恋獄~あなたを見るたび恋をする

奈古七映

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十一、

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「電話、ありがとう」
 いつも通りなショーンの声に、由莉は泣きそうになった。
「何度か電話したりメッセージ送ったんだけど、繋がらなかったから……電源切ってるんだろうなって。由莉のほうから連絡くれるの待ってたんだ」
  こんな騒ぎになり、一人おびえて隠れているようなイメージが頭のどこかにあったが、ショーンはもう傷つきやすいだけの少年ではない。冷静に事態を受け止め、衝動的に動いたりもしなかった。自分なりに考えて静かに待っていてくれた。そのことが頼もしくもあり、素直に嬉しかった。
「心配かけちゃったね。ごめん」
 にじんでくる涙を指先でぬぐいながら、由莉は言葉を選んでゆっくり話しはじめる。
と話し合うのが先だと思ったから」
 名字で奏のことを読んだ由莉に、ショーンは息をのむ。
 別れると決まったからには、下の名前ではもう呼べない。これからは二人が会う機会も、ほぼなくなるだろう。
「ロケ先から戻ってきた彼とさっきまで話してて、離婚することになったの」
「えっ……もう決まったの?」
 戸惑うような声が意外で、由莉は少し表情を硬くする。
「そんな、困ったみたいな反応されると傷つくんだけど」
 大人げないと思いながら正直な気持ちを口にすると、やや間を置いてショーンが低い声を発した。
「雑誌が発売されて丸一日も経ってないのに、あの人、離婚に同意したわけ?」
 どこか怒りを含んだような口調で質問され、今度は由莉が戸惑った。
「いや、俺が言うことじゃないってわかってるよ。でも、今まで由莉を裏切ってたくせに、手のひら返して切り捨てるみたいに……」
「待って、そうじゃない」
 どう説明したらいいか迷いながら、それでも由莉は取り繕ったりせず、事実をありのまま伝えたかった。
「高宮が言うには、売名のためにショーンから横取りして結婚したけど、もうそろそろ潮時だと思ってたって。はじめからいつか離婚するつもりでいた、本来の相手に返してやるって……私に謝罪させないために悪ぶったのかな。最後まで本音がわからなかった」
「由莉にそんなひどいこと言ったんだ?」
 電話の向こうで、ショーンは長いため息を吐いた。
「もし一緒に仕事する機会がなかったら、真に受けて怒ってたかもしれない。あの人は由莉を独占したがってたし、俺が近づくことに嫉妬もしてた。愛情がなかったとは思えないよ。由莉に憎まれるようなことを言ったのもわざとで、あの人なりにけじめつけるために必要だったんじゃないかな。プライドもあっただろうし」
「……そう思う?」
 ショーンは「うん」と言った後、ちょっと笑った。
「ごめん。俺が言うことじゃないね、ほんと」

 彼が誰かについて話すことは珍しいが、たまにその洞察力に驚かされることがある。人間が怖く、なかなか心を開けない性格なだけに、逆にそういう感覚が鋭いのかもしれない。
 つい先ほどということもあって、奏が話した内容を、由莉はどう受け止めたらいいかわからなかったが、もう終わりなのだから忘れるべきだと思っていた。でも、このもやもやした気持ちをにふたして新しい人生を歩き出そうとしたら、ずっと心のどこかに引っかかりを感じたまま生きることになるかもしれない。

「ううん、どう思うか聞かせてくれてよかった。私もけじめつけなきゃね。ちゃんと考えて、私なりの解釈ですっきりさせたい。それから前に進むことにする」
「わかった。待ってるよ」
 ショーンの言葉がやさしく耳をくすぐる。
「高宮が近いうち会見ひらいて離婚を発表するって言ってたから、しばらくは騒がしいと思う。カオルさんには私から説明しておくね」
「うん、ありがとう」
 約束していいかどうか、少し迷ったが、由莉は思い切って口を開いた。
「次に会えるのは、たぶんちょっと落ち着いてからになるけど、その時には……」
「俺だけの由莉になってて」
 かぶされた真剣な声に、由莉はドキッとした。
「後悔なんか絶対させないから」
 ショーンの言葉はストレートで嘘がない。だから一緒にいて気持ちが楽だし、彼だけは無条件に信じていられる。思い返せば昔からずっとそうだった。
「ありがとう、ショーン」
 涙があふれて止まらない。でも由莉は泣いているのを隠そうとはしなかった。ショーンに対しては、どんな感情でも伝えていきたいと素直に思える。
「もしかして泣いてる?」
「うん。とんでもないことに気がついてしまって」

 由莉は今まで漠然ばくぜんと、心の中から高宮奏がいなくなったら、同じ場所にショーンがおさまるのだろうと思っていた。だが、そうではなかった。彼女の中での二人のポジションは全然違う。

