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最終章 ニューヨーク
楼台の君主
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リサがインターン期間を終え、ジェレミーの君臨するオフィスを去ったのは三か月前……。あの頃のエンパイアステート・ビルからの眺めは、春まだ遠き冷たい空気に満ちていた。
毎年冬の終わりになると、時折りこんな風に澄み切った朝の空が現れる日が続く。けれど彼女がいなくなってから、いまだジェレミーは「Por una Cabeza」を聴く勇気がない。まもなく春を迎えるというのに……だ。
◇ ◇ ◇
月日が流れたある日のこと、ジャン=ピエールが社長室に顔を見せにきた。プロジェクトを終えフランスに帰国するための報告という名目の、フェアウェルの挨拶である。
そう……プロジェクトと言えば、テレビ局はコレットのドラマを撮り終え、放映は好評を呼んでいる。ルイス・エンタープライズもその対価として、NBCの株を少ないパーセントではあるが取得するのに成功し、会長である父ギルバートからジェレミーに満足げな評価が贈られた。
たとえ大切なものを無くしても、椅子に深く腰かけ、威圧的な雰囲気すら帯びた完璧なチーフ・エグゼクティブ・オフィサー本来のあるべき装いで、敵(ジャン=ピエール)を待ち構える。そう決めたジェレミーは、社長の椅子に座したまま、訪問者に腰を下ろすよう促した。
「娘がウエディングドレスのデッサンを見せてくれたよ。シャルロットは、あの絵に自分で花婿を描き足していた。未来の結婚相手は、お前だそうだ」
「ははは、それは光栄の至りです」
革張りの椅子を少し回転させ、ジェレミーがジャン=ピエールに向けた碧い瞳には、断固とした決意が宿っている。
「貴様にシャルロットを取られるなら、……そんなことをされるくらいなら、リサを譲るほうがまだましだ」
まるで、決闘でも申し渡すかのごとき口調だった。
「もしかしたら、両方とも……って可能性もあるかもしれませんけど」
いつもの生意気な態度が出そうになったジャン=ピエールだが、さすがにそこで口をつぐみ、姿勢を正したほうがよさそうな雰囲気に気づく。
「そ、そんなに怖い顔しないで……、今のは忘れちゃって下さい。ただふざけて言ってみただけですから」
ジャン=ピエールは重厚なデスクの前の椅子から立ち上がって、念のため窓際まで避難する。
まさか引き出しの中に銃が隠されているようなことはないだろうが、それでもこの人が今このまま手を伸ばせば、頑強なボディガードを二、三人社長室へ突入させるボタンを押せるはずだ。ここは、そういうシステムの部屋なのだ。
「ふう……」
それにしても……とジャン=ピエールは、窓の外を見やった。オフィスの眼下には、相変わらず悔しいくらい鮮やかに摩天楼が見下ろせる。
東にはクライスラービルが優雅に控え、北側には頭を垂れるビルの群れの向こうに、セントラルパークが広がっている。公園の木立は初夏の緑で包まれていた。
――まるで世界に君臨しているみたいだ。
人はこういう景色を眺めているから、偉くなったように思い込むのかもしれない。もっともルイス氏の場合、そのプライドがモチベーションとなって、この地位を確立してきたとも言えるのだろう。
ニューヨーク州ニューヨーク市、New York, New Yorkのマンハッタン。もしこの街で成功したら、どこでだってやってゆける……のだろうか。
「先住民のインディアンからマンハッタンを買って以来、我われは金儲けを目的として生きてきた。白人には、彼らのように聖なる自然のスピリッツと会話できる能力がないからな」
ジャン=ピエールの背中ごしに、そう語る大企業のCEOの声は、怒りではなく清廉さを帯びている。とりあえずセキュリティーボタンを押される可能性は、遠ざかったとみていい。
今のは1626年に白人がアメリカン・インディアンからビーズの首飾りと引き換えにマンハッタン島を買った、有名な逸話のことだろう。
財を成し他人より優位に立つことは、先住民文化の中心ではない。彼らは貪欲な白人とは違って、もっと清く澄んだ精神を持っている。そのスピリッツは、常に高みを目指す修養によって、聖なる自然と会話ができるところまで登りつめることも可能なのだ。アメリカン・インディアンにとっての勝利は、物を所有することではなく、強く気高い精神のほうを重んじている。
だからもしもあの時、マンハッタンが資本主義の西洋人の手に渡らなければ、現在の摩天楼はもっと異なる景色になっていたに違いない。
――いかにも自らの非を認めたかのようなセリフだ。たぶん他の人には潔い言葉だと受け取れるはずの……。なのにどうしてだろう、自慢しているみたいにしか聞こえないのは……?
