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第6章 中世 フランス
悔い改めよ。天の国は近づいた。マタイ4章12-17
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呼ばれているのは国王ルイ……、呼んでいるのはゴボゴボと喉を鳴らすガルグイユの声……。
嵐と黒鷲が、ガルグイユをこの城まで追いつめた。
巨大な一羽に追われた一頭は、暫し城内に逃げ込んでくる!
――鳥が建物の中に入ってくるとは、なんと不吉な!
それは死の予兆だと信じられている。ガルグイユのためにリーザが小窓を開けてやると、必死の羽ばたきに疲れ果てた彼は、そこから飛び出し、隣の神殿に入っていった。
黒鷲の敵意の眼差しがガルグイユを射抜く。……が、窓は追っ手の巨躯には小さすぎた。ガルグイユを諦めた鷲は、かわりに国王を睨め付ける。
空中で急に羽ばたきを止め、ひらりと宙返りをした時はまだ鳥のままだった。しかし螺旋階段に着地した姿は、二本の足で立つ悪魔(ルシフェル)に変わっていた。二メートルはあろうかという背中の黒い翼が、ゆらいで雨を薙ぎ払い、荒い息を吐く。手にしているのは、先が二つに割れた長い槍……。
ルイ・ド・ヴァロワは床を蹴り、螺旋の段上に飛び降りる。
光る憎悪の目……。
空気を切り裂くがごとき速さで、王は剣を引き抜いた。同時にルシフェルも腕を振り上げる。
刃を斜めに身をかがめ、国王は力を溜め思いっきり高く剣を振り上げた。だが敵はおそるべき跳躍で彼を飛び越えてくる。
振り向きざまにルイ王は刃で敵を薙ぎはらう。刃と刃が擦れ、黒い羽根がはらはらと飛び散った。
こんなに槍を振り回されては、太刀打ちできない。
「どう見ても、父上の得物のほうが不利なのに」
鎧を身に纏ったシャルロットは、拳を固く握りしめる。すると、彼女の声が聞こえたかのように、ルシフェルがシャルロットに目を止めた。おそらく敵は思い出したのだろう、ここへ来る途中、ジャン=ピエールから鍵を奪おうとしたのを妨げ、攻撃を仕掛けた王女だということを。
地獄の王に睨めつけられ足はすくんでしまったが、その恐ろしい視線だけは、王女のプライドにかけても外らしてなるものかと睨み返した。ルシフェルの目は今、急激に敵意の光を集めている。
「危ない!」
一瞬先に、王は手すりを蹴って飛び上がった。
焼け付くビームはシャルロットの防具をかすめ、火花を粉砕する。彼女を覆うように、ギヨームが重なって床に伏せた。たった今までシャルロットの立っていた場所は、敵の目から放たれた光線で焼かれ、大きな穴が開いていた。
間髪を入れず、ルイ王の振り下ろした剣は、ルシフェルの右肩を切り裂く。
うめき声をあげ、巨体は大きく揺らいだ……かに見えた。だが 滑りつく体を立て直すと、槍での反撃に出た。
「早く、外へ」
攻撃を受け流しながら、王の鋭い声はシャルロットに命じていた。
そう――逃げることが、可能なのだ。たとえ敵が階段にいて、彼女たちが階上にいても……。
なぜならここには、シャンボール城と同じ二重の螺旋階段がある。それを使えば、敵に出会うことなく出口にたどり着ける。
「でも……」
「ここにいては、かえって陛下の妨げになってしまいます」
「走れ!」
出口を目指す王女たち……。
逃亡を妨げんと、ルシフェルはもう一つの階段に飛び移ろうとした。
だが鋭く切りつけた王の一撃で、翼を血飛沫でにじませる。かろうじて娘が扉の外に出るまで、父王はそれを守り抜いた。
