやってきた。
「わざわざ来てくださったの? 先日は、抱えきれないほどのバラをありがとうございました。できればもっと若い役の時に、ご挨拶したかったわ」
そう言いながら、ふわりと笑った。このシーンでのコレットは三十代後半で、まだ二十代のシェリル・シャノンには、実年齢より老けて見えるよう特殊メイクが施されていた。
「ふふっ、今はあなたより年上なの」
「カメラの前ではそう見えたが、演技してない時は若いままだよ、君は。そのメイクでも」
それはお世辞ではなく、事実だった。人気女優の笑顔はジェレミーの言葉で、バラの花びらより艶やかな笑みを唇に浮かべ、一段ときらめきを増した。新聞記者がシェリルにカメラを向けると、彼女は映される前にサングラスをかけた。
「目元の加齢メイクが、このまま撮られちゃったら大変」
そして隣で微笑んでいるジェレミーと話を続ける。
「構わないの? あなたも一緒に映されてるけど」
「気にする必要は無いだろう。そこに何も存在しない所に、噂を作り上げるのが彼らの仕事だ」
「ええ、スキャンダルの真相なんて、そんなものですものね」
二人は仲良く視線を交わす。
リサは、少し離れた壁際に立っていた。
その辺りは、照明も届かず薄暗い。ドラマの撮影現場に入るのが初めての彼女は、興味深そうに頭上に取りつけられた装置と高い天井を見上げていた。
「やあ、久しぶり」
薄暗いスタジオ内で、いつのまにか隣に立っていたのはジャン=ピエールだ。
「素晴らしかったわ」
「……そうだね。シェリルは、クチュリエでの布の扱い方もコーチについて練習したんだって。僕が教えることは、ほとんどなかった」
「でもあなたが、お気に入りみたい。親しそうに話してたし……」
「ルイス社長が入ってきた途端に、取られちゃったけどね。あ、花束のことなら気にしなくていいよ。ジェレミーの個人的な贈り物じゃないから。『主演女優に花束を』っていうのは、ラングロワ氏とルイス社長から贈る企画なんだ。そういう役目に決まってただけだから」
「どうしてわたしが、そんなこと気にすると思うの?」
リサの微笑みは、自信たっぷりだった。
「ふうん、嫉妬しないんだ。もしかして、君の心はもう僕のことでいっぱいなのかな?」
「ふふふ」
ジャン=ピエールの言葉に、リサから思わず笑い声がこぼれた。とても甘く響いた声は、小さな音だったにもかかわらずジェレミーのところまで届いていた。
「そろそろボスのもとに、戻ったほうがいいんじゃない? 呼ばれる前に」
「ルイス社長は、そんな子供じみたことしないと思うわ」
――あの人はそんな自分の焦燥を見せるようなことをするはずがない。だいたいジャン=ピエールと話しているくらいで、わたしを呼びつける必要なんて無いじゃない。
「そうだね。僕たちが最初に会った時、誰が王様か知らしめるみたいな視線で君を見て、かえって僕のことを君に意識させちゃったからね」
ジェレミー以上にうぬぼれて見せるジャン=ピエールの話し方は、不思議とリサを不快にはさせなかった。
――あの時……あの人がわたしを見たのは、もしかしたら……、ううん、それとも……わざとあの人はそうしたってこと?
