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18. 白の帰国
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「日本で1発目の食事は牛タン定食!」
そんなメッセージと共に送られてきたドアップの牛タン定食の写真を眺めながら、思わずクスリ、と笑みが溢れる。
日本に帰ってきても、結局肉の写真。心の中で突っ込みながら、エレベーターの階数表示をもどかしく見上げる。
皓人さんが日本に帰ってきた。
それが今日の私にとっての1番のビッグニュースだ。本当は空港に行って出迎えたかったところだったけれども、急に仕事を休むわけにはいかず。出国する時にも空港まで行ったわけではなかったので、大人しく仕事終わりに会うことにした。
早く会いたい。
そう思っている時に限って、エレベーターはゆっくりと動く気がする。ロビーに着くなり一目散に駆け出したい気持ちを、私の理性が必死に抑え込む。小走りになりながら最寄駅に向かい、電車を待つ間はついつい足踏みをしてしまう。なんだか、クリスマスプレゼントの開封を待ちきれない子供みたいだ。
彼の家の最寄駅に着いてからタクシーを拾い、行き先を告げる。
少しずつ、彼の元へ向かっている。2人の間の距離が、だんだんと縮まっていく。そんな気持ちに比例して、少しずつ鼓動も早くなる。
車を降りて、インターフォンを押す。特に言葉を交わすこともなく、自動で解錠されたのに従って、私は玄関の扉に手を掛けた。
「おかえりなさい」
玄関に入るなり、笑顔の皓人さんがそう言って両手を広げるので、私は迷うこと無く彼の腕の中へと飛び込んだ。
ぎゅっと抱き締められて、彼がようやく戻ってきたんだと実感する。
「おかえりなさいは、私の台詞だよ」
彼の首もとに顔を埋めながら、私は笑った。
「んー、まあお互い様ってことで、良いんじゃない?」
カラカラと笑う音が、いつもの皓人さんで。嬉しくて、つい彼に回した腕の力が強くなる。彼の体温に、彼の匂い。すべてを五感でめいっぱい吸収して、彼が目の前にいる幸せに浸る。
「なんか茉里ちゃん、今日はいつもより甘えたさん? そんなに寂しかったの?」
頭の上から聞こえる声なんて無視して、私はただ彼にぎゅっと抱きついた。言葉にできない安心感が、私の心と身体を包み込む。
どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。皓人さんの腕のなかにいると、時間の感覚というものが一切、消え去ってしまう。
「茉里ちゃん」
いつもの、鼻にかかった独特の甘い声で名前を呼ばれて、心が震える。耳が悦んでいる。彼の声は、私を安心させるのと同時に、私を興奮させる。
そっと、彼は私の髪に指を差し込む。指の腹が優しく頭皮を押す感触が、妙に気持ち良い。
彼の手に導かれるように、私はゆっくりと頭を持ち上げて、彼を見上げる。そのまま背伸びをして、私の唇は彼の唇を目指す。徐々に瞳を閉じて、体温だけを頼りに進んで、鼻が触れ合った。
「……ストップ」
いつもと変わらない優しい口調で放たれた意地悪な言葉に、私はハッとしたように目を見開いた。私を見下ろす瞳には明らかに熱が宿っているのに。なのに、どうしてストップなの?