猛り狂う怒りで突きにかかってくる槍を、国王は刃で受ける。剣に重い衝撃と火花が走り抜けた。
槍を払いのけ、ルイ王は狙い通り、槍のリーチ(守備範囲)の内側へ滑り込んだ。すかさず敵の胴へ太刀を浴びせる。血を流し、それでもルシフェルは階段を蹴って、相反する螺旋階段へ体当たりしてきた。
シャルロットが外に出た時、空はまだ暗いままだった。城内からは絶え間ない剣戟に混じって、時おり何かが建物にぶつかるような、大きな音が聞こえてくる。
「信じております、父上。どうか……聖ミカエルさまのご加護を!」
なのに崩れ落ちる音の直後、階下の窓を突き破って地面に転げ落ちたのがいったいどっちなのか判別もままならぬうちに、黒鷲がその壊れた窓から続いて飛来したので、転がった父を思いやるシャルロットの胸はつぶれそうになった。
粉砕した窓の破片に紛れた体は、マントを取り払うと、蘇りし者のごとく致命傷はない。
「陛下、よくぞご無事で……」
立ち上がった影――それこそは、紛れもなく国王ルイ・ド・ヴァロワだった。
姿を取り巻くオーラは、甲冑を纏って天軍を率いる総帥そのものだった。
彼は切っ先を天に向ける。
片足を後ろへわずかに滑らせ、剣に意識を集中させた。刃の先に、光が集められていく。
突進してくる黒鷲……。身を低くして、王はそれを寸前で避ける。……と、すれ違いざまに剣を強く振り下ろした。
慌てた鷲の、羽ばたきが止まる。敵を極限まで引きつけ、王の剣は一閃を放った!
鋼が空を切り裂く鋭い音……。摩擦音が、耳の真横を駆け抜けていく。
そのままひとひら刃を返し、真一文字に切り裂いた。
黒鷲はガクンと傾き、尚も旋回を試みる。けれど大きな体は傷ついた翼には重過ぎた。みるみる高度を落とし、台地の下……、遥か遠い地面へ向けてまっすぐ落ちていった。
国王は刃をついっと回転させ、剣を鞘に収める。
緊張をほころばせて駆け寄るシャルロット……。
「後ろです! 陛下」
ギヨームの叫び声に、国王は振り返った。
たった今落ちていったはずの黒鷲が、不穏な影を帯び浮上してきたのだ。暗い闇の中から、光る目で王に狙いを定める。
ルイ・ド・ヴァロワは、再び剣を構えた。
「父上!」
思わず剣を掴もうとしたシャルロットの腕を、ギヨームが捕らえる。
「陛下に、お任せしましょう」
シャルロットは彼を振り向くと、聡明な瞳に黙って頷いた。
羽ばたきをやめ、ふわりと浮上した鷲は、その爪で襲わんとばかりに手を伸ばした。
王は、黒い巨体を縦に叩き割る。
――重い……。
受け止めた刃を捻り、敵の体重をそらした。はずみをつけ容赦無い一突きを見舞う。
天をひっかくような、限りなく長く引きずる断末魔が天空に響き渡った。黒鷲がどさりと音を立て、地面に落ちる。
ぴくりとも動かない。
剣の切っ先で国王が裏返す。今度こそは間違いなく、完全に息絶えていた。
「ああ、父上、よくぞご無事で……」
国王に抱き寄せられたシャルロットは、ふんわりと薔薇色に頬を染めた。とろけるような笑みは、まだギヨームにもジャン=ピエールにも、誰にも向けられたことの無い甘い微笑だった。
その後、無事に逃げおおせた様子のガルグイユを追って、国王たちは古代遺跡の中へ入っていく。
朽ちかけてはいるが、十二本の円柱に囲まれた内陣の中には、香を焚くための小さな祭壇が設置してある。
「あそこに何か……」
祭壇の上にあるのは、一冊の重々しい本だ。
「あのガルグイユ、まるでわたくしたちをここに案内したみたい」