だとしたらまるで、鳥かごの扉を開けたままにして、わたしの意志で自由を選ぶきっかけをくれたみたい……。
「この前君を送って行った時のビズー、覚えてる?」
「ええ」
――もちろん、覚えてる。友達同士の頬を合わせるビズーじゃなかったこと。それから、そのあと偶然に……。
「あれは、偶然じゃないよ」
「ぇ?」
凍りついたように言葉をなくしたリサが顔を上げると、意外にもシェリルとジェレミーがこちらに視線を向けていた。
明かりの中で皆の注目を浴びている主演女優とスポンサーである社長が、壁際の暗がりに何を見ていたのか、その場にいた人間は誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇
「将来頼もしいアシスタントだな」
その日リサが帰宅した後で、社長室を訪ねていたナイジェルは、インターンをそう評価した。
「まだ、彼女が就職試験を受けにくるかどうかわからないよ。だとしても、採用の可否は私が決めることじゃない」
「じゃあ……、カリフォルニアに来てもらっても構わない? 即戦力になりそうな、魅力的な存在だ」
インターンシップは就職活動でないとはいえ、優秀な実習生に対しては、企業はヘッドハンティングの機会を常に逃さない。
「それは賛成しない」
――あのエグゼクティブ・チェアマンに彼女を見せたら、何をされるかわからない。
ギルバート・ルイス氏はかつて、ジェレミーの何倍も浮き名を流した人だ。ずっと手元に置いて、自ら教育し育てて来た彼女……,。時間をかけて理解し合えるようになったリサを、父親に横取りされるわけにはいかない。
リサの好みから推察すると、ジェレミーに良く似た「さらに大人の男」であるギルバートは、かなり危険に思えた。たとえリサとの年齢差があっても、あの二人は会わせてはいけない予感がひしひしとする。
彼女を若い男にさらっていかれそうな危機は、目の前に差し迫っている。リサに選ぶ自由を与えた時から……。
それでも、父に盗られることだけは、どうしても許せなかった。
ジェレミーが副社長に、リサを採用するかどうか未定だと答えたのは事実で、就職について二人の間には何の約束も交わされていなかった。
今回のインターン期間終了後、彼女の学校に提出する評価は公平にするつもりだが、リサの将来は、彼女に選ばせることに決めていた。
彼女の方から、この会社で働かせてくれるよう頼まれたことはまだ一度も無い。
要するにジェレミーが心の底から望んでいるのは、命令を下さずとも、彼女に自ら彼の傍にいたいという願望を抱かせることだったのだから。
とある水曜日、はるばるカリフォルニアから、副社長のナイジェル・エインズワースが出張してきたのは、今回のプロジェクトの進行状況をジェレミーの父ギルバート・ルイス氏に伝えるためだった。
ジェレミーは自分より十二歳も年上の副社長を毅然とした態度で迎える。ドラマを撮影しているスタジオに向かうリムジンの中でリサを彼に紹介し、そのあと父の様子をたずねる。
「相変わらず元気? 最近のエグゼクティブ・チェアマン(会長)は」
仕事中ジェレミーは、自分の父のことを役職名で呼ぶ。
「ああ、いつも通りエネルギッシュな人だ。新しいアイデアには、個性的なエンジニアたちでさえ驚かされている」
ジェレミーの父は十年前にIT企業を合併する際、仕事のかたわら大学院に通い、サイエンスの修士号を取得した。ビジネス・スクールでの修士号は既に持っている父が、何十年かぶりに学生に戻った理由……、それは合併により新しく部下になったエンジニア系管理職たちを、指導するためだった。
つまりサイエンス畑の人びとは、文系の人間の指示に従いたくないというプライドを持っているから、いわゆる理系の学歴を取得したのだ。
スタンフォードで若者に交じって受けた授業が脳の活性化に繋がったのか、もともと革新派のギルバートは歳をとっても思考が柔軟で、ますます新しいことを積極的に取り入れる方針を仕事でも貫いているらしい。
「おもしろそうな企画だって羨ましがってたよ。我々西海岸勢は東海岸ほどヨーロッパに近くない」
そう、ヨーロッパの文化はカリフォルニアよりニューヨークに先にやって来る。
例えばニューヨークとパリの距離は、アメリカ東西海岸の主要都市間の約1.4倍もある。それに対して飛行時間のほうは、異なる大陸間を飛ぶのに米国内を横切るのよりほんの1時間余計にかかるだけなのだ。
コレット・ルールー・デロワも、既に彼女が名を馳せていたパリを離れ、1916年に未だ世界大戦に参加していないアメリカでブランドを確立したのだが、その活躍はニューヨークが舞台となった。
それはユベール・ラングロワ氏がロサンゼルスやサンフランシスコより、ニューヨークを頻繁に訪れることにも象徴されているように、欧州の芸術はアメリカ大陸の玄関口にあるこの魅力にあふれた都市を訪れると、そこで満足してしまうのか西海岸まで旅を継続しないことがあるのだ。
本社(ヘッド・クォーター)がニューヨークである以上、ギルバート・ルイス会長の君臨するカリフォルニアのビジネスが、たとえここの三十倍の社員と五十倍の敷地面積を抱えていようとも、名目上は支社である。けれど季節の移り変わりの厳しいニューヨークより湿度が低く、からりと晴れた青空の広がる地中海性気候の西海岸は、過ごしやすいせいかフレンドリーな人材が多い。