ジャン=ピエールは社長を振り返った。
たった今シャルロットのことでからかった時にジェレミーが垣間見せた、「いつも澄ましたルイス社長の露わにした感情」は完全に消え去っている。
「僕には、娘を持つ父親の心境はまだわかりませんけど、リサのお父さんはどう思ってるんでしょうね、あなたのこと。日本では、地位も財産もある人です。元はと言えば、佐伯氏が若い頃に海外任務を受けるほど優秀だったから、一緒に外国で暮らした彼女も語学が達者なだけでなく、良識のある自立した女の子に育ったんでしょう? もちろん親に与えられた環境がどうであれ、混血の優位性や努力が現在の彼女を作ったのは間違いないですけど……」
言われたとたん、ルイス氏の顔色が変わる。
言葉を無くしたように口を閉ざしたまま……、部屋はしばらく沈黙に支配されていた。
そしてようやく社長が話し始めたのは、引き出しに隠してあるのはただの銃ではなくてマシンガンかもしれない危険性を、ジャン=ピエールが心配し始めた頃だった。
「……会ったのか?」
「き、決まってるじゃないですか」
安堵の吐息に乗せて、ジャン=ピエールが一気にたたみかける。
「婚約の許可をもらいに行きました。まあすぐに結婚するわけでもないですけど、まもなく大学院を卒業したら彼女はパリに来るんです。うちのボスが経営チームに誘ったので……」
ジャン=ピエールが「お嬢さんを下さい」と申し込んだ時、彼女の父親の口から最初にこぼれたのは「君だったのか」というつぶやきだ。察するにそれは、娘がニューヨークに住み始めた時期から、誰かに夢中になっていたことに感づいていたのではないだろうか。どう見てもリサは、既婚の上司に憧れているなどと、親に打ち明けるような性格の女の子ではない。けれど家族揃って食事をとる習慣のおかげで、娘の様子が変わったことぐらいはお見通しだったのだろう。
「ほんとのことを言うと、佐伯氏は当初、リサの想い人を僕だと考えてたみたいでしたよ。僕はあえて何も答えなかったんですけど、やっぱり鋭い人物ですね。すぐに違うって気づかれて……、でもそれなのになぜか意外とすんなり結婚の了承をいただきました」
おそらくリサの父親は、娘が何らかの事情を持っている相手に恋い焦がれていたことを見抜いて、そんな状況から彼女を救い出すために、結婚を申し込みに来た若造にあっさりくれてやる決意をしたように思えた。
一方のジェレミーにとって、リサの父親の気持ちを思いやることは完全なる不意打ちだった。
いくら倫理を犯したわけではないからといっても、年長者であり上司でもある彼がもっと責任を持った行動をとるべきだったのは間違いない。彼女を操るような教育をするなんて、許されるはずもないのに……。
もう少し距離を置いていれば、リサの心が自分に傾くことは……無かったのかもしれない。彼女から特別な感情のこもった目で見つめられるのを、拒否できなかった。むしろ嬉しかった。リサ本人が気持ちを押さえようと葛藤していたから、なおさら切り捨て難かったのだ。だがそれに甘んじる「気の緩み」は、インターンシップという制度に対する、「冒涜」以外の何物でもない。
「それは……、私としては過失だが、今まで考えてみたことがなかった」
ジェレミーの口から、反省を込めたため息がこぼれた。部下たちに日頃「多角的に物事を見る目」がいかに大切か説いてきた立場としては、一言もない。
自分がリサにあまりに近付き過ぎたせいで、第三者の視点に立って見ることができなかったのだ。二人がもし交際を始めたりしたら、誰よりも傷つく人の存在を、忘れてしまっていたなんて……。
リサはジェレミーにとって家族のような存在だった。倫理に反した思いを抱いているというよりも……、言葉で説明しつくせないが何となくもう一人の伴侶のような感覚に近い。彼女との会話を楽しんでいる時は心が華やいでいたが、いったん仕事に集中すると、リサが相手であっても躍動心は業務遂行のみに注ぐことができた。。
「意外にあっさり、過失を認めるんですね」
「事実を認めなければ、それを解決して前に進むことができない」
ジェレミーはさらりと前髪をかきあげ、ジャン=ピエールに鋭いまなざしを向けた。
「さすがはルイス社長だ。でも僕が父親の立場だったら、娘を誘惑することを考えてる男なんて許さないかなぁ……」