「私、何にもわかってなかった。高宮のためって言いながら、自分がしたい努力しかしてなかった。勝手に思い込んで押しつけておいて、どうして喜ばれると思ってたのかな……」
 泣きながら話すのを、ショーンは黙って聞いている。
「温かい家庭とか、信頼しあえる関係とか誠実さ、きちんとした生活、穏やかな毎日……私が高宮に押しつけたことのほとんどは、小さい頃のあなたにしてあげたいと思ってたものだった」
 もしかすると、由莉本人も自覚していなかったそのことに、高宮は気がついていたのかもしれない。
「あの人は、由莉に何を求めてたの?」
「わからない。何年も一緒にいたのに、わからないの」
 情けなくて、自分自身に失望すら感じる。だが、もう何もかも終わったことで、取り返しはつかないのだ。
「ひどいよね。ちっとも良い妻なんかじゃなかった」
「由莉」
 ショーンは落ち着いていた。
「俺が欲しいものはみんな由莉が持ってると思うから、これから全部ちょうだい。少しずつでも、時間かかってもいいよ。で、たぶん由莉が欲しいものは、俺がみんな持ってる。変なこと言うようだけど、自信あるんだ。由莉と俺は、お互い与えたいものと欲しいものが同じなんだよ。そういうの、世間では相性が良いっていうんじゃないかな」
「相性?」
「うん、だから俺たちは絶対うまくいく」
 少し笑いを含んだ彼の声は、どこか希望を予感させるように弾んでいた。

 相性という言葉が、これほど実感を持って響いたことはない。
 高宮とは努力すればするほど気持ちが離れていくのを感じ、特に結婚してからは幸せより苦しみの方が多かった気がする。浮気を繰り返した彼にも、口に出来ない苦しみはあったかもしれない。それもこれもすべて、夫婦互いに望んでいることと与えたいこととが、ひどいミスマッチだったからと思えば納得がいく。

「ショーン……」
 由莉は小さく震えはじめた体を、片手でさすった。
「会いたくて、会いたくてたまらない。死にそう」
 こんなセリフを吐くなんてどうかしている――そう思いながらも止められなかった。
「俺も会いたい。早く会って、由莉をぎゅってしたい」
 由莉をとらえていたおりかせのような思いが、急速に消えて無くなっていく。心の中に、ショーンへの愛しさがじんわりみるように広がっていくのを感じた。





 高宮奏の離婚会見が行われたのは、翌日の午後だった。
 人目を忍んで訪ねて来たカオルから、ワイドショーで生中継されると聞いて、由莉は緊張しながらテレビをつけた。昨日と同じコメンテーターがまた勝手な見解を喋りまくっていたが、気にしないことにして、その時を待つ。
「あ、はじまるわね」
 隣に座っているカオルも緊張しているようで、クッションを両手でしっかり抱え込んで言葉少なだ。
 画面の向こうでは、テレビカメラがスタンバイしている会見場に、さっそうと高宮が現れた。紺のシャツに白いジャケットという爽やかさを強調するような服装で、地味めのスモーキーピンクと紺のストライプ柄のネクタイをしている。
「着こなしの難しいスタイルね。似合ってるけど」
 カオルがぼそっと言う。
 こういう場にスーツではなく、あえてラフなスタイルでのぞんだのは、謝罪が第一目的ではないということだろう。さすがに看板俳優なだけあって、マネージャーではなく所属事務所の社長が同席している。
 司会が会見のスタートを告げ、高宮本人がマイクに向かって口を開く。本日はお忙しい中……と決まり文句のような挨拶を前置きに、経緯の説明をはじめる。

「私どもは似た者同士の夫婦でした」

 会見で何を話すつもりか、由莉は一切聞いていない。すべて任せろと言われただけだ。
 高宮はまじめな面持ちだが、裏切られた夫のような悲壮感はまったくない。 
「初対面から私どもの距離感は近く、お互いに運命だと信じて結婚まで突き進んだわけですが、わりと早い段階で間違いに気がつきました。友人同士なら、これほど解り合えて気楽な相手はいないのに、夫婦として共に生きるには、あまりにも似過ぎて相性が良くなかったのです」

 まったく事実と異なる離婚理由を語っているのに、妙な説得力がある。演技が巧みなせいだろうか。当の本人である由莉まで、この人の言う通りの「妻」がどこかに存在しているような錯覚すら覚える。

「そのような気持ちを打ち明けるのは勇気がいることでしたが、妻も同じことで悩んでいたとわかり、それから二人で話し合いを重ねてきました」
 彼は目を伏せ、感情を整えるかのように一息ついた後、再び目線を上げて語り出した。
「私、高宮奏は白川由莉さんと離婚いたします」
 いくつものシャッター音が重なって響く。
「出演ドラマの関係もありまして、時期を見計らっていたのですが、もともと数ヶ月後には公表する予定でした。今回の報道により、不倫が理由での離婚というような間違った認識が広がるのは、私としても本意ではありません。もはや時期を待っている場合ではないと判断し、このような形でのご報告となりました。関係者の皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」
 立ち上がって頭を下げた高宮奏は、ものすごい数のフラッシュを浴びた。