その開放的な文化には、時どき独特な天才も誕生する。いわゆるガレージで企業が起業されたアップル、グーグルなどがカリフォルニアで生まれたのは、人びとが親しみやすく友好的な気質の影響が強いのかもしれない。
多いとは言っても、彼らのような抜きん出た才能を持つ人間は、そう頻繁に現れるわけではない。けれど、よく似た感じの頭の切れるエンジニアやビジネスマンの数は、少なくないのである。ITに携わっている人びとは、ジョブズ氏らをロールモデルとしているから、なおさら誰もが「何気ない雰囲気なのに実は秘めたる才能を持つ人」というベクトルに向かって進んでいく。
「あの人の興味は、プロジェクトじゃなくて、むしろNBCそのものだろう?」
「ああ、お父上は、テレビ局の株を所有するのがご希望らしいからね」
ナイジェルはそう言いながらメガネのフレームを中指で押し上げ、シャープな表情をリサに向けた。
「NBCが株を増資したことなんかは、ハーバードの教授は話してくれるのかな?」
副社長は、シリコンバレーのルイス・エンタープライズには、こんな可愛い女の子でなく、もっと独特な雰囲気の学生しか実習に来ないのに……と考えながら彼女に聞いた。
「……あ、はい。クラスに投資銀行で経験を積んでから入学してきた人がいて、そのことを話してました」
「そうなんだ。だから増資後の利益しだいで、果たして今回のプロジェクトの支払いを、期日までに滞りなくしてくれるかどうか、少し不安なところもある」
リサにそう答えながらジェレミーは、学生時代を思い出していた。
多くの授業はディスカッション形式で進められ、生徒たちが意見を戦わせる。ハーバード・ビジネス・スクールは大学を卒業したばかりの学生よりも、一度社会人を経験してから新たな学位を取りに来る者たちの割合の方が多かった。
中でも飛び級を重ねて当時まだ二十一歳の大学院生だったジェレミーにとって、彼らはとても大人びて見えたものだ。クラスでは生意気な子供扱いされたり、可愛がられたり、またジェレミーの意見に畏敬を示されたり、なにかにつけて挑戦されてきたのが懐かしい。
「ルイス・エンタープライズとしては、それでも番組のスポンサーを続けるのか?」
ナイジェルがジェレミーに聞いた。
「ああ、続ける。うちは別に資金繰りに困ってないし、メイン番組のスポンサーというのは宣伝効果が大きいからね」
「だったら……」
言いかけてすぐに口をつぐんでしまうリサに、ジェレミーは続きを促した。
「……もしルイス・エンタープライズ側に余裕があるんだったら、テレビ局からの今回の支払いは、お金でなく株で受け取るというのはいかがですか?」
「グッド・アイディアだな。相手を猶予するように見せかけて、実は追い込んでいく手口がなかなかいい」
どうやらナイジェルは、リサがお気に召したらしい。
◇ ◇ ◇
三人がスタジオに着くと、ちょうどオートクチュールのアトリエシーンを撮影しているところだった。
今日は本番テイクなので、コレット役のシェリルをはじめ大勢の俳優が来ていた。
ガレット・デ・ロワの衣装を貸し出しているためジャン=ピエールもスタッフの中で、モデルの着付けを直している。このドラマのメイク担当者にも、彼はいろいろ指示していた。
ディレクターの「テイク」のかけ声で、いっせいに緊張が走る。
コレットがファッションショーの準備のため、モデルたちに着せたドレスを手直ししている場面が始まった。
「こっちに回って見せて」
シェリルに言われて、ポーズをとっていたモデル役がくるりとターンした。
ハサミを手に近づいたシェリルは、衣装をモデルの身体に合わせるため、彼女の身につけていたドレスの背中部分をつまみ、布に切り込みを入れる。
非常に切れ味の良いハサミで布を裁っていく音が、静かなスタジオに響く。
着ていたモデルは平静を保つように努力していたが、張りつめた表情が隠せない。シェリルは背中部分をつまんだまま、クチュリエにダーツを取るように指示を下した。
「カット!」
ディレクターの合図で、カメラが止まる。
女優の顔から通常モードに戻ったシェリルは、ジャン=ピエールを振り返って話しかけていたが、ルイス・エンタープライズの社長を目に留めると、すぐに微笑みながらジェレミーのところへやってきた。
「わざわざ来てくださったの? 先日は、抱えきれないほどのバラをありがとうございました。できればもっと若い役の時に、ご挨拶したかったわ」
そう言いながら、ふわりと笑った。このシーンでのコレットは三十代後半で、まだ二十代のシェリル・シャノンには、実年齢より老けて見えるよう特殊メイクが施されていた。
「ふふっ、今はあなたより年上なの」
「カメラの前ではそう見えたが、演技してない時は若いままだよ、君は。そのメイクでも」
それはお世辞ではなく、事実だった。人気女優の笑顔はジェレミーの言葉で、バラの花びらより艶やかな笑みを唇に浮かべ、一段ときらめきを増した。新聞記者がシェリルにカメラを向けると、彼女は映される前にサングラスをかけた。