答えを探ろうと、彼の瞳の奥を見つめる。
「まだ、ダメ」
そう伝える彼の瞳はイタズラに輝いている。彼の言葉に従うように、私は踵を地面につけた。
「ちゃんとつかまってね」
耳元でそう囁かれて。
言葉の意味が分からず、問いかけるように彼を見上げた刹那、彼の腕が私の腰元と膝の裏に回された。驚いて思わず彼の首にしがみつくと、すぐに私の両足が地上を離れる。
これがいわゆるお姫様抱っこと呼ばれるものか。
なんて呑気な脳みそが思っている間に、皓人さんはゆっくりと階段に向かって歩き始める。
「え、無理だよ!」
皓人さんが細身なのに案外筋肉質なのは知っている。けれども、私を抱えたまま階段を上がるのは、さすがに無理に決まってる。
「無理じゃない」
拗ねたように口を尖らせると、私の制止も聞かずに彼はそのまま階段を上がり始めた。こうなったら、絶対に落ちないようにしなきゃ、と私は必死で彼の首もとにしがみついた。
気付かないうちに、私は目も瞑っていたらしい。階段を上り終えてから少しすると突然、私の身体が宙に放たれた。慌てて瞳を開けた頃には、背中が柔らかい何かに着地する。それが彼のベッドだと気付いた時には、私の上に皓人さんが覆い被さっていた。
私の視界には、皓人さんしか映っていなかった。
皓人さんしか、いなかった。
皓人さんのことしか、考えられなかった。
私の腰の辺りを跨ぐような体勢なのに、不思議と重みは感じない。
ゆっくり、ゆっくり。
焦らすように、皓人さんの顔が、私の顔に近づく。
「寂しかったの?」
吐息がダイレクトに顔にかかる至近距離で、彼は訊ねる。目の前にある唇に吸い寄せられるように、顔を持ち上げれば、私が縮めようとした距離の分、彼の顔が離れていく。
「ちゃんと答えられるまで、我慢だよ」
熱の籠った声で、彼は言う。
近くにいるのに、触れられない。
近くにあるのに、触れられない。
それが、もどかしくてもどかしくて。
「おれがいなくて、寂しかった?」
いきなり、どうしてそんな意地悪をするのか、なんて疑問を抱く余裕すらなかった。
小首を傾げて問いかける皓人さんは、絶対に確信犯だ。私がその仕草に弱いことを、彼は知っているに違いない。
もう、我慢できない。
私は口を開いた。
「寂しかった」
言いながら、私は彼の首に腕を回した。
「会いたかった」
言いながら、私は彼の頭を引き寄せた。
ゆっくり重なった唇は、だんだんと深い口づけになっていく。
彼の左手が私の太股を這いはじめると、思わず声が漏れて、自然と私の口が開いた。その隙に、私の下唇を彼は甘く噛んだ。その感触に、私の感覚は痺れていった。
*************************
「それでね、その窪みの上でクルって回る。そしたら、またミラノに戻れるって。だからー、おれはいつもそこに行くようにしてるんだ」
枕に片肘を付けた姿勢で、ポツリ、ポツリ、と皓人さんはミラノの話をする。時差ボケで眠いのか、はたまた先程の行為の余韻なのか、普段よりももったりとした話し方は、私の眠気を誘う。
「茉里ちゃんは明日も仕事?」
私の身体に布団をかけ直しながら、彼は問いかける。
「うん」
重くなる瞼と戦いながら、私は頷く。幸せな痛みが、鉛のように鈍く私にのしかかる。
「じゃあ、明日はおれが会社まで車で送ってあげるね」
ポン、ポン、と心地よいリズムで肩を優しく叩かれる。まるで、子供を寝かしつけるみたいだ。
「ありがとう」
答えながら、私はゆっくり瞼を閉じる。
「皓人さんって、兄弟いるの?」
目を閉じたまま、なんとなく頭に浮かんだ言葉を、なにも考えずに舌に乗せた。
「いないよ」
「だと思った」
クスクス、と笑えば、鼻を摘ままれた。全く痛くなかったので、挟まれた、と言った方が正しいのかもしれない。
「お父さんとお母さんは?」
「元気でやってるんじゃない?」
「あんまり仲良くないの?」
「……たまに連絡は取り合ってるよ」
あまり抑揚の無い、落ち着いた声からは感情が読み取れない。
「なんでいきなりそんなこと訊くの?」
皓人さんの、大きくて暖かい手が、私の髪を撫でる。
「なんでって、好きだからだよ」
すっかり眠ってしまった理性を尻目に、私の口は素直な言葉を溢す。
「好きな人の事だから、知りたくなったの」
瞼だけでなく、だんだんと頭ごと、どこかに沈み込むような感覚に陥る。
「そっか」
皓人さんの返事は、どこか空虚に聞こえて。
私のことは?
