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最終章 ニューヨーク
壊れた時間、その後……
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ジャン=ピエールは差し出された航空券を掴むと、セキュリティチェックへと滑り込む。
十五分後、なんとか搭乗し席に着いた彼は、スマートフォンの画面を見て言葉をなくした。
自分の送った意味不明なメッセージとリサからの「なんて言ってるのか、わからない」の返信がある。
「ぐぇ……なにこれ!? ちゃんと英語で入力したよね、僕?」
タクシーの中で急いでいたとはいえ、綴りを間違えたわけではない。
「あ! そうかキーボードの設定……」
すべての原因は、彼が入力する時、キーボードをスペイン語に設定していたため、英語で打ち込んでもスペイン語のよく似た綴りの単語に自動的に変換されてしまったからだった。あの時運転手がカーヴで急な車線変更をしたせいで、読み返さずに送信してしまったのだ。
「す、すぐに説明しないと」
ジャン=ピエールの焦燥を無視するかのように、機内スクリーンが、今まで流れていた映像からいきなり航空会社のロゴマークに変わった。CA(キャビンアテンダント)たちは乗客を一人一人チェックしながら、通路を進んでくる。離陸前のお決まりの工程が始まろうとしていた。
「ああぁ、Wi-Fiサインが……」
アンテナ表示が消えて行く画面を見つめることしかできない彼……。
とどめの機内アナウンスが、耳に直撃した。
「皆様この飛行機は間もなく離陸いたします。シートベルトをお閉めください。座席の背もたれ、個人用画面を元の位置に……」
きわめつけにいかにも権威のありそうなキャビンアテンダント――ジャン=ピエールの横で立ち止まった彼女の、スマイルなのに目だけは笑っていない笑顔。
「お客様、恐れ入りますがデバイスを……」
「は、はい。わかりました。今すぐ片付けます」
彼は、リサとのチャットをあきらめるしかなかった。
◇ ◇ ◇
結局リサはアパートメントに帰り、気分を落ち着けようと帰ってすぐにシャワーを浴びたのだが、その後何も手につかないで悶々としていた。
「読書して気を紛らわせる気にもなれないし……」
お酒を飲んだりやけ食いしたりする習慣はない。それよりはむしろ何かに集中するほうが悩みを片隅に追いやってしまえる。
でも今は違う。こんなに焦ってるのは、生まれて初めてだった。
一人っきりで家にいるより、いっそ弟でも部屋をうろついててくれたほうが、現実を直視せずにいられる。でも彼はもうとっくの昔に、ボストンの大学に戻ってしまった。
――そうよ……ボストン! 私もまもなく、あの街に帰らなくてはならないのに。
ハーバードのインターンシップは、もうすぐ終わってしまう。
暗くなった窓の外を見やると……。海に立っている自由の女神の勇壮なシルエットが、こんなにもせつなく感じたことは今までなかった。
――私……、ルイス社長と食事に行くのをやめたけど、ジャン=ピエールにまで捨てられて……、自由どころか独りぼっちになってしまう……の?
――Ding!――
デバイスから着信音がした。画面に、受信を知らせる赤い点が点っている。
ジャン=ピエールからだった。
『どうか――許して……ください。今飛行機の中。ようやく通信許可が下りたところ。急に仕事でパリへ行くことになっちゃって……、二、三日でニューヨークに戻るよ。教会のステンドグラスのデザインをしたんだけど、聖人が悪魔の鳥に見えるとかなんとかクレームがきて、……だから説得するよう仰せつかったんだよ。君に送ったチャットは『Today, I have to go to Paris, because there was a problem. Sorry.』(仕事に問題が起きたんで今日パリへ行くことになった、ごめん)って入力したんだ。キーボードがスペイン語になってたから、勝手に変換されたみたい。ごめん、怒ってる? いや、もちろん怒ってるとは思うけど』
リサはすぐに返事をタイプする。
『スペイン語のキーボードなんて設定してるの? いったい何か国語が使えるのよ、あなたってば』
『たいしたことないよ。日本語は読み書き苦手だし、スペイン語は、あんまりしゃべれないから、メールでクライアントとやり取りするだけ。君へのメッセージを送る前に、ちょうど使ってたから設定がそうなってたみたいなんだよね』
『送る前に、プルーフリーディング(確認)はしないの? 私、すっごく心配したんだから!』
『ほんと心から深くお詫びするよ。移動中で急いでて……。だってコンピュータだったら、画面だけ見てキーボードからタッチ・タイプするからすぐ間違いに気づくけど、スマートフォンでは入力ボックスだけ見てキーを打ってくからさ。ごめん』
――ふうん、外国語……か。
『だったら私も、フランス語のキーボード設定しようかな。これからは時どき、あなたの国の言葉でチャットしたい』
『そだね。僕の家族と会った時は、君にはフランス語で話してもらわないとね。あんまり英語できない人たちだから。パリに住むようになったら、絶対に必要だな。みんなプライド高くて、たとえ英語がわかってもフランス語しか使わないしね』
――え、パリに住む!? それってもしかしたら、私に……。
返事にはどんな言葉をタイプしようか、彼女の指は迷っていた。知らない間に涙が溢れてきて、画面にぽたりと溢れる。あれからずっと我慢していたのに、もう悲しみを抑えなくても良くなった頃になって……。
――ジャン=ピエール……、もっと怒りたかったんだけど、なんかもういい……って気持ちになっちゃった。
悲しみが嬉しさに変わっていく変化に心を震わせていると、入力する前に彼からチャットが届いた。
『待って! 何も言わないで。君に言いたいことがある。でも面と向かって話したいから、僕が帰るまで待ってて。それから――どうしても君と一緒に、MoMAのアートを見たかったんだ。だからまた今度行こうね、きっと』