「当然だ。私がその立場だったら、手を出そうとした男の会社をぶっ潰すぐらいはしてやらないと気が収まりそうにない」
まあこの場合は未遂だから、交渉の余地はあるかもしれないが。
「それって、ルイス社長、ルイ王朝の終結ですか?」
「我が王朝は、そんなことで終わりなど告げるか!」
ジェレミーの切り返しは、相変わらず自信に満ちている。
「そういえばフランスの王家って、随分前からオルレアン公爵でしょ。僕、歴史が好きなんですけど、たとえばルイ十二世とか……かな。戴冠する以前はオルレアン公だったってご存知でした? だからつまり、それ以降ルイ王朝は、オルレアン家の人間に継承されたことになるんです」
「オルレアンなど、常に王朝を狙う危険分子の集まりに過ぎない。目障りだ。とっとと失せろ」
「はい、仰せの通り、もうすぐ消えます。……それにこの国からも」
ジェレミーはリサを独り占めしたいという欲望を抱くと同時に、彼女に喜びに満ちた満足な日々を送って欲しいとも願っていた。しかも彼自身の社会的立場はちゃんと守りながら……だ。そんな身勝手極まりない考えを持っていたのだが、リサの人生における幸せと、ジェレミーの幸福感はどうしても相反する部分がある。どちらかが何かを諦めなければ、家族をも巻き込んだ悲劇を招くことになってしまっただろう。
「だけど……、権力のある人は何のお咎めもなく、また平穏な日々を過ごすんですね」
罰を受けないかどうかは、まだわからない……。すべてはキャサリン次第だ、とは心中で考えていたジェレミーだが、口に出したのはまったく反対のことだった。
「他人のことより、自分の心配をすべきだな。お前を業界から閉め出すことぐらいたわいない。だが、彼女の将来のために生かしておいてやっているだけだ」
業界を牛耳る社長であるにも関わらず、この男に対してだけは、どうしても憎まれ口になってしまうのだ。
もっとも「キャサリン次第」というのは、彼女に打ち明けて悲しませるような、そんな無粋なことをするつもりなどジェレミーにはさらさらなかった。だがプラトニックとはいえ、他の女の子に心が傾きかけたことは申し訳ないと思っている。キャサリンには打ち明けないで、何か別の方法で償いをしなくてはならない。最近ずっとそれを考え続けていた。
「どうかお忘れなく、リサのためだけじゃなくて、キャサリンも僕の惨めな姿を見たら悲しむでしょうから」
ジャン=ピエールが自己防衛のため最後にそう念を押す。ちょうどその時ノックの音がして、秘書のアニエスが入ってきた。
「失礼いたします。社長、お約束のお客様がいらっしゃいました」
「ありがとう、アニエス」
「あ、じゃ僕はこの辺で……」
ジェレミーが嫉妬をおさえて「物わかりのいい人物」を演じている間に立ち去ったほうがいいと判断した彼は、アニエスと一緒に社長室を出て行くことにした。
「貴重なお時間をいただいて、ありがとうございました」
彼の別れの挨拶に、ジェレミーは軽く手を上げて応じる。
しかし偶然とはいえ社長室に入ってくるタイミングが絶妙だ、とジャン=ピエールはアニエスに感謝の笑みを向けた。さすがシャープなことにかけては、彼女の右に出る者がいないと言われるだけある。あれ以上調子に乗ってからかい続けたら、あの人を怒らせてしまったのは間違いない。
◇ ◇ ◇
次の来客に会う前のしばしの間、ジェレミーは革の椅子に深く座り直し、脚を組んで背もたれに寄りかかった。
「ジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアン……、貴族の血を引いているのはキャサリンだけだと思っていたが……」
キャサリンの母親はアンリ公の系統へ嫁いだから、ルイス社長の妻は正真正銘の由緒ある貴族の出身なのだ。
そんな妻の美しい笑顔を心に浮かべていたジェレミーは、なぜか彼女が学生だった頃、招待された夜会に同伴してくれるはずのボーイフレンドが急に行けなくなったので、代わりにジャン=ピエールがエスコートしてくれたというエピソードを思い出した。もちろん二人の間にそれ以上のことは何もなかっただろうが、要するに彼の妻は、ジャン=ピエールよりたった三つ年上なだけなのである。
摩天楼の君主は、胸に固く誓う。
――あの男がもしキャサリンに手を出そうとしたら、社会から抹殺するだけでなくこの世からも抹消してやる。もちろんシャルロットに対してもだ!――と。