「確かに、そんな感じがする」
分厚いその本は一抱えもあるほど大きくて、ページを開こうとしたが開けられなかった。
「ここに……」
シャルロットが表紙の鍵穴を指差す。そこに鍵を差し込まなければ、中が見られないようになっている。それに合う鍵といえば……。
皆が同時にジャン=ピエールを見つめる。彼は慎重に、銀の鍵を取り出した。
鍵穴に差し込む。ぴったりだ。
いったいこんなに古い鍵で、本当に開けられるのだろうか? 信じられないままに手探りで動かしてみると、カチャリと確かな手応えがある。彼は音を軋ませながら、ゆっくりと鍵を左に回した。
ギギギ……。
全員が息を飲む瞬間、ついに解錠された……。
書物は箱のような形状で、中に入っていたのは、教会の設計図だった。そしてステンドグラスの図面の下に、神の御言葉がラテン語で刻まれている。
――悔い改めよ。天の国は近づいた。マタイ4章12-17の一節だ。
「これは……」
――それはフランス国王に、この神殿を再現せよと告げる、神の啓示ではなかったのだろうか……。設計図も建物のデッサンも、全てがとある芸術家の作品にとてもよく似ていた。フランス王に招待され、アンボワーズで晩年を過ごした芸術家――二重螺旋階段のあるシャンボール城を設計したレオナルドという名のイタリア人に。
外に出ると、黒雲の層は薄まり、雲間を縫って一条の光の柱が注いでいた。そこだけが天と繋がっているかの如くきらめく光の粒の道……、太陽から放たれた柱が、やはり教会の製図は、天からのお告げだったと証明しているように見え流のだった。
◇ ◇ ◇
ほどなく旅支度を整え、着替えも終えた王の一行は、それぞれの馬が兵士に連れられてくるのを待っていた。
「じゃこれから、ノルマンディーに寄ってアンボワーズへ帰還されるんですか?」
ジャン=ピエールが国王に問いかける。
「そうだ。当初の計画通り、エドワール公に会う」
「それはそれは、陛下のご予定が変更されるものと案じていました。喜ばしい限りです」
恭しく頭を下げたのは、ギヨームだ。
「わたくしも、林檎のシードルや魚介類がもう一度いただけるなんて、楽しみです」
王女はパリパリのガレットがお気に入りなのだ。
そして彼女は、リーザに向き直った。王女のサファイアの双眸からは、もうこわばった緊張感はなくなっていた。
「いきなり訪ねてきたことを、お詫びするわ、リーザ。あなたも、安心してオルレアンのお城へお帰りになって。子供たちも淋しがっていることでしょう」
「ありがとうございます、シャルロットさま」
リーザは深く腰を折って臣下の礼をとった。
フランス国王がしばらく護衛兵たちと一緒に、古代遺跡を出発前の短い時間だけもう一度見て回るためその場を離れると、ジャン=ピエールはシャルロットにこっそりささやく。
「じゃあね。もうすぐ、君のこと王女さまって呼べなくなっちゃうんだね。あいつはいつも大人ぶってるけど、男って皆それほど強くないんだ。時には弱さを見せてしまうこともある……」
「それって、男の人は傷つきやすいって、いずれ公太子妃になるわたくしのために教えてくれてるの?」
「う……ん、まあそういうこと」
ギヨームが後ろでコホンと咳をする。
ジャン=ピエールは「どんなに良さそうな人間に見えても、男なんて信用しないほうがいい」などと付け足すつもりもあったのだが、どうもこの察しの良い婚約者は、よけいなことを言わせまいと先回りしたらしい。