自由の女神の松明が、一瞬明るく揺れたかに見えた。
十五分後、なんとか搭乗し席に着いた彼は、スマートフォンの画面を見て言葉をなくした。
自分の送った意味不明なメッセージとリサからの「なんて言ってるのか、わからない」の返信がある。
「ぐぇ……なにこれ!? ちゃんと英語で入力したよね、僕?」
タクシーの中で急いでいたとはいえ、綴りを間違えたわけではない。
「あ! そうかキーボードの設定……」
すべての原因は、彼が入力する時、キーボードをスペイン語に設定していたため、英語で打ち込んでもスペイン語のよく似た綴りの単語に自動的に変換されてしまったからだった。あの時運転手がカーヴで急な車線変更をしたせいで、読み返さずに送信してしまったのだ。
「す、すぐに説明しないと」
ジャン=ピエールの焦燥を無視するかのように、機内スクリーンが、今まで流れていた映像からいきなり航空会社のロゴマークに変わった。CA(キャビンアテンダント)たちは乗客を一人一人チェックしながら、通路を進んでくる。離陸前のお決まりの工程が始まろうとしていた。
「ああぁ、Wi-Fiサインが……」
アンテナ表示が消えて行く画面を見つめることしかできない彼……。
とどめの機内アナウンスが、耳に直撃した。
「皆様この飛行機は間もなく離陸いたします。シートベルトをお閉めください。座席の背もたれ、個人用画面を元の位置に……」
きわめつけにいかにも権威のありそうなキャビンアテンダント――ジャン=ピエールの横で立ち止まった彼女の、スマイルなのに目だけは笑っていない笑顔。
「お客様、恐れ入りますがデバイスを……」
「は、はい。わかりました。今すぐ片付けます」
彼は、リサとのチャットをあきらめるしかなかった。
◇ ◇ ◇
結局リサはアパートメントに帰り、気分を落ち着けようと帰ってすぐにシャワーを浴びたのだが、その後何も手につかないで悶々としていた。
「読書して気を紛らわせる気にもなれないし……」
お酒を飲んだりやけ食いしたりする習慣はない。それよりはむしろ何かに集中するほうが悩みを片隅に追いやってしまえる。
でも今は違う。こんなに焦ってるのは、生まれて初めてだった。
一人っきりで家にいるより、いっそ弟でも部屋をうろついててくれたほうが、現実を直視せずにいられる。でも彼はもうとっくの昔に、ボストンの大学に戻ってしまった。
――そうよ……ボストン! 私もまもなく、あの街に帰らなくてはならないのに。
ハーバードのインターンシップは、もうすぐ終わってしまう。
暗くなった窓の外を見やると……。海に立っている自由の女神の勇壮なシルエットが、こんなにもせつなく感じたことは今までなかった。
――私……、ルイス社長と食事に行くのをやめたけど、ジャン=ピエールにまで捨てられて……、自由どころか独りぼっちになってしまう……の?
――Ding!――
デバイスから着信音がした。画面に、受信を知らせる赤い点が点っている。
ジャン=ピエールからだった。
『どうか――許して……ください。今飛行機の中。ようやく通信許可が下りたところ。急に仕事でパリへ行くことになっちゃって……、二、三日でニューヨークに戻るよ。教会のステンドグラスのデザインをしたんだけど、聖人が悪魔の鳥に見えるとかなんとかクレームがきて、……だから説得するよう仰せつかったんだよ。君に送ったチャットは『Today, I have to go to Paris, because there was a problem. Sorry.』(仕事に問題が起きたんで今日パリへ行くことになった、ごめん)って入力したんだ。キーボードがスペイン語になってたから、勝手に変換されたみたい。ごめん、怒ってる? いや、もちろん怒ってるとは思うけど』
リサはすぐに返事をタイプする。
『スペイン語のキーボードなんて設定してるの? いったい何か国語が使えるのよ、あなたってば』
『たいしたことないよ。日本語は読み書き苦手だし、スペイン語は、あんまりしゃべれないから、メールでクライアントとやり取りするだけ。君へのメッセージを送る前に、ちょうど使ってたから設定がそうなってたみたいなんだよね』
『送る前に、プルーフリーディング(確認)はしないの? 私、すっごく心配したんだから!』
『ほんと心から深くお詫びするよ。移動中で急いでて……。だってコンピュータだったら、画面だけ見てキーボードからタッチ・タイプするからすぐ間違いに気づくけど、スマートフォンでは入力ボックスだけ見てキーを打ってくからさ。ごめん』
――ふうん、外国語……か。
『だったら私も、フランス語のキーボード設定しようかな。これからは時どき、あなたの国の言葉でチャットしたい』
『そだね。僕の家族と会った時は、君にはフランス語で話してもらわないとね。あんまり英語できない人たちだから。パリに住むようになったら、絶対に必要だな。みんなプライド高くて、たとえ英語がわかってもフランス語しか使わないしね』
――え、パリに住む!? それってもしかしたら、私に……。
返事にはどんな言葉をタイプしようか、彼女の指は迷っていた。知らない間に涙が溢れてきて、画面にぽたりと溢れる。あれからずっと我慢していたのに、もう悲しみを抑えなくても良くなった頃になって……。
――ジャン=ピエール……、もっと怒りたかったんだけど、なんかもういい……って気持ちになっちゃった。
悲しみが嬉しさに変わっていく変化に心を震わせていると、入力する前に彼からチャットが届いた。
『待って! 何も言わないで。君に言いたいことがある。でも面と向かって話したいから、僕が帰るまで待ってて。それから――どうしても君と一緒に、MoMAのアートを見たかったんだ。だからまた今度行こうね、きっと』
自由の女神の松明が、一瞬明るく揺れたかに見えた。
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