2 / 2
後編
しおりを挟む翌朝、おっさんがよく寝ているのを確認した私は、起こさないで静かに家を出た。
財布の中身は減っていないし、通帳も印鑑も盗られてはいなかった。
それでもあやしい動きを見てしまったからには、なにごともなかったような顔ではいられない。かといって、どんな態度でいたらいいのか……。
その日の仕事は散々で、朝一で頼まれた在庫確認を忘れて昼休みをつぶしたり、賞味期限スタンプのチェックミスでダンボール箱を数十枚ムダにして、まわりに迷惑をかけてしまった。
「社員がミスしたらパートさんや派遣さんたちに示しがつかないよ」
主任にもきつく叱られた。
この工場では、数人の社員が多くの非正規雇用の従業員さんたちのリーダーとなって仕事をまわしている。だから社員がミスすると大変なことになるのだ。
更衣室のすみで始末書を書いていると、ベテランのパートさんが私の肩をポンと叩いた。
「いつも几帳面な仕事する人が今日はどうしたの? なんかあった?」
私のせいで残業するはめになったというのに、気遣ってくれているらしい。
「ちょっと、落ち込むことあって……」
泣きそうなのを必死でこらえると、のどの奥が痛くなってくる。
「迷惑かけてすいませんでした」
やっとの思いでそれだけ伝えると、パートさんは笑って首をふった。
「こっちがミスした時、よけいな嫌味とか言わないで助けてくれるじゃない。他の社員さんが近くにいたって、みんな問題発生したら、わざわざあなたを捜しに行ってるでしょ。一番信頼できるって、みんな言ってるよ」
ただ黙々とやってきた仕事を、そんなふうに思ってもらえていたなんて……涙がこぼれてくる。
「元気出して。明日からもよろしくね」
胸がいっぱいで、頭を下げることしかできなかった。
帰り道、泣いて少しすっきりした私は、ノラ吉がいつもいた塀のところで立ち止まり、猫の姿がないかキョロキョロして見た。
「やっぱりいないよね」
通帳に関心がある猫なんかいるわけがない。だから、おっさんは人間に違いない。
朝は逃げるように出てきてしまったが、きちんと見たことを話し、おっさんの目的をはっきりさせなければいけないと思った。
施設にいた頃、似たような境遇の子供たちの中で、私は真面目な方だった。
勉強も頑張ったし、小さい子の世話を手伝ったり掃除も手を抜かないでやっていた。
なのに、どうしてなのか、私は他の子たちの輪に入れてもらえなかった。意地悪などはされず、挨拶やあたりさわりない会話は交わす。だけど、誰かと悩みを相談しあうとか遊びに出るとかいうことはなかった。
施設を出てから一度だけ、仲間で集まろうと言われて行ったことがあるが、自分だけ浮いているのを感じていたたまれず、それ以来ずっと欠席している。
天涯孤独。
私には友達すらいない。
だから、簡単におっさんを家に入れてしまったのかもしれない。
「ただいま」
部屋に入ると灯りが点いていて、テーブルに不格好な白むすびが二個、ラップして置いてあった。
おっさんの姿はどこにもなかった。
そして、自称猫が消えてから3ヶ月が過ぎた。
奇妙な同居はたった1ヶ月にも満たなかったのに、その3倍の月日がたっても、帰宅すれば思わず「ただいま」と言ってしまう。消える前の晩、具合が悪そうだったのも気になって、なかなか頭から離れなかった。
あの後、銀行で確認したら貯金は無事だった。何度か続けて記帳に行って変化がなかったので、それ以上疑い続けるのも浅ましい気がしてやめた。
「いったいなんだったんだろ」
まん丸いおっさんの顔を思い浮かべるたび、寂しいような、心配なような、それでいて腹立たしいような、複雑極まりない気持ちになる。
そういえば名前も知らなかった。ノラ吉だと言い張るから……猫も結局あのまま行方不明なので、どこかで死んでしまったのかなと思うと寂しいし悲しい。でもそれが、おっさんとイコールになることはない。おっさんはおっさん、ノラ吉はノラ吉。擬人化なんてファンタジーは、やっぱりあるわけないのだ。
「子猫いらない?」
食堂でお弁当を食べていると、パートさんに話しかけられた。以前、ミスした時に励ましてくれた人だ。
「うちの子が5匹も拾ってきちゃって。そんなに飼えないから里親探してるのよ」
心が動いて断れずにいると、パートさんはスマホの画面を見せた。
「可愛いでしょ?」
約30秒後、私は子猫を見に行く約束をしていた。
片手に乗るほど小さい猫たち。
白黒が2匹、黒が1匹、トラ模様が2匹。
「残したいのはトラと白黒で、もう1匹の白黒も里親が決まってるの」
パートさんが、もらい手のいない2匹を箱から出した。
もこもこ動いてじゃれ合う子猫たちは、ちょっと毛がボサボサで、目と耳だけやたら大きく見える。
「たぶんメスだと思う」
パートさんが指で黒猫の背中をつんつん押すと、とたんに小さな前足をふり上げて応戦のかまえを見せる。私も真似してトラ猫をつつくと、こっちも元気よく猫パンチを繰り出してきた。
「この子たち、もらっていいですか?」
「2匹もいいの?」
どちらか1匹だけ、というのは可哀想な気がする。
「ちゃんと準備してから迎えにきます」
いよいよ貯金を使う時が……と思ったら武者震いした。
帰りの足で大家さんを訪ね、猫を飼いたいから引越すと話した。
「何匹?」
「2匹ですけど」
大家さんは腕組みしてウーンとうなった。
「実はね、もう古くて新しく入居する人もなかなかいないから、ペットOKにしようかって家族で話してたところなの」