毎年冬の終わりになると、時折りこんな風に澄み切った朝の空が現れる日が続く。けれど彼女がいなくなってから、いまだジェレミーは「Por una Cabeza」を聴く勇気がない。まもなく春を迎えるというのに……だ。
◇ ◇ ◇
月日が流れたある日のこと、ジャン=ピエールが社長室に顔を見せにきた。プロジェクトを終えフランスに帰国するための報告という名目の、フェアウェルの挨拶である。
そう……プロジェクトと言えば、テレビ局はコレットのドラマを撮り終え、放映は好評を呼んでいる。ルイス・エンタープライズもその対価として、NBCの株を少ないパーセントではあるが取得するのに成功し、会長である父ギルバートからジェレミーに満足げな評価が贈られた。
たとえ大切なものを無くしても、椅子に深く腰かけ、威圧的な雰囲気すら帯びた完璧なチーフ・エグゼクティブ・オフィサー本来のあるべき装いで、敵(ジャン=ピエール)を待ち構える。そう決めたジェレミーは、社長の椅子に座したまま、訪問者に腰を下ろすよう促した。
「娘がウエディングドレスのデッサンを見せてくれたよ。シャルロットは、あの絵に自分で花婿を描き足していた。未来の結婚相手は、お前だそうだ」
「ははは、それは光栄の至りです」
革張りの椅子を少し回転させ、ジェレミーがジャン=ピエールに向けた碧い瞳には、断固とした決意が宿っている。
「貴様にシャルロットを取られるなら、……そんなことをされるくらいなら、リサを譲るほうがまだましだ」
まるで、決闘でも申し渡すかのごとき口調だった。
「もしかしたら、両方とも……って可能性もあるかもしれませんけど」
いつもの生意気な態度が出そうになったジャン=ピエールだが、さすがにそこで口をつぐみ、姿勢を正したほうがよさそうな雰囲気に気づく。
「そ、そんなに怖い顔しないで……、今のは忘れちゃって下さい。ただふざけて言ってみただけですから」
ジャン=ピエールは重厚なデスクの前の椅子から立ち上がって、念のため窓際まで避難する。
まさか引き出しの中に銃が隠されているようなことはないだろうが、それでもこの人が今このまま手を伸ばせば、頑強なボディガードを二、三人社長室へ突入させるボタンを押せるはずだ。ここは、そういうシステムの部屋なのだ。
「ふう……」
それにしても……とジャン=ピエールは、窓の外を見やった。オフィスの眼下には、相変わらず悔しいくらい鮮やかに摩天楼が見下ろせる。
東にはクライスラービルが優雅に控え、北側には頭を垂れるビルの群れの向こうに、セントラルパークが広がっている。公園の木立は初夏の緑で包まれていた。
――まるで世界に君臨しているみたいだ。
人はこういう景色を眺めているから、偉くなったように思い込むのかもしれない。もっともルイス氏の場合、そのプライドがモチベーションとなって、この地位を確立してきたとも言えるのだろう。
ニューヨーク州ニューヨーク市、New York, New Yorkのマンハッタン。もしこの街で成功したら、どこでだってやってゆける……のだろうか。
「先住民のインディアンからマンハッタンを買って以来、我われは金儲けを目的として生きてきた。白人には、彼らのように聖なる自然のスピリッツと会話できる能力がないからな」
ジャン=ピエールの背中ごしに、そう語る大企業のCEOの声は、怒りではなく清廉さを帯びている。とりあえずセキュリティーボタンを押される可能性は、遠ざかったとみていい。
今のは1626年に白人がアメリカン・インディアンからビーズの首飾りと引き換えにマンハッタン島を買った、有名な逸話のことだろう。
財を成し他人より優位に立つことは、先住民文化の中心ではない。彼らは貪欲な白人とは違って、もっと清く澄んだ精神を持っている。そのスピリッツは、常に高みを目指す修養によって、聖なる自然と会話ができるところまで登りつめることも可能なのだ。アメリカン・インディアンにとっての勝利は、物を所有することではなく、強く気高い精神のほうを重んじている。
だからもしもあの時、マンハッタンが資本主義の西洋人の手に渡らなければ、現在の摩天楼はもっと異なる景色になっていたに違いない。
――いかにも自らの非を認めたかのようなセリフだ。たぶん他の人には潔い言葉だと受け取れるはずの……。なのにどうしてだろう、自慢しているみたいにしか聞こえないのは……?
