灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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36. 黒と市場

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 人がまばらなホテルのロビー。フカフカな座り心地の良い椅子に座り、スマートフォンを操作する菊地さんの背中は広い。捲り上げたワイシャツの袖からのぞく、ほどよく色づいた左腕で銀色の腕時計がキラリと光る。うっすらと浮かび上がった筋には、男らしさを感じる。珍しくノーネクタイで、ボタンが数個開いている。いつもはネクタイで隠れている喉元が開放されていて、思わずドキリ、としてしまう。

「お待たせしました」

 ゆっくりと近づいて、声をかける。スマートフォンを手に持ったまま、菊地さんは目線だけを私へと寄越す。珍しい上目使いに、また心臓が高鳴る。そのまま嬉しそうな笑顔が顔全体に広がれば、自然と私の頬も緩む。

「待ちくたびれて、ドタキャンされたかと思ってたわ」

 拗ねたような表情でそんな言葉を呟きながら、菊地さんはさっと立ち上がる。他の人から言われたら反応に困ったであろう言葉も、相手が菊地さんだと、冗談だということがすぐに分かる。慌てるわけでもなく、じっと菊地さんを見上げていれば、彼はすぐに破顔する。つられて私も微笑めば、彼は満足げにうなずいた。それだけで、私の心は満たされる。

「じゃあ、行くか」

 椅子に掛けていたジャケットを素早く手に取ると、そのまま菊地さんは歩き始めた。彼の広い背中を、いつものように私は後ろから追う。
 不意に視界に入ったのは、菊地さんの身体の隣で揺れる空っぽの左手。男の人の割りには大きくないのかもしれないけれども、私の手と比べれば確実に大きな、空っぽの左手。手の平には厚みがあって、指は私のよりもずっと太い。あの手に触れたら、どんな感触なんだろうか。
 
 あの手に、触れてみたい。
 
 そんな願望が唐突に沸き上がってくる。
 あの手に触れられたことは、何度かある。その度に、途方もない安心感と胸の高鳴りが得られた。
 ならば、私から触れたら……?
 知るべきではないと分かっているのに、知りたくなってしまうのは、どうしてだろうか。その手を握りたいという衝動に駆られるのは、どうしてだろうか。彼の手を握りながら、彼の後を追うのではなく、彼の隣を歩きたいと思ってしまうのは、どうしてだろうか。
 頭に浮かぶ疑問を、彼の手に触れたいという衝動と共に、胸の奥へと理性で押し込んだ。

「中谷は普段、市場とか来る?」

 市場に到着した頃、菊地さんは私を振り返りながらそう訊ねた。もう時間が時間だからだろう、多くの店が営業を終了している。

「子供の頃は、家族と来たことがあったんですけど、母が亡くなってからは……」

 自然と口からでた言葉が、だんだんと小さく萎んでいった。こんな風に、世間話みたいに話せることじゃないのに。なんとなく重みを増した空気が、なんだか気まずい。
 菊地さんが相手だと、話さない方が良いだろうことまでスルスルと口から飛び出してしまう。気を付けないと。
 口を噤んで立ち止まった私を、振り向いた菊地さんが見下ろす。その瞳には心配や慰めの色は浮かぶものの、同情や憐れみの類いのものは一切見当たらなかった。他の人は大体、後者しか見せないのに。なんとも言えない気持ちに、私は無意識に下唇を噛み締めていたらしい。

「あ、また」

 菊地さんの形の良い唇が開かれるのを、私は思わず見つめてしまう。ゆっくりと視線を上げて、菊地さんの瞳を見上げた。彼の視線は、私の唇に注がれている。ジリリ、と今までに感じたことのない衝動で、私の唇が震える。それまでの緊張感から唇を解放すれば、彼の瞳の奥で僅かに影が煌めいた。それに合わせて、彼の喉仏がゆっくりと上下に動く。そこに口付けたいなどという訳の分からない考えが頭をよぎった瞬間、私ははっとなって菊地さんから視線を逸らした。
 
 今のは、一体なんだったんだろう?
 