そう訊きたかったのに、口を開く前に私は意識を手放した。まるで、沈みこむように。
*************************
目を覚ましたとき、近くにあると思っていた温もりがなかった。手を伸ばしてみても、そこには誰もいなくて。起き上がってみて、皓人さんのベッドの上で、私は1人きりだと気付いた。
ベッドサイドにはスマートフォンすら無い。鞄に入れたままだったと思い出すものの、鞄がどこにあるかすらも思い出せない。
床に散らばった下着を身に付けて、1人掛けのソファの背に無防備にかけられた大きなTシャツを、頭からかぶる。そっと、真っ暗な寝室を離れてリビングに私は向かった。
「うん、だからしばらくはこっちに籠るつもり。そっちは? ……うん。……うん。分かってる。じゃあ、そろそろ切るから。うん。……またかける」
キッチンで私に背を向けるように立ち、通話中の皓人さんの背後に近づいていく。ゆっくりと彼のお腹に腕を回し、その背中の窪みに頭を預ける。
「誰?」
通話が終了したことを確認してから、私は問いかけた。
「男友達。帰国したなら呑みに行こう、ってさ。先週も誘われたんだけど、まだミラノだったからさ」
「ふーん」
と答えながら、皓人さんのスマートフォンを覗き込む。今は、深夜0時過ぎ、か。
「お腹空いた?」
ポンポン、と私の頭を優しく撫でながら彼は問いかける。
「うーん、空いたには空いたけど、もう遅いし」
「じゃあ、缶のスープ温めるから、一緒に食べよう?」
頭のてっぺんに小さくキスを落とすと、座ってて、と腰の辺りを押される。彼の誘導に従うように、私は大人しくダイニングの椅子に腰かける。
「あ、Tシャツ、勝手に借りちゃった」
「んー? 全然平気。むしろ、茉里ちゃんが着た方が似合ってるよ」
そんな歯の浮くような甘い台詞に、単純な私はすぐに頬を染める。皓人さんの耳ももれなくピンクがかっていて。先程の強気で少し意地悪な皓人さんとのギャップにときめきながらも、いつもの皓人さんだ、と安心する。
「皓人さんって、本当に優しいよね。そういうところ、すごく好き」
なにも考えず、思った通りのことを言った。特に何かを期待していたわけではない。だけれども。
「ありがとう」
彼から返ってきたのはそんな一言と笑顔だけで。ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が沈んだ。
そんなメッセージと共に送られてきたドアップの牛タン定食の写真を眺めながら、思わずクスリ、と笑みが溢れる。
日本に帰ってきても、結局肉の写真。心の中で突っ込みながら、エレベーターの階数表示をもどかしく見上げる。
皓人さんが日本に帰ってきた。
それが今日の私にとっての1番のビッグニュースだ。本当は空港に行って出迎えたかったところだったけれども、急に仕事を休むわけにはいかず。出国する時にも空港まで行ったわけではなかったので、大人しく仕事終わりに会うことにした。
早く会いたい。
そう思っている時に限って、エレベーターはゆっくりと動く気がする。ロビーに着くなり一目散に駆け出したい気持ちを、私の理性が必死に抑え込む。小走りになりながら最寄駅に向かい、電車を待つ間はついつい足踏みをしてしまう。なんだか、クリスマスプレゼントの開封を待ちきれない子供みたいだ。
彼の家の最寄駅に着いてからタクシーを拾い、行き先を告げる。
少しずつ、彼の元へ向かっている。2人の間の距離が、だんだんと縮まっていく。そんな気持ちに比例して、少しずつ鼓動も早くなる。
車を降りて、インターフォンを押す。特に言葉を交わすこともなく、自動で解錠されたのに従って、私は玄関の扉に手を掛けた。
「おかえりなさい」
玄関に入るなり、笑顔の皓人さんがそう言って両手を広げるので、私は迷うこと無く彼の腕の中へと飛び込んだ。
ぎゅっと抱き締められて、彼がようやく戻ってきたんだと実感する。
「おかえりなさいは、私の台詞だよ」
彼の首もとに顔を埋めながら、私は笑った。
「んー、まあお互い様ってことで、良いんじゃない?」
カラカラと笑う音が、いつもの皓人さんで。嬉しくて、つい彼に回した腕の力が強くなる。彼の体温に、彼の匂い。すべてを五感でめいっぱい吸収して、彼が目の前にいる幸せに浸る。
「なんか茉里ちゃん、今日はいつもより甘えたさん? そんなに寂しかったの?」
頭の上から聞こえる声なんて無視して、私はただ彼にぎゅっと抱きついた。言葉にできない安心感が、私の心と身体を包み込む。
どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。皓人さんの腕のなかにいると、時間の感覚というものが一切、消え去ってしまう。
「茉里ちゃん」
いつもの、鼻にかかった独特の甘い声で名前を呼ばれて、心が震える。耳が悦んでいる。彼の声は、私を安心させるのと同時に、私を興奮させる。
そっと、彼は私の髪に指を差し込む。指の腹が優しく頭皮を押す感触が、妙に気持ち良い。
彼の手に導かれるように、私はゆっくりと頭を持ち上げて、彼を見上げる。そのまま背伸びをして、私の唇は彼の唇を目指す。徐々に瞳を閉じて、体温だけを頼りに進んで、鼻が触れ合った。
「……ストップ」
いつもと変わらない優しい口調で放たれた意地悪な言葉に、私はハッとしたように目を見開いた。私を見下ろす瞳には明らかに熱が宿っているのに。なのに、どうしてストップなの?