「私も身を固めたらそろそろあなたをドルレアン卿と呼ばなくてはならないんでしょうけど、リーザさまは本当に魅力的な女性です。さすがに国王が選ばれただけの人だ……。結婚して十年経っても、私もあんな風に麗しい瞳で妻から見つめられる夫でありたいと、今日はあなたを少し羨ましく思いました」
潔くそう言うと、ギヨームは馬に乗るシャルロットに手を貸した。
◇ ◇ ◇
「何しに来たんだろ? いったい……」
国王の一行を見送った後、ジャン=ピエールは隣に佇む女性に語りかける。
「グザビエの父親が誰かなんて、心の中ではすでにわかってたんだと思うよ。……それよりも、むしろ君と話したかったのが彼女の本心みたいな気がするな」
もともと意地悪ではない王女だから、恨みを晴らしにきたわけではないだろう。
「そうね。とりあえずあの方の父親像を破壊せずにはすんだのかもしれません。シャルロットさまは、とても丁重に受け答えしてくださったから」
シャルロットがここを訪れて何を成したのか? きっと昔のことで、公妾にひとこと物申してみたかったのだろう。何がどう転んだところで、向こうは王族で、自分たちはただの臣下に過ぎない。だからたとえどんなに不公平な裁きを下されても、甘んじて受けねばならないはずだった。
この時のジャン=ピエールには、まるで権力のある者の諸行をすべて正当化する一陣の風が吹き抜けていったかの如き感情が、弱者である彼の心に残された――それが彼の正直な思いだった。
「君はまだ……」
さらに一歩踏み込んで、ジャン=ピエールはリーザに「まだあの人に切ない思いを抱いているのか」と問いかけたい気がする。けれどそれには、リーザがなんと答えようと耳をふさいで、聞かないことを望む自分もいる。
「リーザ……」
最愛の女性の心を読もうと瞳を覗き込めばその目は、「私の返事は、否定に決まってるでしょう」と言っているように感じられた。実際に彼女の口からこぼれたのは、感謝の言葉だ。
「今までずっとありがとう、ジャン=ピエール」
――あ……ぅん。素直に感謝だと受け取っていいんだよね、なんか心に残る別れの言葉みたいでもあるけど。
「私が陛下のおそばに仕える役目をしていなかったとしたら、あなたにもたぶんお会いできなかったでしょう」
「果たして……そうだろうか。僕はきっと、運命の伴侶を自力で探し出していたと思うんだ。たとえ君がどこにいて、何をしていようとも」
そう告げて会話を結ぶジャン=ピエールの紫色の瞳は、深い深い自信に満ちていた。
嵐と黒鷲が、ガルグイユをこの城まで追いつめた。
巨大な一羽に追われた一頭は、暫し城内に逃げ込んでくる!
――鳥が建物の中に入ってくるとは、なんと不吉な!
それは死の予兆だと信じられている。ガルグイユのためにリーザが小窓を開けてやると、必死の羽ばたきに疲れ果てた彼は、そこから飛び出し、隣の神殿に入っていった。
黒鷲の敵意の眼差しがガルグイユを射抜く。……が、窓は追っ手の巨躯には小さすぎた。ガルグイユを諦めた鷲は、かわりに国王を睨め付ける。
空中で急に羽ばたきを止め、ひらりと宙返りをした時はまだ鳥のままだった。しかし螺旋階段に着地した姿は、二本の足で立つ悪魔(ルシフェル)に変わっていた。二メートルはあろうかという背中の黒い翼が、ゆらいで雨を薙ぎ払い、荒い息を吐く。手にしているのは、先が二つに割れた長い槍……。
ルイ・ド・ヴァロワは床を蹴り、螺旋の段上に飛び降りる。
光る憎悪の目……。
空気を切り裂くがごとき速さで、王は剣を引き抜いた。同時にルシフェルも腕を振り上げる。