 気まずさを打ち消そうとする菊地さんの咳払いを聴きながら、私の頭のなかは混乱状態だ。理性を総動員しすぎたせいで、おかしなことになってしまっているに違いない。そう独り言ちる心の声は、大きすぎる心臓の音で掻き消されそうだった。

「せっかく市場に来たからさ」

 咳払いをしながら、菊地さんは口を開いた。

「海鮮丼とか、どう?」

 ちらり、と私の顔色をうかがう菊地さんに、私は静かに頷いた。目当ての店があるらしい菊地さんの後に付いて歩きながら、私はゆっくりと考えを巡らせる。今まで考えないようにしてきたけれども、菊地さんは私のことをどう思っているんだろう、と。
 先輩だから面倒を見てくれているだけ。そう、思うようにしてきた。私に優しくしてくれるのも、気にかけてくれるのも、ただ菊地さんがそういう人だからなだけなんだって。ずっと、そう思ってきたけれども。
 もしかしたら。
 ひょっとして。
 そんな自惚れた考えが、頭をよぎる時がある。

「ここなんだけど」

 そう言って菊地さんが足を止めたのは、観光客向けの店とは異なる店構えの建物の前だった。

「前に、お客さんに連れてきてもらったことがあってさ」

 店を指差して小さく頭を傾ける菊地さんに、私は頷くだけで同意の意思を示した。
 店内は人がまばらで、私たちは待つことなく空いている適当な席に座った。菊地さんと2人で向かい合わせに座るのは、初めてだ。お互いの膝が当たりそうで当たらない距離を、思わず意識してしまう。

「なに食べたい? 苦手な食べ物とかある?」

 私の方に向けてメニューを開きながら、菊地さんは問いかける。本当ならば、後輩である自分がそれをするべきだったのに、菊地さんのあまりにもスマートな対応に、完全に役割を忘れてしまった。
 いつもなら苦手な、初めての人との外食も、菊地さんが相手だとなんだか居心地が良い。早くメニュー決めないとという焦りとプレッシャーもなければ、ルーレットアプリの出番もない。

「やっぱり、海鮮丼ですかね」

 メニューを眺めながらも、やはり気になるのは菊地さんが先ほどから名前を挙げていたそれだ。

「やっぱり? じゃあ、海鮮丼と、それから、海老の唐揚げも美味しいんだよなあ。中谷、選んで」
「え?」

 唐突に渡された選択肢に私が驚いているうちに、菊地さんは店員さんを呼んでしまう。菊地さんの口の端が僅かに上がっているのを見つけて、またからかわれているんだと気付く。他の人にされたらパニックになるだろうけれども、相手が菊地さんなら不思議と受け入れられるし、嫌じゃない。

「海鮮丼2つと、あと、海老の唐揚げを」

 店員さんに注文を伝えながら、菊地さんはちらり、と私に視線を送る。

「これと、これを1つずつお願いします」

 私は、メニューを指差して店員さんにそう告げた。この手のことはいつも人任せなので、緊張で指が震える。店員さんが頷きながら注文を書き留めるのを、不安げに見つめてしまう。

「それから、味噌汁を」

 言いながら、菊地さんは私の方に人差し指を向ける。目だけで「いる?」と問いかけられた気がして、戸惑いながらも頷く。

「2つください」

 頷きながら、店員さんはサラサラと注文を書き足していく。

「お飲み物は?」

 店員さんの言葉に、さっとメニューのソフトドリンク欄へと視線を走らせた。飲み会の時のいつもの飲み物が並んでいることに、安心する。
 
「えっと、ウーロン茶を」
「ウーロン茶をお1つ」
「あと、こちらをお願いします」

 菊地さんは日本酒の欄を指差す。店員さんが注文内容を確認して去っていくと、自然と、私は息を吐き出した。一体、いつから呼吸を止めていたんだろうか、と自嘲気味な笑みが溢れた。