 由莉はまたたきもせず、その姿をじっと見つめる。恋人として八年、夫婦として三年を共に生きた相手がつけたけじめがこれなら、自分には見届ける義務があると思った。

「奥さんとショーンさんの関係はご存じでしたか?」
 記者の質問が飛ぶ。
「知ってました」
 高宮は顔色も変えない。
「ショーンは子供のころから由莉さんを慕ってました。一般人の恋人がいるというのは、カモフラージュだったみたいですよ。初恋の人である由莉さんを一途に想い続けて、仕事で再会したのを機に気持ちが通じたそうです。ただ、離婚を決めた後のことですし、本当につい最近の話ですから、憶測で語られているような不適切な関係ではありません。彼らを知ってる人ならわかると思いますが、どちらも不道徳なことが出来る人間じゃないんです。形だけでも私と結婚しているうちは性格的に無理でしょう。二人の関係はまだローティーンのような幼くて初々しい恋がはじまったばかりで、大人の恋には程遠いんじゃないかなと思います」

 由莉は思わず赤面して、画面の高宮をにらむ。

「昨日の今日でこれとは、すごい対応力ね」
 カオルは抱きしめていたクッションをようやく手放し、ふうっと大きく息を吐いた。
「いつか別れようと、ずっと思ってたみたいだから」
 由莉は自筆でサインした委任状を丁寧に折って封筒に入れ、カオルに渡した。
「代理人の手配とか、今回の事後処理を頼みたいの」
 ぽかんと口を開けて、カオルは由莉の顔をまじまじと見た。
「やってくれるよね?」
 由莉はちょっと笑いを含んだ表情で、それでも怒ったふうを装うかのようにテーブルを軽く叩いた。
「はい、白状して」
「ごめん!」
 カオルはがばっと頭を下げた。
「引き受けるわ。何でもやらせてもらう!」
「どこからが計画だったの?」
「……正直に話すわね」
 カオルは両手をひざの上にそろえ、真剣な表情で語りはじめた。
「実はショーンには、イタリアのブランドから誘いが来てるの。世界でもトップクラスのメンズブランドと契約すれば、一気にトップモデルの仲間入りよ。うちの事務所にとっても、またとないチャンスなの。そう遠くない将来、本腰入れて海外進出したいから」
 熱っぽく語る彼女に、由莉は無意識に相槌を打つようにうなずいていた。海外進出はカオルの長年の夢でもある。
「去年、そのブランドのキャンペーンモデルの一人に選ばれたんだけど、デザイナーがえらく気に入ってくれて、ぜひ専属にって破格の条件を提示されたの。ショーンも断るのをためらってた。あんな子だけどモデルの仕事が嫌いじゃないの、由莉も見ててわかるでしょ? だけど話を進めようとすると、とても自信ないって怖気づいて全然ダメ。あたしもやけくそになって、ブランド側に半年待ってくれたら契約してもいいって強気で申し入れたら、あっさりOKされちゃって。もうこうなったら、半年でどうにかして高宮奏から由莉を奪うしかないって、ショーンをきつけて帰国させたの」
「嘘でしょ、ショーンまではじめから……」
「怒らないでやって。あの子は由莉の幸せを壊したくないって抵抗したのよ。山口さん経由で、由莉はそんなに幸せじゃないって吹き込んで、帰国を決意させるまでが大変だったわ……でも、ショーンが世界的な一流モデルになるには、どうしても由莉が必要なのよ。どんな有能なエージェント雇ったって、あの子を支えるのは無理だわ。そしてショーンが大舞台でコケたら、うちの事務所の海外案件は全部終わりよ。だからね、由莉や高宮さんに恨まれてもいいから、どんな手を使ってでも離婚させるつもりだった」

 由莉はあきれて、開いた口がふさがらなかった。
 だが、カオルがそこまでの決意でこの策略に賭けていたのなら、やっぱり憎めない。

「もし高宮が浮気しない誠実な男だったら、こんなこと考えなかったでしょ?」
「そんなきれいごと言うつもりないわ。うちの事務所にとって重大な案件だから、容赦ようしゃなく遂行すいこうしたのよ。自分とこのモデルと親友を不倫に誘導してスクープ記者に売るなんて、バカバカしい、うまくいくわけないって母親には散々な言われ様だったけどね。いいから任せろって押し切ったわよ」
「……カオルさん、もうさっさと社長に就任した方がいいと思うよ」
 皮肉のつもりで由莉が言うと、カオルはにやっと不敵な笑いを浮かべた。
「近いうちにそうなるわ。由莉、イタリアからお祝い送ってちょうだいね」


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