刃を斜めに身をかがめ、国王は力を溜め思いっきり高く剣を振り上げた。だが敵はおそるべき跳躍で彼を飛び越えてくる。
振り向きざまにルイ王は刃で敵を薙ぎはらう。刃と刃が擦れ、黒い羽根がはらはらと飛び散った。
こんなに槍を振り回されては、太刀打ちできない。
「どう見ても、父上の得物のほうが不利なのに」
鎧を身に纏ったシャルロットは、拳を固く握りしめる。すると、彼女の声が聞こえたかのように、ルシフェルがシャルロットに目を止めた。おそらく敵は思い出したのだろう、ここへ来る途中、ジャン=ピエールから鍵を奪おうとしたのを妨げ、攻撃を仕掛けた王女だということを。
地獄の王に睨めつけられ足はすくんでしまったが、その恐ろしい視線だけは、王女のプライドにかけても外らしてなるものかと睨み返した。ルシフェルの目は今、急激に敵意の光を集めている。
「危ない!」
一瞬先に、王は手すりを蹴って飛び上がった。
焼け付くビームはシャルロットの防具をかすめ、火花を粉砕する。彼女を覆うように、ギヨームが重なって床に伏せた。たった今までシャルロットの立っていた場所は、敵の目から放たれた光線で焼かれ、大きな穴が開いていた。
間髪を入れず、ルイ王の振り下ろした剣は、ルシフェルの右肩を切り裂く。
うめき声をあげ、巨体は大きく揺らいだ……かに見えた。だが 滑りつく体を立て直すと、槍での反撃に出た。
「早く、外へ」
攻撃を受け流しながら、王の鋭い声はシャルロットに命じていた。
そう――逃げることが、可能なのだ。たとえ敵が階段にいて、彼女たちが階上にいても……。
なぜならここには、シャンボール城と同じ二重の螺旋階段がある。それを使えば、敵に出会うことなく出口にたどり着ける。
「でも……」
「ここにいては、かえって陛下の妨げになってしまいます」
「走れ!」
出口を目指す王女たち……。
逃亡を妨げんと、ルシフェルはもう一つの階段に飛び移ろうとした。
だが鋭く切りつけた王の一撃で、翼を血飛沫でにじませる。かろうじて娘が扉の外に出るまで、父王はそれを守り抜いた。
猛り狂う怒りで突きにかかってくる槍を、国王は刃で受ける。剣に重い衝撃と火花が走り抜けた。
槍を払いのけ、ルイ王は狙い通り、槍のリーチ(守備範囲)の内側へ滑り込んだ。すかさず敵の胴へ太刀を浴びせる。血を流し、それでもルシフェルは階段を蹴って、相反する螺旋階段へ体当たりしてきた。
シャルロットが外に出た時、空はまだ暗いままだった。城内からは絶え間ない剣戟に混じって、時おり何かが建物にぶつかるような、大きな音が聞こえてくる。
「信じております、父上。どうか……聖ミカエルさまのご加護を!」
なのに崩れ落ちる音の直後、階下の窓を突き破って地面に転げ落ちたのがいったいどっちなのか判別もままならぬうちに、黒鷲がその壊れた窓から続いて飛来したので、転がった父を思いやるシャルロットの胸はつぶれそうになった。
粉砕した窓の破片に紛れた体は、マントを取り払うと、蘇りし者のごとく致命傷はない。
「陛下、よくぞご無事で……」
立ち上がった影――それこそは、紛れもなく国王ルイ・ド・ヴァロワだった。
姿を取り巻くオーラは、甲冑を纏って天軍を率いる総帥そのものだった。
彼は切っ先を天に向ける。
片足を後ろへわずかに滑らせ、剣に意識を集中させた。刃の先に、光が集められていく。
突進してくる黒鷲……。身を低くして、王はそれを寸前で避ける。……と、すれ違いざまに剣を強く振り下ろした。
慌てた鷲の、羽ばたきが止まる。敵を極限まで引きつけ、王の剣は一閃を放った!
