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レォ
しおりを挟む──ドン!
かるい衝撃が、背に降った。
レォ・レザイは、目を瞠る。
ぶつかられる、なんていうことは滅多にないのに。
悪意も執着も何にも見えないから、気づけなかった。
鍛錬不足だろうか。
大公立学園、騎士科を受験する日なのに、気が抜けているのか。
情けない。
吐息しながら振り向いたレォは、瞬いた。
ちっちゃい。
レォの背丈の半分くらいしかない。いや、言い過ぎたかもしれないが、感覚としては半分くらいだ。それくらい、ちっちゃい。
つややかな闇の髪がふわふわ揺れて、透きとおる青の瞳がきらめいた。
長いまつげが、ほわほわしてる。
目が、おっきい。
冬の寒空を跳ね返すような、夏の青の瞳だ。
朝の光を吸いこんで、ちらちら揺れる。
青空と星空の瞳だ。
それにしても、ちっちゃい。
どうして騎士科の受験会場に来てしまったのだろう。
──ああ、わかった、迷子だ。
ちっちゃい子どもが、迷いこんでる。
びっくりする間もなかった。
「わー! すごい! レォだ! いー匂いする! 髪、さらっさらだ!」
呼び捨てられた。
ロデア大公国の防衛を担う高位貴族レザイ家の第一子たるレォを、呼び捨てにするのは、家族と大公殿下に連なる人々くらいだ。
「きゃ──!」
悲鳴かと思ったら、歓声らしい。
真っ赤な顔で、くねくねしてる。
それはレォにとって、苦手なふるまいの、はずだった。
見た目に反してなのか、見た目どおりなのかわからないが、レォはちいさくて可愛いものがすきだ。
赤い瞳のうさぎとか、ちいさな子犬とか、ふわふわしてると最高だ。
逆にうるさい人間は苦手だった。
高位貴族の第一子として生まれたからか、父に似た顔のせいなのか、よく声をかけられる。
子猫はとても可愛いが、猫なで声は苦手だ。
大公立学園の騎士科を選んだのは、レザイ家の第一子として当然の選択でもあったけれど、ともに闘う騎士たちなら、猫なで声で擦り寄ってくることはあまりないだろうという希望的観測もあった。
人間にはあまり、というより全く興味がない。
鍛錬はすきだが、勝負になると相手になる人があまりいない。
家族は大切にするけれど、あとはどうでもいい。
そんな風に思っていたのに。
目の前の子は、ちっちゃくて。
レォを赤い頬で見あげてくれる。
……そうか、人間も、ちっちゃいのは可愛いんだ。
「きゃ──!」
歓声をあげて、大切なもののように……祈ってる……?
びっくりした。
「きゃ──!」
いつもは、わずらわしい歓声が、ちっとも、いやじゃない。
それどころか、鼓動が跳ねる。
だって、それは、親愛が、自分に向かっている、ということだから。
このちっちゃな、とびきりかわいい、子犬みたいな子が、自分を慕ってくれる、ということだから。
いつもなら『うるさい』むっとするのに、ちっちゃいと、何もかもが、かわいい。
「は、はじめまして、レォ・レザイさま。キピア家次期当主、キーア・キピアと申します」
ちゃんと挨拶してくれた。今度は『さま』がついていた。
いらないのに。
思った自分に、びっくりする。
きぴあ?
聞いたことのない家名だが、キーアによく似合う。
「す、すみません、うるさくして。すぐいなくなります、ごめんなさい!」
謝ってくれたことに、驚いた。
いつもきゃーきゃーする人は、自分の都合ばかりを押しつけて、謝るなんて、絶対しない。
レォにまとわりついて、隙あらば、さわろうと、腰や腕や髪に手をのばしてくる。
避けることにも慣れたのに。
この子は、ちょっと、ちがう?