こんなラッキー展開、嘘みたいだ。
「あなたみたいに若いのに真面目な店子さんには出て行かれたくないのよね」
猫用品をそろえる資金を引き出しに銀行へ行くと、通帳にありえない残高が記されて戻ってきた。
「ごひゃくま……!」
声に出しそうになって慌てて口を押さえる。
記帳された振り込みの日付は2ヶ月前、振り込み元はノラキチと印字してある。
「そんな馬鹿な」
おっさんが私の通帳をじっと眺めていた姿が脳裏に浮かんでくる。
ぼう然とする自分の顔が、ATMのミラー部分にうつっていた。丸い輪郭のタヌキに似たむっくりした顔立ち。
「まさか……」
ふらふらと外へ出て、少しためらったが、心を決めて前を向くことにした。
育った施設の先生は、待っていたように私を迎えてくれた。
「知らせないでと頼まれたものの、このままでいいのか迷ってたんだよ」
おっさんと出会った塀を曲がり角の先の門までたどってみたら、真新しい「売家」の看板があった。
「病気で長くないから処分するって聞いた」
近所の人は、私の顔を見ると理由も聞かず入院先を教えてくれた。
病院、ケースワーカーさん、不動産屋……あちこち訪ね歩いた末ヘトヘトになってたどり着いたのは、私の住んでいるオンボロアパートだった。
チャイムを押すと、のんきそうなおっさんが出てきた。
「どちらさん?」
私の顔を見ると大慌てでドアを閉めようとする。すき間に足をねじ込むと、彼は観念したようにノブから手を離した。
「お久しぶり」
声をかけると、おっさんはビクビクしながら頭を下げた。
「にゃーん」
奥から声が聞こえ、目をやると見覚えのある太った猫が見えた。
「ノラ吉!?」
あ然としてしまった。
「すまないっ」
おっさんはガバッと這いつくばり、頭を床にすりつけんばかりの勢いで土下座した。
「なにに対して謝ってるの?」
「う、嘘ついたこととか色々……」
「それよりもっと謝るべきことがあるよね?」
ひゅっと息を呑んだおっさん。私を見上げて目に涙を溜めている。
「2回も捨てて逃げるなんて!」
おっさんはわっと泣き出してしまった。
「泣きたいのはこっちの方なんだけど」
「すいませんでした」
ゴンゴンおでこを床に打ちはじめたので、慌てて止めに入る。
「そんなことしなくていいから、説明してよ。お父さんなんでしょ?」
おっさんは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、その隣でよく似た顔のノラ吉が目を細めて私を見ていた。
父は昔、幼い私を施設に預けて失踪した。妻を亡くした失意から、後追いするつもりだったらしい。
死に場所を求めてさまよったが、結局ホームレスになって何年も過ごし、そのうち病気に倒れて行政のお世話になったという。
その時やっと娘のことを思い出した。会いに行くにも今のままではダメだと一念発起して、退院すると遠洋漁業の船に乗った。
「お金貯めて小さい家を買った。ようやく迎えに行けると勇んで訪ねたら、就職して施設を出たって聞いて……遅過ぎたんだ」
おっさん─父はしょんぼりして語った。
「なんで会いに来なかったの?」
「……独りで頑張ってるの見て、今さら現れても困らせるだけかなと」
それはそうかもしれない。私は父の顔も名前も知らなかったのだから、急に「お父さんだよ」なんて来られても、なにを今さらと受け付けなかっただろう。
「だから陰から見守ろうと思って」
父が買った家が、私の通勤路にあったのは偶然らしい。ノラ吉は父より先にあの家に住み着いていたのだという。
「病院で聞いたよ。ただの胃潰瘍なのにガンだと思い込んで自宅を処分した患者の噂」
「医者の話を立ち聞きして、勘違いしたんだ」
父は死を覚悟して家を売り、ノラ吉を知人に預けて入院したのにすぐ退院になった。
「てっきり死が近いから帰されたと……だから少しだけでも一緒に暮らしたくて」
それでノラ吉になりきって私の部屋に転がり込み、調子が悪くなった時いよいよかと姿を消し、私の口座に持ち金のほとんどを振込んだのだ。
その後、医者によく諭さとされて勘違いを認めたが、家も金も手放した後だったと……まあ、あきれ返る話だ。
「役所で民生委員を紹介されて、家賃が最安値だからってここに……今はバイトで生計立ててるよ」
どうにも憎めない……私は甘い人間なのかな。
「売った家、買い戻そうよ」
「えっ?」
「私と暮らそうと思って買ってくれた家なんでしょ?」
その後わんわん泣き出した父をなだめるのは、とてもめんどくさい作業だったが、心の中はとてもすっきりしていて、嫌だとはちっとも思わなかった。
「ノラ吉、くまこ、とらこ、ごはんだよ」
太った猫と2匹の子猫に、国産メーカーのカリカリを与える。
「ほら、お父さんも起きて」
縁側のカーテンを開け放つと、狭い庭に紫陽花が咲いていた。
むくりと起き上がった父に声をかける。
「朝ごはんできてるよ」
「うん、ありがとう」
丸い顔が嬉しそうに笑う。ふり返ればそこにも大小3つの丸い顔。
「にゃーん」
まん丸い顔の大切な家族たち。
「今日も良い日にしようね」
私はお日様に向かって思いっきり伸びをした。
(おわり)
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
転生ものかと思ったら、最後 とっても気持ちよく裏切られました。
楽しいお話、ありがとうございました。
感想ありがとうございます!
お礼と承認が遅くなってごめんなさいでした( ´>ω<)人