鋼が空を切り裂く鋭い音……。摩擦音が、耳の真横を駆け抜けていく。
そのままひとひら刃を返し、真一文字に切り裂いた。
黒鷲はガクンと傾き、尚も旋回を試みる。けれど大きな体は傷ついた翼には重過ぎた。みるみる高度を落とし、台地の下……、遥か遠い地面へ向けてまっすぐ落ちていった。
国王は刃をついっと回転させ、剣を鞘に収める。
緊張をほころばせて駆け寄るシャルロット……。
「後ろです! 陛下」
ギヨームの叫び声に、国王は振り返った。
たった今落ちていったはずの黒鷲が、不穏な影を帯び浮上してきたのだ。暗い闇の中から、光る目で王に狙いを定める。
ルイ・ド・ヴァロワは、再び剣を構えた。
「父上!」
思わず剣を掴もうとしたシャルロットの腕を、ギヨームが捕らえる。
「陛下に、お任せしましょう」
シャルロットは彼を振り向くと、聡明な瞳に黙って頷いた。
羽ばたきをやめ、ふわりと浮上した鷲は、その爪で襲わんとばかりに手を伸ばした。
王は、黒い巨体を縦に叩き割る。
――重い……。
受け止めた刃を捻り、敵の体重をそらした。はずみをつけ容赦無い一突きを見舞う。
天をひっかくような、限りなく長く引きずる断末魔が天空に響き渡った。黒鷲がどさりと音を立て、地面に落ちる。
ぴくりとも動かない。
剣の切っ先で国王が裏返す。今度こそは間違いなく、完全に息絶えていた。
「ああ、父上、よくぞご無事で……」
国王に抱き寄せられたシャルロットは、ふんわりと薔薇色に頬を染めた。とろけるような笑みは、まだギヨームにもジャン=ピエールにも、誰にも向けられたことの無い甘い微笑だった。
その後、無事に逃げおおせた様子のガルグイユを追って、国王たちは古代遺跡の中へ入っていく。
朽ちかけてはいるが、十二本の円柱に囲まれた内陣の中には、香を焚くための小さな祭壇が設置してある。
「あそこに何か……」
祭壇の上にあるのは、一冊の重々しい本だ。
「あのガルグイユ、まるでわたくしたちをここに案内したみたい」
「確かに、そんな感じがする」
分厚いその本は一抱えもあるほど大きくて、ページを開こうとしたが開けられなかった。
「ここに……」
シャルロットが表紙の鍵穴を指差す。そこに鍵を差し込まなければ、中が見られないようになっている。それに合う鍵といえば……。
皆が同時にジャン=ピエールを見つめる。彼は慎重に、銀の鍵を取り出した。
鍵穴に差し込む。ぴったりだ。
いったいこんなに古い鍵で、本当に開けられるのだろうか? 信じられないままに手探りで動かしてみると、カチャリと確かな手応えがある。彼は音を軋ませながら、ゆっくりと鍵を左に回した。
ギギギ……。
全員が息を飲む瞬間、ついに解錠された……。
書物は箱のような形状で、中に入っていたのは、教会の設計図だった。そしてステンドグラスの図面の下に、神の御言葉がラテン語で刻まれている。
――悔い改めよ。天の国は近づいた。マタイ4章12-17の一節だ。
「これは……」
――それはフランス国王に、この神殿を再現せよと告げる、神の啓示ではなかったのだろうか……。設計図も建物のデッサンも、全てがとある芸術家の作品にとてもよく似ていた。フランス王に招待され、アンボワーズで晩年を過ごした芸術家――二重螺旋階段のあるシャンボール城を設計したレオナルドという名のイタリア人に。
外に出ると、黒雲の層は薄まり、雲間を縫って一条の光の柱が注いでいた。そこだけが天と繋がっているかの如くきらめく光の粒の道……、太陽から放たれた柱が、やはり教会の製図は、天からのお告げだったと証明しているように見え流のだった。
◇ ◇ ◇
ほどなく旅支度を整え、着替えも終えた王の一行は、それぞれの馬が兵士に連れられてくるのを待っていた。
「じゃこれから、ノルマンディーに寄ってアンボワーズへ帰還されるんですか?」
ジャン=ピエールが国王に問いかける。
「そうだ。当初の計画通り、エドワール公に会う」
「それはそれは、陛下のご予定が変更されるものと案じていました。喜ばしい限りです」
恭しく頭を下げたのは、ギヨームだ。