首を傾げたら、受験票を持っているのが見えた。
迷子じゃなかったみたいだが、魔法科の受験日と間違えたのだろう。
「魔法科の試験は、来週だ。今日は騎士科の試験なんだ」
珍しく親切に教えたら、騎士科を受験するという。
びっくりした。
レォの半分くらいしか背がない、ちっちゃい、かわいいキーアが、騎士科を受験……?
ぽかんと開きそうな唇を耐える。
レォは、あまり心乱されることがない。
なのに今日はもう、何度びっくりしたのか、わからない。
不思議な子だった。
ちっちゃい
かわいい
ふわふわの子犬みたいな
歓声さえも、きらきらしてる
キーア
人の名前を憶えたことに、びっくりした。
ちっちゃく可愛いキーアとは、持久力試験で一緒になった。
ほんとに受験してるのかと、またびっくりした。
腹筋1回で倒れそうなのに、百回、背筋も百回こなしたらしい。
筋力試験を通過しないと、持久力試験には進めない。
──泣きながら、頑張ったのかな。
思うと、その涙と頑張りを見られなかったことを、とてもくやしく思った。
レォは走るのはそれほど得意でもないが、不得手でもない。
順当に首位を独走していたら、自分の名のすぐ後に告げられた。
「キーア・キピア、あと一周──!?」
目を剥いた。
意味がわからなくて振りかえったら、キーアが笑顔で手を振った。
闘技場を50周して、笑顔で、加速してくる。
レザイ家の第一子、レォ・レザイを抜かす勢いで。
ちっちゃな、かわいい、子犬みたいな、キーアが。
びっくりした。
ほんとうに、びっくりした。
ふわふわ揺れる闇の髪も、透きとおる青い星の瞳も、はじけるような、楽しそうな笑顔も。
何もかもにびっくりして、抜かされるのはいやだと、初めて思った。
夢中で走ったのは、はじめてだ。
絶対に、抜かされたくない。
絶対に、キーアに、かっこうわるいところを、見せたくない。
思う自分に、びっくりした。
駆ける足が、加速する。
『絶対、抜かせない』
息をすることさえ、忘れてた。
風のように駆けたのは、はじめてだ。
「第一位、レォ・レザイ!」
その声を、はじめて、心からうれしく思った。
なのに、キーアはすぐ後ろまで迫ってた。
辛うじて、一位。そんなことは、はじめてだ。
レォの初めてを、ことごとく奪って
「さっすがレォさま!」
赤い頬で笑ってくれる。
びっくりしすぎて、キーアから目が離せない。
キーアと一緒にお昼を食べたかった。
少しでも長い時間、キーアの傍にいたかった。
なのに、昼食を持ってきてくれたレザイ家の従僕たちとレォが話している間に、キーアはいなくなっていた。
いつも、誘われるから。
『お昼、ご一緒してもいいですか?』
聞いてくれると思っていた。
『ああ』
答えようと思っていた。
なんて自分は傲慢で、浅はかで、愚かだったのだろう。
恥ずかしくて、顔が熱い。
そんなことも、はじめてだ。
ちいさくて、かわいい、子犬みたいなキーアを、探す。
誰かを探すのも、はじめてだ。
あまりにたくさんの初めてと、あまりにたくさんのびっくりに、頭がくらくらする。
自分をこんな目に遭わせておいて、人けのない中庭でやっと見つけたキーアは、目の前で、ガダ先輩に頭をなでなでされて、とろけそうな顔で、うれしそうに、笑った。
ぎゅうっと胸が、熱くなる。
くやしくて
熱くて
泣きたいみたいに、にくらしくて、なのに、とびきり、キーアが、かわいい。
──何だこれ。
はじめてが多過ぎて、理解が追いつかない。
ガダ先輩が、うらやましかった。
ふわふわの髪に、ふれたい。
思ったら手が伸びていた。
はじめてさわったキーアの髪は、思っていたよりずっと、ふわふわだった。
ほわほわしてる。
かわいい。
羽みたいだ。