答えを探ろうと、彼の瞳の奥を見つめる。
「まだ、ダメ」
そう伝える彼の瞳はイタズラに輝いている。彼の言葉に従うように、私は踵を地面につけた。
「ちゃんとつかまってね」
耳元でそう囁かれて。
言葉の意味が分からず、問いかけるように彼を見上げた刹那、彼の腕が私の腰元と膝の裏に回された。驚いて思わず彼の首にしがみつくと、すぐに私の両足が地上を離れる。
これがいわゆるお姫様抱っこと呼ばれるものか。
なんて呑気な脳みそが思っている間に、皓人さんはゆっくりと階段に向かって歩き始める。
「え、無理だよ!」
皓人さんが細身なのに案外筋肉質なのは知っている。けれども、私を抱えたまま階段を上がるのは、さすがに無理に決まってる。
「無理じゃない」
拗ねたように口を尖らせると、私の制止も聞かずに彼はそのまま階段を上がり始めた。こうなったら、絶対に落ちないようにしなきゃ、と私は必死で彼の首もとにしがみついた。
気付かないうちに、私は目も瞑っていたらしい。階段を上り終えてから少しすると突然、私の身体が宙に放たれた。慌てて瞳を開けた頃には、背中が柔らかい何かに着地する。それが彼のベッドだと気付いた時には、私の上に皓人さんが覆い被さっていた。
私の視界には、皓人さんしか映っていなかった。
皓人さんしか、いなかった。
皓人さんのことしか、考えられなかった。
私の腰の辺りを跨ぐような体勢なのに、不思議と重みは感じない。
ゆっくり、ゆっくり。
焦らすように、皓人さんの顔が、私の顔に近づく。
「寂しかったの?」
吐息がダイレクトに顔にかかる至近距離で、彼は訊ねる。目の前にある唇に吸い寄せられるように、顔を持ち上げれば、私が縮めようとした距離の分、彼の顔が離れていく。
「ちゃんと答えられるまで、我慢だよ」
熱の籠った声で、彼は言う。
近くにいるのに、触れられない。
近くにあるのに、触れられない。
それが、もどかしくてもどかしくて。
「おれがいなくて、寂しかった?」
いきなり、どうしてそんな意地悪をするのか、なんて疑問を抱く余裕すらなかった。
小首を傾げて問いかける皓人さんは、絶対に確信犯だ。私がその仕草に弱いことを、彼は知っているに違いない。
もう、我慢できない。
私は口を開いた。
「寂しかった」
言いながら、私は彼の首に腕を回した。
「会いたかった」
言いながら、私は彼の頭を引き寄せた。
ゆっくり重なった唇は、だんだんと深い口づけになっていく。
彼の左手が私の太股を這いはじめると、思わず声が漏れて、自然と私の口が開いた。その隙に、私の下唇を彼は甘く噛んだ。その感触に、私の感覚は痺れていった。
*************************
「それでね、その窪みの上でクルって回る。そしたら、またミラノに戻れるって。だからー、おれはいつもそこに行くようにしてるんだ」
枕に片肘を付けた姿勢で、ポツリ、ポツリ、と皓人さんはミラノの話をする。時差ボケで眠いのか、はたまた先程の行為の余韻なのか、普段よりももったりとした話し方は、私の眠気を誘う。
「茉里ちゃんは明日も仕事?」
私の身体に布団をかけ直しながら、彼は問いかける。
「うん」
重くなる瞼と戦いながら、私は頷く。幸せな痛みが、鉛のように鈍く私にのしかかる。
「じゃあ、明日はおれが会社まで車で送ってあげるね」
ポン、ポン、と心地よいリズムで肩を優しく叩かれる。まるで、子供を寝かしつけるみたいだ。
「ありがとう」
答えながら、私はゆっくり瞼を閉じる。