「わたくしも、林檎のシードルや魚介類がもう一度いただけるなんて、楽しみです」
王女はパリパリのガレットがお気に入りなのだ。
そして彼女は、リーザに向き直った。王女のサファイアの双眸からは、もうこわばった緊張感はなくなっていた。
「いきなり訪ねてきたことを、お詫びするわ、リーザ。あなたも、安心してオルレアンのお城へお帰りになって。子供たちも淋しがっていることでしょう」
「ありがとうございます、シャルロットさま」
リーザは深く腰を折って臣下の礼をとった。
フランス国王がしばらく護衛兵たちと一緒に、古代遺跡を出発前の短い時間だけもう一度見て回るためその場を離れると、ジャン=ピエールはシャルロットにこっそりささやく。
「じゃあね。もうすぐ、君のこと王女さまって呼べなくなっちゃうんだね。あいつはいつも大人ぶってるけど、男って皆それほど強くないんだ。時には弱さを見せてしまうこともある……」
「それって、男の人は傷つきやすいって、いずれ公太子妃になるわたくしのために教えてくれてるの?」
「う……ん、まあそういうこと」
ギヨームが後ろでコホンと咳をする。
ジャン=ピエールは「どんなに良さそうな人間に見えても、男なんて信用しないほうがいい」などと付け足すつもりもあったのだが、どうもこの察しの良い婚約者は、よけいなことを言わせまいと先回りしたらしい。
「私も身を固めたらそろそろあなたをドルレアン卿と呼ばなくてはならないんでしょうけど、リーザさまは本当に魅力的な女性です。さすがに国王が選ばれただけの人だ……。結婚して十年経っても、私もあんな風に麗しい瞳で妻から見つめられる夫でありたいと、今日はあなたを少し羨ましく思いました」
潔くそう言うと、ギヨームは馬に乗るシャルロットに手を貸した。
◇ ◇ ◇
「何しに来たんだろ? いったい……」
国王の一行を見送った後、ジャン=ピエールは隣に佇む女性に語りかける。
「グザビエの父親が誰かなんて、心の中ではすでにわかってたんだと思うよ。……それよりも、むしろ君と話したかったのが彼女の本心みたいな気がするな」
もともと意地悪ではない王女だから、恨みを晴らしにきたわけではないだろう。
「そうね。とりあえずあの方の父親像を破壊せずにはすんだのかもしれません。シャルロットさまは、とても丁重に受け答えしてくださったから」
シャルロットがここを訪れて何を成したのか? きっと昔のことで、公妾にひとこと物申してみたかったのだろう。何がどう転んだところで、向こうは王族で、自分たちはただの臣下に過ぎない。だからたとえどんなに不公平な裁きを下されても、甘んじて受けねばならないはずだった。
この時のジャン=ピエールには、まるで権力のある者の諸行をすべて正当化する一陣の風が吹き抜けていったかの如き感情が、弱者である彼の心に残された――それが彼の正直な思いだった。
「君はまだ……」
さらに一歩踏み込んで、ジャン=ピエールはリーザに「まだあの人に切ない思いを抱いているのか」と問いかけたい気がする。けれどそれには、リーザがなんと答えようと耳をふさいで、聞かないことを望む自分もいる。
「リーザ……」
最愛の女性の心を読もうと瞳を覗き込めばその目は、「私の返事は、否定に決まってるでしょう」と言っているように感じられた。実際に彼女の口からこぼれたのは、感謝の言葉だ。
「今までずっとありがとう、ジャン=ピエール」
――あ……ぅん。素直に感謝だと受け取っていいんだよね、なんか心に残る別れの言葉みたいでもあるけど。
「私が陛下のおそばに仕える役目をしていなかったとしたら、あなたにもたぶんお会いできなかったでしょう」
「果たして……そうだろうか。僕はきっと、運命の伴侶を自力で探し出していたと思うんだ。たとえ君がどこにいて、何をしていようとも」
そう告げて会話を結ぶジャン=ピエールの紫色の瞳は、深い深い自信に満ちていた。
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