レォの胸はとくとく音をたてるのに、キーアはガダ先輩のときみたいじゃない。
全然うれしそうにしてくれない。
それどころかびっくりして『喧嘩売ってるの?』みたいな顔になってる。
しょんぼりした。
「……従僕が用意してくれるから、一緒にどうかと、思って……」
はじめて、誘った。
「俺も、従僕が作ってくれたお弁当がある、ので……」
はじめて、断られた。
胸が、ぎゅうぎゅう痛い。
「……同席しても?」
祈るように、諾を待った。
「も、勿論です!」
うれしくて、鼓動が跳ねるのも、はじめてだ。
一緒にご飯を食べると、仲良くなれるという。
嘘かほんとうか知らないけれど、キーアと仲良くなりたくて、従僕たちが持ってきてくれたご飯のなかから食べやすそうな小さな赤い果実を差しだした。
「あーん」
自分がしていることと、思えない。
でも真っ赤な頬で唇を開いてくれるキーアに、顔が、溶ける。
ちっちゃいキーアの髪が揺れるのがかわいくて、ふれたくて、なでなでしたら
「やさしくして」
どきどきした。
レォのなでなでは、乱暴だったらしい。
キーアが、やさしいなでなでの仕方を教えてくれる。
キーアが頭を撫でてくれたら、ふわふわ、胸がとろけてく。
大公立学園、騎士科の剣術試験なのに、キーアの頭をなでなでした人たちに、激おこをぶつける場みたいになった。
あまり憤慨したりしないレォは、私闘もはじめてだ。
試験じゃなくて私闘になったけど、たぶん合格したと思う。たぶん。
キーアのために、頑張ったから。
キーアが、褒めてくれると思ったのに。
とろけるように、笑ってくれると思ったのに。
『よくがんばったね』頭をなでなでしてくれると思ったのに。
「『ちっちゃい』を謝ってくださいー! レォさまも!」
叱られた。
あまり叱られることのないレォは、びっくりした。
「ひどい!」
キーアが涙ぐんだら、世界が終わってしまうような気がした。
試験を放り投げたレォは、あわてて謝った。
レォにとって『ちっちゃい』はこのうえない褒め言葉だけれど、キーアは違うみたいだ。
傷つけて泣かせるなんて、最低だ。
知らぬ間に伸びた腕が、キーアを閉じこめるように、抱きしめていた。
ちっちゃい。
かわいい。
ふわふわ、闇の髪が揺れている。
つややかな闇に、不吉と恐れられることもある闇に、こんなに心惹かれたのは、はじめてだ。
腕のなかのキーアの鼓動が、胸から響いた。
あったかい。
いい匂いがする。
キーアの香りだ。
思ったら、耳が熱い。
もっと、もっと、抱きしめて、なでなでしたい。
思ったのにキーアの身体はするりと抜けた。
赤い頬で見あげてくれる。
「謝ってくれたから、もう平気」
星の空の瞳で笑って、ゆるしてくれる。
トクトク、鼓動が音をたてる。
きみと、一緒に学園に通えたら、どんなに楽しいだろう。
どんなに、どきどきするだろう。
ずっと、きみを見ていたい。
現役のたくましい騎士との剣術試合は、ちっちゃくて可愛いキーアには酷い無体だ。
それでも、騎士科に入学するなら、避けては通れない。
代わりに受験できたら、どんなによかっただろう。
泣かないで。
できたら、騎士の剣を止めて。
それだけで、合格だ。
「がんばれ、キーア」
応援を口にするだけで、泣きそうになるなんて、はじめてだ。
祈るように、ちいさな手を握る。
鍛錬にごつごつし始めた、豆だらけの手だった。
レォの手と、おそろいだ。
「だいじょうぶ。俺、つよい子だから」
試験前なのに、レォを励ますように、笑ってくれる。
「ちゃんと合格するから。見てて」
星の空の瞳が、輝いた。
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