「今日は優柔不断じゃなかったな」

 笑いながら水を口に運ぶ菊地さんの言葉に、私は拗ねたように唇を尖らせた。

「菊地さん、絶対に私のこと試して遊んでますよね」

 そう言いながら、私も手元の水の入ったコップに手を伸ばした。
 なんだかんだ、近頃は簡単なことで迷うことが少なくなったような気がする。ルーレットアプリの出番も、全くないわけではないけれども、かなり減った、と思う。皓人さんと出会ったのがきっかけかと思ったこともあったけれども、こうやって菊地さんが私に選択させるお陰なのではないだろうか。そんな考えが不意に浮かんでくる。
 自分が想像していた以上に、私は菊地さんの影響を受けているのかもしれない。

「別に遊んでないって。ただちょっと、からかってるだけ」

 真面目なトーンで菊地さんがそんなことを言うものだから。ついつい私は、拗ねるのも怒るのも忘れて、笑ってしまった。私の笑顔を見て、菊地さんも満足げに笑う。そんな私たちを、店員さんは遠巻きに見つめていた。

 待望の海鮮丼が運ばれてくると、私たちの注意は一気にそれに持っていかれた。これでもか! と海鮮が主張してくるわけではなく、器のなかにしっかりと収まりつつもボリュームがあることの分かるその姿に、私は心を奪われた。
 ちゃっかりとスマートフォンで写真を撮ってから、舌鼓を打つ。東京で食べるのとは違う、新鮮な味に頬は緩みっぱなしだ。
 不意に正面に視線を移せば、なんともいえない表情で菊地さんがこちらを見つめていた。なにも言わず、ただ黙ってじっと私を見つめる視線は優しいのに、なんとなく声がかけづらい。その瞬間の菊地さんの感情が分からなくて、私は何も言えないまま、どんぶりに視線を落とした。
 誰かにあんな風に見つめられたのは、初めてだった。

 食が進めば、酒も進む。
 旅先で酔いたくなかった私は、何度目かの菊地さんのすすめを断って、水を口にする。そのため、店員さんが気遣って置いていってくれたおちょこの1つは空のままだ。
 私がお酒を飲まない一方で、菊地さんはお代わりをしながらおちょこを何度も口に運ぶ。
 菊地さんがお酒を飲むところ、初めて見た気がするな。
 ボーッと彼を見つめながら、私は思った。今までは部署が違ったし、同じ部署になってからも、菊地さんと飲み会で同席する機会はなかった。なんだか、不思議な感覚だ。

「菊地さんって、お酒強いんですか?」

 空になったおちょこへ、お酒を注ぎながら私は訊ねた。

「んー、強くはないかな?」

 小さくお礼を言ってから、彼はおちょこを持ち上げた。

「中谷は?」
「私は強くないです。友達とたまにカクテルとかチューハイ飲むぐらいで」
「ふーん」

 と答えながら、おちょこの中身を一気に呷る菊地さんに、私は驚きの眼差しを向けた。

「大丈夫ですか?」

 心なしか、菊地さんの頬が赤く染まっているような気がする。もしかして、酔っぱらっているのだろうか? もしも菊地さんがつぶれてしまったら、どうしようか。さすがにホテルまで私がおぶっていくのは難しそうだし。

「自力で宿に戻れるぐらいには、大丈夫」

 そう答えながら、菊地さんは再びおちょこを満たす。

「やっぱり、いくつになってもさ、好きな子と2人きりは緊張するよな」

 菊地さんの口から発せられた言葉は、なんでもないボヤキの1つだと思った。
 世間話の延長。
 酔っぱらいの、戯言?
 けれども、内容が内容だけに、私はつい目を見開いて彼を見つめてしまう。世界が一瞬、止まったような気がした。
 聞き間違い、かな?
 そう思ったのも束の間、目の前で目を見開きつつも口許を片手で覆った彼の姿に、その考えを打ち消した。

「俺、今、声に出してた?」

 珍しく動揺している菊地さんの頬からは、先ほどの赤みが引いている。

「たぶん」

 静かに、私は答えた。
 今、一体何が起こっているのだろうか?
 真っ白になった頭を抱えて、私たちはただ互いを見つめ合った。
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