「目元の加齢メイクが、このまま撮られちゃったら大変」
そして隣で微笑んでいるジェレミーと話を続ける。
「構わないの? あなたも一緒に映されてるけど」
「気にする必要は無いだろう。そこに何も存在しない所に、噂を作り上げるのが彼らの仕事だ」
「ええ、スキャンダルの真相なんて、そんなものですものね」
二人は仲良く視線を交わす。
リサは、少し離れた壁際に立っていた。
その辺りは、照明も届かず薄暗い。ドラマの撮影現場に入るのが初めての彼女は、興味深そうに頭上に取りつけられた装置と高い天井を見上げていた。
「やあ、久しぶり」
薄暗いスタジオ内で、いつのまにか隣に立っていたのはジャン=ピエールだ。
「素晴らしかったわ」
「……そうだね。シェリルは、クチュリエでの布の扱い方もコーチについて練習したんだって。僕が教えることは、ほとんどなかった」
「でもあなたが、お気に入りみたい。親しそうに話してたし……」
「ルイス社長が入ってきた途端に、取られちゃったけどね。あ、花束のことなら気にしなくていいよ。ジェレミーの個人的な贈り物じゃないから。『主演女優に花束を』っていうのは、ラングロワ氏とルイス社長から贈る企画なんだ。そういう役目に決まってただけだから」
「どうしてわたしが、そんなこと気にすると思うの?」
リサの微笑みは、自信たっぷりだった。
「ふうん、嫉妬しないんだ。もしかして、君の心はもう僕のことでいっぱいなのかな?」
「ふふふ」
ジャン=ピエールの言葉に、リサから思わず笑い声がこぼれた。とても甘く響いた声は、小さな音だったにもかかわらずジェレミーのところまで届いていた。
「そろそろボスのもとに、戻ったほうがいいんじゃない? 呼ばれる前に」
「ルイス社長は、そんな子供じみたことしないと思うわ」
――あの人はそんな自分の焦燥を見せるようなことをするはずがない。だいたいジャン=ピエールと話しているくらいで、わたしを呼びつける必要なんて無いじゃない。
「そうだね。僕たちが最初に会った時、誰が王様か知らしめるみたいな視線で君を見て、かえって僕のことを君に意識させちゃったからね」
ジェレミー以上にうぬぼれて見せるジャン=ピエールの話し方は、不思議とリサを不快にはさせなかった。
――あの時……あの人がわたしを見たのは、もしかしたら……、ううん、それとも……わざとあの人はそうしたってこと?
だとしたらまるで、鳥かごの扉を開けたままにして、わたしの意志で自由を選ぶきっかけをくれたみたい……。
「この前君を送って行った時のビズー、覚えてる?」
「ええ」
――もちろん、覚えてる。友達同士の頬を合わせるビズーじゃなかったこと。それから、そのあと偶然に……。
「あれは、偶然じゃないよ」
「ぇ?」
凍りついたように言葉をなくしたリサが顔を上げると、意外にもシェリルとジェレミーがこちらに視線を向けていた。
明かりの中で皆の注目を浴びている主演女優とスポンサーである社長が、壁際の暗がりに何を見ていたのか、その場にいた人間は誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇
「将来頼もしいアシスタントだな」
その日リサが帰宅した後で、社長室を訪ねていたナイジェルは、インターンをそう評価した。
「まだ、彼女が就職試験を受けにくるかどうかわからないよ。だとしても、採用の可否は私が決めることじゃない」
「じゃあ……、カリフォルニアに来てもらっても構わない? 即戦力になりそうな、魅力的な存在だ」
インターンシップは就職活動でないとはいえ、優秀な実習生に対しては、企業はヘッドハンティングの機会を常に逃さない。
「それは賛成しない」
――あのエグゼクティブ・チェアマンに彼女を見せたら、何をされるかわからない。
ギルバート・ルイス氏はかつて、ジェレミーの何倍も浮き名を流した人だ。ずっと手元に置いて、自ら教育し育てて来た彼女……,。時間をかけて理解し合えるようになったリサを、父親に横取りされるわけにはいかない。
リサの好みから推察すると、ジェレミーに良く似た「さらに大人の男」であるギルバートは、かなり危険に思えた。たとえリサとの年齢差があっても、あの二人は会わせてはいけない予感がひしひしとする。
彼女を若い男にさらっていかれそうな危機は、目の前に差し迫っている。リサに選ぶ自由を与えた時から……。
それでも、父に盗られることだけは、どうしても許せなかった。
ジェレミーが副社長に、リサを採用するかどうか未定だと答えたのは事実で、就職について二人の間には何の約束も交わされていなかった。
今回のインターン期間終了後、彼女の学校に提出する評価は公平にするつもりだが、リサの将来は、彼女に選ばせることに決めていた。
彼女の方から、この会社で働かせてくれるよう頼まれたことはまだ一度も無い。
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ありがとうございます😊
2024.07.05
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