ジャン=ピエールは社長を振り返った。
たった今シャルロットのことでからかった時にジェレミーが垣間見せた、「いつも澄ましたルイス社長の露わにした感情」は完全に消え去っている。
「僕には、娘を持つ父親の心境はまだわかりませんけど、リサのお父さんはどう思ってるんでしょうね、あなたのこと。日本では、地位も財産もある人です。元はと言えば、佐伯氏が若い頃に海外任務を受けるほど優秀だったから、一緒に外国で暮らした彼女も語学が達者なだけでなく、良識のある自立した女の子に育ったんでしょう? もちろん親に与えられた環境がどうであれ、混血の優位性や努力が現在の彼女を作ったのは間違いないですけど……」
言われたとたん、ルイス氏の顔色が変わる。
言葉を無くしたように口を閉ざしたまま……、部屋はしばらく沈黙に支配されていた。
そしてようやく社長が話し始めたのは、引き出しに隠してあるのはただの銃ではなくてマシンガンかもしれない危険性を、ジャン=ピエールが心配し始めた頃だった。
「……会ったのか?」
「き、決まってるじゃないですか」
安堵の吐息に乗せて、ジャン=ピエールが一気にたたみかける。
「婚約の許可をもらいに行きました。まあすぐに結婚するわけでもないですけど、まもなく大学院を卒業したら彼女はパリに来るんです。うちのボスが経営チームに誘ったので……」
ジャン=ピエールが「お嬢さんを下さい」と申し込んだ時、彼女の父親の口から最初にこぼれたのは「君だったのか」というつぶやきだ。察するにそれは、娘がニューヨークに住み始めた時期から、誰かに夢中になっていたことに感づいていたのではないだろうか。どう見てもリサは、既婚の上司に憧れているなどと、親に打ち明けるような性格の女の子ではない。けれど家族揃って食事をとる習慣のおかげで、娘の様子が変わったことぐらいはお見通しだったのだろう。
「ほんとのことを言うと、佐伯氏は当初、リサの想い人を僕だと考えてたみたいでしたよ。僕はあえて何も答えなかったんですけど、やっぱり鋭い人物ですね。すぐに違うって気づかれて……、でもそれなのになぜか意外とすんなり結婚の了承をいただきました」
おそらくリサの父親は、娘が何らかの事情を持っている相手に恋い焦がれていたことを見抜いて、そんな状況から彼女を救い出すために、結婚を申し込みに来た若造にあっさりくれてやる決意をしたように思えた。
一方のジェレミーにとって、リサの父親の気持ちを思いやることは完全なる不意打ちだった。
いくら倫理を犯したわけではないからといっても、年長者であり上司でもある彼がもっと責任を持った行動をとるべきだったのは間違いない。彼女を操るような教育をするなんて、許されるはずもないのに……。
もう少し距離を置いていれば、リサの心が自分に傾くことは……無かったのかもしれない。彼女から特別な感情のこもった目で見つめられるのを、拒否できなかった。むしろ嬉しかった。リサ本人が気持ちを押さえようと葛藤していたから、なおさら切り捨て難かったのだ。だがそれに甘んじる「気の緩み」は、インターンシップという制度に対する、「冒涜」以外の何物でもない。
「それは……、私としては過失だが、今まで考えてみたことがなかった」
ジェレミーの口から、反省を込めたため息がこぼれた。部下たちに日頃「多角的に物事を見る目」がいかに大切か説いてきた立場としては、一言もない。
自分がリサにあまりに近付き過ぎたせいで、第三者の視点に立って見ることができなかったのだ。二人がもし交際を始めたりしたら、誰よりも傷つく人の存在を、忘れてしまっていたなんて……。
リサはジェレミーにとって家族のような存在だった。倫理に反した思いを抱いているというよりも……、言葉で説明しつくせないが何となくもう一人の伴侶のような感覚に近い。彼女との会話を楽しんでいる時は心が華やいでいたが、いったん仕事に集中すると、リサが相手であっても躍動心は業務遂行のみに注ぐことができた。。
「意外にあっさり、過失を認めるんですね」
「事実を認めなければ、それを解決して前に進むことができない」
ジェレミーはさらりと前髪をかきあげ、ジャン=ピエールに鋭いまなざしを向けた。
「さすがはルイス社長だ。でも僕が父親の立場だったら、娘を誘惑することを考えてる男なんて許さないかなぁ……」
「当然だ。私がその立場だったら、手を出そうとした男の会社をぶっ潰すぐらいはしてやらないと気が収まりそうにない」