「皓人さんって、兄弟いるの?」
目を閉じたまま、なんとなく頭に浮かんだ言葉を、なにも考えずに舌に乗せた。
「いないよ」
「だと思った」
クスクス、と笑えば、鼻を摘ままれた。全く痛くなかったので、挟まれた、と言った方が正しいのかもしれない。
「お父さんとお母さんは?」
「元気でやってるんじゃない?」
「あんまり仲良くないの?」
「……たまに連絡は取り合ってるよ」
あまり抑揚の無い、落ち着いた声からは感情が読み取れない。
「なんでいきなりそんなこと訊くの?」
皓人さんの、大きくて暖かい手が、私の髪を撫でる。
「なんでって、好きだからだよ」
すっかり眠ってしまった理性を尻目に、私の口は素直な言葉を溢す。
「好きな人の事だから、知りたくなったの」
瞼だけでなく、だんだんと頭ごと、どこかに沈み込むような感覚に陥る。
「そっか」
皓人さんの返事は、どこか空虚に聞こえて。
私のことは?
そう訊きたかったのに、口を開く前に私は意識を手放した。まるで、沈みこむように。
*************************
目を覚ましたとき、近くにあると思っていた温もりがなかった。手を伸ばしてみても、そこには誰もいなくて。起き上がってみて、皓人さんのベッドの上で、私は1人きりだと気付いた。
ベッドサイドにはスマートフォンすら無い。鞄に入れたままだったと思い出すものの、鞄がどこにあるかすらも思い出せない。
床に散らばった下着を身に付けて、1人掛けのソファの背に無防備にかけられた大きなTシャツを、頭からかぶる。そっと、真っ暗な寝室を離れてリビングに私は向かった。
「うん、だからしばらくはこっちに籠るつもり。そっちは? ……うん。……うん。分かってる。じゃあ、そろそろ切るから。うん。……またかける」
キッチンで私に背を向けるように立ち、通話中の皓人さんの背後に近づいていく。ゆっくりと彼のお腹に腕を回し、その背中の窪みに頭を預ける。
「誰?」
通話が終了したことを確認してから、私は問いかけた。
「男友達。帰国したなら呑みに行こう、ってさ。先週も誘われたんだけど、まだミラノだったからさ」
「ふーん」
と答えながら、皓人さんのスマートフォンを覗き込む。今は、深夜0時過ぎ、か。
「お腹空いた?」
ポンポン、と私の頭を優しく撫でながら彼は問いかける。
「うーん、空いたには空いたけど、もう遅いし」
「じゃあ、缶のスープ温めるから、一緒に食べよう?」
頭のてっぺんに小さくキスを落とすと、座ってて、と腰の辺りを押される。彼の誘導に従うように、私は大人しくダイニングの椅子に腰かける。
「あ、Tシャツ、勝手に借りちゃった」
「んー? 全然平気。むしろ、茉里ちゃんが着た方が似合ってるよ」
そんな歯の浮くような甘い台詞に、単純な私はすぐに頬を染める。皓人さんの耳ももれなくピンクがかっていて。先程の強気で少し意地悪な皓人さんとのギャップにときめきながらも、いつもの皓人さんだ、と安心する。
「皓人さんって、本当に優しいよね。そういうところ、すごく好き」
なにも考えず、思った通りのことを言った。特に何かを期待していたわけではない。だけれども。
「ありがとう」
彼から返ってきたのはそんな一言と笑顔だけで。ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が沈んだ。
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