まあこの場合は未遂だから、交渉の余地はあるかもしれないが。
「それって、ルイス社長、ルイ王朝の終結ですか?」
「我が王朝は、そんなことで終わりなど告げるか!」
ジェレミーの切り返しは、相変わらず自信に満ちている。
「そういえばフランスの王家って、随分前からオルレアン公爵でしょ。僕、歴史が好きなんですけど、たとえばルイ十二世とか……かな。戴冠する以前はオルレアン公だったってご存知でした? だからつまり、それ以降ルイ王朝は、オルレアン家の人間に継承されたことになるんです」
「オルレアンなど、常に王朝を狙う危険分子の集まりに過ぎない。目障りだ。とっとと失せろ」
「はい、仰せの通り、もうすぐ消えます。……それにこの国からも」
ジェレミーはリサを独り占めしたいという欲望を抱くと同時に、彼女に喜びに満ちた満足な日々を送って欲しいとも願っていた。しかも彼自身の社会的立場はちゃんと守りながら……だ。そんな身勝手極まりない考えを持っていたのだが、リサの人生における幸せと、ジェレミーの幸福感はどうしても相反する部分がある。どちらかが何かを諦めなければ、家族をも巻き込んだ悲劇を招くことになってしまっただろう。
「だけど……、権力のある人は何のお咎めもなく、また平穏な日々を過ごすんですね」
罰を受けないかどうかは、まだわからない……。すべてはキャサリン次第だ、とは心中で考えていたジェレミーだが、口に出したのはまったく反対のことだった。
「他人のことより、自分の心配をすべきだな。お前を業界から閉め出すことぐらいたわいない。だが、彼女の将来のために生かしておいてやっているだけだ」
業界を牛耳る社長であるにも関わらず、この男に対してだけは、どうしても憎まれ口になってしまうのだ。
もっとも「キャサリン次第」というのは、彼女に打ち明けて悲しませるような、そんな無粋なことをするつもりなどジェレミーにはさらさらなかった。だがプラトニックとはいえ、他の女の子に心が傾きかけたことは申し訳ないと思っている。キャサリンには打ち明けないで、何か別の方法で償いをしなくてはならない。最近ずっとそれを考え続けていた。
「どうかお忘れなく、リサのためだけじゃなくて、キャサリンも僕の惨めな姿を見たら悲しむでしょうから」
ジャン=ピエールが自己防衛のため最後にそう念を押す。ちょうどその時ノックの音がして、秘書のアニエスが入ってきた。
「失礼いたします。社長、お約束のお客様がいらっしゃいました」
「ありがとう、アニエス」
「あ、じゃ僕はこの辺で……」
ジェレミーが嫉妬をおさえて「物わかりのいい人物」を演じている間に立ち去ったほうがいいと判断した彼は、アニエスと一緒に社長室を出て行くことにした。
「貴重なお時間をいただいて、ありがとうございました」
彼の別れの挨拶に、ジェレミーは軽く手を上げて応じる。
しかし偶然とはいえ社長室に入ってくるタイミングが絶妙だ、とジャン=ピエールはアニエスに感謝の笑みを向けた。さすがシャープなことにかけては、彼女の右に出る者がいないと言われるだけある。あれ以上調子に乗ってからかい続けたら、あの人を怒らせてしまったのは間違いない。
◇ ◇ ◇
次の来客に会う前のしばしの間、ジェレミーは革の椅子に深く座り直し、脚を組んで背もたれに寄りかかった。
「ジャン=ピエール・グザビエ・ドルレアン……、貴族の血を引いているのはキャサリンだけだと思っていたが……」
キャサリンの母親はアンリ公の系統へ嫁いだから、ルイス社長の妻は正真正銘の由緒ある貴族の出身なのだ。
そんな妻の美しい笑顔を心に浮かべていたジェレミーは、なぜか彼女が学生だった頃、招待された夜会に同伴してくれるはずのボーイフレンドが急に行けなくなったので、代わりにジャン=ピエールがエスコートしてくれたというエピソードを思い出した。もちろん二人の間にそれ以上のことは何もなかっただろうが、要するに彼の妻は、ジャン=ピエールよりたった三つ年上なだけなのである。
摩天楼の君主は、胸に固く誓う。
――あの男がもしキャサリンに手を出そうとしたら、社会から抹殺するだけでなくこの世からも抹消してやる。もちろんシャルロットに対してもだ!――と。
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